5. 我が道

 暑かった夏も終り、爽やかな秋がやっと日本列島をつつみました。
 美術の秋、芸術の秋の到来です。
 上野の森をはじめ、いろいろな場所で展覧会が開かれ、週末ともなると大勢の人達が美術館におし寄せて、どの会場も押すな押すなの 盛況を呈します。
 新聞や雑誌には日展等の批評が掲載され、それを読んだ人達は、さもそれが自分の意見ででもあるかの如く芸術論に花を咲かせます。
 会場でそれらの無礼で無責任な批評を耳にするとき、当の芸術家がその批評を聞いたとしたら、一体どんな反応を示すであろうか、非常に興味の湧くところです。
 というのも、今年の五月に開いた個展の際に、私の馬の作品についてのいろいろな批評を頂いた中で、面白いことに乗馬を少し経験した 人達から頂いたものが、往々にして的はずれであったのに対し、全く馬を知らない人達から頂いた感想に、「ハッ」とさせられる鋭い見方 や意見のあったことを思い出したからです。
 少しばかり乗馬をかじった人達の批評には、その人の数少ない経験がっくりあげた主観から、 馬の動きや馬格にその人だけの思いこみがあるからです。
 馬も人間と同じように、丸顔もあれば又、耳の形一つにしても、よく見ると実に様々な形をしているものです。
 それにしても個展の期間中、私の作品にむけられたいろいろな批評や意見に対して、いちいち真剣に応対しているうちに、私は「誰に でも受ける必要のある作品を創ることでその機能が充足されるのは、デザインやイラストの世界だけであって、人々の嗜好に〈ノン〉 をつきつけるのが芸術の役目だ」といったある芸術家の言葉が思い出され、「芸術は孤独でなければならない」と言う朝倉文夫の言も、 又素人なりにわかるような気がしました。
 私の彫刻にしても、何も人様のために、人様に褒めてもらいたくて創っているわけではなく、創作意欲のおもむくままに心の中の イメージをただただ粘土にぶつけているにすぎません。
 しかし私達が、どうしても他人の批評にこだわってしまうのは、私達の長い学生時代を通して、常に学校の先生の採点が親をはじめ 世間一般の自分に対する評価とみなされてしまうため、社会に出てからも、少しでも他人の自分に対する点数をあげようと努力しつつ 人生を送る習慣が身についてしまったからに外なりません。
 自分の価値の基準を他人の評価においてしまっては、その価値は自分のものではなく、他人の価値になってしまいます。
 個展の会場で、いろいろな人様から頂いた批評に対しては、有難く謙虚に耳を傾け、取り入れ るものは取り入れるとしても、その場で私の意見を押しつけて納得させるという無駄な努力だけはしないことにきめました。
 又その他の意見として、「君の作品は具象なのだから、この部分はこう創りかえて、あくまでも具象に徹すべきだ」というのも ありました。
 しかし、今さらここで私の作品を麗々しく具象作品でございますと断る必要もなく、私にとって具象か抽象か等という問題は、 まったく意味のないことだと思うのです。
 ここで私のような素人が芸術論を云々するつもりは毛頭ありませんが、しかし私の場合、まず創りたいと思う像の全体の姿を頭の中に 描きつつデッサンし、その上で最も強調したい部分を全体のバランスを崩さぬように誇張し、あまり重要でない部分はなるべく控え目に 表現しようと試みているからです。
 つまり、現実に見えない部分も見えるように、又現実に見えているけれど不必要と思われる部分をそぎ落しているつもりなのです。
 従って私の作品は、しいて言えば一部具象で一部抽象ということになり、どちらかと言えば抽象の範疇に属しているように思います。
 そしてそのような考え方をすれば、おそらく絵画であれ彫刻であれ、芸術作品といわれるものは総て抽象芸術だと言えなくもありません。
 辞書(広辞苑)にも「抽象芸術」という熟語はあっても、「具象芸術」という熟語のないのも、 なんとなく我が意を得たりの感があります。
 いずれにしても、今回の個展によって親しい人達から寄せられた様々な評価や御意見は、謙虚に受けとめて、今後の私の作品に反映 させて頂きながら、しかしけっして人様の採点を気にして怒ったり喜んだりしないような生き方、自分の今の感情を人のせいにしないよ うな生き方、つまるところそれが自分のための生き方だと信じて、幸福も又人の採点に左右されることなく、自分の心の中でつくり育て るものだということを悟らせて頂いた貴重な体験であったと感謝しております。

(1994.11)