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4. 自然の美
1992年5月29日は、私が危険な心臓手術に挑戦し、幸いにも文字通り「第二の人生」を歩み出すことができた記念すべき日です。
そしてこの日を私の「第二の誕生日」として、これからの余生を有意義に悔いなく生きる術を真剣に考える「人生見なおし日」と定め
ました。
さて、そのような思いで最近の私の日常生活をふりかえった時、手術に成功して心の底から仏様に感謝し、目にする総てのものに感動
を覚えていた心が、いつしか色褪せてしまい、以前のように、生きていることへの感激や、涙のこみあげてくるような美しいものとの出
会いが、まったくといえる程少なくなってしまったことに気がつきました。
手術後の約一か月間を療養のために過した軽井沢では、目に入るもの、手に触れるもの総てに、あんなにも感動し幸福な気分に浸る
ことができたというのに。
私はあの時の心をもう一度取りもどしたいと三年後の5月29日(満三歳の誕生日)一人軽井沢にでかけてゆきました。
世間の煩わしさから解放されてゆっくりと大自然の中に身をゆだね、あくまでも青い空に、かすかに白煙をたなびかせる浅間山を眺
めていると、ある程度死を覚悟した手術前の日のことや、再び生きて浅間山を眺めることができた日のこと等を思い出して、生きている
ことの素晴しさ、大自然の美しさにあらためて感動し幸福感に浸ることができました。
凡人の悲しさ、私は自らの生活環境を変えることで、やっと当時の感性を取りもどすことができたのです。
煩わしく忙しい都会の喧騒の中では、心も亡びて真の美しいものを美しいと感じる心の余裕が持てないのです。
しかし、近代彫刻の父として、今世紀の総ての彫刻の源流をなしている巨匠ロダンは、女性の美について語った時、その最後を次のよう
な言葉で結んでいたことを思い出します。
「要するに美は到るところにあるのです。けっして美しさというものが私達の眼前に欠けているのではありません。ただ我々がそれを
見つけることができないだけのことなのです」と。
又、モデルをつかってその美しさを表現するために彼はけっしてポーズをつけるようなことはせず、モデルの自由な動きの中から自然
と美しい姿勢も見つけるまで、じっとその動きを観察していたといいます。
ロダンは常々自然の中にのみ美が存在すると言い、自然に従うことの人切さを力説します。
大自然の美しさ然り、女の自由な姿の自然な美しさ然りだというのです。
作ろうとするモデルの自由な動きを溌刺ととらえたい。
ロダンにとってはモデルに動きを命ずるのは彫刻家自身ではなく自然の力なのです。
自然がモデルの動きをつくるのだと言うのです。
だからといって彼の作品が自然そのものの姿を忠実に写しているわけではありません。
「芸術家は俗人の目にうつるように自然を見ることはしない。何故ならば芸術家の感情は、外観の下にある内面的な真実の美をつかまえ
るからだ」と。
一般の人達は真実の美を見出すことなく、ただ眺めているにすぎず、真の芸術家となるためには、自然の真実の美しさと、その自然の
心中を深く読み取る必要があると言うのです。
ロダンは更に言います。「神は、空
を、私達に見えないように創られたのではありません。科学は、私達の眼にヴェールをかけてその
美しい空を見えなくしてしまったのです。美を求めようとするならば、私達はまずそのヴェールをからげなければなりません」と。
生きるか死ぬかの大手術を経験し、仏様によって生かされている命を実感としてとらえることのできた軽井沢での毎日は、都会の喧騒、
世間の煩雑な柵
のヴェールをからげ、自然の真実の美しさを見つけるのに充分なものでした。
「自然をして君たちの唯一の神たらしめよ。彼に絶対の信を持て。彼が決して醜でないことを確信せよ」とロダンは言います。まさに
自然を愛し、白然の美しさを思うぞんぶん味わい、自然と人生を調和させて生き抜いた巨匠ならではの言葉です。
もうすぐ太陽の輝く男性的で活動的な夏がやってきます。
私達も思いっきり大自然を求めて山や海に、真実の自然の美しさの発見につとめ、美しいものを真に美しいと思えるような心のゆとり
をとりもどし、感動すること、愛すること、望むこと、身ぶるいすること、そして生きるよろこびを再確認したいものだと思います。
(1995.7)
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