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8. スポーツマンシップ
戦後間もない昭和二十四年に岩波書店から出版された慶應義塾・池田潔教授の『自由と規律』という名著があります。
当時、慶應の学生だった私も、その本に非常な感銘をうけたことを覚えています。
しかし、その本の最後の「スポーツマンシップということ」と題した論文だけは、どうしても納得しかねるところがありました。
池田教授は真のスポーツマンシップとはこういうことなのだという意味で、英国のあるパブリック・スクールでおきたクリケット試合
の模様を紹介しております。
寡聞にして私はクリケットというスポーツをあまりよく知りませんが、主として英国でおこなわれている野球に似た球技で、英国の
パブリック・スクールの学生が、在学中に前人未踏の二十回の「センチュリー」に、あと一つと迫ったところから、この話は始まって
おります。
クリケットでは打者が1回で100点以上のスコアーを出すことを「センチュリー」といって、野球のホームラン以上に価値のある
ものとされているようです。
当然、その学生に対する全英国民の興味と期待はなみなみならぬものがありました。
クリケットは一回の試合で打者は二度登場することができ、第一日目に彼は123点を獲得したため、新聞のトップニュースとなり、
第二日目の人記録達成を全英国民は固唾をのんで注目したというのです。
そして二日目、彼は三人の投手の懸命の投球を尻目に着々と得点を重ね、ついに99点に達した時、今迄守備にっいていた敵方の
選手達は投手一人を残して全員ダッグアウトに引きあげてしまいました。
「一人残った投手は天を仰ぎ、大きく一つ息をしてから、その打者に対し、まるでお姫様のように優しい素直な球をコースのド真ん中
に投げこみました」(原文のまま)
球がバットにあたり、前方に飛びさえすれば、その球を捕える敵方の選手はただの一人もグラウンドにはいないのです。
まさに大記録達成は間違いないと信じた大観衆の前で、その選手は二、三歩左に足を踏み出すと、およそ球とは三尺(1メートル弱)
も離れた空間に向かってバットを振りました。
そして帽子をとると軽く一礼して淡々と引きあげていったというのです。
「ああいう馬鹿がいる限り、まだまだ我が大英帝国は……」
「如何にも……」
汗と涙をふきつつ観衆は静かに競技場をあとにしたという話です。
そして、これこそが真のスポーツマンシップだと池田教授は結んでおります。
敗戦から数年、片寄った規律ずくめの軍国主義から解放されたばかりの当時の若者達は、正しい規律の上にたってこその自由を、放縦と
混同し、勝手気ままに振舞う傾向がありました。
その流れに警鐘を鳴らす意味で書かれたこの『自由と規律』は、英国のパブリック・スクールの本質と起源、その制度及びその生活に
ついて縷々
説明した上で、規律の中での真の自由について実に見事な論陣を張りました。
しかし、最後の「スポーツマンシップということ」に及んで、恐らくスポーツとは縁遠かったであろう大学教授は大変なミスをおかし
ました。
何故なら、私に言わせればこの話はまったくのナンセンス以外の何物でもないからです。
まず第一に、守備の選手が全員引きあげるということ自体、ルール違反であり、又打者に対する最高の侮辱だからです。
これでは、打者は打ちたくても打てないのがあたりまえで、かりにその球を打ったとしても、「センチュリー」の記録とはけっして
認められないはずです。
この場合、打者は相手チームに対し抗議を申しこみ、審判はすみやかに守備軍に対し守備につくよう命ずべきだったのです。
最強の打者に対して打つとのできないような状態をつくった敵方選手達は、この上ない卑怯者であり、観衆も又大いに憤慨して正常な
姿の試合続行をアピールすべきなのです。
全員が正常な守備につき、投手は全力で「センチュリー」を阻止すべく投球し、その球を見事
に打ちかえしてこそ本当の「センチュリー」なのです。
スポーツマンシップとは、そうしたものです。
今年のプロ野球日本シリーズの最終戦、四回オリックスの本西選手のファインプレーがワンバウンドキャッチと判定され巨人軍が一点
をかえしました。
ビデオで見る限り、あれは明らかに審判の見間違いです。
オリックスの監督はいったん選手全員を引きあげさせましたが、自軍がリードしていたこともあり、又観客に対するサービスの意味も
あってか試合は再開されました。
幸いにもオリックスが優勝したために何の問題もおきませんでしたが、万一、四回以降試合の流れが変わって巨人軍が勝ったとしたら、
何とも後味の悪い第四戦になったことでしょう。
しかし、再開してからのオリックス全選手は「よーし、この試合、絶対に勝ってみせる」と非常なファイトをもやしたのに対し、何と
なく後ろめたさを引きずっての巨人軍の試合振りを見る限り、勝負の行方は火を見るより明らかでした。
もしも私が巨人軍の監督だったとしたら、ビデオを再確認のうえ、本西選手は捕球していたと審判のミスジャッジを指摘し、潔くアウト
となり、そのかわり自軍の全ナインに四回以降全力をつくすよう、檄
をとばしていたでしょう。
そうすることで両軍選手の精神状態は逆転し、巨人軍にも勝つチャンスがめぐってきたような気がします。
そこにこそスポーツマンのフェアプレーの精神があるのではないでしょうか。
ただこの場合、巨人軍の監督は審判の判定に従ったまでで、監督としては別に恥ずべき行為ではありません。
野球の規則では審判の判定は絶対なものとなっているからです。
しかし、相撲のように行司差し違いという制度もあり、何も野球だけが審判の判定を絶対であると規定する必要はないように思います。
それなのに、今年から従来以上に審判の権限を強いものにしたという話を聞きました。
審判だって人間である以上時として見間違いもあるはずです。間違いを認めたからといって、何も審判の権威と信用が下がるもので
もなし、ビデオという便利なものがある今日、塁審と協議のうえぜひ納得のいく判定を下してもらいたいものです。
今回のように審判のミスを正すことなく、真実を隠し通したことで、スポーツで最も大切なフェアプレーの精神を冒涜する結果になった
ことを残念に思います。
最近、テレビや新聞紙上を賑わせている様々な事件は、事件発生当初間違いを素直に認めて責任をとることを潔しとせず、その間違い
を隠そうとしたために、なお一層傷を深め、事態を深刻なものとし、ついに身を滅ぼす結果となった事件が大半です。
厚生省、エイズ問題、住専、TBSテレビ然りです。
間違いは潔く、すみやかに自ら正し、常に正正堂堂としたプレーを楽しむ、これが「スポーツ
そこにこそスポーツマンのフェアプレーの精神があるのではないでしょうか。
ただこの場合、巨人軍の監督は審判の判定に従ったまでで、監督としては別に恥ずべき行為ではありません。
野球の規則では審判の判定は絶対なものとなっているからです。
しかし、相撲のように行司差し違いという制度もあり、何も野球だけが審判の判定を絶対であると規定する必要はないように思います。
それなのに、今年から従来以上に審判の権限を強いものにしたという話を聞きました。
審判だって人間である以上時として見間違いもあるはずです。間違いを認めたからといって、何も審判の権威と信用が下がるものでも
なし、ビデオという便利なものがある今日、塁審と協議のうえぜひ納得のいく判定を下してもらいたいものです。
今回のように審判のミスを正すことなく、真実を隠し通したことで、スポーツで最も大切なフェアプレーの精神を冒涜する結果になった
ことを残念に思います。
最近、テレビや新聞紙上を賑わせている様々な事件は、事件発生当初間違いを素直に認めて責任をとることを潔しとせず、その間違い
を隠そうとしたために、なお一層傷を深め、事態を深刻なものとし、ついに身を滅ぼす結果となった事件が大半です。
厚生省、エイズ問題、住専、TBSテレビ然りです。
間違いは潔く、すみやかに自ら正し、常に正正堂堂としたプレーを楽しむ、これが「スポーツマンシップということ」なのです。
(1996.12)
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