5. 恥をかく

 1995年6月中旬、鬱陶しい梅雨空(つゆぞら) のもと、日本馬術連盟主催の関東大会が東京の馬事公苑で開催されました。
 私の心臓手術で一年半、ドイツで購入したハノーバー種の愛馬の両前肢骨折で約二年問の空白の後、最年長選手として何年振りかで 出場した馬術競技は以前とは比較にならぬ程レベルが向上しており、私の演技は後輩の審査員泣かせにおわりました。
 私の選手としての年齢や心臓病、そして馬の両前肢骨折(第三中手骨切除手術)による歩様のイレギュラー等は敗因の言い訳にはな らず、このようにお粗末な状態で競技会に出場するのは審査員に対する冒涜であり、何とか再度競技会に出場して今回の汚名を雪ぎた いと、私と同じクラブに所属しているH氏(オリンピック二度出場)の教えを請うことにしました。
 かつて私が審査したことのあるH氏に、七月の炎天下、馬場の中央で直立不動の姿勢で教えを受けている私の姿を見て、ある人は感心 し、又ある人は「よく恥ずかしくないね」と囁いている声が私の耳に入りました。

     「恥をすて、人に物問い習うべし
      これぞ上手のもといなりけり」

 これは茶祖利休居士の「訓」となっていて、茶人はこれを自からの修道訓として日夜その道を極めんと努力していると本に書いた茶人 がいました。
 ある程度年もとり、一人前の社会人として一応世間からも認められるようになると、何か人に聞きたいことがあっても、「そんなこと も知らないのか」と軽蔑されるのが恐ろしく、つい聞きそびれてしまうものです。
 しかし、どのような厳しい修行もいとわず、道を極めたいと心に誓って教えを請うている人に対して、何故、千利休はわざわざ「恥を すてて教えを請いなさい」等とわかりきったことを言ったのか、私には理解できません。
 これはおそらく茶人の「修道訓」等という大それたものではなく、「これぞ上手のもといなりけり」の句の如くただたんに茶道が上手 になりたいと思っている程度の極く初歩の段階の人に対する教えではないかと思います。
 何故なら自我を捨て去って千利休の前にひれふして教えを請わんとする弟子の心の中には「恥ずかしさ」など微塵もないと思うからです。
 又昔、茶道の稽古場に「恥掻処(はじかきどころ) 」という一隅を設けた茶の湯の師匠がいたと聞きました。
 これも又、人前で恥をかきたくないから「恥掻処」で恥をしのんで密かに恥をかいて教えてもらっておこうというさもしい根性の現れで、こんな気持で 茶道の奥義が極められるとは到底信じられません。
 一体「恥」とは何なのか。辞書によれば「恥」とは過失や失敗をして面目を失うこと、本人の名誉を汚されることであり、「恥をかく」 とは人前で恥ずかしい思いをして面目を失うこと、とありました。
 たんなる人前と、道を極めんと師匠の前に威儀を正して相対するのとでは、おのずとその内容が違います。
 むしろ知らなかったこと、できなかったことが自分として自分に恥ずかしいだけのことです。
 あることを知らなかったら人に教えを請えばよく、あることができなかったらできるように努力すれば良いことで、むしろ知らないの に知ったふりをしたり、できないのにできる迄の努力を怠ることが自分に対して恥ずかしいことではないでしょうか。
 「恥をしのんで教えを請う」という表現は、同じことを幾度も尋ねるような場合のことで、自分の頭の悪さを恥じる場合のものです。
 こう考えてくると、昔の諺にある
 「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」は「聞くは一時の事、知らぬは一生の恥」とすべきです。
 更に一歩進めて、本当の「恥」とは一体如何なるものかを問題にするからには、まずその前に 「真実の自己」を追求する必要があります。
 どこのホテルにも備えつけてある真赤な太陽の表紙の「和英対照仏教聖典」(仏教伝道協会)の中の一節に「おのれに恥じず、他にも 恥じないのは、世の中を破り、おのれに恥じ、他にも恥じるのは世の中を守る。慚愧(ざんき) (心に恥じること)の心があればこそ、 父母、師、目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥 じるのは、尊いことといわなければならない」とあります。
 何といい言葉ではありませんか。

(1995.8)