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4. 自灯明・法灯明
「自灯明・法灯明」この言葉は今から二千五百年の昔、お釋迦さまが八十歳で亡くなられる直前に遺言として従者のアーナンダ(
阿難
)に言い残した言葉です。
「私が亡くなった後は、この無明の世界にあって、自分自身を灯明とし、同時に私がかねがね教えておいた法をも灯明としながら修業
をつづけなければならない」と言われたのです。
このことは又、大パリニッバーナ経というお経の中で、「此の世で自らを島とし、自らを拠り所として他を拠り所とせず、法を島とし、
法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ」というように書かれています。
先に書いた「灯明」ということばはサンスクリット語で「ドヴィーパ」といい、「島」という意味の「ディーパ」と発音が似ている
ところから、大パリニッバーナ経では「自らを島とし、法を島とし」となったのだそうで、その意味するところは同じことです。
又ここでいう「法」とは、言うまでもなく、お釋迦さまの教えであり、仏の教え、即ち、仏教という真理を意味します。
ですから、ちょっと考えると、お釋迦さまは、「アーナンダよ、お前は私が死んだ後は、仏の教えを灯明として修業を積まなければい
けない」とさえ言えばよさそうなものを、何故、わざわざ自分自身を灯明としてという言葉を「法灯明」の前にもってこられたのか
不思議に思ったことがありました。
しかし「自らを拠り所として他を拠り所とせず」という言葉は、かつて私が馬術競技に明け暮れていた頃、良い成績が得られなかった
時、「結局頼れるものは自分以外にない」と痛感した時の事を思い出させてくれます。
お釋迦さまは、きっと、自分の説いた仏教という真理のみを鵜呑みにして、それで自分はもう立派に悟りを開いたと思い込んでもらい
たくなかったに違いありません。
お釋迦さまはきっと、アーナンダを含めた弟子達皆が、自分自身をはっきりと見つめて法の灯明の助けをかりながら、自分の足で
しっかりと人地を踏みしめて、自分なりの悟りを開くことを望まれたにちがいありません。
お釋迦さまは、馬術の理想というか、「真の馬術は、かくあらねばならない」という概念は示すことができても、一人一人手をとって
教えることは不可能であり、お釋迦さまのいう理想の馬術に到達するには、どうしても選手自身が自らの力で、自分の足で歩いていかぬ
限りけっして達成されないことを悟らせる意味で「自灯明、自らを拠り所とせよ」と言われたのだと思います。
よく講談などで、剣の奥義をきわめ免許皆伝のゆるしを得た侍が、奥義を書いた秘伝の巻物を師より授かり、おそるおそるその巻物を
開いてみると、そこには唯一文字「無」とか「空」と書かれていたという話も、師としてもうこれ以上教えることは何もない、これから
は心を無にして謙虚に自分なりの剣の道に励めよ、ということだと思います。
その人だけが持つ微妙な馬術感覚を、その感覚が馬にとって善因にしろ又は悪因にしろ、微妙にしかも正確に反映する馬術は、一人
として同じ扶助、同じ方程式はあてはまらず、その上、それぞれに異なる骨格、異なる性質を持った人馬のペアが同時に悟りを開くため
には他人にはけっして真似のできない<我流>を編み出さざるを得ません。
その<我流>こそが、お釋迦さまの言わんとする「白灯明」なのです。
言い換えれば、
法灯明−
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「ここまで(彼岸まで)おいで、そうすれば成仏できるよ」という遠くで光り輝く灯台の光。
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自灯明−
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最終目標とする彼岸の灯明は見えていても、そこに辿りつく迄の道中は暗く険しい、従って少なくとも自分の足元を照らすための提燈の火は自分で点して、自分の足で彼岸まで歩く以外に極楽往生の道はない。
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ということです。
馬に乗って五十有余年、その間、実に多くの先生方の教えを受け、数多くの馬術書を読み、又いろいろな馬に乗せて頂きましたが、
いまだに<西村流>が編み出せずにおります。
私が健康でなんとか馬に乗れるのは、どう贔屓目
に見てもあと四〜五年、なんとか一日も早く
「自灯明」を見出さないと本当の「論語読みの論語知らず」になってしまいます。
「天は自ら助くるものを助く」といいますが、果して私は自分自身を助けることができるだろうか。
私はこの頃馬に乗れば乗る程、馬術における「自灯明」を見出すことが不可能のように思えてきました。
しかしせっかく人間としてこの世に生を受けた以上、この私の大切な人生を、馬術と同じように、なんとしても自分の提灯に火を点して
〈我流〉を編み出したいと考えております。
(1994.5)
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