2. 初心忘るべからず

 「初心忘るべからず」これは新入社員の入社式や結婚式の披露宴等でしばしば耳にする言葉です。
 「初心忘るべからず、この言葉は私の大好きな言葉です。君達は今日のこの感激をいつ迄も忘れることなく人生の荒波を乗り越えて……」 というような話をされる先輩方は、おそらく就職や結婚という人生の大きな節目に際して、今の謙虚で希望に満ちあふれた気持を何時迄も 忘れずにいてほしいという願いをこめて言われているに違いありません。
 しかし、私はこれらの祝辞を耳にする度に、この人達は自分がしゃべっている言葉の由来を本当に知っているのだろうかという疑問が いつも湧いてくるのです。
 元来この言葉は、室町時代初期に、能楽を芸術の域に迄高めた世阿弥という能楽師が、能楽の秘伝として書き残した『花鏡』の中に出て くるもので、

   「当流に、万能一徳の一句あり
      初心不可忘
    この一句、三条の口伝あり
    是非の初心忘る可からず
    時々の初心忘る可からず
    老後の初心忘る可からず
    この三句、よろしく口伝すべし」

とあるのです。
 せっかく祝詞を述べるなら、「初心忘る可からず」だけで終らせずに、三条の口伝の話も加えて、これからの長い長い人世の荒波を 二人して乗り越えて頂きたいと思います、と締め括りたいものです。
 そもそも世阿弥は、その「初心」を三つに区別したことによって、彼は初心を未知のものに対する旺盛な研究心、自我を捨てて何事に 対しても謙虚な気持になる心、自分のおかれている現実をしっかりと認識した上で、より高い境地を極めようとする発起心、の三つの心に わけて後世に伝えたかったのではないでしょうか。
 即ち、「是非の初心」とは、物事の是と非、何が良いことで何が悪いことかを虚心に見つめなおす心であり、「時々の初心」は、 いついかなる時でも常にその時その時の状態に最も適合した柔軟な心ということになり、「老後の初心」は、いかに年をとっても生きて いる限り一生涯、精進、修行を続けようという若々しく、ひたむきな心ということになります。
 乗馬を始めて半世紀、いつの日にか馬と一緒に彼岸にたどりつきたいものと願い続け、その間何十回となく挫折感を味わい、馬に乗る ことの罪悪感に苛まれながら、それでも私流に「般若心経」を解釈し、私流の「六波羅蜜」を実践することで何とか彼岸に到達したいと 努力しつづけているのも、今思えば、その「時々の初心」があったからに外なりません。
 しかし、彼岸はそう簡単に到達できる処ではなさそうです。
 半世紀に及ぶ努力の結果、彼岸が見えてきたかなと思えるかすかな希望のもてる瞬間も、事実何回かはありました。
 しかしきまって次の瞬間、更に深く急な流れの河が眼前に現れて私の行く手を遮ってしまいます。
 そして私の理想とする彼岸は更に逢か遠い処で燦然と輝きながら私の無能を潮笑うかの如く手招きするのです。
 結局、人間の想像する彼岸が心の問題である以上、ここが彼岸だという究極の彼岸は、私の如き凡人には望むべくもありません。
 ただ自分の無能さを再認識した上で、今現在できることに全力をつくす以外に道はなさそうです。
 そして、いずれそのうちに「老後の初心」をもって又々彼岸に到達する道を求めて無駄な努力を積み重ねていくことでしょう。
 「初心忘る可からず」この言葉はきっと死ぬ迄私につきまとってけっして離れることはないと思います。

(1995.11)