1. 痴人の愛

 絵を描くことだけに人生のすべてを賭けたゴッホやゴーガンの絵を見ていると、彼等はきっと自分自身の身も心もキャンバスの中に ぶちこまずにはいられない衝動にかられて絵筆を握っていたように思えてくる。
 おそらく彼等はある日突然、一般の人には到底理解し得ないような異常な感情が、まるで電流の如く全身を走り、やがてその電流が全身 に充電された時、そのエネルギーを一気に絵筆の先端からスパークさせていたに違いない。
 そして彼等自身の肉体は当然の結果として芸術のもつ妖しい魔力に感電し、ボロボロに焼け燗れながら、彼等の血と肉をキャンバス上の 絵の具にかえてその寿命を削り落としてしまったように思われてならない。
 精神病の発作になやまされ、遂にピストル自殺をとげたゴッホや、家族を捨てて一人南太平洋のタヒチにわたり、後にマルケサス島で 孤独と貧窮のうちに死んだゴーガンのようなすさまじさとは一味違いはするけれど、馬気違いの私にとって、「馬は恋人」等という一般的 解釈では到底表現できない魔性を持った生き物のように思えるときがある。
 何故ならば、半世紀にわたり毎日の如く彼等に接し、その肌に触れていると、ある日突然、ゴッホやゴーガンが感じたであろうと思 われるあの妖しい電気ショックに襲われるときがあるからだ。
 谷崎潤一郎の「痴人の愛」は、谷崎の持つ特異な女性観を露骨に表現したマゾヒズムの代表作ともいえるもので、そのストーリーは 感覚的魅力だけが異常に優れた、しかし道徳も知性もまったくない妖婦ナオミに、夫である譲治がもてあそばれ、荒廃し、ついに破滅 していくというもので、長年、もの言わぬ可愛い馬の肌に触れていると、馬の持つ魔性的魅力が時としてこの妖婦ナオミに勝るとも劣らぬ ものがあるように思えてくる。
 妖婦ナオミの魔性に負けた譲治、心の中の妖婦ナオミを思わせるような芸術の魔力にとりつかれたゴッホやゴーガン、そして時として 私を襲うあの馬の魔力は、どこか一脈相通じるものがあるように思えて、我ながら少々気味悪くなる時がある。
 つい先頃、親しい友人である書家のK女史から電話があって、「今夜衛星二テレビで『ジェリコ・マゼッパ伝説』という映画をする から、ぜひ見てほしい。映画自体はフランス映画独特の非常にドロドロとした難解なものだけれど、ただその中で交される会話が、 いっも西村さんが馬について話している内容とよく似ているから、きっと参考になると思う」というものだった。
 馬の血がブクブク白い泡をふきながら、まるで川のように流れる馬の死体の解体場面から始まるその映画は、K夫人の言う通り、 一種異様な雰囲気の漂う暗いものであったが、しかしそこに登場する主人公(サーカスの団長)の馬術の素晴しさと、彼の馬に関する 台詞(せりふ) は、まさに圧巻で馬場馬術の神髄以外の何物でもなかった。
 とくに終始革の覆面をしていた主人公は誰なのか、近代馬術とサーカス的馬術の違いは若干あるものの、その美事な騎乗振りは歴代の オリンピック・チャンピオンに勝るとも劣らぬものがあった。
 はたして彼が何者なのか非常に興味があったが、おそらく彼はフランスのソミュール騎兵学校(1593年設立以来現在も、フランス馬術の原則を正しい指導によって世界にひろめているフランスの乗馬学校)の名のある教官か、又はフランスの有名な「ジンガロ」というサーカスの団長ではないかと思われる。  馬の絵と彫刻をつくりたくてサーカスを訪れた若い芸術家に、彼は酒をのみながら熱っぽく語りかける。

 「馬を語るのに言葉は不要だ、必要なのは馬の肉体を抱擁することだ、馬のふるえを感じることだ、馬なき馬乗りなど、血を半ば失った も同然だ」と。
 更に彼は馬に乗りながら、「馬の駈歩(かけあし) は三種の歩法ゅ(駈歩、速歩、常歩)の中で最も複雑だ、君の駈歩は虚飾だ、たんに女の気をひく だけのものだ、むやみに駈けても馬を酷使するだけだ、君は馬に酔うが馬は君を無視する。
 恋人を抱きしめるとき相手が快楽を感じないとしたら、……。
 要は速さではなく遅さだ、駈歩の秘密を教えよう、私にとって馬を理解することは、遅さに紛れることだ、それは忍耐といってもいい、 愛撫が馬の心をほぐしてくれる、馬をみつめて馬のことだけを考えろ、相手を知ることが己れを知ることになる。
 嫌がることはけっしてするな、これは馬への心構えだ、ただこれは強制ではなく忠告だ。
 結局は情熱的な肉体の交わりだ、たとえ熱中しても馬の嫌がることだけはするな。
 師に背いても馬には決して背くな、己れに忍耐を課せ、馬に己れを理解させろ、謙虚に」
 最後に若い芸術家が粘土で馬像を創っているまわりを、手綱なしで美事な高等馬術を演じながら、「己れの手など信じるな、暇を見つ けては馬の尻に触れ、そして馬のにおいを嗅げ」
 「馬の像はあとに残るが、それが一体どうだというのだ、私の馬は喝采する客の胸の中に消えていく、たとえ客の心の中に記憶として 残ったとしても、それはくだらん、記憶がなんだ、実感がすべてだ、人生も愛だ、現実だけを愛せ、それで充分ではないか」と。

 私は今ここに一般的には異常ともとれる彼の台詞のいくつかを紹介したが、これが馬場馬術というスポーツの中にひそむ魔性のような 気がする。
 馬一筋の人生の私にとって、これらの言葉はまさに我が意を得たりの感が深いが、しかし反面、これらの言葉は、何か男女関係の機微 に触れるものがありはしないだろうか。
 西村さんという人は「人畜無害」だから安心しなさいと乗馬クラブの若い女の人に紹介される年になってしまっては、もはや手おくれ だが、あと二〜四十年若かったらと悔まれる台詞もたしかにあった。残念だがこれからもやはり馬だけで我慢することにしよう。
 残り少ない家庭円満のために。

(1997.5)