12. 四楽八楽

 古くからある諺に、「楽は苦の種、苦は楽の種」というのがある。
 これは人間として生まれた以上、苦しいと思うときもあるけれど、又その反面、楽しい時もあるのだから、苦しい時には希望をすてず、 又楽しい時にもけっして油断することなく、常にその先その先と考えるようにしなければならない、ということだと思う。
 しかし考えようによれば、せっかく苦労して楽を得たのに、その楽のあとに又すぐ苦しみが待ちうけているというのでは、結局の ところ人間はいつになったら本当の楽が得られるのか、もしかしたら人問は死ぬまで楽を見ることができないような仕組になっている のかも知れない。
 それが証拠に釈尊によれば、この世は苦しみに満ちていてその苦しみを分類すると「四苦八苦」となっていると言うではないか。
 即ち人間はこの世に生を受けた以上、必然的に年老いて醜くなり、病気になって苦しみ、ついには死という最終的な恐怖と対面せねば ならない(四苦)。
 その上、愛する人との別れの苦しみ(愛別離苦(あいべつりく) )や、怨み憎い人との出会いによって恨めしさを味わい(怨憎会苦(おんぞうえく) )、欲しいものが 得られるないという満たされない思いや悔しさ(求不得苦(ぐふとっく) )を味わい、更に以上の七つの「苦」をまとめて最後に、身心の五つの要素 (色・受・想・行・識)によって構成される人間は、存在そのものが苦しみなのだ(五蘊盛苦(ごうんじょうく) )と断言している。
 結局のところどうやら人間の一生なんて「四転八倒」の四苦八苦があるばかりだと言うことらしい。
 しかし「般若心経」では、この苦しみや災難を「一切苦厄」と表現して、これらの苦しみは総て人間が執着心を持つようになったと ころから始まるのだから、これらの四苦八苦を素直にみつめなおした上で、その苦しみを超越した悟りを開くことによって、人間として の真の救いを求めねばならないと諭している。
 けれど私達の生きているこの世は、はたして釈尊が言うように、そんなにも苦しみに満ちあふれているだろうか、楽天家の私にはどうも 楽しいことだって結構あるように思えて仕方がない。
 多分釈尊の生きていた時代の印度では、絶えず絶望的な「病・貧・争」に悩まされていて、宗教によって「心」の救いを求める以外に 安らぎを得る道がなかったものと思う。
 終戦後の苦しい時代に「病・貧・争」をこの世から無くそうと言って信者を集めた一部の宗教があったことを思い出すが、今では この謳い文句を口にする宗教家は少なくなった。
 何故ならば今の日本、医療制度も確立し、中産階級を自認する人がその大半を占め、飢餓と貧困による争いもなくなったからだ。
 前に述べた「四苦」にしても、
生= 仏様によって、こんなにも美しい地球に、鳥や獣としてではなく、人間として生まれさせて頂いたことへの感謝の気持をもって、
老= 「おみなあり(女あり)二人ゆく若きはうるわし 老いたるはなおうるわし」 (ホイットマン) 年老いて、より美しく輝くような人生を送るための努力を重ねることによって有終の美を飾れるように努力して、
病= 「人間万事塞翁が馬」と割り切って、病気にならなければけっして味わうことのできない、生きていることへの喜びをかみしめ、
死= 一日一日を充実した生を送ろうと努力する毎日が、そのまま至福の死へ通じることを信じて「四苦」を「四楽」にかえ、
 次の「四苦」も、
愛別離苦= 心から愛する事のできる人達とめぐり会い一緒に生活できたことを感謝し、
怨憎会苦= 怨みや憎しみを越えて理解し合い、愛と感謝の気持を得た時の喜びをかみしめ、
求不得苦= 心から望んでいた物を得た時の天にも昇る喜びのあったことを思い出し、
五藩盛苦= 肉体の苦しみや、精神的苦痛は、正常な人間として此の世に生きている証拠として受けとれば、
 今の世の中、それ程苦しく、住みにくい処ではないように思えて、「苦は楽の種」ではあっても、けっして「楽は苦の種」等とくだらぬ考えはもたぬことだ。
 たった一度の貴重な人世、せっかく仏様からお預りしている人世なら、苦しみをだきこんで楽しみにかえる喜びを味わいながら、呑気に「四楽八楽」と生きてみたい気がしてならない。

(1993.10)