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11. 幸か不幸か
1990年5月、月刊「コア」に初めて「馬耳東風」を掲載させて頂いてから、はや五年の歳月が流れました。
この五年間に、私は心臓手術を経験し、彫塑に挑戦し、又物書きでもない私が、とにもかくにも毎月雑誌に記事を書かせて頂いたお蔭
で、実に多くの事を学ばせて頂き、本当に幸福な毎日を送ることができました。
又、二年前には、これ迄の私の拙文を『馬耳東風・馬に憑かれて五十年』と題して一冊の本にまとめることができ、彫塑の個展と併せて
出版記念パーティー迄して頂きました。ところが、その本が幸いにも宗教関係の出版社「水書坊」の編集長の目にとまり、「馬から学んだ
人世必勝法」という題で私のことを雑誌「ナーム」に紹介して頂くことができました。
そしてその記事の終りに、「しかし西村さんの本音はいつまでも現役であることらしい。『幸福ですね』と言ったら『はい、最高に
幸福です』という言葉が返ってきた」と締括ってありました。
インタビューに来られたお坊様の最後の一言葉も、たしか「西村さんは幸福ですね」であり、私の答えもまた「はい、最高に幸福です」
であったことを覚えています。
三年前、あえて危険な手術に挑戦し、幸いにも以前にもまして健康な身体をとりもどした私には、まだまだやりたいことが山ほどあって、
その一つ一つを全力で消化していくことに、限りない充実感と生き甲斐を感じているということを充分に察した上での「幸福ですね」で
あり、私も又同じ意味で咄嵯に「はい。最高に幸福です」と答えていたのです。
しかし、私は『馬耳東風』の中で幾度となく「自分の周囲の人達の幸福のおあまりを頂く以外に、自分の幸福はあり得ない」と大層偉
そうなことを書いてきました。
そしてこの言葉は、二十四歳の最愛の妻と七歳の可愛い盛りの我が娘を亡くした父の口癖でもありました。
父の言うように、本当に周囲の人達の幸福のお裾分けを頂く以外に幸福が得られないとするならば、自分自身の生き甲斐だけを考えて
「最高に幸福です」と不用意に答えてしまった私は、まさに「論語読みの論語知らず」ということになります。
事実私の周囲には、去年の暮、長年一つ屋根の下で暮らし、物心両面で計り知れない恩恵を預いた妻の母が亡くなっており、バブル崩壊
のあおりをくって莫大な借金をかかえて今なお塗炭の苦しみを味わっている義兄夫婦や、今回の阪神大震災で家の下敷きになって二時間後
に息を引きとった八十二歳の叔母やその家族がおります。
インタビューの問いかけに対して、これらの出来事がほんの少しでも私の脳裏をかすめていたとしたら、おそらく私の答えは「最高に
幸福です」ではなかったはずです。
つい最近におこったこれらの不幸な出来事ですら、私がまったく忘れていたという事実は、これらの人達は実は「私の周囲の人達」
ではなかったということになりそうです。
そのように考えてくると、私を幸福にできる周囲の人達とは、私に接している瞬間にその人が私に対して好意的でかっ幸福そうにして
いるかどうかということ、または常に私のそばにいる人達、煎じ詰めると今の私にとって掛け替えのない妻と二人の娘達だけが幸福そう
にしていれば一応私の幸福は保たれることになりそうです。
しかし、幸福という概念を仏教的に考える時、この世にあって自分が所有するもの、即ち家族、社会的地位や財産等は一切仏様からの
お預りものであり、それらのものはこの世にあって、個人が幸福となるための必要条件とはなり得ない、ということになっております。
事実、いくらお金があっても、あれでは不幸に違いないと思われる人や、傍
から見てなんと不幸な人だろうと思われる人でも、実に
生き生きと幸福そうにしている人を私は何人も知っています。
一般的にいって私達は病気は不幸、健康は幸福、金持は幸福、貧乏は不幸ときめつけてしまう傾向があります。
ギリシャ神話に、ある母親が非常に親孝行な息子のために、「最高の幸福をお与え下さい」と神に祈ったところ、その願いが神に
通じて、翌朝その孝行息子は幸運にも神にめされてしまったという物語を読んだことがあります。
どうやら人間の考え方とギリシャ神話の神様の考え方との間には大変な違いがあるようで、神仏を信ずることによって幸福になりたいと
願っている私達は、一体何を本当の幸福と考えていいのか判断がっかなくなることがあります。
ある事態が、結果として良いことか悪いことか判断に迷うような場合、日本には「幸か不幸か」という表現方法があります。
人間の幸福なんて「幸か不幸か、私にはさっぱりわかりません」と割り切るか、「人間万事塞翁が馬」と達観することが案外幸福になる
道なのかも知れません。
一切の価値判断を放棄して、「何が幸福で何が不幸なのかわかりません」とあきらめて、総て仏様に下駄をあずけようと「仏下駄主義」
という言葉を発明した「ひろ・さちや」氏の考え方がわかるような気がします。
それにしても私は幸か不幸か、「馬耳東風」を書かせて頂いたお陰でこの五年問を本当に幸福であったと堅く信じて、今の境遇を心から
仏様に感謝している次第です。
合掌 (1995.4)
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