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10. 坐 禅
東海道新幹線の掛川駅からタクシーで約二十分、そこに遠州第一の名刹、曹洞宗の可睡斎
という、ちょっと変った名前の
お寺があります。
その名前の由来は戦国時代に遡り、当時十一代目の住職であった等膳和尚が、まだ幼かった徳川家康を寺に匿
い戦乱の巷から命を救った
ことがありました。のちに家康がその旧恩を謝そうと、和尚を浜松城に招き鄭重にもてなしたところ、その席上、和尚が居眠りをして
しまったというのです。
驚いた家来が和尚を起こそうとすると、家康は「和尚、我を見ること愛児の如し、故に安心して睡
る。和尚睡る可し」と言い、以来等
膳和尚は「可睡和尚」と愛称されるようになり、やがてそれが寺号になったというのです。
暑い盛りの八月末、以前から親交のあった日蓮宗護法寺の中島住職より、その可睡斎に坐禅を組みに行かないかと誘われました。
遠州第一の禅道場、写真を見る限りでは深山幽谷の中のお寺のようでもあり、この暑い東京を離れて、しばし涼しい処で静かに坐禅を
組むのも悪くないと、二つ返事で同行させて頂きました。
ところが案に相違して、そのお寺は深山幽谷どころか、今年日本列島の暑さの記録を更新したばかりの静岡県の、田圃の中の、申し訳
程の林にかこまれ、油蝉の大合唱の中にありました。
いやその暑いことといったら喩えようもなく、その上二日前に降った大雨によって藪蚊が大発生し、第一日目の坐禅の時には、暑さの
ために息はつまり、汗は滝の如く、そのうえ藪蚊の総攻撃を受け、まさに難行苦行の三日間になるものと覚悟をきめました。
そしてその日の午後十時の開枕
(消灯)から翌朝午前五時の振鈴(起床)迄の七時間も、暑さと藪蚊のために一睡もできず、かといって
寝床から起き出すことも、まして団扇
などもっての外で、「何が睡る可しだ」と家康を怨んでみても後の祭り。
しかし、「習うより慣れよ」とはよく言ったもので、二日目からは前夜の疲れも手伝って、敷布団を汗で濡らしながら、どうにか睡れる
ようになり、坐禅の折の藪蚊の襲撃もあまり苦にならなくなりました。
『碧巌録』に「安禅不必須山水」(安禅は必ずしも山水を須
いず)という言葉がありますが、これは夏は涼しい場所へ行って
坐禅をし、冬は暖かいところで坐禅を組む、そのような気持では決して大成はしない。本当の「只管打坐
」は必ずしも山水を須
いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼しでなければいけない、ということで、今回図らずも私はこのことを実地に体験させられてしまったわけです。
禅坊主でもない私が、ここで禅の講釈等をするつもりはありませんが、道元禅師によれば、
「夫れ参禅は静室宜
しく飲食
節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して(生活の心配事を捨て)、善悪を思はず、是非を管
することなかれ」
とあります。
これは、まずこだわりを捨て、あらゆるものからも解放されて、今生きている生活や仕事をあるがままに受け入れて、本当の自分と
向かい合うことができるように、そして当り前の人生を精一杯生きるように努力しなさいということなのです。
今から約三年前、自ら望んで危険率の高い心臓の手術をする決心をした時、私は自分なりに死のこと、家族のこと等いろいろと真剣に
考えました。
そして手術が成功して集中治療室から無事に出られた時の感激、まさに「生かされている命」を実感として受けとめることができました。
又手術後の静養先では、移り行く自然の美しさに感動し、野に咲く名も知れぬ花にも仏の命が宿っているのを感じることができました。
それはあたかも、死と向かい合いながら幾日もかけて私の胸の中に充電されていったいろいろな思いが、手術が成功したと確信した瞬間、
一気にスパークしたようなものだと思います。
しかしそれから三年、その時の感激はいつしか色あせてしまいました。
私は今回坐禅を組むことによって、もう一度、手術直後の気持に立ちかえり、生きていることの素晴しさ、生かされている命の有難さ
を心の中に充電しなおして、心のオーバーホールをしたいと考えたのです。
しかし禅は語るものではない、余念を交えずただひたすら坐るものだ、坐禅は「調身」「調息」「調心」、まず第一に姿勢を正して
正しい呼吸をすれば心が定まる、所謂「無念無想」の境地にならなければいけないと言います。
けれど正直いって私のような凡人には坐禅によって「無念無想」の境地になることは不可能です。
坐禅を組みながら、生きていることの素晴しさ、生かされている命の重さをしみじみと感じとれたら、それで充分だと思ったのです。
可睡斎での一日は「作務」もあり、なかなか忙しく厳しいものでしたが、憂き世を離れてじっくりと考え事をする時間は充分にありました。
長い人生、たまには仕事に疲れ、生活に疲れて自分を見失うこともあると思います。
そんな時、ほんの僅かな時間をさいて、今私達がおかれている現実をしっかりと見つめなおして本当の自分と向かい合うことによって、
何物にも替え難い唯一度の人世を納得のいくように軌道修正してみようと努力するのも、あながち時間の浪費ではないと思います。
私は今回の貴重な経験を生かして、少なくとも年に一回はどこかのお寺で坐禅を組みたいものだと、帰りの新幹線の車中で考えていました。
(1995.9)
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