7. グルメ・飽食

 この言葉がテレビに登場してから久しい。
 言うまでもなくgourmetとはフランス語で食通とか美食家のことであり、飽食は読んで字の如く飽きる程食べることを意味する。
 とうの昔にバブルがはじけたというのに、新聞のテレビ番組欄を見ると、必ずといっていい程どこかのチャンネルでグルメや飽食に関 した企画が組まれている。
 この時とばかりに食卓一杯に並べられた数々の料理を前に目を輝かせるテレビタレント。
 他人(ひと) の食べるのを見ても面白くも何ともないが、このような番組が一向に無くならないところを見ると、どこか視聴者にアピールする ものがあるに違いない。
それにしても、その番組に登場するタレントの何とお粗末なことか。せっかく旨い物の食べ歩きを企画するのなら、なんとかもう少し ましな文化的素養のある人間をさがしてくることができないものだろうか。
 これは教養番組ではないと言ってしまえばそれまでだが、とくに日本料理では食器や掛け軸、床の問にさりげなく生けられた一輪の花 も料理をおいしく食べるための重要な要素となることを、そっと示唆するぐらいの心掛けがほしいものだ。
 箸のあげおろしは言うに及ばず、食事の作法等まったく無視した非人間的な(えさ) の食べ方、舌音痴なのかそれとも味に関する表現力の 乏しさの故か、唯々「うまい、うまい」の連発。
 その上、したり顔して、汚い歯形のついた食べさしをテレビの前につき出す無神経さに至ってはまさに言語道断。
 戦後五十年、食生活も戦時中には考えられぬ程豊かになった。
 何も私はグルメや飽食が悪いというのではない。ただこれでもか、これでもかといわぬばかりに盛りだくさんの料理を前にして、まるで 残飯をあさる烏の如く食べ散らすさまを見るにつけ、私はつい山頭火の
 「いただいて足りて一人の箸を置く」
 の句を思い出してしまう。
 食べ盛りの少年時代を食うや食わずでスイトンや雑炊で過した私には、今の食生活はあまりにも賛沢で勿体(もったい) なすぎて罰があたりはしない かと心配になる。
 デパートの食堂やレストラン等で時折見かける若者達や、親につれられた子供達のあの食事の時の態度の悪さはどうだ、これはもう 「いただきます」「ごちそうさま」以前の問題のように思われる。
 お金さえ払えば、どんな食べ方をしようとこっちの勝手だと言われればそれ迄だが、少しはそ の料理をつくった人の身にもなってみろといいたくなる。
 もっとも、料理をする方も缶詰をあけて電子レンジに入れるだけといわれれば、これ又何をかいわんやである。
 貝原益軒の養生訓には、「人の身ば元気を天地に受けて生ずれども、飲食の養なければ元気うせて、命を保ちがたし。元気は生命の本 なり。飲食は生命の養なり。此の故に、飲食の養は、人生日用専一の補にて、半日も欠きがたし。然れども、飲食は人の大欲にして、 口腹の好むところなり、其の好めるにまかせて(ほしいまま) にすれば、節をすぎて必ず脾胃をやぶり、諸病を生じ、命を失う」とある。
 私達が食事をとる最大の目的は、肉体の成長を図ると同時に、それを心の糧として身心の中に埋もれている仏様を導き出すエネルギー に変えることだと仏教では説いている。
 従って私達が頂く食物は、それを作る人の愛情がこめられていなければならない。
 その愛情に対して感謝の気持をこめて「いただきます」「ごちそうさま」と言うのだ。
 禅寺で僧侶たちの食事をつくる大切な役職名を典座(てんぞ) と言うが、道元禅師はわざわざ『典座教訓』という本を書いて食事の大切さ を力説している。
 それによると、食事の前には必ず「五観(ごかん)() 」を唱えることによって食事を頂く上での心構えを再確認することになって いる。
 「五観の偶」とはその昔、中国で制定され、食事を頂くにあたって心に思い起こさねばならない五つの項目のことで、即ち、
  一には、功の多少を計り、彼の来処(らいしょ)(はか)る。
  二には、己が徳行の全欠(ぜんけつ)(はか)って()に応ず。
  三には、心を防ぎ(とが)を離るる事は、貪等(とんとう)(しゅう)とす。
  四には、正に良楽を事とするは、形枯(ぎょうこ)(りょう)ぜんが為なり。
  五には、成道(じょうどう)の為の(ゆえ)に、今此の(じき)を受く。
 要するに、これから頂く食物がいかに多くの人の労力を経ているかを思い、私のような未熟者がこの食物を頂くことのできることに 感謝し、謙虚に、そして食物に対する(むさぼ) る心や(いと) う心を起すことなく、良薬として頂き、尚一層仏道を修業して、人間としての完成を図 ります、という意味だ。
  「倉廩実(そうりんみ)つれば(すなわ)ち礼節を知る
   衣食足れば則ち栄辱(えいじょく)を知る」
 米倉が一杯になって、はじめて礼儀や節度をわきまえるようになる。又衣食の心配がなくなってはじめて名誉を重んじ恥を知るように なる、とあるのに、暮らしが豊かになればなる程感謝の気持が薄くなり、礼儀や節度が乱れていくのは一体どうしたことなのだろう。
 これは、(すべ) てにおいて豊かになった日本人が、食生活を少しでも手軽に便利に、そして豊富にすることが豊かな暮らし方だと考え、食事 のもつ真の意義を(おろそ) かにした結果ではないだろうか。
 感謝に満ちた豊かな心を持つことこそが、真に豊かな暮らし方だというのに。
 私は何も食事の前に必ず「五観の偈」を唱えなさいとはいわない。ただそこに述べられている趣旨を思い出して、せめて御飯を頂く前 と後に感謝の気持をこめて、「いただきます」「ごちそうさま」を言う習慣を子供達につけさせるべきだと言いたいのだ。
 しかし、悲しいかな、日本の小学校の給食の前後にこの言葉を言うようにと強制してはいけない、と日本国憲法は定めている (これは本当の話だ)。
 そして不思議なことに、肘をついて握り箸で(えさ)(ついば) んでいたテレビタレントも、西洋料理の食べ方だけは一応心得ていて、ワインを まず自分のグラスに少し注がせて、もっともらしく一口飲んでから人に勧めたりしているのを見るにつけ、今の日本の教育はどこか 狂っていると思わずにはいられない。
 少なくとも日本人である以上、日本料理の食べ方の作法ぐらいは家庭できちんと教えてやりたいものだ。(然しその親が知らなければ 万事休す。)
 「いただいて足りて一人の箸を置く」
 「五観の偈」を思いつつ感謝して静かにいただいて、なお一層人間としての完成を図らせて頂きます、「ごちそうさまでした」とそっと 箸をおく姿。
 一日にせめて一度ぐらい、こんなことを考えながら食事を頂くのも日本人として大切なことではないだろうか。

(1996.7)