2. 四人の母

 私には母が四人もいました。  しかしそのうち二人の母についての記憶はまったく私にはありません。
 というのも、私の生みの母は私が生後八か月の時、二十四歳の若さで亡くなり、母亡きあと私の世話をしてくれた私には叔母にあたる 母の妹が、父の後添いとして来てくれることになり、結婚式も迫ったある日、これ又二十三歳で病気のため、突然この世を去ってしまった からです。
 それは私が僅か二歳四か月の時のことです。
 その後、親戚や周囲の人達の勧めもあって父が再婚したのは、私がたしか四歳の時ではないかと思います。
 そして私がこれらの事実を知ったのは、何と大学に入ってからで、それ迄私はうかつにも三人目の母を実の母親と信じていました。
 又、父との間に生まれた腹違いの妹も、私が十二歳の時、七歳の短い命をおえたため、その後私は「ひとりっ子」としてその継母に育て られることになりました。
 私にとって幸運であったことは、この三人目の母が非常に優しく又聡明な人であったことで、 実の母親でもけっしてこうはてきないと思われる程、真の愛情をもって私を育ててくれました。
 しかしその母も又、私が三十四歳の時、戦争中の無理がたたって長い闘病生活の末、五十七歳で私をおいて逝ってしまいました。
 非常に病弱で小学校も休みがちだった私が今日何とか人並みの健康体になれたのは、まさにこの育ての母のお陰で、数えてみれば、 この最愛の母は私と約三十年間人生をともにして私を守り育ててくれたことになります。
 その育ての母が亡くなって一周忌がすぎたと思われるある日、私は父方の伯母から一通の手紙を頂きました。
 その手紙は、私を生んで八か月で他界した実の母が伯母に書き送ったもので、巻紙に美しい毛筆で書かれたその千紙は、私が母の字を 見た最初であり、今でも母の大切な形見として仏壇の引き出しにしまってあります。
 しかし1983年、八十二歳で亡くなった父は、っいに前の二人の母のことを私に一言も話すことはありませんでした。
 勿論二人の母の写真等も私の目にふれぬように隠しておりました。
 1988年5月、私が五十八歳の時、長年住みなれた家を出て妻の母と一緒に暮らすことになり、引越のため平素めったに開けたことのな かった納屋を整理していた時古い箪笥の裏から三冊のアルバムと古ぼたけ風呂敷包みが一つ出てきました。
 そのアルバムには私の記憶にない二人の母の写真や、生みの母と父との結婚式の写真等がびっしりと貼ってあり、又風呂敷包みの中には 生みの母が、私には祖父母にあたる人に書き送った手紙が三十数通も入っていました。
 それらの手紙によって初めて私が逆児で非常に難産であったことや、私の名前の由来等を知ることができたのです。
 しかしその手紙の中に唯一通だけ母の弟が私の二番目の母になるはずだった彼の姉に書き送った手紙が混ざっていました。
 当時彼は私の家から東京の中学校に通っていたのです。
 その手紙の封筒には、祖父の字で「此の手紙は大切に保管すること」と朱記してあり、内容は母の死の前後の様子を中学生の目を通して 書いたものでした。

 「大きい姉ちやんは病気になってから実に苦しみつづけでした。僕は今でもまだ姉ちやんがいるやうに思います。
 今でも姉ちやんの息の音が聞こえるやうです。最後の日みんな姉ちやんの所に行っていました。姉ちやんは何度も何度も修ちやんの事を 心配していました。どんなにか死んで行く事がつらかったでせう。
 それも運命だからいたし方がありませんが、どう考へても残念でたまりません。
 みんなを見て喜んで笑ったその顔、坊やを見て、喜んだ其の顔、考へると萬感が胸にせまってまいります。
 又姉ちやんが修ちやんに対する母の愛の深いことで、いっでも子をどんなに深く思っているかをありありと眼のあたりに見ました。
 姉ちやんはほんとうにいい人でした。早死するとは全く夢のやうです。姉ちやんは幸福でした。しかし姉ちやんは運の悪い人だったのでした。 後に残った修ちやんも又不幸な人だと思います。僕達はこの修ちやんを必らず大事に育てて姉ちやんの志にたがわぬやうに注意しており ます。
 人はなんと、はかなく此の世を去るのでしょう、こんなことを考えるといやになってきます。僕達も老いて死ぬのは致し方がないが、 早死はしたくないものです。云々…」(原文のまま)

 この手紙を書いた叔父も又学徒出陣により二十八歳を一期としてビルマで戦場の露と消え、この手紙をもらった私の二番目の母もその手紙を受取ってから僅か一年半後にこの世を去りました。  しかし、このように人変な不幸な星のもとに生まれたと思われた私は、亡き母をはじめ叔父達の思いによって選ばれた三番目の母のお蔭で、おそらく世界一の幸福な人生をあゆむことができたのだと信じています。  いろいろな事情で1988年、妻の母と一緒に暮らすことになった時、私は三人の母に孝養をつくせなかった分、この四人目の母にできる限りの孝養をつくそうと思いました。  四人目の母と一緒に住んで六年半、この母は九十二歳の天寿を全うして、1994年11月に亡くなりましたが、この母が亡くなって一か月程したある夜、私は夢の中でその母に会いました。  夢の中で私が母の死に顔をじっとみつめていた時、その母が「フーッ」と一つ深い息をしたのです。「お母さんは生きている、生きている、死んじゃいない」と私は大声をあげて目をさましました。  この母も又前の三人の母と同じように、きっとこの時私の心の中に甦ったのだと信じています。

    「母を思い出すとおれは愚にかえり
     人生の底がぬけて怖いものがなくなる
     どんなことがあろうともみんな
     死んだ母が知っているやうな気がする」(高村光太郎)

 良いことも悪いことも、みんなお母さんが知っていてくれる。

    「死んでしまった人に対して
     私達は何の力もないが 然し
     死んだ人の真心が生きている我々に
     働きかける力は
     絶大なものがあると思う」(武者小路実篤)

 「後に残った修ちゃんも又不幸な人だと思います。僕達はこの修ちやんを必ず大事に育てて、姉ちやんの志にたがわぬようにします」 といってくれた叔父を初め、四人の母達の真心によって、私は守られているのだと、つく、づく感じることがあります。
 そして、いつの頃からか私は、悲しいこと、苦しいことがあると、きっとこの四人の母を想い出すようになりました。

(1995.9)