1. 自縄自縛

 それは今から十数年前、私を出産して間もなく他界した母の第二の故郷台湾(祖父が台湾総督府の役人)に行った時のことです。
 出発の当日私は羽田飛行場の売店で、ホテルや往復の飛行機の中で読もうと『大いなる訓戒』という本を買いました。
 機中の人となった私は、早速その本を取り出して読みはじめました。
 「つねに一瞬が強く清くあれ」という副題のついたその本は、二千年以上も前から伝わっているある秘訣が記された十巻の巻物の物語 で、その巻物に書かれた十か条の訓戒を忠実に守り、実践した人間は、必ず「史上最大の勝利者」になれるという訓話風教養フィクション で、会社の経営が思わしくなかった当時の私にとって、まさに恰好の読み物でした。
 とはいえ、場所は台湾旅行の飛行機の中、軽い気持で読みはじめた私は、しかしたちまちその本の虜になってしまいました。
 その本こそ、紛れも無く顔も知らない私の生みの母が、自分の命と引き替えにこの世に送り出した一人息子を、故郷台湾へ迎える最高の プレゼントだったのです。
 その時以来、著者オグ・マンディーノの言わんとする人生の真の勝利者となるための秘訣の十か条は、私の生きていく上での大きなささ えとなりました。
 その十か条の一つに「良い習慣を創り、その奴隷となれ」というのがありました。勝者と敗者とのあいだにある唯一の違いは二人の習慣 の違いである。良い習慣は総ての成功の鍵であり、悪い習慣は鍵のかかっていない失敗への扉であるというのです。
 たしかに衝動の奴隷であった子供の頃の私は、成人するにつれて知らず知らずのうちに自分に都合の良い勝手な理屈によってつくり あげた習慣の奴隷になっていたように思います。
 そして厄介なことに、その悪い習慣をなくすためには、やはり別の習慣をつくる以外に方法はありません。
 とは言っても、私達が一つの習慣を身につけるにはある程度の年月と努力が必要であり、新しい習慣によって二度と悪い虫のおきない ように、自分自身を縛りあげる、いわゆる「自縄自縛」をする必要があるのです。
 毎月きまって一つのテーマについて考え、それを文章にすることが良い習慣かどうかはわかりませんが、少なくとも今の私には頭の体操 というか、老化防止になっているのは事実です。
 七年半という年月をかけて創りあげた私の「毎月何か一つの事について書く」という習慣は、天国の母から贈られた「大いなる訓戒」 によってつくられたものだと思います。
 私の生涯学習であり、又その時々の心の遍歴の記録となっているこの「馬耳東風」は、私にと って確かに良い結果をもたらしている事に間違いありませんが、しかし、実はその上に、もっと良いことが私にはありました。
 それは一冊目の『馬耳東風』を友人達に読んで頂いたところ、幼馴染みでかつての美少女I夫人(オリンピックに馬術選手として四回 出場)がすかさず私に言いました。「修ちゃん、随分と偉そうなことを書いてくれたじゃないの。これからは浮気一つできないよ」と。
 それからというもの、彼女の言葉が事ある毎に思い出されて、「あんな偉そうなことを書いておきながら」と言われるのが恐く、いろ いろな意味での浮気心をじっと我慢したことが数限りなくありました。
 これが本当の「自縄自縛」であり、生みの母の「大いなる訓戒」だったような気がします。
 広辞苑によれば、自縄自縛とは自分の縄で自分を縛る意、自分の心がけまたは言行によって自分自身うごきがとれなくなり、苦しむ こと、自業自得、とあります。
 又自業自縛の項には、自業自得に同じ、とあり、更に自業自得は仏教用語で、自らつくった善悪の業の報い自分自身で受けること、 一般に、悪い報いを受けることにいう、自業自縛、となっておりました。
 たしかに、自縄自縛や自業自縛は自業自得と同じ意味で、一般的に悪い報いを受けることを意味していますが、それなら何故 「自業自損」と言わないのでしょうか。しかし広辞苑には自業自損の文字は見当りませんでした。
 私のように、自からつくった善と思われる業の御利益を受けたと思っている人にこそ、「自業自得」の言葉がふさわしいような気がします。
 しかし広辞苑の仏教用語としての解釈が、自分のつくった善悪の業の報いを自分自身で受けること、となっているのが気になって、 あるとき、池上の本門寺の親しいお坊様に聞いたところ、「業」の持つ意味の深さは非常なもので、「業」の研究のための本が何冊も出版 されていてなかなか一言では言いつくせるものではない。しかし業とは、強いて言えば一人の人間のやった事、やらなかった事、又良い行動、悪い行動、本来やるべき事をやらなかった事も含めて、総て自分の 責任として自分白身が引き受ける事、だと言われました。
 そして「得」とは、得ること、又は受けるということで、決して損得の得ではないと言われ、やっと自業自得の意味がわかったような 気がしました。
 心臓の弁を数本のゴアテックスという化学繊維で吊っている私の肉体は、あと何年もつかわかりません。しかし生きている限り、 私は亡き母から贈られたこの習慣の奴隷になって自縄自縛といきたいものだと考えているのです。 私のように、自からつくった (よし) と思われる業の御利益を受けたと思っている人にこそ、「自業自得」の言葉がふさわしいような気がします。
 しかし広辞苑の仏教用語としての解釈が、自分のつくった善悪の(ごう) の報いを自分自身で受けること、となっているのが気になって、 あるとき、池上の本門寺の親しいお坊様に聞いたところ、「業」の持つ意味の深さは非常なもので、「業」の研究のための本が何冊も出版されていてなかなか一言では言いつくせるものではない。しかし業とは、強いて言えば一人の人間のやった事、やらなかった事、又良い行動、悪い行動、本来やるべき事をやらなかった事も含めて、総て自分の 責任として自分白身が引き受ける事、だと言われました。
 そして「得」とは、得ること、又は受けるということで、決して損得の得ではないと言われ、やっと自業自得の意味がわかったような 気がしました。
 心臓の弁を数本のゴアテックスという化学繊維で吊っている私の肉体は、あと何年もつかわかりません。しかし生きている限り、私は 亡き母から贈られたこの習慣の奴隷になって自縄自縛といきたいものだと考えているのです。

(1996.4)