1. 色 気

 日本語の「色気」という言葉が持つニュアンスには、ずいぶんといろいろな意味があると思い、辞書をひいて みました。
 色のぐあい。愛敬(あいきょう) 。おもむき。風情(ふぜい) 。異性の気をひく性的魅力。異性に対する関心。欲求。性的感情。あるもの に対する関心・欲求。なまめかしさ。女っけ。意向。野心。
 日本語とは、まあなんと複雑なものかと、あらためて感心し、さらに「色」という字のつく熟語にはどんなもの があるだろうかとひろってみると、
  色気、色情、色男、色香(いろか) 、色悪、色事、
  色町、色里、色目、色きちがい、
  色仕掛け、色合、色恋、色白、色艶、
 等々…。なんともエロティックなにおいのするものが多く、「般若心経」の中のもっとも有名な言葉「色即是空、 空即是色」の「色」とは、ずいぶんとニュアンスが違うように思いましたが、よくよく考えてみると「般若心経」の 「色」とは、目に見え、形としてとらえることのできるもの、すなわち必らず壊れたり、崩れたりするもの、 という意味があるのだから、やはり色気や色情、色香等もまた、必らず壊れたり崩れたりするはかない運命だという 意味がこめられているのかも知れません。
 じつは私も、この色気という言葉には非常に恥しい思い出があります。といいましても私が過去に女の色気に 迷ったとかいうことではありません。それはたしか昭和二十八、九年の頃だったと思います。宮城の中のパレス 乗馬倶楽部(今はもうなくなっている)に山吹号という名馬がおりました。
 私は幸運にも、その馬に約二年間乗せていただき、今のオリンピックのグランプリ種目に相当する甲種純馬術競技 で、日本選手権を獲得したことがありました。その山吹号は、非常に優雅な動きをする馬で、城戸俊三先生(戦前の オリンピック選手で騎兵中佐)という名人のたえざる調教に救われて、私のような者でも勝つことができたのですが、 なにぶんにもその当時は なまいき(ざか) りで、障碍競技でも、日本スポーツ賞をいただいたりで、恥しい話ですが、ややうぬぼれていた時代 でした。ある日私は、パレス乗馬倶楽部の履馬場(おおいばば) (雨天体操場のような大きな屋根のある室内馬場)で山吹号に乗って おりましたところ、日本馬術界の草分けであり戦前のロスアンゼルス.オリンピック大障碍飛越競技の優勝者、 西竹一男爵の先生(当時の馬術監督)である遊佐幸平先生が見にこられたことがありました。
 天狗になっていた私は先生の目を意識して、その大先生の前で、なんと自分のできるかなり高度な演技を、まるで 試合のときのようにつぎつぎとやってしまったのです。
 先生は、私の乗っているのをしばらく御覧になって、私には何も言わずに帰られてしまいました。
 後で、その時先生の横にいた人に、何かおっしゃらなかったかと聞いたところ、先生はただ、一言「西村はまだ 色気があるな、あの色気がなくならなくては上手くはならん」と言われたそうです。
 その話を聞いた瞬間、私は顔から火が出るように恥しかったことを今でもはっきりとおぼえており、それから というものはどんな人が見ていても馬の調教中には馬の気持を尊重しつつ、自分のぺースをぜったいに崩すまいと 心に誓いました。


「人に見せようなんて考えたら大間違いだぞ、ルー公、ライオンショーはなあ、ライオン の芸を客に見せるんじゃねえんだぞ、手前を見てもらうんだぞ………。
いや、そうじやねえ。
自分とライオンとの闘いだ。
そうでもねえなあ、白分自身との闘いだ。
そうなんだ。客も無きゃあ、ライオンもねえ。ほんとうのところは手前が、どんなに立派にやり通すかという手前との闘いよ。
ルー公、わかるけえ?………いいところを見せようとすりゃあ、おめえ心に隙ができらあな。
そうなるとつい無理をやらかしておめえ、今のようになるのよ。」

 これは戸川幸夫の小説『ライオン野郎』の中の一節です。
 頑固一徹な老サーカスマンが、ショーの最中にライオンの爪で引き裂かれ大けがをした時、弟子のルー公に述懐 した言葉です。
 私はこの文章が大好きです。
 そして明治、大正、昭和を生きた名人遊佐将軍の一言は、いまにして思えば、この老サーカスマンの言葉と共通 するものがあると同時に、何となく「般若心経」の「色即是空、空即是色」にもつながるような気がしてなりません。
 立派なヒゲをたくわえ、大きな声で天真燗漫に笑い、フランス語を自由に話す遊佐先生は、私にとって生涯忘れる ことのできない恩師であり、私が馬を続ける限り、つねに思い出さざるを得ない、懐しく、なかなかに手の届かない 大先輩でもあるのです。
 そして遊佐先生には昭和四十一年十一月に亡くなられるまで、たいへんにかわいがっていただき、地方で開催 される馬術競技大会の折等には、よくいろいろなところにつれていっていただき、良い社会勉強(?)をさせて いただいたものでした。
 その時の将軍の口ぐせは、きまって「おれの名前は遊佐幸平(あそび・さ・いく・べー)。 さあ、ついてこい」でした。