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1. 善 因 善 果
私は、人間が生きてゆく上での絶対の真理は「善因善果・悪因悪果」以外にはないと堅く信じています。
善い行ないをすれば、安楽な果報が得られ、悪いことをすれば、必らず悪い結果が出るということが、仮りに信じ
られない世の中になったとしたら、いったい人間は何を信じ、何を考えて暮してゆけばいいのかわからなくなって
しまいます。同じように馬にとって良い行ないをすれば、絶対に良い結果が出る、口をきくことのできない馬を調教
する上においても、この「善因善果」の法則はきわめてはっきりと、そして時として瞬時に現れます。
従って調教は、馬にとって決して悪因であってはならず、仮りに騎手が馬にとって良かれと思ってとった行動で
あっても、馬がそれを悪因と受けとめたとしたら、馬は騎手に対して必らず何らかの反抗を示します。
このような場合、騎手のとるべき手段は唯一つ、まず自分の技術の未熟さ、愛情の乏しさを反省し、馬にとっての
善因が何かをさがすことです。
仮りに騎手にそのような反省がなく、馬を懲戒することによって、一時的に馬を服従させたとしても、結果として、
騎手は馬体の硬直からくるぎこちない動きしか得ることが出来ず、そのような懲戒を繰りかえす限り、やがて騎手は
馬から猛烈な反撃をうけることとなり、いつの日にか調教を断念せざるを得なくなります。
また、このように、馬と人間との協同作業では、ある日突然、馬から思いもよらない、ひどい仕打ちを受けること
があります。しかしこの場合も、決して怒ることなく、まず、ゆっくりと一息入れてその反抗の原因をさぐり別の
方法を試みるべきです。
なぜならば、騎手の悪因による原因の外に、ひょっとして馬がお腹が痛かったり、歯の痛い時だってあるからです。
このように馬術が、口をきくことのできない馬の協力がなければ決して良い成績が得られないスポーツである以上、
騎手はつねに馬の気持を尊重しつつ、絶えず反省を繰りかえし、忍耐心を持って調教にあたる必要があり、
その忍耐心を持続するための心の鍵は、何といっても馬に対するひたむきな愛と、決して性急なみかえりを期待
しない、無條件の愛情をもち続けることです。
そしてこの母親のような愛こそが、すべてを馬の身になって考え行動する心のゆとりを生み、その心のゆとりが
調教上のトラブルを解決する鍵となるのです。
熟達した騎手は、新馬の調教で、最初のうちこそ馬に対する愛が片思いであっても、つねに馬の身になって
忍耐強く反省と試行錯誤を繰りかえしているうちに、いつかきっと馬はその愛に報いてくれることを信じるものです。
人間同士の結婚に愛が必要であるように、馬との「結婚」を成功させるためにも、愛がすべての鍵を握っていると思います。
それというのも馬との「結婚」は、いってみれば人間の側からの一方的な略奪結婚のようなもので、馬には主人を
選ぶ権利などまったくなかったにもかかわらず、私達の選んだ恋女房は、浮気一つ文句一ついわずに、つねに御主人
様を待ち続ける、この上なく従順な妻のようなもの一けなげいたわで、こんなにも健気な妻が果してこの世にいるで
しょうか。私達はこのような妻に対して労りの気持と、澄れるような愛を捧げないわけにはいきません。
いずれにしても、愛馬の姿は自分の姿だと思って間違いなく、自分の技の未熟さ、愛情の足りなさを馬はじつに雄弁に物語ってくれます。子どもが親の生き方を反映するように。
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