9. 安楽殺人

 四月の初め、年甲斐もなく盲腸炎にかかった。
 しかも腸が破れて腹膜炎になりかけていたため、15センチも腹を切られ、おまけにそのすぐ横にゴム管まで通される 羽目になった。
 お陰で心臓手術の時の二本のゴム管の跡と併せてお腹に三個の穴が空き、孫と一緒に風呂入ったら、「四つもお臍がある」と面白がられた。
 その上、今回は緊急入院であったため、病室の空きがなく集中治療室で一昼夜を明かしたが、あの時の苦痛は八年前の心臓手術の 比ではなく、もしもこんな苦しみのままであの世行きになったら、死んでも死にきれないと朦朧とした頭で考えた。
 きっとこのような状態で死んだら、その死に顔は目をむいて虚空をつかみ、ものすごい形相になって、私の死に顔を見た 人達は、きっと西村は地獄に落ちたと思うことだろう。
 飢餓による白然死はあまり苦しまず安らかな顔で死ぬという。
 また老衰のために自分の力で飲み食いができなくなって死ぬ場合も、樹木が枯れて朽ち果てるように、何の苦痛もなく 安らかな死に顔になると聞く。
 腹膜炎になりかけたとはいえ、たかが盲腸炎、死ぬことはないと思うから、痛い手術も我慢するが、助かる見込みのない ものだとしたら、いくら延命のためとはいえ身体にメスを突き立てられ、何本もゴム管やコードを通されて痛く苦しい思い をするのは真平だ。
 耐え難い痛みのために意識もなく、既に危篤状態の患者を前に親戚が集まって少しでも長く生かして下さいと医師に 懇願して延命治療を施し、死後に「できるだけの手はつくしました」と世間体を繕うと同時に、後に残った近親者達が、 ある意味で満足感を味わうのは、それは生きている人達の単なるエゴにすぎない。
 助かる見込みがないのなら、少しでも早くその苦痛から解放してやるのが悲しいけれど近親者の思いやりというものだ。
 そして、そういう死に方を世間では「安楽死」という。
 「安楽死」を辞典で引くと「助かる見込みのない病人を苦痛の少ない方法で人為的に死なせること」とあった。
 「死なせる」という表現は、毒薬を飲もうとしている人をじっと見ているような場合のことで、要するに「安楽死」 とは苦痛の少ない方法で人為的に殺すことに外ならない。
 屁理屈のようだが、世間一般でいう安楽死は安楽殺人というのが正しい表現のような気がする。
 死期の近い患者本人が生前安楽死を望んでいるのに、世間体と看病の煩わしさを、完全看護の名のもとに病院に叩き込み、 薬によって時間稼ぎをして、苦しむだけ苦しませ、挙句の果てに意識がなくなった御臨終一歩手前で一服盛られて殺された のではたまったものではない。
 それは絶対に「安楽死」と言うべきではない。
 意識がなくなった時点で苦しみもなくなるのだから安楽死だと言うのだろうが、それでもやはり安楽殺人に違いない。
 今から八年前、私は家族の厄介者になりたくない一心から、あえて成功率の低い形成手術に踏みきった。
 自ら望んだこととはいえ、一糸まとわず身体中にマジックインキで緊急輸血の際の目印をつけられ、手術台に 寝かされた瞬間でも、危険な形成手術を中止して人工弁にして下さいと白旗を掲げることもできたのに、唯よろしく お願いしますとお愛想笑いしかできず、50パーセントの確率でこの手術室から死体となって運び出される等という 考えはまったく頭に浮かばなかった。
 その時の心境を思い出してみても、もし私が耐え難い苦痛に見舞われながら医師からもはや助かる見込みはないと宣告 されたとしたら、自分の手で命を絶つ自信がある。
 患者本人が望むならともかく、助かる見込みのない患者を、何としても一時的に死を食い止めようと集中治療室に幽閉し、 できる限りの手をつくしますと称して身体にメスを入れ、何本もの針や管を身体に突き立ててできる限りの拷問を加える ことが果たして正しい医術なのだろうか。
 最近、インフォームド・コンセント、「説明と同意」という言葉をよく耳にする。
 これは医師が患者の症状を詳しく説明し、治療のための医師の取るべきいくつかの手段と、そのために生ずる副作用や 危険性を充分に認識させた上、患者自身の人生観によって、あくまでも患者本人が今後の処置を決めることで、当然総ての 治療を断って「私を安楽に死なせて下さい」という会話もあってしかるべきだと思う。
 インフォームド.コンセントを説明と同意と訳したところに医師の身勝手さと思い上がりが見え隠れして私はどうしても 納得しかねる。
 「この治療方法しかないから同意しろ」と言う代わりに、「貴方はもう助かりません。睡眠薬を差し上げますから、 耐えられなくなったらその薬を飲んで自ら死を選ぶこともできます」と言う会話もあっていいと思うのだが、残念なこと に今の日本の法律では患者は幽閉と拷問を免れることができないようだ。
 患者の立場に立って、癌等の末期患者が真の安楽死を迎えられるような法律をつくるように、国に対して強く要求する 勇気ある医師の出現を望みたい。
 自殺は罪悪だ、人の命は地球より重い等ということは、人間に自然死ができていた時代のことで、現在の日本では 100パーセント不自然死と思って間違いない。
 先頃自殺した江藤淳のように、「私はこういう状態になったら、こういう死を選ぶ」という確固たる信念を持って 延命治療の中止を医師に申し渡し、医師もまたそれに協力すべきなのだ。
 私が安全な手術を断り、あえて、危険な手術を選択した時も、妻と二人の娘に遺言状を書き、家族全員の同意の上で 自分から手術をすることを医師に告げた経緯がある。
 いづれは来る「死」に対して、人は平素から周囲の人達と死の問題について充分に話し合ってお互いに理解を深めておく 必要がある。
 せっかくこの世に生を受けて、まだまだ死にたくはないけれど、これから二十年も三十年も生きられるものでもなし、 第一、仏様から生かされている命なら、常に自分の死ぬ時のことを考えてその準備をしておこうと思いついた盲腸炎では あった。
 因みに私の愛馬は年老いて競技会に出ても高得点が取れなくなると、親戚の経営する乗馬クラブでのんびりと老人や 婦人子供を乗せて余生を送らせ、老衰で、もはや立っていられなくなると、馬は人間と違い治療による延命は不可能なので、 睡眠薬を飲ませて首の大動脈を切り血を流して「安楽殺馬」させることにしている、
 これを「放血」というが、口のきけない馬に対して大変酷いようだけれど、私のためにつくしてくれた愛馬に対する、 これが最善の処置だと信じている。
 果たしてこれは人間の身勝手なえなのだろうか。

(2000.8)

参考、一、「幸せなご臨終」中村仁一著
    二、NHKテレビ番組「世紀を越えて 生老病死の未来」