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1. 馬と彫塑(一)
心臓を悪くして馬に乗れなくなったのを機に手慰みのつもりで始めた彫刻も、早いもので今年で八年目を迎えた。
その間、人に薦められるままに応募した日本彫刻会主催の日彫展には四年連続して入選し、また1997年の第二十九回日展
にも、日本中央競馬会の数人の友人に唆
されて、落選覚悟でサラブレッドと少女の像を出品したところ、幸運にも入選する
ことができた。
近年、馬を創る彫刻家がいないことと、私の馬術選手としての経歴を知っている審査員が何人かいて、馬のことはよく
わからないがとにかく本物の馬とそっくりらしいということで入選したのだという(少女がいない方がもっと良かった
と言う人もいたが、これは注文主の希望で致し方がない)。
日展の内情をよく知らない一般の人達からすれば、日展とは一流の芸術家しか出品できないものと思っているらしく、
今迄私の彫刻を「素人の旦那芸だと思っていたが、大いに見直した。君のどこにそんな芸術感覚が潜んでいたのか驚きだ」
とお祝いの電話が何本もかかってきた。
しかし、当の本人にしてみれば、もっともらしく芸術作品を創ろうと、額に皺を寄せて創ったわけではなく、唯六十年間
見なれた美しい馬の姿を粘土で表現してみようと思ったまでのことである。
そして馬の像が徐々に仕上がってくるにつれて、等身大に近い馬ならなおさら、生きた馬にさわっているような気がして、
殊に顔を創っている時等は、粘土の馬が時々私の顔を横目で見るようになり、馬の温かい鼻息が私の頬に優しくかかった時
など、何とも楽しく、まるで若い母親が我が子に頬ずりをするように粘土の馬の鼻面をいつまでも撫でていたい気分にさせられる。
そして、ふと気がつくと、その馬の顔はいつの間にか私の好みの顔になっている。
また、馬の体を創っていても、自然と私の最も好きな理想とする馬格になっていて、馬のことをよく知っている専門家達
からも、「貴方の創るような動きのいい馬がいたら、きっとオリンピックで優勝できるのに」と言ってくれる。
そのような理由
で、日本中央競馬会から、今年末迄に等身大に近い馬の銅像を七体、関西で開催される場合のオリンピック
を睨んで神戸に造られる乗馬と競馬の施設に設置することになった。
しかし、それだけの頭数を銅像にするには、原型(ポリエステル樹脂)の前の粘土の像を五月未迄に全部仕上げる必要が
あり、私一人で骨組みや粘土づくりをしていたのでは到底納期に問に合わず、止むを得ず東京芸人の助教授に依頼して私の
デッサンに基づく馬像の骨組みだけを創ってもらうことにした。
ところが、最初に来た助教授は私の描いた実物大に近い馬のデッサンを見るなり、「これだけの銅像を全部仕上げたら、
西村さんはきっと寿命を縮めることになるだろう」と恐ろしい予言を残して帰ってしまった。
しかし、私に言わせれば、七頭それぞれに違う個性をもった美男・美女の馬が、思い思いのポーズで165ヘクタールの馬術
センターの中庭の木立の中に設置されているところを想像すると、夜も眠れぬ程楽しくて、寿命を縮めるどころか、
私の創る馬の生気のお裾分けを頂いて、逆に十年ぐらいは寿命が延びるに違いないと確信している。
もっとも、一番大きな銅像は、その高さが3メートル弱もあり、一握りずつの粘土の塊りを足場の悪い櫓の上から馬の
骨組みにつけていく作業は、確かに気の遠くなるような大変な重労働には違いなかった。
しかも七頭もの馬像を、いやいや創っていたのでは、それこそ寿命も縮むというもので、助教授の言葉もある程度わかる
ような気がする。
しかし、六十年間私の人生を楽しいものにしてくれた馬に対する感謝の気持ちと、この世で最も美しい動物だと信じて
いる馬を世間の人達にどうしても知ってもらいたいという思いから、今年一杯は全力投球で粘土と格闘する決心を固めた。
そこで、今回の馬像を創る上で何らかの参考になることもあろうかと、東京都美術館で開催されていた日展を見に出かけ
たが、その作品の九割が裸婦だったのには驚いてしまった。
思ったことをすぐに口に出す悪い癖のある私は、横にいた日彫会の彫刻家に、つい「女の裸より馬の方が遥かに美しいの
に」と言ったら、すかさず「西村さんは美しい女性の裸を見たことがないのでしょう」と窘
められてしまった。
しかし、その彫刻家の裸婦像だって、大きな声では言えないが、私の見たところ馬の方が何倍も美しく思えたのは、
ひょっとして私の芸術作品を見る眼というか審美眼が狂っているのかもしれない。
もっとも、ハリウッドの銀幕を飾る絶世の美女が、しかも脂の乗り切った最盛期の湯上がりの裸体をおしげもなく、
「モデルにどうぞ」と私の眼前に現してくれたとしたら、きっと私も前言をたちどころに翻して裸婦を創る気になるかも
しれない。しかし、それは先ず不可能と言わざるを得ない。
そこへいくと私の馬のモデルは、世界選手権や有馬記念に出場する超一流の馬であり、それらの馬が超一流の騎手に
よってさらに美しい姿態を私の眼前に披露してくれるのだ。
しかも有難いことに、前もって馬主の了承さえ取っていれば、その馬のどこを触っても決して裁判沙汰にはならず、
その上モデル料を払う必要もないときている。
洋の東西を問わず、女性の裸体には一貫して絵画や彫刻の素材としての特権的価値が与えられていて、近代日本の西洋
芸術に対する憧れのようなものとも重なって、女性の裸体は一般の人達の目にも快いものとして映ることは確かである。
しかし、今の私にとっては、やはり馬の美しさに優るものはなく、これからも馬以外を創ろうとは思わない。
芸術の根源は自己表現であり、祈りの感情のはずである。
作者が心の底から興味を抱かずに作られた作品は決して見る人を感動させることはない。
馬の肉体の美しさを感じない人が馬像を創っても、ほんとうに美しいものとはなり得ない。
駆け出しの彫刻家が偉そうなことを書いたが、このような馬鹿な気狂いの馬の彫刻家が一人ぐらいこの世にいてもいい
ような気がする。
そして長い人生のうちで何か一つでも夢中になれるものを与えてくれた神様に心から感謝すると同時に、老後をより
生き甲斐あるものにするための趣味を持つことの必要性をつくづく感じさせられた七体の馬の銅像ではあった。
(1998.3)
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