4. 無
1998年暮れ、家族全員の猛反対を無視して、千葉県で乗馬クラブを経営し、自らも三年前の世界選手権に出場した
友人と、彼の持ち馬のリース契約を結んだ。
かって東ドイツ選手権を覇し、ヨーロッパにその名を知られたハノーバー種の「ポッカチオ号」である。
ポッカチオといえば、あの不朽の名作『デカメロン』の作者としてあまりにも有名だが、ボッカチオには、人名の
他に「救世主」という意味があることを、その友人から聞かされた。
だとすれば、その馬は私の救世主となって、あわよくば私の馬術家としての名前を日本馬術史の片隅に止めて、
六十年間に及ぶ馬乗り人生に有終の美を飾ってくれるかもしれない。
かくして新たなる希望を胸に千葉県の八街
通いの毎日が始まった。その結果、去年の関東大会と東日本大会の
グランプリ馬場馬術競技に入賞することができたばかりか、十一月末には何と四十年振りに全日本選手権にも
入賞することができた。
私にとって、まさしく救世主となってくれたボッカチオ号は、さすがに世界的名馬と言われただけあって、私が
六十年間乗ってきた数多くの今迄の馬と比較して格の違いは歴然たるものがあった。
かくして新たなる希望を胸に千葉県の八街通いの毎日が始まった。その結果、去年の関東大会
と東日本大会のグランプリ馬場馬術競技に入賞することができたばかりか、十一月末には何と四
十年振りに全日本選手権にも入賞することができた。
私にとって、まさしく救世主となってくれたボッカチオ号は、さすがに世界的名馬と言われた
だけあって、私が六十年間乗ってきた数多くの今迄の馬と比較して格の違いは歴然たるものがあった。
馬が持つ天性の優雅さに加え、完壁なまでに調教されたその馬は、未熟な私ですら時として戦
前の『愛馬行進曲』の「執った手綱に血が通う」という一節を実感として味わうことができたば
かりか、私の恩師、遊佐幸平先生の言う「絹糸馬術」一千綱の代わりに細い絹糸を指でつまんで
馬をあやつる御法)ができるかも知れないという思い上がった考えすら抱かせてくれた。
七十歳にして初めて味わうこの幸福感に浸りながら、ひょっとして窮極の馬場馬術とは裸馬に
手綱なしで騎乗することかもしれない、現在使っている鞍や手綱は、最終的には何の道具も使わ
ずに裸馬を自由自在に乗りこなすための方便にすぎなかったのだ。
そう考えてみると私がよく写経する般若心経にしても、「空」という字が七回、「無」に至って
は実に二十一回も出てくるではないか。
僅か二百七十六文字の教典の一割が空と無で占められている「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
(悟りの世界にいたるための知慧の実践行について、その最も肝要な教えを仏様が説かれた教典)
は、結局、人間はどうあがいても、すべてが空であり無であると悟る以外に救われる道がないと諭しているのだ。
だとすれば、お寺の本堂のあのけばけばしい飾りっけも、お線香の匂いや木魚や鐘の演出も総
て「無」の境地に浸り、悟りを得るための方便にすぎなかったのだ。
最終的には銀座四丁目の交差点でもの境地になり切ることができなければ悟りとはいえないのではないか。
二、三年前、フランス映画で「ジェリコ・マゼッパ伝説」というのがあったが、その映画の中
で主人公が手綱なしで見事な高等馬術を演じたシーンがあったのを思い出す。
馬術にしても、はたまた仏教にしても修行を積んで「無」の境地に至ることが窮極の目的なのだ。
そうやって考えてみると、禅の世界にも実によく「無」の字が使われているではないか。
◎「無一物中無儘蔵」 東披禅喜集
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禅を極めた中国の詩人、蘇東披は、人生の真実を無一物に徹したとき、無尽蔵の世界が自らと一体となって現れるという。
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◎「廓然無聖」碧巌録
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仏教の教えの中で最も大事なものとして、達磨人師は「廓然無聖」、からりと晴れわたる大空のような心を持つことだと教える。
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◎「無心是道」 人磨録
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一人の雲水が、湲山
禅師に一問を発した。「僧、湲山に問う、如何なるか是れ道」、湲曰く「無心是れ道」と。
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◎「無聞無得」 碧巌録
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「夫れ説法とは」「無説無示」「其れ聴法とは」「無聞無得」
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◎「融通無礙」 仏語
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人間の真の理想は障礙
が全くなくなって、自由自在であることだ。
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◎「無事」 伝心法要
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人間は、何事もなかったことを無事だという。禅では、何ものにもふりまわされない自由になりきったとき、無事という。
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◎「雲は無心にして岫を出で、鳥は飛ぶを倦
んで還るを知る」 帰去来辞
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雲はその形を刻々とかえながら、流れていく、こだわりなど何もない、雲はいい、たまには悠々と流れる雲を眺めよう。
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◎「無為無事の人、猶
お金鎖の難に遭う」 碧巌録
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達磨大師は、「自分の一切は空になりきった」と言う弟子に対し、「空になりきったというその空をすてることだ」
と諭します。すっかり悟った人でも、悟ったと思う金の鎖にしばられてしまうことがある。
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このように「無」が出てくる禅語は数えれば限りがなく、やはり馬場馬術の極意は手綱なしで裸馬に乗ることとおぼえたり。
仏教の袈裟や数珠も、また何となく厳粛な気持ちにさせられる飾りたてた本堂も、煎じ詰めれ
ば鞍や手綱と同じで、やがては不用とするための方便にすぎなかったのだ。
これは一人発見だとばかり早速知人の僧侶に自慢したら、仏教で言うところの「無」は決して
存在を現す「有」の反対の「無」ではなく、その次元を超越した絶対の「無」の世界のことなの
だから、本堂や読経やまたはお線香の妙なる香りや木魚の演出があろうとなかろうと、そのよう
なことは一切関係がないという答えが返ってきた。
そう言われれば、何となく頷けなくもないが、そこまで悟り切る人は達磨大師以外にはたして何人いるだろうか。
せっかく馬場馬術の現役選手として、その奥義の定義づけができたと思ったのにと、がっかりしてしまった。
しかし、本来、宗教の教典等というものは、自分流に都合良く解釈して、それで一応悟りを開
いたと自己満足できればそれでいいような気がする。何にも達磨大師の境地にまで達しなければ
幸福がつかめないというものでもなかろう。第一、足が無くなっては馬にも乗ることもできない。
結局、私はいつかきっとボッカチオ号に絹糸で乗って、六十年問に及んだ馬乗り人生に有終の
美を飾ってやろうと心密かに決心したというわけだ。
(2000.2)
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