1. あの罰、この罰


アノバチ
コノバチ
思い当たる
バチがいっぱい
それでもまだ
天がわたしを
生かしてくれる                  相田みつお

アノツミ
コノツミ
思い当たる
ツミがいっぱい
それでもまだ
仏様がわたしを
生かしてくれる                  西村修一

 ドストエフスキーの代表作『罪と罰』ではないけれど、罪作りなことをするから罰当たりになるのだ。
 私もまた、思い当たる罪が一杯で、当然のことながら仏様が私に下された罰も(ひと) つや(ふた) つではない。
 そして、その都度私は「シマッタ」と思い、「申し訳ないことをした」と後悔する。
 罰とは、きっと仏様がある人間を後悔させ、改心させるための電気ショックのようなものかもしれない。
 本当に重い罪の場合には死刑もあるらしいが余程のことがない限り、寛大な仏様は「尻たたきの刑」 ぐらいで執行猶予をつけて今まで通りこの世で暮らすことを許してくれる。
 そのお陰で私のような罰当たりでも、なんとか古希を迎えることができ、今迄受けた様々な電気ショック のお陰で、若い頃と比べると少しは大人になったような気がしている。
 生まれて半年で母を亡くした私は、5歳の時から新しい母に育てられたが、育ての母を生みの母と思わせる ため、父は生みの母に関する一切の痕跡を我が家から消し去った。
 当然、祖母に対しても父はその素性を明かすことを許さず、祖母もまた自分を遠い親戚の一老女として、 めったに我が家を訪れることはなかった。
 また生みの母の兄弟姉妹達(私の叔父・叔母)も、12歳、23歳、28歳、31歳でともに未婚のまま、 母の死と前後して亡くなったため、私が知るよしもなく母方の親戚といえば祖母一人だけになっていた。
 従って、祖母は五人の子供をせっかく立派に成人させておきながら、全員病気と戦争で亡くしてしまい、 天涯孤独の身になってからは、娘のたった一人の忘れ形見の私をその腕に抱きたい時もあったと思う。
 しかし、祖母は私に対する深い愛情と、父や継母の手前、決して自分から実の祖母だと私に名乗ろうとは しなかった。
 五人もの子供全員に先立たれるなどという不幸が一体この世にあっていいものだろうか、その悲しみの 深さを想像することは到底できない。
 その上、大学生になるまで実の祖母とは知らなかった私は、彼女が私達とどのような関係にあるのかも知る よしもなく、唯々汚い老女として、ろくに口をきこうともしなかった。
 お金持ちの家に生まれ、曾祖父が見込んだ優秀な書生(祖父)と結婚し、子宝にもめぐまれ、やがて夫は台湾総統府の 勅任官となり、非常に豊かな生活を送っていた時期もあったのに、次々と子供に先立たれ、戦争によって夫は その職を失い、恐らく祖母の後半生は悲しみと絶望の毎日であったに違いない。
 しかし、私の記憶の中にある祖母は、素っ気ない私に対し、いつも、にこにこと笑顔を絶やすことなく、なんとかして 私を喜ばせようと常に精一杯の愛情をそそぎ、決して愚痴や泣きごとを口にすることはなかった。
 このように、私を除いてまったくこの世に身寄りのなくなった不幸な祖母に対して、私達父子は唯の一銭も 生活費の援助をしたこともなく、恐らく祖母は僅かばかりの年金と、部屋を女子大生に貸したりして細々と 生計を立てていたのだと思う。


   悲しみの泉
悲しくても 泣けないときがある
腹が立っても 怒れないときがある
つらくても 愚痴のこぼせないときがある
そんな思いが いっぱいたまり
深い悲しみの 泉となる
その泉の中から やさしさが生まれ
強さが生まれ
わたしの人格が生まれる            (作者不明)

 般若心経をよくし、気だての優しい祖母は、近所の人達のあたたかい愛情に包まれながら、きっと一種の悟りを 開いていたに違いない。
 そして、きっと私の罪も許していたと思うのだが、祖母の死語、私は二度も会社を整理したり、大病で死にかけたりと 大変な目に遭わされた。
 しかし、これは恐らく祖母の罰ではなく、私の罪を見るに見かねた仏様の執行猶予つきの「尻たたき」だったような気がする。
その証拠に仏様の「尻たたき」のおかげで、無信心だった私も少しずつ仏心が湧いてきて、今では祖母のお墓のある和歌山の お寺の住職とも非常に昵懇になり、荒れ果てていた先祖代々の墓地もきれいに整理して、五輪塔を建てさせて頂き、 春秋のお彼岸にはきちんと御供養することで、とりあえず自分の気持ちを誤魔化している。
 しかし、そのようなことで私の犯した罪が許されるともおぼえず、私はいまだに祖母に対する罪悪感を払拭できずにいる。
 それでも今日なんとか人並みの暮らしをさせて頂いているのは、きっと祖母がキリストのように私の数えきれない業を 一身に引き受けて十字架にかけられたからだと思う。


死んでしまった人に対して
私達は何の力もないが しかし
死んだ人の真心が
生きている我々に働きかける力は
絶大なものがあると思う             武者小路実篤

 果たして今の私は、この広大無辺な仏様と祖母の執行猶予に、唯々甘えていてもいいものだろうか。
 今の私にできることは、「生かされている命」を心より有難しと受けとめて、周囲の人達のために少しでも尽くすことで、 その罪を軽減して頂き、もう二度と「尻たたき」の刑を受けないように努力する以外にないと思っている。

(1997.9)