大正〜昭和期の社会事業家。
清水福治・千代野の2女として、山形県鶴岡町に生まれた。
15歳のとき生家の商家が破産したために上京した。苦学してに 明治女学校に進み、そこで、キリスト教に出会った。
明治女学校は木村熊二・鐙子夫妻が創立したキリスト教主義の女学校で、当時の女子教育界ではレベルの高い教育をしていた。が、やがて巖本善治・かし子夫妻に引き継がれた。
豊野は、明治35年(1902)、明治女学校を卒業した。その後入学した同39年(1906)女子英学塾(津田塾大学)本科3年を残念ながら中退した。
胸を患い療養中に高知県佐川の横川啓太郎を知り、結婚して佐川に住む。しかし、啓太郎は芸者を囲い家庭を顧みることが無かった。しかも、長男・源太郎が11歳のとき夫・啓太郎は、子どもと豊野を捨てて家を出た。このため資産を整理して子どもの養育に当たる一方、キリスト教徒の立場から社会事業に生涯をささげる決意をした。
源太郎の東京大学入学を機に上京して、東京で保護司や寮母をなどをしたが、戦争が激しくなって、高知へ疎開した。そこで、終戦を迎えた。
大正9年(1920)田岡寿子と日本基督教婦人矯風会高知支部を創立した。続けて翌10年には学生ホームを建設した。昭和13年(1938)東京保護観察所保護司、東京矯風会本部理事になった。
同29年高知県文化賞、34年藍綬褒章を受けた。
79歳で死没。
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