アメリカ・オランダ改革派教会宣教師として安政6年(1859)11月7日長崎に上陸。しばらくは聖公会のウィリアムズ,C.M.と同居。のち同地の済美館の教師、校長。慶応2年(1866)に佐賀藩の知遠館で大隈重信や副島種臣ら秀才の育成。その間、佐賀藩の家老村田らに授洗。
明治2年(1869)太政大臣三条実美の嘱を受けて上京し、開成学校設立を支援、大学南校教頭、政府顧問等を歴任して日本の近代教育に多大な貢献をなした。岩倉具視一行の米欧派遣の建白書の素案を作成したのもフルベッキである。グリフィス,W.E.やジェーンズ,L.L.の招聘斡旋者でもある。
明治11年(1878)官職を辞し、宣教師としての活動に専一献身した。内田はまがフルベッキから聖書の講義を受けたころは、まだ政府の要職にあったことがわかる。が、宣教師としての使命を怠らなかったことも同時に伺える。
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