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 青木 まつ   明治10年(1877)1月10日〜昭和34年(1959)1月23日
 明治・大正期の社会事業家。
 兵庫県姫路に生まれた。
 まつは、神戸バプテスト教会牧師吉川亀(ひさし)の妹にあたる。

 吉川亀(ひさし)は、ある日、キリスト教撲滅を叫んで反対演説を開いていた。そして、反対するためには相手を熟知せねばと、キリスト教の研究を始めた。それがきっかけとなって逆に入信するにいたった次第で、神戸バプテスト(神戸聖愛)教会宣教師リースから受洗した。日清戦争時には軍隊慰問使として台湾にも赴いたこともあるが、神戸で巡回教師をつとめた。

 まつは、横浜のバプテスト系の捜真女学校を卒業した。
 捜真女学校は、明治8年(1875)11月来日したアメリカ・バプテスト教会の婦人宣教師C.A.サンズ(C.A.Sands)が開設した聖教学校が源流である。日本を離れるときに寄宿生をブラウン夫人に託したのが始まりで、横浜に英和女学校として開始した。明治24年(1891)に 捜真女学校と改称した。

 明治16年、リース宣教師に伴われて内田正伝道師とともに姫路で、市内京口の外堀通称馬車道といわれる京口橋南ににある安井安宅において伝道を開始した。現在の 日本基督教団姫路教会の出発である。
 明治28年(1895)、バプテスト派の婦人宣教師タムソンが神戸の葺合地区に日本最初の福祉的幼稚園善隣幼稚園を創設した際、タムソン,G.R.の片腕となって約40年間保育者としてつとめた。その間、結婚して4女を産むが、若くして夫と死別した。

  婦人宣教師タムソンは、日本における福祉的な幼児教育の先駆者である。明治19年(1886)、横浜に渡来して、同22年、アメリカ・バプテスト教会宣教師タムソン,R.A.と結婚した。

 神戸に移住したとき、葺合地区の貧しい家の子どもの姿を見て民家を借り受けて読み書きを指導しはじめ、やがて善隣幼稚園創設となった。青木まつの献身的な助力が大である。同じ神戸で働いたハウ,A.L.と親しく、保母の多くを頌栄保母伝習所(頌栄保育学院)から迎え入れ、ハウの組織したJKU(Japan Kindergarten Union)の有力メンバーであった。

 タムソンは帰米するときに、神戸の善隣幼稚園の建物を、ともに活躍した賀川豊彦のイエス団にタムソン記念ホールとして寄贈した。その精神は、イエス団友愛幼稚園と神戸聖愛教会付属善隣幼稚園に継承された。

 同幼稚園が2部に分かれて、貧しい子どもたちのために午後の部で無料保育を始めると、まつはこれを担当した。さらに日曜学校、少年少女のクラブ、夜学校でも教え、葺合地区スラムの人々の福祉と教育に尽力した。タムソンが沖縄県那覇市に設立した善隣幼稚園にも出かけ、保育指導を行った。

 賀川豊彦は、まつの献身的な働きに感動して葺合地区に移り住んで奉仕活動を開始したと言われている。彼は、明治学院神学部予科からアメリカ南長老休会新設の神戸神学校に転校して卒業した。明治42年(1909)以降、神戸新川のスラム街に居住して伝道と隣保事業に従事し体験をもとに『貧民心理の研究』を出版した。賀川ハルは、賀川豊彦の妻である。
 85歳で死没。
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『植村 1』 『植村 3』 『日本につくした宣教師たち』
神戸バプテスト教会(http://www.livex.co.jp/remkobe/c2.html
日本キリスト教団姫路教会(http://www2.memenet.or.jp/himejich/annai/rekisi.htm
香川豊彦の自然観とキリスト教保育(http://www4.osk.3web.ne.jp/~gsseiwa/papers/99/kurihara.html
捜真女学校(http://www.soshin.ac.jp/