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 佐々城 豊壽(寿)        嘉永6年3月29日(1853.5.6)〜明治34年(1901)6月15日
 明治期の社会運動家。伊達藩の儒者・星雄記の五女。

 幼名は艶、本名はとよ子。相馬黒光に対して母方の叔母にあたる。黒光の少女期・青年期に深い影響を与えた。

 娘になると男装して仙台の町を馬に乗って歩いたエピソードの持ち主は、明治5年(1872)、男装して母に伴われ中間(ちゅうげん)を供にして100里の道を徒歩で上京することとなった。途中、宇都宮の宿屋で給仕をした宿の娘が男性と思い込んで夜中に豊寿の寝所に忍んで来たとのこと。さながら、明治の「男装の麗人」というところ。

 ともあれ無事に上京してキダーのフェリス女学校に学んだ。中島信行、植木枝盛、島田三郎らと交流して男女同権、女性の政治参加の必要性を学び、同7年(1874)ごろ中村正直に師事した。

 明治9年(1876)竹橋の女子師範学校で豊田芙雄子、棚橋絢子らとともに女子教育の演説をしたのが、わが国最初の女子講演である。

 10年(1877)日本橋の脚気専門医佐々城本支と結婚し、一男三女の母となった。長女が国木田独歩と結婚し離婚して小説の題材にもなった佐々城信子である。

 豊壽は、17年(1884)、アメリカ長老派教会派遣宣教師D.タムソン(David Thompson)より受洗した。タムソンは東京日本基督公会(のちの新栄教会)を設立した。日本人に授洗した数は二百数十名に及んだ。トラクト伝道などで積極的に日本伝道に献身して、東京で死去した。夫妻の墓は染井墓地にある。

 19年(1886)万国婦人矯風会巡回遊説者レビット女史の来日に伴い、木村鐙子、女子学院長矢嶋楫子潮田千勢子らとともに東京婦人矯風会を創設した。日本基督教婦人矯風会書記となり、会頭の楫子を助け、廃娼論、一夫一婦論を唱道した。

 婦人矯風会は、21年(1888)3月20日〜23日、東京木挽町で酒害を訴えるために幻燈会を開催した。900余名の観客に、豊壽は書記の立場から趣旨を説明するなど、奉仕した。また、『東京婦人矯風会雑誌』の主筆・編集委員をつとめた。さらには22年(1889)には婦人白票倶楽部を結成して、廃娼はもとより、貧困女子の職業教育、男子と連合の日本矯風同盟会・演説会開催、為政者への進言など、女性の自立と男女対等の主体性確立と社会参加をめざして献身した。

 夫の本支は数年前から北海道の室蘭に数万坪の地所を購入したが、年々、其の地に果物だけでも多分の収穫があるだろうが、土地の者がこれを窃取するよりは、ということで豊壽は北海道移住の先鞭を着けんと目下準備をしていた。いよいよ有志婦人の発起にて小石川砲兵廠内の後楽園において盛大な送別会を開いた。

 席上、徳富猪一郎、津田仙らをはじめ数名の送別の演説があった。そこに出席していた塩谷鳳谷は、この壮行を祝って、護身用の婦人持ちピストル1挺を贈った。いよいよ26年(1893)4月、信子を伴って北海道室蘭郡絵柄村に移住して開墾をせんと北海道に渡った。
 
 開墾をはじめたが健康を害し、在道8年で帰京して社会事業に意を注ぎ、後年は内村鑑三に師事した。米国婦人禁酒会出版矯風叢書から訳出した『婦人言論の自由』(明治21年刊)がある。

 妻の活動を支えた本支が4月13日に死去し、その年の6月15日に豊寿は49歳で死去した。
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『才藻より、』 『黙移』  『明治ニュース事典 4』 『明治ニュース事典 5』

徳富蘇峰記念館 http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/index.html