最初のもくじ(index)に戻る 


岡見 京子       安政6年(1859)8月15日〜昭和16年(1941)9月2日
 明治期の医師。

 西田耕平・みよの長女として青森県に生まれる。一家は、京子が8歳の慶応3年(1867)に上京した。父はイギリス人相手の貿易を始めたが、母はまもなく病没した。

 明治6年(1873)に横浜共立女学校に入学した。福沢諭吉の娘もいっしょだった。京子は在学中にキリスト教の洗礼を受けた。同11年(1878)卒業し、さらに東京の竹橋女学校(当時、唯一の官立東京女学校)に入学したが、在校2年目で同校は廃校になったため退学した。

 明治14年(1881)から英語の教師として桜井女学校(現在の女子学院)に奉職した。明治17年(1884)、25歳のとき岡見千吉郎と結婚したため桜井女学校を退職した。夫の岡見千吉郎は頌栄女学校の絵画教師であり、頌栄女学校の校主岡見清致の弟であった。

 夫もクリスチャンで、ともに貧民伝道に関心を寄せていた。結婚一月後、夫は新渡戸稲造とともに渡米して農学を学ぶことになったために京子も同年12月に渡米した。
 翌18年(1885)、フィラデルフィアのペンシルベニア女子医科大学に入学して22年(1889)に卒業した。日本人として最初の女子医科大学生となり、M.D.の称号を得た。同年4月、夫とともに帰国し、医籍登録をして医術開業免許状を受けた。

 明治22年(1889)9月慈恵病院の高木兼寛からの熱心な勧誘を受けて、婦人科主任になった。その助手にツルーの通訳に当たっていた出口せい(たか)の姪である本多銓が選ばれた。

 京子は、在任約3年で突然のようにして辞任した。その理由は天皇の行幸の際、女性である京子は拝謁を遠慮するようにと言われたからだったといわれている。しかし、この年に天皇が慈恵医院を訪れたという記録はなく、一方、皇后は看護婦教育所の卒業式などの式典に行啓していることを考えるならば、むしろ京子夫妻が洋行帰りのキリスト教徒であることが周囲のナショナリズムによって排斥されたのではないか、との見方がある。

 同年9月赤坂溜池の自宅で開業したが、26年(1893)、淀橋角筈のツルーの協力で「衛生園」を開いた。同園は、明治30年に赤坂病院の分院として合併されて「赤坂病院分院衛生園」と改称した。この利用者はほとんどが外国の婦人宣教師らに限られていた。このために39年閉鎖となったが、その間、京子は同園内に看護学校を併設して看護婦の養成にあたった。その一方で、派遣看護婦制度を始めた。

 また、同年9月には女子学院の英語教授となったが、41年に乳ガンのために辞任して家庭にはいる。

 一男一女を産んだ。
 昭和11年(1936)夫が死去。京子はその5年後、82歳で病没。
横浜共立女学校  アメリカ婦人一致外国伝道協会から派遣されたプライン,M.やクロスビー,J.N.そしてピアソン,L.H.の3人の宣教師によって明治4年(1871)に横浜山手48番館に創設されたアメリカン・ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所)が前身である。当初は混血児救済が目的であったが、むしろ英学教育を志望する若者が入学を希望したことにより、一般教育へと切り替わったのである。

 北村透谷の妻になった美那も、明治20年に卒業している。
出典 『女性人名』 『女たちの約束』 『日本医事新報』
http://www.kjg.ed.jp/soritsu/soritsu.htm
上に戻る