最初のもくじ(index)に戻る 


 
 丸山 千代        明治20年(1887)5月28日〜昭和42年(1967)4月11日
  大正〜昭和期の社会事業家。

 千代は山形県の出身である。明治20年5月28日、米沢市から北へ2キロ、小野川温泉に近い館山の町で生まれた。両親が近親結婚のせいだろう、きょうだい5人のうち姉と妹は聾唖者であった。父は、千代が小学生のころから「聾唖の姉と妹を大切にせよ」としつけた。父の気持ちを汲んだ千代は、自分が姉妹の面倒をみようと心に決めた。

 所用で上京する父が土産に買い求めてくる「小公子」や「ナイチンゲール」などの本を通して、ナイチンゲールになる夢を千代は子ども心に抱いた。

 明治37年、山形県立米沢女学校を卒業後、聾唖教育を本格的に学ぶ目的で日本女子大学校(注:当時は女子の「大学」は認められなかった。実質的には大学である。)教育部博物科に入学した。

 もともと米沢藩は上杉鷹山公の影響により教育熱心な土地柄であったとしても、娘を東京の大学に出すにはそれなりの経済力と合わせて理解がなければならない。それだけに父孝一郎の存在が大きい。千代に意志があれば海外留学も行かせようとも、孝一郎は考えていた。

 孝一郎は、嘉永2年(1849)、米沢に生まれ、海軍を志し、海軍少尉時代、東京軍法会議判事に任命された。その後、同郷人が設立した支那語学校の校長、米沢市会議員、市会議長を務めた。後年、上杉家経営の製糸会社の社長に就任するなど、地方産業の発展に尽力した。その間、世界博覧会実況調査のために渡米したこともある。明治41年、衆議院議員。

 明治37年、日本女子大学校に入学した千代は、創立者である成瀬仁蔵校長の「実践倫理」の講義を通してキリスト教社会改良主義の思想とその人格に影響を受けた。千代の生涯は、成瀬の影響により「犠牲の精神」で貫かれた。在学中、博物科で研究、実験、整理の係りのうち、整理係りを担当した。早朝、実験の準備を整え、片付ける係りを4年間続けた。

 卒業後、京都の聾唖学校に就職を内定していたが、同級生の大橋広(後年、大学校校長、学長歴任)から、逗子小学校教員の話を聞き、特殊教育に志すには、普通児を知ることが大切と、逗子小学校に奉職するが、3ヵ月後、病で帰郷した。

 帰郷後、病から回復したところで父の会社の女工取締りにつく。4年間、女工よりも低賃金で、朝4時に起き、夜遅くまで献立、身の上相談など親身になって働き、学校時代に学んだ理論を現実の生活で実践した。

 明治43年、父幸太郎が上京中に倒れ急死。会社の借財は孝一郎の責任とされ、家族の生計が千代の肩にかかってきた。このころ、母校の同窓会組織である桜楓会託児所参加の話がもちあがった。

 桜楓会託児所設置動機は、明治30年代、成瀬校長がアメリカで社会的キリスト教の影響を受け、社会改良事業に強く関心をもったことに始まる。日本女子大学校において社会事業学部設置を念願したが、実現可能な時代ではなかった。この意志を受けて同窓会事業として取り組んだ。大学が社会へ参加する画期的な事業である。

 日露戦争後、都市には細民地区が激増した。東京の双葉保育園(明治32年)、大阪の愛染橋託児所(明治41年)をはじめ託児所を全国で14箇所を数えた。

 大正元年、級友大橋広から桜楓会託児所主任の誘いが千代にあった。しかし現実問題として母と聾唖姉妹の生活の面倒を見る必要のある千代は、設置参加を断った。が、大橋広そして先輩の井上秀(一期生、後年、母校大学校長歴任)から経済的な心配をさせないと説得されて、それを受けた。ところが上京してみると託児所開設のビジョンあるのみだった。千代の心境はいかばかりであっただろうか。

 苦労の末、桜楓会託児所は大正2年6月、「太陽のない街」で知られる小石川氷川下の細民地区付近に主任の千代と保母一名で開園し園児20名を迎えた。当時、朝5時に戸を開けると、待っていたように園児が来園する。ただ、困ったのはボロの着物に沢山のシラミがついていることだった、と千代は『家庭週報』に、当時の状況を記している。託児申し込みは日々その数を増し、大正4年には80名の世話をした。

 「細民」を、明治44年、東京市で定義しているが、人夫、車夫、日雇などを生業とし、月収20円以下、家賃3円以下の家に住むものを指した。病気、失業、借財、不作その他の理由で種々のところから流れ落ちて都市の下町に集結した人々は東京全市20万人、そのうち小石川に1.8万人が生活していた。

 千代は、持病の腎臓病再発により、郷里から母と聾唖の姉妹を呼び寄せ、託児所近くに家賃6円の長屋暮らしをした。当時の教育職員の給与は大卒ならば30円。千代が桜楓会から受けた給料は17円。頬かむりでもして、夜はおでんやでもしたい、と収入の道を真剣に考えるのだが、夜は社会事業の集会があったり学生との話合があったりで、実現しなかった。

 そうした苦しい家計のなか、園児の家庭へポケットマネーをはたき、夜、迎えの遅い園児に夕食を出すなど、苦労が多かったので、家庭生活を維持していく上で、転職を真剣に考えざるを得なかった。しかし、桜楓会が反対して引き留めた。なぜ、強く自己主張を千代はしないのだろうか。いや、強いから耐えられるのだろうか。いずれにせよ、桜楓会が現実の生活実態に目と心を傾けていたか、疑わしく感じられる。

 大正7年の米騒動をきっかけとして都市細民地区対策の託児所が設置されていったが、託児所設置に反対の声もあった。労働者の現在の低廉な賃金を是認することになるので有害だ、一家の主婦が生活の脅威のために家庭を省みるいとまなく、外で働かねばならぬのは不幸な状態である、との意見多様。

 そういう中、千代は、託児所をたんなる託児事業のみに終始すべきでない、近隣家庭の出身者のために、できるだけの幸福をはかるべきだと考えた。母の会、子ども会、活動写真会、健康相談、母子ピクニック、託児健康診断、入学時の祝い、給食、牛乳の配給などを行い、また東京府の救済委員としても活躍した。

 他方、大正2年(1913)に明治学院高等学部神学科本科を卒業した遊佐敏彦は、東京帝国大学伝染病研究所で看護婦している上野ウラと結婚し、かねて学生時代からの思いであった日暮里の貧民窟に入った。仙台から母を呼び寄せ、新妻・ウラと3人で炭屋を開業するかたわら社会問題の研究、伝道に励んでいた。一時、本間俊平のいる山口県吉敷郡山口町の鴻城中学校英語教諭として赴任したが、大正6年(1917)再度、日暮里に戻って活動していた。

 しかし、アメリカ留学を終えて帰国したばかりの賀川豊彦が、遊佐敏彦の住んでいるアヒル長屋に姿を現し、貧民窟の改善は慈善的救済では不十分であることを熱心に語り、神戸で新しく興されようとしている職業紹介所の主事の話を薦めた。これがきっかけで遊佐敏彦は賀川豊彦の求めに応じて日暮里を引き上げ、神戸葺合区新川にあるイエス団に一家で移り住んだ。

 さまざまな角度からさまざまな人々が社会問題に目を向けていた時代であった。そうした過程で、千代は大正10年(1935)、隣保事業として近所の工場に通勤する青年女子の夜学校と児童のための復習塾を開始した。前者では文化生活を目指して国語、算術、裁縫、英語、音楽、家事(衣食住、看護、経済、衛生、育児)などの科目を教えた。後者では毎夜、予習、復習を指導するかたわら、託児所幼児が実社会に出て働くようになるまで、一貫して参加できるように途を広げた。

 これらの講師は、東京大学、東洋大学、早稲田大学、日本女子大学などの学生がボランティアとしてつとめた。大正14年に常勤者として牧賢一が参加。

 昭和初期からの打ち続く恐慌、不況により、国民生活は不安に満ちていた。米騒動以後、公営託児所が293ヶ所出現したが、昭和11年(1936)には1495箇所と飛躍した。しかし、法的措置はされていなかった。

 昭和7年、千代は健康上を理由で、21年間勤務した桜楓会託児所を退職した。桜楓会は千代の長年の労に報いるために巣鴨託児所を千代に寄贈した。巣鴨託児所には深い思い入れがあった。

 昭和4年(1929)、巣鴨託児所付近に東京府の託児所が設立されたことで、桜楓会の役割は終わったと判断して財政上の理由もあり閉鎖することにした。ところが、千代を囲む地元の町会の父母、学生ボランティアが立ち上がった。結果的に施設を使用して、日暮里託児所主任千代の個人経営となった。

 桜楓会託児所経営は、千代と桜楓会と齟齬するところとなった。桜楓会は当初成瀬ビジョンで立ち上がったものの、それを実践維持する勇気と覚悟を丸山千代のみに負わせた。成瀬仁蔵の思想は、進取の気に富む学校側には華やかな思想ではあったが実践する力が欠けていた。底辺に目を向け、地味な活動をした千代の真似が当時の桜楓会にはできなかった。

 平塚らいてうが「元始、女性は実に太陽であった」と高らかにうたいあげた日本最初の女性文芸誌『青鞜』が、明治44年に創刊され、以後、新しい女として世を賑わした。平塚らいてうは、千代の一年先輩として明治36年、家政科に入学したのだった。

 与謝野晶子、野上八重子、長谷川時雨、高村千恵子、福田英子らが結集、執筆した華やかな「女」論の陰で、同窓生の間から継承者が出ないまま千代は桜楓会経営の託児所の職を離れた。

 桜楓会から寄贈を受けた元巣鴨託児所は「西窓学園」と改称して聾唖婦人の家として、園長・千代、主事・牧賢一によって新しいセツルメント(託児部、夜学部、聾唖部)を推進していくこととなった。

 暗い戦時体制へと突き進む中、聾唖婦人の自立を目指して職業教育(和裁、洋裁、九重織、彫刻、人形製作)のための「聾唖婦人の家」経営に尽力した。しかし、米びつの米がなくなり、職員の給与日前になると10台余りのミシンの頭が質屋行きとなることは珍しくなかった。

 寄付を頂戴すると、書面で済ませることなく必ずお礼に千代自身が出向いた。森村家を訪問した時には書生が「日雇のような方がみえた」と名刺を取り次いだエピソードまである。級友や協力者が堪りかねて和服を与えても困った人々に分け与えていたのだった。

 しかし、仕事一途で厳しい反面、音楽会に円タク2台に職員を乗せて出かけたりもした。悲しいとき、人陰で泣き、すべてを天の神に任せ、黙々と働き、花や樹木に慰めを求め、月星を深夜に見入り、自分の生活を慰めていた。

 昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦以来、託児の疎開がはじまり、事業継続を困難にさせた。19年、児童の復習塾や労働夜学校も閉鎖を余儀なくさせられた。西窓学園は、倉橋惣三の勧めで東京女高師の実験幼稚園として譲渡するにいたった。

 千代は、譲渡を決意するまで一年余り熟慮した。その西窓学園も19年の本土空襲で、日暮里第二託児所とともに全焼した。

 千代は、身寄りのない聾唖婦人を連れて30余年ぶりに米沢に疎開した。既に身内なく、父幸太郎の菩提樹である法泉寺の一室に奇遇し、聾唖教育の再建を図るが、実現困難であった。

 昭和21年、上京。老齢と病気のため千代の夢は実現しないまま浴風園に入所。浴風園は、杉並区高井戸にある。ここ浴風園で、昭和42年4月11日、79歳の生涯を閉じた。

 千代は、「スラム街の母」と称えられ、昭和39年第二回生存者叙勲で勲五等を贈られた。JR大塚駅の南口から5分の地にある元西窓学園に近い遊び場には、「この街で多くの子どもの母であった、丸山千代先生」の碑が立った。
出 典 『女性人名』 『社会事業』
社会福祉法人浴風会 http://www.yokufuukai.or.jp/

トップにもどる