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 幸田 文(あや)     明治37年(1904)9月1日〜平成2年(1990)10月31日
 昭和期の小説家、随筆家。

<生い立ち> 
 幸田 露伴を父に持ち、母幾美子の二女として東京向島に生まれた。姉に歌、弟に成豊(通称一郎)がいる。

 明治43年(1910)、文が6歳のとき肺結核で母を失った。享年36歳だった。この秋、隅田川の洪水のために弟とともに小石川伝通院脇の叔母幸田延宅に預けられた。

 父露伴が、明治44年に文学博士号を受けた。
 明治45年・大正元年(1912)は幸田家にはいろいろなことが起こった。隅田川の氾濫のために弟成豊とともに麹町区紀尾井町の幸田延宅に預けられたその年の5月、姉の歌が猩紅熱のために死去した。歌は享年11歳だった。

<父の再婚> 
 10月になると、父は船尾栄太郎の媒酌で児玉八代と再婚した。司式は植村正久牧師であった。のち、文は植村から受洗している。

 生母は、露伴が神田鍛治町に下宿していたときの下宿屋の娘であったが、よく露伴に尽くした。
 継母はクリスチャンで香蘭女学校教師をしていた知識人であったが、家事をこなすことが得意ではなかった。生家は信州坂城の庄屋とか本陣とかの「家柄」で、それを誇りにしていた。

 文は、著作「みそっかす」や「草の花」などに自分の生い立ち、継母と父・露伴の不仲で苦しんだことなどが綴られている。

 弟がおねしょをした朝、家のなかが陰気な顔をして黙って朝食を済ませた。濡れた蒲団はそのまま部屋のまんなかに置いてあった。露伴の怒鳴り声が聞こえる。「バイブルを読んでいるひまがあるなら蒲団を洗ってやれ。」

 継母・八代は窓の小机に向かって聖書から目を放さない。そして、「酒飲みと寝小便の世話は私はいやです」と。文にとって教会というものはいやなものだという印象を子ども心に抱いた。
(やりかけ)
幸田 露伴

作家。

露伴は受洗をしなかったが、父の勧めで聖書を読み、教会に通った。時には植村正久とキリスト教について大議論を交わす。後妻として迎えた児玉八代はあまり家庭的でなかったらしく、日記(大正2年4月24日)に妻と媒酌人船尾栄太郎に対する次のような呟きが出ている。

妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるい近し。(後略)

出 典 『幸田露伴』 『幸田文』 『音楽』 『音楽演芸』 『日本女性史6』