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 加藤 俊子    天保年12月1日(1839.1.15)〜明治32年(1899)6月27日
 明治期の教育家

<生い立ち> 
 越後国に生まれた。

<結婚> 
 嘉永5年(1852)、同国の板屋沢村の大庄屋加藤雄次郎と結婚して3男1女を産んだ。ところが15年後の明治9年(1867)3月16日、夫が死去したので、29歳の俊子は子沢山の未亡人となった。

<キリスト教との出会い> 
 明治14年(1881)に子どもが医療宣教師パーム(Palm,Theobald A.drian)が開設した診療所に入院したことがきっかけでキリスト教を知るに至った。

 宣教師パームは、宣教師の子として父の任地のインドで1848年(嘉永元年)1月22日に生まれた。故郷のスコットランドで教育を受け、エディンバラ大学卒業した翌年の明治7年(1874)5月に、エディンバラ伝道会宣教医として来日した。明治8年4月、宣教師として新潟に赴任して、市内に教会兼診療所を開設した。最初の3ヶ月は横浜から同行した雨森信成の通訳で、毎日伝道集会を開いた。

 本願寺の金庫と言われたほどの仏教の盛んな土地柄であるため、キリスト教に対する憎悪と迫害はひどかった。キリスト教を邪教扱いする因習の強い土地で困苦の中、忍耐強く医療伝道に励んだが、通訳の雨森は忽ちにして新潟を去った。それほど、迫害がひどかったことを物語っているといえよう。

 明治12年(1879)の夏、暴動が起こった。新潟付近の農民がパームを襲って説教所を破壊した。それは、当時、その地で流行したコレラ病の原因をキリスト教に結び付けて扇動するものがいたためであった。明治18年(1885)にパームが帰国したあとは、パームの所属していた伝道局から日本に対して宣教師を派遣することがなかった。

 パームの外科手術は、当時の新潟で並ぶものがいなかったといわれているほどの手腕であった。徐々にパームは周囲から理解され、慕われ、パーム先生がキリスト教でなければよいのに、といわれるほどになった。パームは恙虫病をヨーロッパに紹介し、リスター式消毒法や近代看護法などを日本に導入した功労者として知られている。

<受洗> 
 俊子一家は、明治16年(1883)、村上に移住した。そして、翌年5月、村上教会で長男加藤勝弥夫妻とともに受洗した。授洗者はデーヴィス宣教師だった。村上教会は、宣教師パームや押川方義らによって明治11年(1878)5月に開始された教会で、現在の日本基督教団村上教会である。

 押川方義が新潟に励んだいきさつを、植村正久が共立女子神学校の卒業式で当時の思い出として語ったことがある。
 パーム宣教師は、新潟に赴任した8年の暮れごろ、横浜のブラウン博士に「道のため死を怖れざる者あらば送ってはくれまいか」と要請した。その要請に応える人がいないので思い悩んでいたある祈祷会の最中に、押川方義自分が行く! と申し出た。それで、その場にいたものらは神踊り、血湧くが如く感じた。その祈祷会の場所は、共立女子神学校であった。

 新潟は、パームと押川方義を中心とした献身的な働きにより、やがて組合教会も加わった。日本女子大学の創立者・成瀬仁蔵は、大阪の梅花女学校から新潟に移動して新潟女学校を起こし、伝道に励んだひとりである。

 加藤勝弥は、政治家、教育家、実業家。数寄屋橋、市ヶ谷教会の長老。北越学館初代館長をはじめ母・俊子の開設した女子独立学校、明治学院にも理事として貢献した。県政のほか、羽越線の開通、新潟毎日新聞社の創設にも大いに貢献した。四女タカをはじめ5男7女はいずれも信仰を継承した。

 俊子一家は、受洗後の翌月、上京して数寄屋橋(巣鴨)教会に転会した。明治17年(1884)から3年間、ヤングマンの伝道学校に学んだが、一家の牛込移転に伴いやむなく退学した。

 村上在住のときから女子教育に尽力してきた俊子であったが、明治21年(1888)に「精神ありて資金乏しき女子を教へて独立自修の途を立てさする」ため有志と女子独立学校を創立して、自らが校長の任にあたった。以後、死に至るまで女子教育に挺身した。

 一方、市ヶ谷(池袋西)教会の熱心な会員として、一族に信仰の継承をさせた。加藤タカは俊子の孫にあたる。
 俊子の活動を終生に渉って支援した植村正久は、「女史は性深沈にして剛毅の気象あり」と評価した。

 墓地は東京の谷中霊園にある。
<やりかけ>
出 典 『回想の加藤勝弥』 『植村1』 『植村3』 『植村5』 『キリスト教歴史』 『女性人名』

村上勝弥 http://www2.next.ne.jp/~yokosin1/katoukatuya.htm

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