大正〜昭和期の社会運動家。
旧姓和田。
山梨県東山梨郡加納岩村(山梨市)の貧農の二女として生まれた。
小学校を中退後、11歳で埼玉県大宮の山丸製糸工場の養成工となって7年間働いた。大正6年(1917)、上京して亀戸のセルロイド工場の女工となった。そのころ、亀戸メソジスト教会に通い始めて、熱心なキリスト教徒となった。
同10年(1921)、日暮里のキリスト教社会事業団愛隣団で診療所看護婦として働く。そこで知り合った労働運動家の岩内善作と翌年結婚した。
愛隣団は、カナダ・ミッション宣教師プライス,P.G.が大正9年(1920)3月金沢から上京後、小林弥太郎の寄贈してくれた根岸の土地と日暮里元金杉の工場跡に、愛隣団会館を設立したことから始まった。主事大井蝶五郎を督励し、スラム街での社会事業として無籍児、貧困児、軽費診療所などを開設した。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災には朝鮮人の保護、焼け出された娼妓の救済などにも当たった。キャンプをはじめ廃品利用などの授産事業などはすべて実験的開拓的意図によるが、小林弥太郎が物心両面で援助した。
小林弥太郎(明治20年7月24日〜昭和44年4月9日)は、教育キャンプの開拓者として社会貢献した。東京日本橋の砂糖商百足屋の3代目として生まれた。ライオン歯磨創立者小林富治郎の孫松岡マスと結婚した。愛隣団の創設を助けたほか、小原国芳の成城学園と玉川学園の草創期にも尽力した。また、YMCA少年事業の指導者として活躍した。
昭和13年(1938)3月28日、野中一魯男牧師を介して聖霊を体験し、劇的回心をした。以後、それまでの思考・生活様式など世俗を遠ざけ純信仰に生きた。治安維持法違反に問われて検挙され1年7月服役した。戦後は聖書の素読を提唱し、個人伝道に励み、朝夕聖書に親しむ生活を送った。
野中一魯男牧師は、イエス・キリスト教会創設者である。大正8年(1919)、35歳の時、召命を感じて妻子とともに上京して日暮里に伝道を開始した。治安維持法違反に問われて2年6月間服役した。伝道や説教は聖霊に導かれて聖書を通して十字架の真理を語るべきで、原稿やメモで語るべきでないとの持論をもち、死の1月前には自宅の庭ですべての大学ノート10数冊、自作の俳句集、手紙などを消却させて自身の語る何物をも残させなかった。
結婚したとみゑは、夫とともに紡績労働組合の組織化、争議の応援、廃娼運動、産児制限運動などに尽力した。
昭和2年(1927)、全国婦人同盟組織宣伝部長、同4年無産婦人同盟委員長となり、女子労働者の待遇改善や深夜業禁止を要求する大衆運動を展開するなど、中間派無産婦人運動の指導者としても活躍した。
昭和9年(1934)9月に旗揚げされた「母性保護法制定促進婦人連盟」(委員長 山田わか)の常任委員として、宣伝部員として名を連ねた。
戦後は夫の郷里新潟県長岡市で地域婦人会の会長、市の婦人相談員、保護司をつとめた。
87歳で死去。
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