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 本田 トヨ    明治27年(1894)1月〜昭和52年(1977)11月28日
 昭和期の社会事業家。

 父・島津才蔵は明治元年(1868)、玉名郡長洲の生まれで、玉名の私塾に学んでいたころ友人と二人して徳富蘇峰が熊本に開いた大江義塾(明治14年(1881)開設)に入塾した。「ヤソ」の学校であることを知った父親に連れ戻されて、のち学校教師、警察官となり、晩年には長洲町長を務めて、昭和7年(1932)、70歳で死去した。

 トヨは熊本県北岡に生まれた。幼児期は母方の祖母の林田家で育てられた。祖母との生活は、小学校に入学するまでの4,5年間に自分の一生を貫く精神教育を祖母から受けたと思う、とトヨに言わせる影響を与えた。その後、トヨは父の転勤に伴い佐賀県で少女期を過ごした。そのころ、母が死去し、父は後妻を迎えた。

 勉学のために上京した。そのとき父の恩師である徳富蘇峰が東京で活躍していたので、蘇峰を頼る積りであったが、周囲が蘇峰は簡単に会ってくれないと言ったので、せっかくの郷土土産を友人たちを分け合った食し、蘇峰には会わず仕舞いだった。

 そのころ、同郷の海老名弾正が本郷教会(弓町本郷教会)の牧師をしていた。海老名弾正の妻・美屋は幕末維新期の政治家・思想家・横井小楠を父にもち、徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟とはいとこ同士である。海老名が本郷教会に仕えた時期は明治30年(1897)から大正9年(1920)であるから、トヨが東京で海老名の説教を聴いたのはこの期間といえる。

 一方、やはり同郷の久布白直勝落実夫妻もアメリカから帰国してキリスト教伝道者として大阪や高松で活動後、大正5年(1916)に上京して開拓伝道を開始した。同時に、落実は叔母の矢嶋楫子が潮田千勢子や佐々城豊寿らと立ち上げた東京婦人矯風会の幹事に就任した。やがて、この組織は大正2年(1913)に全国組織の日本基督教婦人矯風会と拡大発展した。

 久布白落実の父・大久保眞次郎は、東京大学医学部を中退して明治11年(1878)に同志社に転入学したとき新島襄から受洗した。眞次郎の妻は徳富音羽子である。音羽子は、徳富蘇峰・蘆花の姉にあたる。

 そのような過程からトヨは、同郷の牧師が仕えている教会に通ったことは頷けよう。
 トヨは、大正8年(1919)、岩手県出身の警察官・本田正純と結婚して、住まいを本郷から池袋の久布白落実の家の隣に住むこととなった。落実は9年(1920)に夫を失い、叔母の矢嶋楫子がつとめる日本基督教婦人矯風会の専従であったため、実母の音羽子が同居して幼い孫の面倒をみていた。

 大正12年(1923)9月1日、関東大震災に遭遇したトヨは、久布白一家の面倒をもあわせみながら野宿を辞さない奮闘振りをみせた。そのときのトヨは鉢巻と帯刀姿で、まるで女壮士のいでたちだったらしい。

 その年、トヨは日本基督教婦人矯風会幹事に就任した。

 昭和6年(1931)内務大臣安達謙蔵夫人とともに警察官家庭婦人協会を創立し、その主事になる。内務大臣安達謙蔵が同郷であったよしみであろうか。安達はハンセン病予防協会に尽力した大臣でもある。また、郷里の漢詩、詩吟に明るい様子だ。

 トヨは、家庭学校を設置して主婦教育に当たる。戦後は社会福祉法人婦人生活文化協会理事長、全国社会福祉協議会母子福祉部名誉部長、海外婦人協会会長など、長年にわたって社会福祉に貢献した。
 83歳で死去した。
<やりかけ>
出 典 『女性人名』 『キリスト教人名』 
近代肥後異風者伝 http://www.kumanichi.co.jp/ifuusya/ifuusya30.html
熊本日日新聞社 http://www.kumanichi.co.jp/wbook/kono/k20020312.html
熊本日日新聞社 http://kumanichi.com/feature/hansen/3bu/08.html
安達漢城  http://www11.plala.or.jp/touzan/siori6.htm#kanzyou
安達謙蔵 http://www.c20.jp/p/akenzo.html#h
東京都社会福祉協議会 http://www.tcsw.tvac.or.jp/tcsw/corp/article.html