仮面について

Sur Les Masques

P 2  3  P 4      HHJ

プロローグ 2

 

 

 

 

 

 

 

仮面の可能性

                ☆仮面は森の中で女たちが発見したものである…

アフリカの魅惑的なさまざまな仮面の考察をした《仮面の民俗学》の著書ジャン-ルイ・ベドゥアン(Jean- Louis Bedouin)はそういう言い伝えを紹介して1〕20世紀前半のヨーロッパ人の憧れを掻き立てたアフリカ美術の秘密にさり気なく触れている。仮面は人間が作り出したものではない。それは超越的存在を示す道具であると同時に超越的存在そのものである、と。記号とそれによって指示される実体が分離していないのは、未開社会や素朴な精神では珍しくない現象である。

レヴィ-ストロースは、第1次大戦後から画家のマックス・エルンスト(Max Ernst)や詩人のアンドレ・ブルトン(André Breton)などと一緒に北アメリカインディアンの美術品の収集に努めた2〕。そして、不思議な仮面を眺めながら誰でも囚われる疑問を感じた。〈なぜ、これらの仮面はかくも突拍子もない形でその機能に相応しくなく造られているのだろうか。…〈略〉…いかなる理由で口を大きく開け、垂れた下顎から大きな舌を突き出しているのか。なぜ一見、他の部分と関係のない鳥の頭がああして付いているのか。なぜ一体、これらすべての類型の不変的な特徴をなしているあの突き出した目があるのか。さらに、なぜ殆ど悪魔的と言ってよいあの様式が生まれたのであるか。〉

 ぼくが何年か前に初めて見たときの直感的な解釈は、仮面の突き出た眼球は〈目玉が飛び出るほどびっくり仰天している〉驚きの表現かな、ということだった。言語的な比喩をそのまま造形化したのだろう。もっともインディアンの言語にそんな比喩があったかどうか…しかし、印象的批評を排するレヴィ-ストロースは、続けて言う。

〈このような疑問の全てに対して私は、仮面もまた神話と同様、これを一つの孤立した対象として、それだけを、それだけで意味のあるものとして解釈することはできないということが分かるまで、解答を見出だすことができなかった。意味論的な観点から考えれば、神話が意味を持つのは、変形された神話の群のなかに組み込まれてである。それと同様に、ある類型の仮面は、造形的な観点だけから見れば、他の類型の仮面に対して成立するものであり、それらの仮面の輪郭や色彩を変形させながら、それの固有性を獲得するものなのである。その固有性が他の仮面の固有性と対立するための必要にして充分な条件とは、最初の仮面が一次的意味、あるいは二次的(文化的)意味として伝えるべきメッセージと、別の仮面が同じ文化あるいは周辺文化のなかで担うべきメッセージとの間に、同じ対立関係が成立していることである。)

 同じことを終りの方で、構造主義の言語学モデルでこう言い換えている。〈一つの仮面は、その傍らに常に存在するものとして、それの代りに選ぶことのできるような現実の、あるいは可能性としての他の仮面を前提しているのである。ある特殊な問題

 

□モデルとは?

〈私達がふつう使っていることばに隠喩が無数にある。それはつぎつぎとあらわれる新しい事柄に既知のことばを当てはめ、よく知っている事柄との類似性をひきだして説明する仕方である。文学でも、科学の領域でも、これまで気づかれなかった新しい類似性をみいだす鍵は、この人間のイマジネーションである。…〈略〉…社会的・自然科学的領域でははっきりした目的のための手段として隠喩が利用され、説明や推論の出発点となる。このような科学的な隠喩は「モデル」とよばれる。〉3〕               

 

1 学生時代に読んで影響を受けた本である。クセジュ文庫   2 《野生の思考》《悲しき南回帰線》がおもしろい。 3 塚本明子 現代哲学事典 講談社現代新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        仮面について

Sur Les Masques

 

 

 

 

プロローグ 2

P 3  4  P 5

 

 

 

を議論しながらも、我々は、一つの仮面とはまずそれが表わしているものではなく、それが変形するもの、つまり、表わさないことを選んだものである、ということを示すことができればと考えたのである。神話と同じく、仮面もまた、肯定するのと同じに否定するのである。仮面は、それが語り、あるいは語っていると信じているものによってのみ成立しているのではなく、それが排除しているものによっても成立しているのである。/そのことは、すべての芸術作品にも共通に言えることではなかろうか。アメリカ原住民の仮面の種類をいくつか反省の対象にすることによって、我々は、様式の問題という、遥かに広い問題を提出したいと思ったのだ。…(略)…一つ一つの様式の独自性は、こういうわけで、他からの借用を排除はしない。それはむしろ、意識的であれ無意識的であれ、自分自身を他と異なるものとして主張したいという欲求、すべての可能性のなかで、近隣の部族の芸術がこれまでに拒否したある種の可能性を選ぼうという欲求によって説明される。〉

クワキウトル族のクウェクウェ仮面は、名前と造形が証明するように隣接するサリシュ系のスワイフウェ仮面の模倣である。この両部族の社会は交流と対立の両義的な関係にあった。だから、と言っていいと思うが、クワキウトル族はもう一つゾノクワという盲目的な仮面を持っていた。この仮面はスワイフウェ仮面と比較すれば、それに反対するという存在理由のため製作されたようなフォルムと色彩だが、同時に、鋳型と鋳物のように整然とした相互補完的な関係にある、とレヴィ-ストロースは考え、それぞれの仮面の起源神話と宗教的社会的機能の記述から、公式を導き出す。

〈一つの集団から他の集団へと、造型的な形が保有されるときには、意味上の機能は逆転する1〕。反対に、意味上の機能が保有されるときには、造型的な形の方が逆転する。〉つまり、クウェクウェ仮面はスワイフウェ仮面の肯定的な表現だが、その神話では原型と反対に吝嗇な性質として語られ、スワイフウェ仮面の否定であるゾノクワ仮面は、その神話の中では原型と同じように人間を銅などの産物で富裕にする存在であるということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

ゾノクワ仮面

スワイフウェ仮面分布地域

1 神話・伝説で語られる意味内容(メッセージ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        仮面について

Sur Les Masques

 

 

 

 

 

プロローグ 2

 

 

P 4  5  P 6

それにしても、何が仮面と神話的表現の間に意味の交差を生じさせたのか?レヴィ-ストロースは疑間を感じないが、ヒントはある。〈それ(仮面)はいくつかの高貴な家系の特権に他ならず、彼らはこうして自らの富を増大させる呪術的手段を独占しているのである。確かにスワイフウェの仮面は銅そのものではないが、しかしそれは銅を手に入れることを可能にするものである。相続上の権利や結婚によって伝承されるこの富を増す手段は、特権階級の手に握られており、彼らはその手段を共に所有しようと願う者たちから貸賃を徴収する。このことは、仮面が存在する集団においては、仮面に関わる神話的表現=表象は、社会的・経済的下部構造に従属していることを示している。〉                           

図式的に言うと、仮面と言語は歴史の縦軸に沿って秩序を維持する支配層の体系なのだが、仮面が主役になる祭儀での演劇的な舞踊と神話・伝説を実際に語り継ぐ言葉は、個人の身体に属するとともに社会的弱者の内面に属して同時代的に見せかけの秩序を否定する方向に動く。大陸のサリシュ系族の儀式では銅の隠喩である神聖なスワイフウェ仮面の目を道化が槍で潰そうとする。クワキウトル族では道化の存在が消えて、クウェクウェ仮面だけが激しく踊る。移行のプロセスを抽象的に再現すると、仮面の造形は原型に依存していたが、対外関係の悪化かメッセージと現実の間の分裂が起きたとき、神話的表現はその反対に自分たちが生きるべき固有な可能性を探っただろう。アイデンティティ(自己同一性)の危機が意識される状況においては、特にその傾向が強まった。だから、仮面は人間の顔に近づき、邪悪なものとして取り扱われた。〈恐ろしい者どもよ出て行け/舌の垂れ下がった恐ろしい者どもよ/突き出た目をした恐ろしい者どもよ〉…そうではあるが、仮面から受ける印象は《混乱》だ。これは記号の全体が支離滅裂だからではなく、表現のテーマである。しかし、特権のない人々は世界観と社会状況に合わない象徴的な造形を破棄して、現実に生きて呼吸している生身の人間を表わすようなリアリズムを求めた。そして、クウェクウェ仮面と対立する独自の仮面(ゾノクワ)を新しく創造することになった。この仮面は高価だが、誰でも買える民主的な商品だった1〕

 レヴィ-ストロースは〈全体的な意味論の場の次元〉で考察しようと、社会的宗教的な機能の面からもスワイフウェ仮面群とゾノクワ仮面群を対比させた。しかし、クウェクウェ仮面は鳥に似たスワイフウェ仮面の模倣であると同時に否定である。ゾノクワ仮面は否定の否定として結果的にスワイフウェ仮面と同じく御利益のある性質を帯びたと言える。道化の写真は載っていないが、ゾノクワの容貌が社会的弱者としての道化の姿を連想させるのは、主観的すぎるだろうか?だが、この二つの仮面の間には神話・伝説でも他に類似点はほとんどまったくない。スワイフウェの神話群は概して不幸な主人公が天空か水中から出現した仮面を発見して裕福になる平穏な物語で、後者は反対に人間に残酷な仕打ちをする鬼女ゾノクワとの闘争のドラマである。

ここで、銅資源と冶金術を持つアタパスカン族には仮面がなかったという事実を想い出すのも悪くない。《国際関係》において劣等的な位置にある近隣の共同体だけが、なぜ仮面を持つのか?共同体の内部では逆に、一般の弱い集団はスワイフウェ(クウェクウェ)仮面の所有はできない。それは対外的には弱いが、内部では勢力がある者たちの政治的道具だったか…この象徴性の強い仮面特にクウェクウェ仮面は、要するに両義的な存在を表わす記号なのであって、だからこそ、相反する意味が造形的に統合されている。後でじっくり見るが、仮面は神話的表現の見事な器なのである。

♡ ♡ ♡

ぼくは1993年秋、鹿角に伝わる二つの伝記が銅の発見に始まる鉱害の物語だという仮説を書いた。だんぶり長者伝説と錦木の悲恋伝説の関係は、スワイフウェ(クウェクウェ)仮面とゾノクワ仮面の相互補完的な関係に非常に似ている。物語や仮面は、ある全体を構成する部分でしかないことに気づかなければならない。レヴイ-ストロースはそうとはっきり言わないが、カナダインディアンの仮面と神話も鉱害の物語である。そういう社会的背景の枠組みがあれば、仮面と神話の解読はいくらか異なったものになるだろう。そして、それぞれの地方に残る表現を対比することで相互に何かが照らし出されるに違いない。

 

 

□縄文ブーム□

*ドキュメンタリー撮影で内陸縦貫鉄道の小ヶ田(おがた)駅から建設中の空港を遠望した。伊勢堂岱遺跡が発掘された頃だ。鷹巣町役場で資料をもらって見ると、小ヶ田駅の右手に広がる森の中に遺跡があるのだった。約4.000年前縄文後期の環状列石で、鹿角市の大湯ストーンサークルや三内丸山遺跡と同類だが、発掘されたのは墓地だけで生活の遺構はない。ところで、縄文時代の人々が夜空を見上げてピッグ・ニュースだと騒いだのは、北極星の出現だった。あきた北空港に着陸する一番機は無数の文と絵を織らせたが、星は何も残さない??

 

1 スワイフウェ・クウェクウェ仮面については、交換されるという記述もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Atelier Half and Half