映画『パラサイト 半地下の家族』をもう一度見た。ネットで批評や感想を読んでから見たので、この作品の深さ、広がり、巧みさ、細かさがよくわかった。
二度目の鑑賞で気になったのは「象徴」と「計画」という言葉。「象徴」という言葉は、石とともに映画の冒頭で出てくる。つまり、これから映される、さまざまなモノが象徴として登場する、というサインになっている。以下、何かを象徴していると思われるモノ。
一つ一つが作品を形作る何かを象徴している。映画評論家なら詳しく解説できるだろう。映像作品を語ることが上手くない私には気になったことを指摘するしかできない。しかも、多くはすでにあちこちで語られている。屋上屋を重ねることはない。
「計画」という言葉は、父親と息子の台詞のなかで何度も出てくる。これも指摘するまでもないが、父親役のソン・ガンホの演技は素晴らしかった。
息子が綿密な計画を立てたばかりに、その上それが上手く行ってしまったために、貧しくても仲の良かった四人家族は悲劇的に離散することになってしまう。
父、ギテクは息子、ギウに「No Plan」と諭す。「計画は必ず計画通りにいかないから」。彼のこれまでの人生がそうだった。学歴・格差社会では目標を立て、計画を進めていっても、必ず失敗する。これははっきり台詞で語られている。
では、計画は立てない方がいいのだろうか。
終幕前、計画を立てて失敗したはずのギウはもう一度、計画を立てる。彼は「No Plan」と言った父を救うために「計画」にこだわる。
作品が社会に不平等と格差を是正する「計画」を求めている、と見立てることもできる。
やっぱり、お金は大切で、お金を稼ぐためには「計画」が必要、という処世訓を引き出すこともできるかもしれない。
「計画」がなければ「No Plan」もない。ただの「行き当たりばったり」になってしまう。そういう考えも見つけられる。
何度も「計画」を立ててやってきたのに、思い通りにはいかず、結局「No Plan」になる。これまでの私がそうだった。
そのことについて、もう少し書いてみようかと思ったけれど、映画とは関係ないのでやめておく。それに、私の「計画」と「No Plan」についてはもう何度も書いている。
二度目の鑑賞で「計画」と「No Plan」について考えさせられたことを指摘するに留める。
韓国には行ったことがない。だから、この作品が韓国の実情を見せているのか、誇張しているのかはわからない。
多くの国で高く評価された理由は、「気づいてはいたものの、直視していなかった現実」をたくさんの人々に実感させたからとはっきり言えるだろう。
前にも書いたように、「非・政治的表現による政治的メッセージ」として非常によくできていると思う。
写真は、開花したばかりの桜。今日は映画館まで二人で歩いて、映画を観てから娘がアルバイトをしている店でタピオカ・ミルクティーを飲み、歩いて帰ってきた。散歩の途中、歩きながら花見ができた。
韓国には行ったことがない。韓国人の知り合いもいない。索引に「韓国」がないくらい、無知で、関心もなかったことを書き添えておく。