戦中派の死生観(1980)、吉田満、山本七平(解説)、文春文庫、1984

大和の最期、それから 吉田満 戦後の軌跡、千早耿一郎、講談社、2004


戦中派の死生観 大和の最期、それから

『吉田満著作集』を図書館で借りて書評を書いてから、古書店で文庫版随筆集をみつけた。この文庫本は、繰り返し読む一冊になりそう。吉田を知るきっかけになった『大和の最期 それから』も読んでみた。

こちらも面白く読んだけれども、購入したり繰り返し読んだりすることはないと思う。それは、千早の作品の質の問題ではない、私と吉田満とのいわば相性の問題。

原典にまさるものはない、とよく言われる。紹介や評論、研究を何冊読むより、それが的を絞っている原典を読んだほうがためになる、という意味。それが成り立つためには、原典が理解できなければならない。英語の文を読むときに辞書が必要なように、むずかしい本を読むためには、あらかじめ知識がいる。

難しさばかりではない。昔書かれた本も、同時代には気軽に読めたものでも、時代がかわれば読みづらくなるものもある。時代背景を知った方がよく理解できる場合もある。


吉田満は太平洋戦争の回想について書き、戦後から1970年代まで同時代として書いた。70年代に子ども時代を過ごした私は、軍国少年ではないにしても、十分に逆コース少年だった。図鑑やマンガ、模型などから知らないうちに戦争の知識を身につけていた。

真珠湾からミッドウェー、レイテ沖、沖縄特攻までの経緯や艦隊を組んだ軍艦の名前も、私には予備知識があった。中学生のときに、すすめられて阿川弘之『雲の墓標』(1956)を読んでいたから、特攻隊についても少しは知っていた。

島尾敏雄の名前は知らなかったけれども、爆弾を抱えた特攻用モーターボート「震洋」のことは知っていた。だから吉田が島尾について書いた随想も、半分はわかった。

知識がなければ、原典の意味は半分も伝わらない。だから原典の背景や周辺を教えてくれる評論や研究は、確かに意味あるものであり、必要なものだと思う。


『大和の最期 それから』に、教えられたこともある。『戦艦大和ノ最期』は、吉田が悔恨や虚無感と格闘するために一気に書き上げたと思い込んでいた。第一稿は確かに記憶を元に熱情にまかせて書かれたらしい。

ところが、吉田はその後、登場人物や台詞を増やし、描写を精確にし、物語に厚みを与えている。千早は、版ごとの発展を詳しく分析する。

吉田は、『大和ノ最期』を書き上げ、そこから戦後を生きたと勘違いしていた。そうではなく、『大和ノ最期』を書き続けることが、戦後を生きることそのものだった。つまり、記憶をたどり、過去をかえりみ、自己を振り返る。その一連の反省が、『大和ノ最期』という作品に結晶化された。

「一つの体験が真に血肉となるには、さらにそれが他の体験によって超えられることを要する」と吉田は書いている(「死と信仰」『吉田満著作集 下巻』文芸春秋、1986)『大和の最期』を書き続けることが、吉田には戦争という生の体験を血肉化するための、もう一つの体験だったのだろう。


読書もまた一つの体験にすぎない。それはきわめて個人的な体験であるけれど、別の経験によって乗り換えられなければ、自分だけの固有の経験とはならない。「あの本なら読んだことがある」というだけなら、他人と符牒をあわせる道具でしかない。

書評を書いたり記録をつけたりすることは、読書を血や肉にするための一歩。ずっとあとになって読み返すと、書いたことが自分にはもうあたりまえになっていることに気づくことがある。そういうとき、評論であろうと研究であろうと、その本が私にとっては原典になる。


さくいん:吉田満