九州地方の庭園 |
高千穂峡真名井の滝 宮崎県高千穂町 荘厳な天然の滝 |
九州の庭園は一般的には余り知られていない のだが、英彦山や鹿児島の知覧には素晴らしい 庭園群が保存されている。 関西の洗練された庭園と比較すると、やや見 劣りするのは致し方無いが、それでも雪舟作庭 説の残る英彦山の旧亀石坊庭園や旧政所坊庭園 などは、全国でも屈指の名園であると思う。 古びた写真が多いのでお見苦しいとは存ずる が、なかなか再訪が叶わず、致し方なく昔の劣 化したネガから修復して掲載した次第である。 |
|
旧亀石坊庭園 |
(福岡県添田町英彦山) |
45年以上前の新婚旅行で訪れた英彦山に、 それ以来初めて再訪した。その際にはこの旧亀 石坊と顕揚坊を訪れており、それ以外の庭園は 今回が初めてである。 旧亀石坊の庭園は、雪舟による作庭説にかな りの信憑性があるとされており、その先入観が 邪魔をして困るのだが、静寂で苔むした雰囲気 に先ず魅了されてしまった。 池中の立石による岩島が印象的であり、変化 の有る護岸の石組との均衡が美しい。 大仰な石は無いが、室町期にふさわしい鋭い 造形美を見せている。 写真の左奥の山畔に、二段の三尊石組による 枯滝が有る。やや荒廃しているが、立体的な奥 行きを感じさせる石組である。 庭中が苔とさつきなどの植栽に覆われている といった印象で、石組の示す峻険な表情を隠し てしまっているのは残念だが、むしろ、修験道 の聖地としての環境が、この庭園群を今日に伝 えてくれたことに感謝するべきなのだろう。 |
|
旧政所坊庭園 |
(福岡県添田町英彦山) |
英彦山神社に詣で40年余の夫婦健全を感謝 した後、本殿脇から坂道を下って旧政所坊跡へ と向かった。 雨と霧が激しくなったが、初めて訪れるこの 庭園には胸が躍った。 廃仏毀釈で建築は一切失われ、庭園だけが竹 林に埋まっていたという。 旧亀石坊とは全く異なる力強い造形で、豪快 な石組や山畔の蓬莱石などには、桃山期らしい 華麗な感覚が満ちている。 滝や護岸から山畔にいたるまでの、変化に富 んだ石組には目を奪われた。背後の濃霧がただ ならぬ雰囲気を演出し、庭を観る喜びを倍増さ せた。 ここにも立石によって池中の岩島が表現され ているが、桃山を代表するような剛健さで、奇 妙な形の石をやや傾斜させるという、当時とし てはまことに歌舞いていたであろう意匠がとて も気に入った。 私達はこの後、顕揚坊、曼殊院、立石坊、楞 厳坊などに残る庭園群を巡った。 |
|
旧座主院庭園 |
(福岡県添田町英彦山) |
この庭園は現在、九州大学生物研究所が管理 なさっておられるので、事前にお願いをして見 学の許可を頂いてあった。 苔むした長い石段を登ると、そこは正に聖地 とも言うべき別天地で、いつでも天狗が出てき そうな雰囲気の仙境だった。 写真は中央の蓬莱石組で、バランスのとれた まことに美しい豪壮な意匠の石組である。しか し、太い樹木が石を割って伸び、石は崩落寸前 のようだ。アンコールワットのタ・プローム遺 跡を連想させるほど衝撃的な光景である。 庭園全体がかなり荒廃しているが、応対して 下さった大学の方のお話では、管理を引き継い だ時の状態のままを維持しておられるとのこと で感心した。半端な改修が最も避けられねばな らないからである。 写真の手前に滝石組が有り、これもやや崩壊 しているものの、桃山期の、豪壮なだけではな い鋭利な美しさを感じさせる。崩れてもなお、 高貴な石組と見事な地割の美しさを失っていな い孤高な姿だった。 反面、古い庭園がたどるであろう、宿命の哀 れさを見た思いだった。 |
|
顕揚坊庭園 |
(福岡県添田町英彦山) |
一連の英彦山庭園群にあって、最も小規模な 池泉庭園である。 写真で見る通り、手前に細長い池泉を設け、 山畔を利用した築山を背景にしている。 石組は小規模ながら趣味の良い、優れた感覚 の造形が成されている。護岸の石組、岩島の配 石、築山の枯滝石組など、秀逸な技法を見るこ とが出来る。 どうしても気になるのが植栽の繁茂であり、 石組の大半を覆い隠してしまっている。植木は 丸く刈り込まれているので、野放しにされたの ではない。無機の石より生きている植物を大切 にする気持ちは理解できるが、それは決して庭 を理解しているとは言えない。 ここにも雪舟作庭説があるそうで、石組など にはそれらしい雰囲気も見られるが、作庭は延 宝年間前後とされているので、江戸初期の庭と いうことになる。 |
|
大宰府天満宮庭園 |
(福岡県太宰府市) |
菅原道真公を祭った社で、延喜三年(平安後 期)創建とされている。 写真は本殿へと続く参道の橋から眺めた、苑 池に浮かぶ中島の景観である。 古図などから苑池は平安期から存在したらし いが、現在見られる池泉庭園には、江戸初期以 降に改修された痕跡が見られる。 写真の中島の護岸石組にもそれは顕著なのだ が、地中に浮かぶ岩島の手法には、やや室町的 な感覚が残っているような気もする。 護岸の石の上にガマ蛙の置物が置かれている のには呆れ果てた。平安文化の粋の極みとも言 える道真公を祀る神池に、堕趣味無粋の醜悪な 置物を用いる神経は耐え難い。 参道の対岸には、菖蒲池から流れ落ちる豪快 な滝石組が設けられている。大正期に造築され たそうだ。 |
|
光明寺庭園 |
(福岡県大宰府市) |
大宰府天満宮の参道から程近い、少し奥まっ た静かな所にこの臨済宗の禅寺が建っている。 写真の枯山水庭園で知られるのだが、古庭で はなく近代作庭家の鬼才重森三玲氏の作品であ る。昭和32年 (1957) の作で、氏61歳の作 である。当時は困窮した寺で、氏は寄贈された 石のみを使い、奉仕の形で作庭したという。 写真は方丈後庭で、楓の老木が密生する中に 青苔と白砂で州浜状の地割を施し、岩島をイメ ージさせる石組が成されている。 大海の水も一滴の水が集まって出来ている、 という意から「一滴海の庭」と命名された。 方丈前庭は参道横に作庭されており、三尊石 組を中心にした七五三配石が見られる。「仏光 石庭」と名付けられている、こちらも意欲的な 枯山水石庭である。 |
|
旧立花氏別邸庭園 |
(福岡県柳川市) |
現在は“御花”という料亭旅館になっている が、元禄年間に藩主立花鑑虎が建てた別荘であ った。 庭園は“松濤園”と呼ばれ、松島の風景を模 して築庭されたそうである。 池泉には大小百に近い岩島が浮び、周囲に無 数の松が繁茂する景観には、造形的なセンスは 余り感じられないものの、説得力のある人工の 自然を創出することには成功していると思う。 石組に江戸期の名残は見られるが、大半は明 治以降に改築されたもののようだ。 柳川は北原白秋が生まれた町で、詩情豊かな 水郷風景がこの庭園の景観と重なって見えてく る。この料亭で食した鰻のせいろ蒸しは絶品だ った。 |
|
清水寺本坊庭園 |
(福岡県みやま市瀬高町) |
最澄が開基した天台宗の古刹で、老杉の茂る 苔むした参道の石段を行けば、肌で歴史を感じ 取ることが出来る。 文字通り深山幽谷という雰囲気の中に、庭園 は静かにその存在感を示しているように感じら れた。渓流を引き込んだ池泉は、築山となって いる山畔に沿って細長く展開している。 植栽に遮られて良く見えないが、かなり迫力 のある立石や石組が確認出来るので、江戸初期 から中期にかけての築庭ではないか、という想 定が出来る。 時代性はともかく、心に染み渡るような静寂 感が堪らなく感動的だった。 雪舟作の庭と案内にまで記されているが、室 町時代の庭と言うにはかなり無理がありそうで ある。もっと別次元の価値をこそ尊重すべきだ ろう。 |
|
恵日寺庭園 |
(佐賀県唐津市) |
唐津の城下町の東方、松浦川の対岸の鏡山の 麓に位置している曹洞宗の寺院である。松浦佐 用姫の菩提を弔って建立された、という美しい 伝説も残されている。初代藩主寺沢氏の墓所と もなっている名刹である。 庭園は、鏡山の斜面を利用した築山を背景と し、流れを伴った細長い池泉によって構成され ている。 地割は典型的な江戸初期の様式だが、護岸石 組などに見られる穏やかさは完全に中期のもの と見受けられる。この時代の特徴は、戦国時代 の剛健さを受け継いだ江戸初期から、落ちつい た政情へと移行する時代性を反映した、穏便な 作風が主流となっていったのである。 次掲の近松寺も同様だが、桃山から江戸初期 に活躍した曽呂利新左衛門が作庭したという説 は、時代的にも否定されるべきだろう。 |
|
近松寺庭園 |
(佐賀県唐津市) |
唐津駅からは至近の城下町の中に建つ臨済宗 の禅寺で、藩主小笠原家の菩提寺である。 庭園は本堂の裏庭となっており、白砂の向こ うに築山と中島を配した枯山水の平庭である。 庭には下りれず遠望するのみだったが、石を 組み上げた滝石組らしき部分もあり、単純な構 成の中の中心的景観となっている。 全体的に植栽の繁茂が騒々しいのが残念だが 極力余分な植木を除去しさえすれば、石組造形 を主体とした日本の古庭園が示そうとした至極 明快な美しさが出現する、ということを知るべ きだろう。 築山の石組など丸味を帯びた平石が多く造形 的な迫力には欠けるが、石を組むことで生ずる 落ち着きや危うさなどを十分に表現している。 江戸中期の築庭と考えられる。 |
|
旧五島氏邸庭園 |
(長崎県五島市福江) |
五島列島のキリシタン教会を巡礼した際、福 江の石田城址に残された本庭を見学した。 文久年間に異国船来襲に備え、藩主五島盛成 が築城した珍しい海城だったが、維新に解体さ れ現在は石垣や門が残るのみである。 その一画に、盛成の隠殿であった五島邸とそ の庭園が保存されている。 金閣寺の苑池を模したとされ、九州の僻地と も言うべき離島福江島に、このような京都風の 洗練された池泉庭園が存在することに正直驚い た。 景観の中心は左奥の滝石組付近なのだが、写 真の亀島周辺の石組にも作者の美意識を感じ取 ることが出来た。 江戸末期の力の無さは致し方ないのだが、変 化に富んだ護岸や半島や岩島などの複雑な地割 が、この庭園を只のありふれた心字池の庭で終 わらせてはいない。 |
|
旧円融寺庭園 |
(長崎県大村市) |
円融寺は、大村藩主大村純長の時代に、大村 家の菩提寺として創建された天台宗の寺院だっ た。維新後に廃寺となって書院などの建造物は 全て失われ、後に出来た護国神社本殿の最奥に この庭園の遺構だけが残されている。 古文書などで天保年間の作庭がはっきりして いるのだから、当然江戸末期の庭ということに なるのだが、初見は桃山期の面影すら残る江戸 初期の作品だろうという印象だった。 かくも鮮烈な石組みが成された、江戸末期の 庭園をほとんど知らない。 立石の数は数百に及ぶので数え切れないが、 詳細に見ると、石は概ね山畔の斜面に階段状に 平行に立てられている。このあたりの意匠は、 造形的にはやや平凡であり、江戸末期の庭に用 いられた手法と言えるかも知れない。 しかし、個々の立石の大きさや迫力は、並み の江戸末期庭園とは比較にはならないだろう。 写真は、中央の枯滝石組部分で、このアング ルからではありふれた平行石組という印象は全 く感じられない。 |
|
旧久留島氏邸庭園 |
(大分県玖珠町森) |
玖珠はかつての豊後森であり、森藩主であっ た久留島氏の館址庭園が残されている。 頂上に末広神社が鎮座する山の麓に広がる公 園の一画なのだが、ものすごい滝石組の有るの にびっくりした。 日田から耶馬溪への途中で折角だからと立ち 寄ったのだが、実は、最初からここを目的とし て旅をするべきだったのだと反省した。 山畔に沿って横に長い池が有り、護岸や築山 に夥しい数の石組が意欲的に意匠されていた。 中でも写真の滝石組部分が最も剛健で、なぜか 朝倉氏諏訪館址の庭園が連想された。 しかし、一見豪壮な意匠の中にやや弱々しい 部分が見えるので、まあ江戸初期あたりの造営 ではないかというのが第一感だった。 久留島氏が江戸末期の藩主であったので、当 然その時代も考えられるが、末期の庭は女々し い自然主義が中心で、石組にも力強さが感じら れないはずだ。末期の庭だとすれば、当代にも 卓越した美意識の持ち主が存在したことの証左 となる。 これだけの大石を堕趣味に走らせず、洗練さ れた手法で組み上げるには、余程卓越した技量 と時代背景が一致しなければ成し得ない事だろ う。 もっとも、近年に粉河寺や阿波国分寺の庭が 江戸末期の作庭と立証されたとのことで、江戸 末期の庭に対する概念を入れ替えねばならなく なっている。 |
|
末広神社栖鳳楼庭園 |
(大分県玖珠町森) |
末広神社の周辺には、前掲の旧久留島氏邸 庭園、清水御門前庭園、そしてこの栖鳳楼庭 園の三箇所がある。 栖鳳楼は天保年間に建造された久留島氏の 御茶屋で、崖に向かって展望の開けた絶景の 地に設けられている。 庭園は御茶屋の前庭になっており、芝の築 山に三尊形式の石組などを中心として多くの 立石を配した枯山水である。小振りな石ばか りではあるが、個性的な形の石が選ばれてお り、陰影がとてもシャープな印象を受ける。 個々の石の表情をうまく組み合わせている ということなのだろう。 この庭が御茶屋の造営とほぼ同時に作庭さ れたものとすれば、江戸末期の作ということ になり、この様な大胆な枯山水をイメージ出 来た造園家がこの時代にいたことは間違いな さそうである。江戸末期という時代性を見直 さねばならないのかもしれない。 |
|
長昌寺庭園 |
(大分県杵築市) |
国東半島に広く分布する、石仏・石塔・板碑 などの石造美術ばかりを探訪した旅の途中で、 城下町杵築に庭園が在った事を思い出し、当寺 と妙経寺を訪ねた。 英彦山と知覧以外に九州には良い庭は無いと 思っていたので、想像以上の景観に驚き、慌て て車にカメラを取りに戻った記憶がある。 築山を背景にして、中央にやや大きな石を用 いて枯滝を組み、左奥に渓谷をイメージさせる 景観を造っている。 植栽が大きく育ち過ぎで、折角の肝腎な石組 の隠れてしまった箇所も多いが、地割の優れた 美しい庭園である。 江戸初期の作庭であり、私の好きな近江彦根 の楽楽園に類似しているという第一印象だった が、後日同じ趣旨が専門書に載っているのを読 み、どうだいと家内に威張った記憶もまた鮮明 である。 妙経寺にも、石組の優れた見るべき庭園が保 存されていた。 |
|
妙経寺庭園 |
(大分県杵築市) |
かつて国東の石造美術を巡った際、著名だっ た杵築の長昌寺の庭園を見学した後、近くのこ の寺の庭園を見せてもらったことがあった。か なり荒廃した枯山水で、その時は石組がやや雑 然とした印象を受けたのだった。 その後「庭研」の手で修復されたと聞いてい たので、今回2009年の国東旅行では楽しみ な旅の目的の一つとなった。 石組主体の枯山水は見事に復元されており、 見違えるような迫力ある景観を見せてくれた。 山畔に組まれた石組は、やや丸石が多いにも かかわらず、意欲的に組まれており、造形的に も見事だ。 左奥の枯滝石組も非凡であり、特に右側の亀 島風の出島に組まれた石組が中腹の三尊式石組 と重なって迫力に満ちた造形美を見せている。 複雑な入り江を象徴する護岸石組も変化に富 んでおり、江戸中期の庭園としては傑作の部類 に入るだろう。 |
|
伝来寺庭園 |
(大分県日田市中津江) |
かつての日田郡中津江村で、現在は日田市に 合併しているとはいえ、九州山脈のど真ん中と いう立地条件は変わらない。福岡・熊本両県に 接する山岳地帯である。 寺はかつての中津江村の中心から少し東に行 った集落の中にあるが、境内は閑静な雰囲気に 満ちている。 庭園は本堂の裏手に広がっており、江戸末期 に作庭された池泉鑑賞式の瑞々しい傑作であっ た。現在の書院から眺めるにはやや離れている ので、本堂以外の建造物は後世の建築だろうと 思う。 最奥に滝石組を置き、手前に池泉を設けてい る。立体的に組み上げられた滝石組はなかなか 力強く、丸い石が多いにも関わらず相当の造形 的な迫力を示している。写真は滝石組を撮影し たものだが、苔が石を覆い尽くしており、石組 そのものの主張を隠してしまっているのが残念 だった。 苔をそぎ落としたこともあったが、直ぐに繁 茂してしまう、と御住職夫人が管理の苦労を語 って下さった。 入り組んだ汀線と多彩な護岸石組、複雑な岩 島の数々や出島を結ぶ石橋、階段状に組まれた 滝石など、見応え十分の庭である。 石組の大半を覆う苔や、異常に繁茂した植栽 を刈り取る努力が成されれば、九州屈指の名庭 の仲間入りは確実だろう。 |
|
碧巌寺庭園 |
(熊本県菊池市七城町) |
庭園研究家の中田勝康氏から、その存在と内 容を御教授頂いた庭園である。 南北朝時代、肥後国守護であった菊池為邦が 剃髪し、この地に庵を結び「碧巌録」を講じた と伝えられる。寺名はここに由来するという。 「碧巌録」にある登龍の世界を具現化した庭 とされ、中央に龍門瀑、手前の鯉魚石(立石岩 島)、左の碧巌石と龍の腹を象徴するような護 岸石組、手前の座禅石などが、造形的な鋭い感 覚で配されている。 室町期らしい、小振りだが絶妙な石組の庭と いえる。 石組一つ一つが禅的な示唆を含んでおり、興 味の尽きぬ庭である。 |
|
満願寺庭園 |
(熊本県南小国町) |
温泉仲間との旅で、杖立温泉から黒川温泉へ と向かう途中で、ここへ立ち寄った。私の目的 は二つ、鄙びた川辺の露天風呂とこの庭園であ った。 室町期と地元看板には書いてあるが、丸い池 に中島という、典型的江戸中期の庭という見方 も出来るだろう。 小振りな石、立石の趣味のよさ、薄い自然石 の橋など、室町的な要素も確かに多い。 庭全体から受ける印象が鮮烈で、きりっとし た美しさが感じられただけで充分なのであり、 阿蘇の近くに石組主体の古庭が在るだけでも嬉 しかったので、時代考証は曖昧なままにしてお く事にした。 熊本県の庭園が、水前寺公園だけというので は余りにも寂しいので、この庭の存在は大きい と思う。 ちなみに、この寺に程近い満願寺温泉共同風 呂の、素朴な風情には感動した |
|
妙国寺庭園 |
(宮崎県日向市細島) |
日向市の大御神社に詣でた後、日向岬の馬の 背を歩き、さらに米ノ山の山麓に建つこの寺を 訪ねた。 細島の漁師達の集落を抜けて、細い敷石の道 を登って行くと、石段の向こうに銀杏の老樹と 瀟洒な山門が見えてくる。 山門を抜けると、正面の本堂の右手に庭園が 唐突に開けているので、ちょっと意表を突かれ た感じがする。 池泉中央に中島を置き、奥に三尊石と思える 中心石組、周辺には立石を主体とした護岸石組 が、意欲的に組まれている。 江戸初期に創建されたとのことだが、その後 かなり改修されたことも確かで、護岸に不自然 な部分も目立つ。しかし、手前の出島部分や、 中島の左側にも造形意欲に満ちた石組みが成さ れており、全体的には変化に富んだ景観を創出 している。 この庭園を酷評した本もあるが、庭園の造形 性という物差しで計れば、角柱のような石の素 材としての不適格さを除いて観ると、十分鑑賞 に堪え得る庭園であることに気付くだろう。 石組に用いられている石は、直前に見てきた 日向岬の断崖絶壁を構成している柱状節理に類 似しており、イメージとしても大きく庭に影響 を与えているように思えた。 庭園の左奥山畔に、自然の岩盤を利用した滝 石組が残っている。築庭当初の遺構らしいが、 位置関係から見ても現在の庭園とはかけ離れた 存在になってしまっている。 |
|
佐多直忠氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
武家屋敷の残る知覧には、江戸中末期の庭園 が多数保存されている。 数ある庭園の中にあって、当邸の庭園は石組 の造形性、豪快な大刈込、さらに遠山の景をも 取り込んだ造庭の妙は、群を抜いている。 見事な生垣を背景にして組まれたこの滝石組 は、誠に雄渾にして生命力に満ちており、小生 の旅日記には、大仙院書院庭園の滝組が連想さ れて見飽きない、と記してあった。その感動は 確かなものだったと言える。 樹木の枝ぶりや燈篭は愛嬌として、枯滝石組 という抽象的なモニュメントと、豪快な生垣の 向こうの自然のままの山の景観とを対比させた 借景の妙技には舌を巻かざるをえない。 |
|
佐多民子氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
手前の白砂を前景とし、奥の大刈込を背景に して、手前から左奥へと豪快な石組の連なる壮 大な枯山水である。 左奥に蓬莱遠山石が聳え、その裾に滝石組が 組まれている。植栽の影に隠れてしまっている が、やや丸みを帯びた石が多く、景観的には若 干締まりの無い印象は拭えない。 それでも、武家とはいえ民家の庭に、かくも 洗練された意匠の庭園が保存されていることに は驚かざるをえない。 |
|
佐多美舟氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
盛り上がるような石組と、溢れるばかりの植 栽に圧倒されそうである。 中心に遠山石が聳え、その下に枯滝石組が組 まれているのは、知覧の庭に共通するところだ が、護岸風の豪快な連続石組が左右に連なる景 は壮観である。 幾重にも連なる峰々の景を象徴して、石は積 む様にして組まれている。まことに豪快な手法 と言えるだろう。 白砂に浮ぶ岩島が、すっぽりと植栽に覆われ ているのは残念だ。白砂と石組の対比も、この 庭園の美の要素のひとつであったはずだからで ある。 |
|
森重堅氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
南北に連なる武家屋敷の中では、森邸は最も 北に位置している。 枯山水を主体とした一連の庭園群の中では、 唯一の池泉鑑賞式である。 書院の南部に池泉が開け、東部にかけて植栽 を中心とした庭が展開する。 写真は池泉部分を写したもので、左奥に塔灯 篭と遠山石の先端が見えるが、その下方に滝石 組が組まれている。複雑に入り組んだ護岸が美 しく、特に中央部分には石橋状の洞窟石組が意 匠されているのが珍しい。 奇岩奇石を巧みに用い、大刈込を背景とした 景観は、手入れの良さも手伝って何とも美しか った。 中央の既成概念が造る作品とは一味違った、 当地ならではの創造美を創り出した、といえそ うである。 |
|
平山克巳氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
昔私達が訪ねた頃は“平山ソヨ氏邸”と記さ れていたが、代替わりをされたものと思う。 この庭は知覧武家屋敷の南側部分に位置して おり、他の屋敷と同様表通りとの境を大刈込で 築山の様に見せ、手前に庭園を意匠している。 右側奥(北東角)に巨石を用いた枯滝石組が 組まれており、本庭園の中心的景観となってい る。 ここにも塔灯篭が置かれている。唐様と称し て江戸中期に京都で流行したらしい。その模倣 かもしれない。 石組は連続的に左側へと続いているのだが、 植栽がこれらを覆い隠している。ここでは植栽 もまた良しだが、白砂に浮ぶ岩島まで隠れてい るのは残念だった。 |
|
平山亮一氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
江戸末期の作庭でありながら、現代庭園を思 わせるような、何とも抽象的で意欲的な造庭で ある。 築山風に配したサツキの大刈込、知覧に共通 する遠山のようなイヌマキの生垣、そして遥か なる母ヶ岳の美しい山並とが、三重の波濤とな ってうねるように見える。素晴らしい発想によ る、卓越した意匠であろう。 白砂と大刈込だけを用いた枯山水庭園の事例 は、近江の大池寺や重森三玲氏の作品などに見 られる程度で、知覧の庭の中でというより、本 邦屈指のユニークな庭園というべきだろう。 |
|
西郷氏邸庭園 |
(鹿児島県南九州市知覧町) |
前述の平山克巳氏邸の向かいに位置する武家 屋敷で、ここも美しい石垣と大刈込で囲われて いる。 庭園は書院の南庭であり、左奥の巨石を用い た枯滝石組を中心とした豪快な景観を見せてい る。 知覧庭園群の石材は甌穴凝灰岩という地元の 奇岩であり、その形の面白さを前面に出したの では堕趣味と化してしまう。ここでは辛うじて その手前で踏み止まっており、文人趣味が発揮 された、と解釈しておくとする。 個々の庭園の評価をする事は実は無意味で、 この小さな武家屋敷町にこれだけの濃い密度で 江戸中末期の庭園が集中的に維持されてきた事 を全体として評価するべきだろうと思う。 |
|
天水氏邸庭園 |
(鹿児島県志布志市) |
志布志は大隅半島の基部に位置する古い城下 町で、ここには知覧と同じ島津藩内の「麓」と 呼ばれる武士団の屋敷が集まっていた。 その中の本邸には、江戸中期に作庭されたと いう枯山水が残されていた。 自然の岩盤の上に海石を配するのは、この地 の庭園に共通している。琉球の趣味に似ている かもしれない。 中央に三尊形式の枯滝石組を配し、手前に大 きな脇侍石、瀧には水分石なども意匠されてい る。 門から玄関への露地にも、趣味の良い石組が 見られる。 |
|
首里城跡庭園 |
(沖縄県那覇市首里) |
先般の首里城火災で、恐らくは庭園も喪失し たものと思われる。せめて石組の無事が確認出 来れば、再建は可能だろうと希望的観測を抱い ている。 琉球王国の拠点であった首里城の中で、対外 的な賓客を接待する場所として設けられたのが 鎖(さす)の間であった。 古い資料や絵図から、ここに庭園が存在して いたことが判明し、2002年に発掘が行われ た。今まで存在していた庭園は、発掘・修理の 結果旧来の姿に最も近い形で復元されたもので あった。今回、再度の復元再建は可能かと思わ れる所以である。 18世紀の築庭とされる枯山水形式で、天然 の琉球石灰岩露盤を中心に築山が意匠されてお り、間に松と蘇鉄が配されている。 意匠としては左程見るべきものは無いが、建 築と一体になった美しさは格別である。 琉球のグスク(城)唯一の日本式庭園として 貴重な存在であった。 |
|
識名園庭園 |
(沖縄県那覇市首里) |
首里城の南東2キロの旧真和志村に在り、首 里城南苑として中国からの賓客の接待に用いら れていた。また王の別荘としての役割もあった らしい。 戦災によって建築なども破壊されたままにな っていたが、近年になって修復工事により復元 された。 建築と一体になった広大な池泉回遊式で、大 小二島が浮ぶスケールの大きな庭園である。 一島には茶亭を設け、もう一島は池の西側寄 りの出島との間が、写真の琉球式石橋によって 結ばれている。 この石橋は、自然石の味わいを生かした造り で、この庭の中心的景観を演出している。 島の反対側には、切石を用いた中国式の石橋 が架かっており、二つの石橋が直線状に並ぶ姿 は見事で、護岸の細部に格別の意匠は見られな いながら、穏やかな地割の庭園として復活して いる。 |
|
円覚寺跡庭園 |
(沖縄県那覇市首里) |
室町期に鎌倉円覚寺を模した七堂伽藍を誇っ たが、大戦で写真の総門と放生池を残し、大半 の建築が焼失した。 放生池は総門から三門に続く方形の苑池で、 前庭として創建から4年後に造庭されている。 池に掛かる石橋はまことに美しい逸品で、石 柱・石欄・羽目などに見事な彫刻が施されてい る。羽目には牡丹の花、欄干には獅子が描かれ ており、能の「石橋」を象徴しているようにも 感じられる。 しかし、造営したのは明の技術者であり、明 の弘治年間(室町期の明応年間)に庭園や石橋 が造築されたことが、石柱に刻まれている。 首里の数少ない仏教寺院の遺構であり、円鑑 池や弁財天堂の池泉も含めまことに貴重な存在 である。 |
このページTOPへ |
次ページ(東海北陸の庭)へ |
日本庭園TOPへ |
総合TOPへ 掲示板へ |