インドの仏蹟と サンチーの仏塔 |
|||
ブッダガヤの金剛宝座 釈尊が菩提樹の下に結跏趺坐し、深い 瞑想の後悟りを開いたとされる。欄楯に 囲まれ、幾代かを経た菩提樹が繁る。 |
|||
無宗教の小生にしても、神社に初詣をし、仏教で 墓碑を立て法事を行う。中世のキリスト教教会に興 味を抱き、せっせとヨーロッパへ足を運ぶ。 八百万の神を信じる日本人の寛容さなのか、それ とも真の信仰心を失った節度の無さの表れなのだろ うか。 ツアーのお手軽さに乗って、インドの釈尊八大遺 跡巡りに参加した。余り知られていないお釈迦様の 生涯を巡ることから、何かが見えてくるような気が したからであった。 仏蹟とは言うが、釈迦が誕生したのは紀元前6世 紀(又は5世紀)とされ、日本では縄文時代、西欧 ではギリシャ古典文化の全盛期に相当しており、当 時の建築物や遺物はほとんど残っていなかったのは 当然のことであった。 |
|||
ルンビニ Lumbini |
|
ルンビニ州 (ネパール) Lumbini (Nepal) |
|
釈迦の生誕地とされるルンビニへは、インド北部 のナウタンワという町から国境を越えてネパールに 入らねばならない。 国境から数キロ西へ走ったあたりに、釈迦誕生の 地を伝えるルンビニ園があり、数々の遺構が残され ている。 釈迦族の王妃マーヤー(摩耶)夫人は、白い象が 胎内に入る夢を見て懐妊をする。 出産のために実家へ急ぐ夫人が、休息のために立 ち寄ったこの地で、サーラ樹の枝に手をかけた時に 右脇から釈尊が誕生したという。 写真は、遺跡に建つアショーカ王の石塔で、頭部 は欠損しているが、下部に貴重な文字が刻まれてい た。アショーカ王は3世紀の人だが、仏教を深く擁 護していたらしく、釈迦生誕の地として租税を免除 する、と記していたのである。 後世、ここが釈迦生誕の地である、という決め手 になったそうである。 石塔の向こうに見える樹は、マーヤー夫人所縁の サーラ樹として、小さな祠堂を建て祀られている。 勿論、2500年も前の話であり、歴史と伝承の壁は厚 そうではあるのだが、心地良い話として抵抗は全く 無かった。 7世紀前半にこの地を訪れた玄奘三蔵によれば、 仏跡はこの時すでにかなり荒廃してしまっていたら しい。 |
|
カピルヴァストゥ/遺跡 Kapilvastu |
|
ビハール州 Bihar | |
釈尊の父王の都城カピラヴァストゥ、即ち釈尊が 育った居城の位置は定まっていない。 ルンビニの北西ティラウラ・コットが候補なのだ が、今回は行けなかった。 国境を隔てたインド側に、カピルヴァストゥと呼 ばれる遺跡があり、今回立ち寄ることが出来た。 ブッダに言及する舎利容器の出土や、古い僧院群 が発掘されていて、どうやらこちらが本命視されつ つあるらしい。 |
|
ブッダガヤ/セーナー村 Buddha Gaya / Sena Village |
|
ビハール州 Bihar | |
王族の王子として何不自由無い生活をしていたで あろう釈尊は大変聡明であり、娯楽や快楽よりも沈 思瞑想を好んだのは、思慮深い天性によるものだろ う。 しかし長じるに及び、世俗の弱肉強食のあさまし さ、老い・病・死という逃れられない人間の苦悩が 動機となり、出家・求道への決断へと至るのだ。 城を出た釈尊は、幾人かの修行者に教えを乞うた が納得出来ず、ガンジスを渡って南下し、更にナイ ランジャーナ河(尼連禅河)を越えて前正覚山に至 った、とされている。 ここで六年間、あらゆる煩悩や誘惑を克服するた めの過酷な苦行を行ったという。釈尊の修行には五 人の従者(比丘)が従っていたとされる。 しかし、衰弱の極にあった釈尊は前正覚山での苦 行を突然中止し、山を下りると尼連禅河で沐浴し、 セーナー村の長者の娘スジャータの捧げた乳粥で蘇 生をする。 苦行は必ずしも悟りの境地や救済への真の道では ない、と知ったからなのだろうか。 こうした釈尊の姿を堕落と見たのか、五人の比丘 は釈尊を見限ってサールナートへと去って行ったの だった。 写真は、今は実り豊かなセーナー村から、遥か前 正覚山を望んだものである。 尼連禅河の対岸がブッダ・ガヤである。 |
|
ブッダ・ガヤ/大菩提寺 Buddha Gaya / Mahabodhi Temple |
|
ビハール州 Bihar | |
前正覚山から下りた釈尊は、尼連禅河畔に緑陰を 広げていた菩提樹の下に至り、ここで結跏趺坐し深 い瞑想に入る。 あらゆる悪魔の誘惑を退けて、成道とも言うべき 悟りを開くに至ったのである。 この場所は現在、菩提樹と共に金剛宝座として、 格別に保存されている。 (このページの表紙を参照) 写真は、金剛宝座の前に立てられたマハボディ寺 院(大菩提寺)で、起源は3世紀にアショーカ王に よって精舎として建造され、その後繰り返し改修さ れた寺院ではある。 四角錘形九層の大塔は、ジグソーパズルを思わせ るような怪奇な壁面が特徴である。特大のストゥー パと考えられる。 7世紀にこの地を訪れた玄奘は、菩提樹の東に精 舎があると記しており、大塔の原形は既に存在して いた事が知れる。 寺院を囲む石柵は欄楯(らんじゅん)と呼ばれ、 様々な彫刻で装飾されている。 悟りの後、釈尊は説法を断念する。だが真理が釈 尊の心の中だけに埋もれてしまう事を危惧したブラ フマー神(梵天)の勧請によって、釈尊は人々に説 法をするための宣教伝道を決意したのだった。梵天 という仏(神)については、東寺の傑作彫刻でしか 知らなかったので、認識を新たにしたのだった。 |
|
ヴァーラーナスィー/ ガンジス河 Varanasi / Ganga River |
|
ウッタル・ブラデーシュ州 Uttar Pradesh |
|
英名 Benares のローマ字読み「ベナレス」と して知られるヒンドゥー教の聖地。 仏蹟ではないが、初めての伝道を志した釈尊が最 初に目指したのは、このヴァーラーナスィー郊外に あった鹿野苑であったので、この近くでガンガーを 渡ったのではないかと考えられる。 沐浴の歴史は古いと聞いたが、釈尊の時代にここ が現在の様な法悦に満ちた信仰の場であったかどう かは不明だ。 この地が示す信仰のエネルギーは、インドにおい てヒンドゥー教が仏教を凌駕していった力の差を見 る思いであった。 |
|
サールナート/チャウカンディ Sarnath / Chaukhandi |
|
ウッタル・ブラデーシュ州 Uttar Pradesh |
|
説法の場として考えた場所は、前正覚山で共に修 行をしたが、下山後に釈尊を見限って去った五人の 比丘の居る鹿野苑であった。 写真のストゥーパは、サールナート郊外チャウカ ンディに建っており、釈尊と五人の比丘が再会した 場所とされる。 苦行を放棄した釈尊を当初は蔑視をしていた比丘 達も、釈尊の尋常ではない毅然たる偉容に打たれ、 自ずと首を垂れていたのだった、という。 ストゥーパ上の八角塔は、仏教とは関係のないイ スラム教(ムガール朝)のものである。 |
|
サールナート/鹿野苑 Sarnath / Deer Park |
|
ウッタル・ブラデーシュ州 Uttar Pradesh |
|
釈尊の初めての説法を耳にしたのは、五人の比丘 たちと鹿野苑の森に住む鹿たちだけだった、という 案内人の話がとても斬新に感じられた。 法の輪(説法)が初めて転じられたことから、こ れを「初転法輪」と呼ぶ。 仏教徒ではない小生には、説法の内容まで踏み込 むことは不可能だが、釈尊の教えが初めて言葉とし て語られた事実は、この後ここから体系化・組織化 された教えとして世界各地へと広まり、果ては日本 の中枢にまで伝わった歴史を思うと、感動めいたあ る種の興奮を覚えていたのだった。 写真は現在の鹿公園(鹿野苑)で、広大な美しい 遺跡公園として整備されている。釈尊や弟子達が何 処で何をしていたかといった痕跡は全く不明で、礎 石や遺跡の年代についても一切明示されていない。 7世紀の玄奘、8世紀の慧超がこの地の全盛を記 しているがその頃までは盛況を呈していたことは確 かである。 背後に建つストゥーパはダーメーク塔と呼ばれ、 グプタ期6世紀に建てられたものである。 遺跡の中にはアショーカ王が建てた王柱が保存さ れている。 柱頭に彫られた四頭の獅子像(考古学博物館蔵) は、インドの国家紋章に用いられており、基礎部の 法輪は国旗にもデザイン化されている。 |
シュラヴァスティー (サヘート)/祇園精舎跡 Shravasti (Saheth) / Jetavana Vihar |
|
ウッタル・ブラデーシュ州 Uttar Pradesh |
|
平家物語の序章「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の 響きあり」で、知っていたのはその名前だけだった と知った。 ここは、仏教に篤く帰依したこの地の長者スダッ タが、布教を行う釈尊のために寄進した精舎の跡で あった。 遺跡に残る遺構は当然ながら後世のものだが、こ の地で釈尊が布教活動を行っていたことは間違いな いだろう。 これ以後布教の拠点としての定住的な僧院から、 教団としての伽藍が各地に形成されていく発端とな ったのである。 写真の遺構は、釈尊が説法を行った台座のあった 場所、と伝えられている。 |
|
シュラヴァスティー (マヘート)/舎衛城跡 Shravasti (Maheth) / Stupa of Angulimala |
|
ウッタル・ブラデーシュ州 Uttar Pradesh |
|
シュラヴァスティーは、当時のコーサラ国首都と して栄えた城郭都市だったが、現在は跡形なく林野 の中に埋もれてしまっている。 唯一マヘートの遺跡に残る二つのストゥーパが、 その跡を示しているとされる。 釈尊の奇跡が数多く伝えられるが、極悪非道を重 ねたアングリマーラが悔悛し、釈尊に帰依した話は 著名であるらしい。 アングリマーラのストゥーパと呼ばれる遺構は、 舎衛城跡の面影を伝えているようだ。 |
|
ラージキル/竹林精舎跡 Rajgir / Venuvana |
|
ビハール州 Bihar | |
釈尊の時代にはマガタ国の首都で、ラージャグリ ハと称されていた。悟りの地ブッダ・ガヤへは70 キロの場所である。 国王によって寄進された精舎で、城門の近くにあ ったとされるが、現在はわずかに竹林の残る公園に 整備されている。城壁や城門の名残以外、当時の精 舎の痕跡は全く認められなかった。 祇園精舎と共に、釈尊にとっては重要な布教の中 心だったのだろうが、どちらも権力者(金持)の寄 進による、というのが何か心に引っかかっていた。 インドにおける、仏教の弱点が見えたような気がし たのである。 |
|
ラージキル/霊鷲山 Rajgir / Griddhakuta |
|
ビハール州 Bihar | |
ラージキル郊外にある岩山で、グリドラクータ山 と呼ばれる。 釈尊はここに好んで逗留し、法華経を説いたとさ れ、頂上に煉瓦積みの祠堂跡が残されている。 法華経には、釈尊が説法していると、地中より巨 大な宝塔が出現し、塔中から多宝如来が釈尊を招き 入れた、という記述がある。 塔内に二尊が並座した図の描かれた石造宝塔の事 例は、京都・安養寺など事例は多い。 信者ならずとも、この場面を想像し得るような荘 厳な空気に満ちた場所であった。 |
|
ナーランダ/仏教大学遺跡 Nalanda / Ruins of University |
|
ビハール州 Bihar | |
ラージキルからはほど近い場所に、世界最古の大 学の一つとされるナーランダの仏教大学の遺跡が残 されている。 大学が創建されたのが5世紀なので、釈尊の時代 からは千年以上も後の話となる。 しかし、7世紀にここを訪れた玄奘によってもた らされた大乗仏教の教典は、後世の中国や日本に多 大な貢献をすることとなったのである。 玄奘が来た時には、一万人の学僧がここで学んで いたそうである。 煉瓦の連なる遺蹟に吹いていた風は、諸行無常の 風だったのだろうか。 |
|
ヴァイシャリー/都市遺跡 Vaisali / Ruines of Ancient City |
|
ビハール州 Bihar | |
釈尊がこの後、生涯における最後の説法の旅とし て、北へ向かって旅立ったのは、誕生の地ルンビニ を意識していたからなのだろうか。 ガンガーを渡った釈尊は、ここヴァイシャーリー で奇特な信者の寄進を受け、しばらくの間ここに滞 在した。齢は八十歳であったという。 写真は公園として整備された町の遺蹟で、多くの 礎石やストゥーパ、アショーカ王の石柱などが写っ ている。 自己の入滅を意識した釈尊が、最後の旅に出るま でを過ごした場所なのである。 |
|
クシナガル/涅槃堂 Kushinagar/ Nirvana Temple |
|
ビハール州 Bihar | |
最愛の弟子アーナンダ(阿難)を伴ってこの地ま で来た釈尊は、二本の沙羅双樹の下で入滅した。 現在、遺蹟にはアショカ王が建立したストゥーパ と、涅槃堂が建てられている。後代の建築遺構も共 に、サーラ樹に囲まれて残されていた。 写真は、涅槃堂に横たわる釈尊の涅槃像で、各地 からの僧侶などの参詣が絶えない。像はグプタ朝時 代(5~6世紀)の彫刻だそうだ。 この日も、ミャンマーから遣って来た僧侶の一団 の読経の声が堂内に響いていた。 |
|
クシナガル/ラーマーバル塚 Kushinagar/Ramabhar |
|
ビハール州 Bihar | |
釈尊の葬儀は地元のマッラ族によって手厚く供 養された後、香木の上で荼毘に付された。写真の ラーマーバル塚が、その場所であったと伝わって いる。 釈尊入滅後に起こったのが、舎利(遺骨)を巡 る争いだった。八つの部族で分配することとなり 決着する。 それぞれが舎利を祀ったストゥーパを建立する のだが、現在そのストゥーパの存在はほとんど確 認出来ていない。分骨・盗掘などで失われてしま ったのだろうか。 |
|
サンチー/第一ストゥーパ (東トラナ) Sanchi / Stupa 1 (East Torana) |
|
マディヤ・プラデシュ州 Madhya Pradesh |
|
紀元前3世紀頃にアショカ王によって舎利が再分 され、数多くのストゥーパが建てられるようになっ た。 サンチーのストゥーパは紀元前2~1世紀に建造 されたもので、ほぼ完全な形で保存されており、ア ショーカ王の再分を立証する貴重な資料でもある。 釈尊との接点は無いが、歴史は十分に伝承されて いる、と実感させられる。 ストゥーパの前に建つ鳥居状の門はトラナと呼ば れ、紀元前後の仏教美術を今日に伝えている。 |
|
サンチー/第一ストゥーパ (南トラナ) Sanchi / Stupa 1 (South Torana) |
|
マディヤ・プラデシュ州 Madhya Pradesh |
|
四方向の各トラナの表裏には、密度の濃い浮彫 装飾が施されている。写真は南トラナの表側で、 一部修復が見られるが、彫りの深い美しいレリー フだ。 三段の梁上部には、象に水を掛けられるラクシ ュミー女神(吉祥天)が、中段には、分骨した八 基のストゥーパの内の一基から、更に分骨しよう とするアショーカ王の姿が彫られている。 最下段には、口から蓮華を吐き出すヤクシャ神 が描かれている。 ストゥーパが釈尊そのものであり、トラナには その荘厳という役目があったのである。 |
|
サンチー/第一ストゥーパ (西トラナ) Sanchi / Stupa 1 (West Torana) |
|
マディヤ・プラデシュ州 Madhya Pradesh |
|
上部梁には、仏塔と聖樹を礼拝する人々が描か れている。 仏塔はストゥーパであり聖樹は釈尊を象徴して いるのだが、仏教美術初期には釈尊を直接的に描 く事はなかったのである。キリスト教初期美術に おける、象徴紋「クリスモン」と同様に、まだ偶 像化にまで至らない時代の表現だったのだろう。 中段は、サールナートの鹿野苑で法輪(釈尊) を礼拝する人々や多くの鹿たちの姿である。 美しい構図と、造形的で精緻な彫刻には、ただ 驚愕するばかりだった。 |
|
サンチー/第一ストゥーパ (北トラナ) Sanchi / Stupa 1 (North Torana) |
|
マディヤ・プラデシュ州 Madhya Pradesh |
|
遺跡に入り、ストゥーパの偉容に驚愕しつつ通 路を行くと、最初にこのトラナに突き当たる。四 基のトラナの中では、彫刻の完成度が最も高いの だが、全くの逆光で写真は上手く撮れなかった。 柱から梁の裏側まで、余すところ無くびっしり と彫刻で埋め尽くされている。 釈尊の前世物語である本生譚や、釈尊の生涯を 伝える仏伝図などが中心となっている。 彫刻の密度の濃さを感じながら、アイルランド のケルト十字彫刻を思い浮かべていた。 本生譚に関しては、にわかの知識では理解出来 ない。卓越した秀麗な彫刻群であることは肌で感 じられるのだが、浅学の身には内容まで理解が及 ばない。 比較的近付き易いのが柱に彫られた仏伝図で、 王子の出家や降魔成道、父王との再会、などとい った場面は直ぐに馴染める。 側柱では、地母神ヤクシーや象が梁を支えてい るのが、いかにもインドらしい。 森林に埋もれて眠っていた古代のストゥーパが ほぼ原形のまま姿を現したことは、正に25世紀 後に起こった釈尊の奇跡とも言えそうである。 サンチー最古のストゥーパである第二ストゥー パ見学は時間の関係で断念した。 |
|
サンチー/第三ストゥーパ Sanchi / Stupa 3 |
|
マディヤ・プラデシュ州 Madhya Pradesh |
|
小振りなストゥーパが、北側参道の脇に建ってい る。第一ストゥーパをモデルにして建造されたよう だ。内部から、釈尊の弟子(舎利弗ほか)の舎利容 器が発見されたそうである。 トラナには、アショカ王の紋章とも言うべき、三 頭の獅子に乗る転法輪や、無数のストゥーパや聖樹 を礼拝する人々の姿が彫られている。 規模は小さいが、第一ストゥーパに匹敵する、内 容の濃い彫刻を見ることが出来る。 ストゥーパとトラナのバランスが美しい。 |
|
このページTOPへ | |||
前のページ (エローラ) へ | |||
インドの石窟TOPへ | |||
世界の建築TOP | |||
総合TOPへ 掲示板へ | |||