1961.1.31神奈川県逗子市生まれ。
祖父は職業軍人で父は海上自衛官だった。祖父は器用な人で海軍兵学校へ入ってから始めた剣道とテニスの同期の大会で優勝している。しかし、戦後は大学の講師として数学の講義で生計を立てていた。
父は若い頃から馬術と居合そして剣道の稽古をしていた。特に馬術には相当入れあげていた様子で、戦後いろいろな事情から馬に乗れなくなった事を後々まで悔やんでいた。
後に私の空手の師匠となる仲林洋吾先生も馬術で国体まで出られたほどの馬好きだったので私の父とは馬の話から始まり意気投合していた。随分小さな頃から父に玩具の居合刀を持たされたりしていたが、道場という所へかようようになったのは小学校の四年生からだ。
五年生になり剣道連盟の菊池先生のご紹介で稲村ヶ崎の修道学院高野道場に入門させて頂いた。
修道学院は剣聖と言われた高野佐三郎先生の道場であるが私が稽古をつけて頂いた時は佐三郎先生のご長男の弘正先生が後を継いで後進の指導に当られていた。
弘
正先生は若い頃、米国西海岸で剣道の普及に努められていた。そこで行われていたフェンシングの大会を初めてご覧になった先生はフェンシングとは如何なる
ルールかとお聞きになったうえで飛び入り初参加にして優勝している。私が入門させて頂いた当時は好々爺の印象しかなく、暫くしてからその存在の偉大さを知
る事に成るのだが本物とは斯くあるべしと学べた最初の人物であった。
1976.10.3 私の父である故、国資(1982)が鎌倉市大船に尚武館を設立。(当時、無双直伝英信流七段教士)居合道、剣道の道場として活動を始めた。私は高校(鎌倉学園)に入学後、松林流励武館(現在は昭林流励武会)へ入門。
正式にここで初めて空手を学ぶ事になる。館長仲林洋吾先生は今の私の生みの親であり、今もお世話になっている。
松林流は故、長嶺将真先生が興された流派である。『私は【首里手】の喜屋部朝徳先生、【泊手】の本部朝基先生の直弟子として両先生か
ら長い間指導を受けたが、喜屋部先生は【首里手】中興の祖と言われる松村宗棍先生の直弟子であり、本部先生は【泊手】中興の祖と伝われる松茂良興作先生の
直弟子に当り、私は松村宗棍先生、松茂良興作先生の孫弟子になるわけで、両先生の偉業と人間像を長く後世に顕彰する意味で、昭和二十二年(一九四七)七
月、松村、松茂良の松の一字を以って、松林流空手興道館と命名したのである』(『沖縄の空手道』長嶺将真著より)
以前NHKの大河ドラマで『琉球の風』という番組を放映していたが、その番組の沖縄を紹介するコーナーの中で、沖縄の空手道として長嶺将真先生の道場の稽古風景が写されていた。
1979年福島大学経済学部入学後に極真会館福島支部に入門。
当時福島支部は東孝先生(現在は大道塾塾長)の極真会館宮城支部の分支部扱いであったが、1980年第十二回全日本空手道選手権大会にて三瓶啓二先生が初優勝され地元福島へ凱旋された為、東孝先生は後輩の三瓶啓二先生に福島支部を禅譲。
因みに東孝先生は早稲田大学極真空手同好会の初代主将で、三瓶啓二先生は同同好会の三代主将を務めた。
福島では色々な方々にお世話になりながらも充実した稽古の日々を過ごせた。
三瓶啓二先生は、先生のアパートと私の下宿が近かった事もあり、夏休みなどは稽古後に毎回飲みに連れていって頂いた。ガンガン飲んだ
後に朝日を見る頃仕上げに焼肉か特大の豚カツ定食を振舞って頂くのだが、小食の私には是がコタエル。そして一時間かそこらしか寝るまもなく朝練習(自主
錬)を始めなければいけないのだが、大概私は睡魔が意志に勝った。
ところが他の道場生から三瓶先生が朝早く走っていたということを聞かされ、己の
不甲斐無さを何度も嘆き、空手家たるもの酒と稽古の両立は文武両立にも勝るものと・・・までは思わないが、考えさせられた。要するに自己管理能力の問題で
ある。三瓶先生は紛れも無く私の育ての親である・・・と勝手に自認している。先生は『諦めるな!』という言葉をいろいろな場面で私も含めた生徒達に言って
いた。気持ちが萎えそうに成る時いつも先生のこの言葉を思い出す。
卒業試験の夢に未だ魘(うな)され続けている私だが、卒業を前にして福島から実家へ戻り父の遺した剣道場の手伝いを始めた。(この後無事にでもないが卒業した)
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