館長プロフィール
1984.09.24 第1回東北空手道選手権大会(無差別)
準優勝
三瓶先生が全日本で優勝され、福島に凱旋されてから初の主催大会。
(それまでは現:大道塾塾長の東孝先生が主催されていました。)
この東北大会での優勝者はI選手。翌年にはウェイト制全日本大会の中量級でも優勝しました。



第1回東北大会で
二回戦終了直後の写真


1985 首都圏交流試合(無差別)
5位入賞
準々決勝で世界大会出場経験者のM選手と。私は完敗。


1989.05.14 第4回福島県大会 (無差別)
準優勝・・・またしても2番目。


1989.09.10 第6回東北空手道選手権大会(無差別)
4位入賞
翌年ウェイト制全日本で活躍したS選手と準決勝戦では2回の延長戦。
とても楽しい試合でした。


1999.05.09 第14回福島県大会(ウェイト制・軽量級)
優勝
初の一等賞。現役引退して10年!
ここで勝てたのはなんといっても太極拳と古武術のおかげ!天野先生、甲野先生ありがとうございました。
決勝での相手は、翌年ウェイト制全日本で大活躍したU選手。私とひとまわりくらい年齢が違う。
彼の準決勝の相手は、次の試合を待っている私の目の前で彼の胴回し蹴りを喰らい、担架に乗せられ運ばれていった。
その時の私の気持ちはとても複雑・・・。
しかもその気絶して運ばれて行った相手に私は予選で敗れているのです。
(予選とは、福島県大会に出場する選手を決めるための試合で、この大会の1〜2カ月程前に行われるものです)


2001.10.28 国際総合空手道全日本選手権大会 
フルコン黒帯軽量級部門
優勝
国際総合空手道連盟主催。選手は子供からマスターまで。
出場させて頂いてありがとうございました。
当道場からマスターズ部門に参加した吹野選手も3位入賞。



1961.1.31神奈川県逗子市生まれ。
祖父は職業軍人で父は海上自衛官だった。祖父は器用な人で海軍兵学校へ入ってから始めた剣道とテニスの同期の大会で優勝している。しかし、戦後は大学の講師として数学の講義で生計を立てていた。
父は若い頃から馬術と居合そして剣道の稽古をしていた。特に馬術には相当入れあげていた様子で、戦後いろいろな事情から馬に乗れなくなった事を後々まで悔やんでいた。
後に私の空手の師匠となる仲林洋吾先生も馬術で国体まで出られたほどの馬好きだったので私の父とは馬の話から始まり意気投合していた。随分小さな頃から父に玩具の居合刀を持たされたりしていたが、道場という所へかようようになったのは小学校の四年生からだ。

五年生になり剣道連盟の菊池先生のご紹介で稲村ヶ崎の修道学院高野道場に入門させて頂いた。
修道学院は剣聖と言われた高野佐三郎先生の道場であるが私が稽古をつけて頂いた時は佐三郎先生のご長男の弘正先生が後を継いで後進の指導に当られていた。
弘 正先生は若い頃、米国西海岸で剣道の普及に努められていた。そこで行われていたフェンシングの大会を初めてご覧になった先生はフェンシングとは如何なる ルールかとお聞きになったうえで飛び入り初参加にして優勝している。私が入門させて頂いた当時は好々爺の印象しかなく、暫くしてからその存在の偉大さを知 る事に成るのだが本物とは斯くあるべしと学べた最初の人物であった。

1976.10.3 私の父である故、国資(1982)が鎌倉市大船に尚武館を設立。(当時、無双直伝英信流七段教士)居合道、剣道の道場として活動を始めた。私は高校(鎌倉学園)に入学後、松林流励武館(現在は昭林流励武会)へ入門。
正式にここで初めて空手を学ぶ事になる。館長仲林洋吾先生は今の私の生みの親であり、今もお世話になっている。

松林流は故、長嶺将真先生が興された流派である。『私は【首里手】の喜屋部朝徳先生、【泊手】の本部朝基先生の直弟子として両先生か ら長い間指導を受けたが、喜屋部先生は【首里手】中興の祖と言われる松村宗棍先生の直弟子であり、本部先生は【泊手】中興の祖と伝われる松茂良興作先生の 直弟子に当り、私は松村宗棍先生、松茂良興作先生の孫弟子になるわけで、両先生の偉業と人間像を長く後世に顕彰する意味で、昭和二十二年(一九四七)七 月、松村、松茂良の松の一字を以って、松林流空手興道館と命名したのである』(『沖縄の空手道』長嶺将真著より)

以前NHKの大河ドラマで『琉球の風』という番組を放映していたが、その番組の沖縄を紹介するコーナーの中で、沖縄の空手道として長嶺将真先生の道場の稽古風景が写されていた。

1979年福島大学経済学部入学後に極真会館福島支部に入門。
当時福島支部は東孝先生(現在は大道塾塾長)の極真会館宮城支部の分支部扱いであったが、1980年第十二回全日本空手道選手権大会にて三瓶啓二先生が初優勝され地元福島へ凱旋された為、東孝先生は後輩の三瓶啓二先生に福島支部を禅譲。
因みに東孝先生は早稲田大学極真空手同好会の初代主将で、三瓶啓二先生は同同好会の三代主将を務めた。
福島では色々な方々にお世話になりながらも充実した稽古の日々を過ごせた。

三瓶啓二先生は、先生のアパートと私の下宿が近かった事もあり、夏休みなどは稽古後に毎回飲みに連れていって頂いた。ガンガン飲んだ 後に朝日を見る頃仕上げに焼肉か特大の豚カツ定食を振舞って頂くのだが、小食の私には是がコタエル。そして一時間かそこらしか寝るまもなく朝練習(自主 錬)を始めなければいけないのだが、大概私は睡魔が意志に勝った。
ところが他の道場生から三瓶先生が朝早く走っていたということを聞かされ、己の 不甲斐無さを何度も嘆き、空手家たるもの酒と稽古の両立は文武両立にも勝るものと・・・までは思わないが、考えさせられた。要するに自己管理能力の問題で ある。三瓶先生は紛れも無く私の育ての親である・・・と勝手に自認している。先生は『諦めるな!』という言葉をいろいろな場面で私も含めた生徒達に言って いた。気持ちが萎えそうに成る時いつも先生のこの言葉を思い出す。

卒業試験の夢に未だ魘(うな)され続けている私だが、卒業を前にして福島から実家へ戻り父の遺した剣道場の手伝いを始めた。(この後無事にでもないが卒業した)


福島大学極真空手道部十二代主将平野健次君と奥様の結婚披露宴にて
前列右が三瓶啓二先生ご夫妻。
左は空手部顧問をして頂いていた行政社会学部長の新見治一先生。
後列左から三代主将の瀧嶋、二代目主将の須藤、私。
後列右から早稲田大学極真空手同好会の副主将だった大津君。
そして、城西大学空手部四代主将の夏井先輩、私の恩人の一人である。

そのうち剣道の稽古をしていた生徒の一人が私に空手を習いたいと言ってきた。 他の仲間達も是に加わり現在の尚武館立上げのきっかけとなる。三十代に入り自分の行ってきた稽古法への疑問がより深刻化して来た。兎に角このままでは良く ないが、さりとて何処を如何変えればよいのか、果たして実際変えていいものなのかと、考えれば考えるほど深刻の度合いは深まる一方であった。そんな時『秘 伝』なるカナリマニアックな雑誌に目が留まった。励武館仲林洋吾先生が若い頃お世話になったという神道自然流を興された小西康裕先生を特集していたから だ。

そこで初めて甲野善紀先生の存在を知る。その雑誌の記事は甲野善紀先生が『井桁術理』(イゲタジュツリと読みます)を発表されてから まだ間もない頃のもので、混乱がより深刻化していた私にとっては福音であった。ところが『約束の地』にはそう安々とは辿り着けない。『井桁術理』もその例 外ではなかった。

今の私に欠けているものは感性なのかそれとも単に読解力かと考えに考えた末。『井桁術理』とは暫く距離を置くことにした。つまり早い 話が考えない事にした。欲求不満の日々が続いていたのだが、そんな私を救ってくれたのは太極拳だった。少年時代から憧れていた中国武術だったが、中でも太 極拳は私にとってとても神秘的に思えた武術だった。サンドバックへの打ち込み練習やウェイトトレーニングをしていた体育館の隣の格技室で稽古をしている太 極拳を見たときこれならば何かヒントが得られるかも知れないと入会した。

1994年5月、無限太極拳協会入会。この太極拳の稽古での私の体の変化は自分で言うのも変だが著しいものがあった。今まで如何に考 えて稽古をしていなかったかを晒すようで恥ずかしいのだが事実なのでしょうがない。この太極拳を通しての感じ方は人それぞれのようだが、私にとってはこの 無限太極拳協会の進め方が幸運な事に合っていた。現在私達が道場で稽古している形は松林流の古伝の形の中の幾つかであるが、その動きは尚武館独自のもので あり、そのきっかけを頂いたのは無限太極拳協会の天野祐子先生であり、またその「套路(形)理論」である。
太極拳の稽古を通じて自分の感覚に多少自信が持てる様になった頃、意を決して甲野善紀先生の松聲館を訪れる事にした。

1995年8月武術稽古研究会松聲館入門。私が甲野善紀先生から教えを頂いているものは柔術、剣術、抜刀術、手裏剣術などだが、先生 は『こういった形で使われてみては如何ですか』と私にわかり易いように説明と実演を見せて下さる。ご自分の術理を弟子の個性に合わせて伝えようとなさる姿 に、私自身のひとに対する接し方をつくずく考えさせられる。
いろいろな方面で何かと偏見を持ちやすかった私に少し幅が出来たとすれば、それは甲野善紀先生との出会いがあったからだ。

1997年9月【新道場】開き。
それまで稽古をしていた東口の剣道場から駅の西口にあるマンションの一階に尚武館空手部門は 転居した。道場開きでは三瓶啓二先生は海外出張のご予定と重なってしまったが、励武館仲林洋吾先生、無限太極拳協会天野祐子先生、松聲館甲野善紀先生にお 出で項けた。そして天野祐子先生は太極拳楊式剣を表演して下さり、甲野善紀先生には高弟のY氏と剣術、柔術、抜刀術の演武をご披露して頂き、祝宴が終わっ た後にも私の友人、後輩、そして生徒達に稽古をつけて下さった。其の後甲野善紀先生には当道場で稽古会を開きお出で頂いたのだが、なんと最終電車の時間ま で稽古をつけてくださった。あれだけお忙しい日々を送っておられながら何故そこまで出来るのか私の理解を超えた所に甲野善紀先生がおられるのかと思うとそ の先生の言われる『術理』なるものといったいこの先どうやって向き合っていけば善いのだろう。大船駅で甲野善紀先生を御見送りする時、翌日お忙しいのを 伺っていた私は乗り換え電車の終電が気になって気になってしょうがなかったのだが、『私はどんなに遅くなっても今まで乗れなかった事が無いんですよ』と 笑って話されていた。今まで色々な方々のご緑とご恩を受けて今日の私がある。はじまりは剣道だったが、励武会の仲林洋吾先生との出会いで空手にのめり込ん だ。



尚武館道場開きの宴の後、甲野先生を囲んで


極真 空手の三瓶啓二先生に稽古をつけて傾いていた時代には試合に憧れ、今は太極拳の天野祐子先生と甲野善紀先生のお陰で武術家としての身の処し方を学ばせて頂 いているつもりである。精神論でもなければ、単なる運動でもない。心と体は別々にも見えるがまるで別物でもなく、またよく心身一如と言われはするが単に一 体と考えても心と体の不調和を感じてしまうこともしばしばあるものだ。
しかしこの不調和を感じる事が出来るので、何か変化を期待する。平常心、不動心といった言葉に代表されるような精神力が全ての武道家に備わっているとは誰 も思っていないだろうが、少なくともそう有りたいと願う人間が武道を志す人には多い筈である。私もその一人であって決して強い人間でもなければ清廉潔白な 人間でもない。『清濁併せ呑む』という幟を立てて、その後ろから半分だけ顔を出しながら生徒達に豪そうなご高説を垂れている。

ところがそんな私も精一杯生きているつもりではあるので、言葉ではないところをきっと汲んでくれているのだろうか色々な形で生徒達に 効果が顕れている。私自身が如何で有れ人様のお役に立てるということは有り難い事だと思う。今後もこの姿勢をとり続けて行くのかどうかは私自身にも分から ないが、進展して行きたいという気持ちと稽古で確実に変わりつつある体の感覚(五感も含めた感覚)に任せてみたいと思う。


<お問い合わせ>
       尚武館
〒247-0072
神奈川県鎌倉市岡本2-2-1 
DIKマンション104
最寄駅 大船駅 徒歩3分
TEL/FAX:0467-43-1449
メール:hm3togen@mug.biglobe.ne.jp
.

Copyright(c) 2010 Shoubukan. All Rights Reserved