陰気な屋敷だと、いつ来ても思う。日当たりは決して悪く無いし、人の数が少ないわけでもない。それでも、来る度に思うのだ。なんて陰気な屋敷なんだろう――と。
 姉からの急な呼び出しで来訪するのも一体何度目だろうか。”急な”とつけてはみたものの、そもそも急ではないことなどただの一度も無かったように思える。そう、姉からの呼び出しはだいたい『すぐ来て』というものであり、決して『今度いつ来れる?』というようなご機嫌伺いの形ではない。双子として生まれ、その出生時間はそれこそ長くても分単位しか違わないというのに、両者の間には決定的な立場の差があるのだ。
(……昔は、そんなじゃなかった筈なんだけどな)
 溜息混じりに渡り廊下を歩く。気を抜けば滑って転びそうになるほどに磨き上げられた廊下も、落ち葉一つ無く整えられた庭も、優巳の目にはすべてが無駄の極みにしか思えない。この屋敷も、屋敷に働く人間達もそのすべてがたった一人の人間を世話する為に用意されていて、そしてその”たった一人”はそんなことを毛ほども望んではいないことを知っているだけに、ことさら無駄に思えた。
(やだなぁ……また”頼み事”をされるのかな……)
 愛奈に呼ばれるときは半分が何らかの頼み事で、もう半分は暇つぶしだ。愛奈の”暇つぶし”に付き合うのも正直骨なのだが、かといって”頼み事”の方も決して楽ではない。
(”この前”もそれで酷い目に遭ったし……)
 愛奈に頼まれたクッキーを月彦に渡そうとするも受け取ってもらえず、結果風邪を引く羽目になってしまった。挙句、お使いの失敗を知って激昂した愛奈におしおきと称して三十分も正座させられたのだ。
 気は進まない――が、かといって無視するわけにもいかない。優巳はため息まじりに屋敷の廊下を練り歩き、姉の姿を探す。
「あっ、居た居た。もー、ずいぶん探したよぉ……部屋変えたなら変えたって教えてよね」
 愛奈は百近い数の空き部屋の中から、時折気分転換と称して私物を丸ごと移して”引っ越し”をする。が、だからといってわざわざ今の部屋はここといった旨の通達が来るわけでもない。都度、優巳は屋敷に働く女官に尋ねながら探し回る羽目になる。
「ちょっと、愛奈。自分で呼んどいて無視なんて――」
 背を向けたまま微動だにしない姉の態度に頭に来て声を荒げかけた優巳は――ハッと口を噤む。姉が背を向けたままなのはテレビ画面に見入っているからであり、そこに映し出されている画面には見覚えがあったからだ。
「ぁっ……ごめん…………”それ”やってたんだ……」
 恐怖で体が震え、変な汗までにじみ出てくる。以前、”その時間”を邪魔してしまったときにどんな目に遭わされたか――体の方が覚えているのだ。
 優巳はしばしその場に立ち尽くし、”終わり”を待つ。画面に映し出されている”二人”が無音の中砂浜を歩き続け、やがて見えてきた街のオブジェクトへと入り画面が暗転するなり、愛奈はもう用済みだと言わんばかりに躊躇無くゲーム機の電源を切った。
「はぁぁ………………」
 そして、天を仰いで法悦の息。まだだ、まだ声をかけてはいけない。”余韻”を楽しんでいる愛奈に”雑音”を聞かせてはならない。
「……あれ、優巳、来てたんだ」
 開け放たれた障子戸の向こうに立つ妹の存在に漸く愛奈が気づいたのは、たっぷり三十分は経過してからだった。
「今日は早かったね。もっとかかると思ってた」
「あっ……うん……乗り換えの時、一本早い電車がちょっとだけ遅れてたせいでそっちに乗る事が出来たの」
「そんな所に突っ立ってないでこっちにおいでよ。あっ、お腹減ってない? 何かもって来させようか?」
「ううん、大丈夫。それより愛奈、大事な話って何?」
 愛奈に手招きされるままに優巳は部屋の中へと入り、隣へと座る。内心優巳は”用事”をさっさと片づけて帰りたいと思っていたが、さすがに口には出せない。
「その前に、っと。ごめんね優巳、もうちょっとだけ待ってて」
 そう言って、愛奈は先ほど消したゲーム機の電源を再び入れ、なにやらメニュー画面を操作し始める。
「……また、最初からやり直すの?」
 それは優巳も何度か見た事のある作業だった。愛奈はセーブデータを消去し、再びゲーム機の電源を落とす。
「優巳が言いたいことは分かるよ。直前のセーブデータからあの浜辺の所だけやり直せばいいのに、っていうことでしょ?」
「う、うん……だって――」
「違う、優巳は分かってないんだよ。本でも映画でも、一番見たいシーンだけ見ても面白くもなんともないんだよ? ゲームなら、きちんと最初からやらなきゃ」
「だけど……」
 先ほど愛奈がやっていたのは『ブレスオブドラゴンV』という古いゲームだ。クソゲーと名高く、特に序盤の難易度が高いことでも有名なゲームだ。
(でも、愛奈は……)
 難易度が高いのは、序盤で仲間に入るキャラが主人公を攻撃するせいなのだが、基本的にはそのキャラの意に沿った行動をとって攻撃を抑制するのが正攻法だ。しかし愛奈のやり方は違う。攻撃を受けてもものともしない程に主人公を鍛え上げてからストーリーを進めるのだ。
 事実、先ほど消したセーブデータのプレイ時間も200時間を越えていた。そのほとんどが序盤の経験値の少ない敵でレベルをカンストさせるのに必要な時間だ。それだけの労力を、ストーリー途中のせいぜい十分弱のシーンを楽しむ為だけに注ぎ込めるというのが、優巳には到底理解出来なかった。
「そ……、そんなに何回もやるようなゲームかな。ネットの評価だってボロクソだし……私もちょっとやってみたけど、主人公は気持ち悪いくらいシスコンだし、味方の筈のキャラが主人公攻撃しまくりだし、ゲームバランスも含めて何もかも酷すぎるよ」
「そうかな」
「知ってる? そのゲームって年に一回行われるクソゲーランキングで未曾有の五連覇したんだよ? クソゲーのプレイ動画配信で有名な人がチャレンジしたけど、ネタにしようがない純粋な苦痛ゲーだって生放送中にバットでゲーム機ごと粉砕しちゃうくらいクソなんだよ?」
「…………。」
「愛奈ってさ、結構そういうところあるよね。百人中百人が絶対に選ばないようなものを選ぶっていうかさ、好みが普通の人とかけ離れてるよね。ぶっちゃけ、そのゲームを面白いって言ってるの、世界中で愛奈だけだよ。絶対」
 そこまで勢いに任せて言った後で、ハッと優巳は口を噤んだ。突然頭ごなしに呼びつけられることが、無意識のうちに相当なストレスになっていたのかもしれない。まるではけ口を求めるように飛び出してしまった暴言を否定するかのように、優巳は口元を覆いながらつい機嫌を伺うような目で姉を見てしまう。
「そうだね、優巳が言う通り、私もバランスは良くないと思うよ」
 しかし意外にも、愛奈はけろりとした顔で頷いた。
「普通の人とは好みが違うのも分かってる。……だけど、好きなんだからしょうがないじゃない」
「そ……か。まぁ、好みは人それぞれだしね」
 言葉を濁しながら、優巳は全身を強ばらせていた。愛奈は本当に怒っていないだろうか――ニコニコと笑顔を零していた愛奈が、唐突に裏拳を繰り出してきて鼻の骨を折られたことも一度や二度ではない。
 内心恐々としながらも平生を装う優巳だったが、”意外”にも愛奈は大人しかった。
「…………ねえ、優巳は――さ」
 それは、およそ姉の口から出たとは思えない、なんとも弱々しいそよ風にすらかき消されかねない声だった。
「海……行った事ある?」
「海って……海でしょ? 何回もあるよ。あれ、愛奈は――」
「うん。私は無いよ。磯の香りがして、水がしょっぱいっていうことは知ってるけどね」
「行きたいなら行けばいいじゃない。さすがにちょっと海に行くくらい、そっちの親に頼めば許可は出るでしょ?」
「そうだね、多分大勢の監視付きにはなるだろうけど、行く事はできると思うよ。……だけど私、初めての海はヒーくんと一緒に、二人だけで行くって決めてるから」
「へぇ……いいんじゃない? 私はそういうのもアリだと思うよ」
 愛奈が自分の目で海を見ることは無いだろうな――軽はずみな相づちとは裏腹に、優巳はそう確信していた。


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十三話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 





「ねえ、優巳。今夜は泊まっていくんでしょ?」
 まるで、ドラマに出てくる愛人のような口調で――おそらく愛奈もわざとドラマの口調を真似してふざけたのだろう――囁かれ、同時に優巳の”お泊り”が確定した。
「嫌だって言っても、帰さないんだから」
 本当はあまり――いや、かなり気が進まなかった。大学の課題も溜まっていて、出来れば直ぐにでも帰宅して続きに取りかかりたかった。
 ――が。
「ね? 優巳。いいでしょ?」
 珍しく弱気――というより、大人しい愛奈をなんとなく見捨てられなくて、渋々承諾してしまった。お礼にとでもいうかのように、夕飯は優巳の好物ばかりが揃えられた。もちろん愛奈の指図だろう。
(…………いつもこうなら、もうちょっと顔を出すんだけど)
 一体全体、どういう風の吹き回しだろうか。夕飯に限らず、何かと自分を立てるような愛奈の配慮に、優巳は嬉しさよりも訝しさを感じてしまう。
 そう、愛奈に気を使われれば使われるほどに、まるで高い高い塔の上へと手を引かれ登らされているような、そんな錯覚に陥るのだ。


 が、しかし客として歓待されること自体は、正直悪い気はしなかった。風呂から上がり、愛奈の部屋に並んで敷かれた布団の上でそろいの寝巻用の襦袢姿のまま猫がじゃれあう様に上になったり下になったりしているうちに、ハッと。
 優巳は自分を見下ろす姉の熱っぽい視線に気が付いた。
「あ、愛奈……?」
「ん? 優巳はするの嫌?」
「あっ……嫌とかそういうんじゃなくって……最近愛奈とシてなかったから……驚いちゃって」
「そうだね。前に来た時もその前もエッチはしなかったもんね」
 そんなことを言いながらも、愛奈の手で襦袢の前が開かれる。
「なんかさ、久しぶりにお風呂一緒に入って、優巳の男の子みたいな裸見てたらムラムラしてきちゃって、無性にエッチしたくなっちゃったの」
「男の子みたいな裸ってひっどいなぁ…………だからずーっと私の方見てたんだ?」
「だって、優巳ってばお尻もおっぱいも全然無いじゃん。おっぱいなんて、私が前に一度大きくしてあげたのに、一か月もしないうちに元に戻っちゃったし」
「あはっ、あったあった。あの時はホント大変だったんだから。わざわざ大きくなった胸用のブラ買ったのに、すぐ小さくなっちゃって結局無駄になるし……てゆーか、そもそも私が大きくしてって頼んだんじゃないし……たしか、愛奈がパイズリをされてみたいとか言い出して無理矢理……ァんっ……」
 露わになった胸元を愛奈の舌が這い、さらに先端を軽く吸われ、歯を立てられる。
「やだっ……愛奈っ……歯はっ……だめっ……ンンッ……」
 顎を浮かせながら、優巳は喘ぐ。しかし愛奈は噛むことを辞めず、れろり、れろりと押しつぶすように舐めては噛んで――というよりは歯で挟むというのが正しい――来る。
「んんっ……!」
「優巳ってば、ほんと乳首弱いよね。今まで相手した女官と比べても優巳が一番敏感だよ?」
「それは……愛奈が、そういう風にしたから……ァ……」
 愛奈の後ろ髪を掻き毟るように爪を立てながら、優巳は俄かに息を乱す。
「うふ、優巳が感じてる声、可愛い」
 意地悪っぽく呟いて、愛奈が軽く歯を立ててくる。
「ぁっ……やんっ……ア……!」
 敏感な胸の先端を舐られながら、優巳は快楽と――そして安堵を感じていた。どうやら、愛奈の機嫌はかなりいいらしい。そうでなくては、ここまで絶妙な力加減での愛撫はしてこない。
(やだ……すごく……きもちいい……)
 自然と息が乱れる。じゅんと、下半身が潤いを帯びていく。緊張に強張っていた体が、徐々に徐々に脱力し、まるで愛奈の体を受け入れるように自然と足が開いていく。
「優巳、もう欲しくなっちゃった?」
「ぁ……ち、違っ……そういう、わけじゃ……っ……ァァアア!」
 自分でも驚く程に大きな声を出してしまい、優巳は慌てて右手で口を覆った。
「ちょ……ちょっと、愛奈! ”力”を使うのは止めてよ!」
「んーん? 私は何もしてないよ?」
「そんな……じゃあ、どうし――ンン!」
 太ももの辺りを撫でられ、また声が出そうになる。別に女官に聞かれたところでどうということはないが、あまりに容易く喘ぎ声をあげてしまうのも姉の失笑を買いそうで反射的に抑えてしまうのだ。
「声が出ちゃうのは、単純に優巳がエッチだからじゃないのかなー?」
 惚けるように言いながら愛奈が被さってきて、唇を奪われる。
「んふっ……んっ……」
 優巳もまたキスに応じ、愛奈の背へと手をまわす。
「あンっ」
 愛奈がキスの合間に喘ぎ、優しく優巳の頭を撫でつけてくる。
(ぁっ……これ、好きなやつだ……)
 愛奈に、優しく髪を撫でられる――それはごく簡単なことのようで、その実とてつもなくレアなことだ。それだけに、優巳は再度確信する。
(愛奈、すっごく機嫌がいいみたい……よかった……)
 そう、”撫で撫で”は愛奈の機嫌が相当に良い時にしかしてもらえないのだ。優巳自身そのことが分かっているから、いつのまにか頭を撫でられることに途方もない安堵を感じるようになった。
(機嫌がいいなら……痛いことはされない、かな……)
 少なくとも、興奮しすぎた愛奈に首を絞められたり、殴りつけられたりすることはなさそうだ。ましてや、”鼻から精液を垂らしながら涙目で謝る姿が見たい”とかいうだけの理由で精液を大量に飲まされた後、吐くまで腹部を殴りつけられることもなさそうだ。
「あっ、ァ、ァ……」
 襦袢を徐々に開かれ、上半身の露出が増えるとともにキスをされる場所が増えていく。「優巳……手、上げて」
「えっ……やだ、そこ擽ったい……」
「だーめ、優巳が感じる場所は全部キスするって決めたの」
 強引に右手を上げさせられ――優巳もあえては抵抗しなかった――がらあきになった脇へと愛奈が舌を這わせてくる。
「きゃあっ! く、くすぐったいよ……やだっ、あんっ」
「こっちもしてあげる。ほーら、優巳?」
 しぶしぶ左手を上げると、今度は右手の比ではないくらいにレロレロとナメ回され、優巳はあまりのくすぐったさに声を上げて笑った。
「違う、違うよ愛奈! そこは感じてるんじゃなくって、ただくすぐったいだけ……」
「そう? じゃあ、優巳が一番感じるのはどこ?」
「ど、どこって……」
 そんなのわかりきってるくせに、という目で愛奈を見上げる。愛奈も、わかってるけど言わせたいという目で見下ろしてくる。
「ばか……。愛奈の意地悪……」
「うふ、優巳の拗ねた顔かーわいい。キスしちゃう」
 ぷいとそっぽを向いた頬にキスをされ、そのまま首、鎖骨、胸と、キスが徐々に南下していく。
「えっ……あ、愛奈? ちょっ……まさか――」
 返事は無かった。代わりに下着が下ろされたことで、優巳はこの後の展開を悟った。
「ちょ、ちょっと待って愛奈! そんなことしなくていいから!」
「嘘ばっかり。本当はしてほしいんでしょ? 下着脱がそうとしたとき、わざわざ脱がしやすいように自分から足を抜いたクセに」
「それは……でも、愛奈は……」
「いいの。今夜は特別。…………優巳が一番感じるトコロ、いーっぱいキスしてあげる」
「あ、愛奈……やだっ……ソコ…………はぅン!」
 ぐいと、指で開かれる間隔――”そこ”にちゅっと唇を押し当てられた次の瞬間、優巳は腰を跳ねさせ声を上げていた。
「あはっ、”はゥン”だって。……そんなに気持ちいいの?」
「だ、だって……」
 はぁはぁと悶えながら、優巳は肘をつき上半身を起こして愛奈を見るも、”そのアングル”があまりに見慣れなくて戸惑ってしまう。
(愛奈が、口でシてくれるなんて……)
 それこそ、”撫で撫で”の比ではないくらいレアなことだ。恐らく、相手に奉仕をしているようでプライドの高い愛奈には耐えられない行為なのではないかと勝手に想像はしていたが、ひょっとしたら単純に機嫌の良し悪しの問題だったのだろうか。
「いいよ、優巳。気持ちいいなら、もっとシてあげる」
「ぁ、やっ……だめっ……愛奈にそんなコトされたら……ンンンンっ!」
 びくびくびくっ。
 粘膜を舐め上げられ、腰を震わせながら優巳は慌てて声を押し殺す。
「だめっ、だめっ……愛奈っ……きもちいい……きもちいいよぉ……!」
 姉からの返事はなかった。代わりにちゅっ、ちゅっと音を立ててクリストリスを吸われ、優巳は腰を跳ねさせながら絶頂する。
「あッッ……はァァ…………」
 甘くとろけるような絶頂の余韻に、ついそんな声が漏れてしまう。はぁはぁと肩で息をしていると、再びちゅっ、と。
「あぅっ!」
 ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。
「あぁっ! あっ、んっ!」
 れろり、れろっれろれろれろっ。
「あっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」
 絶え間ない口撃に、優巳は容易く二度、三度とイかされる。
「あぁぁっ……! うそっ、うそっ、愛奈がっ、こんなっ……あぁぁああんっ!!!」
 ビクビクと腰を跳ねさせながら、さらに優巳はイく。
「あンッ! あンッ! あンッ!」
 もはや声を抑えることも忘れてあられもない声を上げ、ただただ布団をかきむしる。れろれろと敏感な粘膜を舐め回してくる舌の感触もさることながら、愛奈に口でされているということがこの上ない興奮を優巳に与えていた。
(あぁぁっ……愛奈がっ……愛奈が、私、のっ……!)
 それとも、シてもらえなかったのは自分だけで、名前も知らない女官達とはそれなりに経験豊富なのだろうか。”不慣れ”とはとても思えないほどに巧みに舐め上げられ、優巳はただただイきながら声を上げ続けることしか出来ない。
「だめっ、だめっ、愛奈っっ……もう、止めてぇ! おかしくなっちゃう!」
 懇願しながら、心のどこかで優巳は”続行”を願っていた。中断されるにはあまりに惜しすぎる快楽だった。
「ぁ……」
 ”口撃”が止んだことを、喜べばいいのか惜しめばいいのか、優巳の胸中は複雑だった。
「……良かった? 優巳」
 体を起こした愛奈はどこか得意げで、ふふんと鼻で笑うようにふんぞり返っていた。どう? 私は何をやっても優巳より上手いのよ?――そんな自慢すら透けて見える姉の姿が、今日この時ばかりは全く不快だとは感じなかった。
「うん……すっごく良かった……もうね、腰から下が溶けて無くなっちゃうかと思った」
「うふ。優巳ってばクンニされると弱いんだね。もっと早く教えてくれればよかったのに」
「前に何回かシてって言ったよ? でも愛奈がヤダってシてくれなかったんじゃない」
「そうだっけ?」
「そうだよぉ……愛奈ってば、自分のはすぐ舐めさせるくせに、逆は嫌がるんだもん」
「優巳の言う通り、自分でするのはあんまり好きじゃないかな。……だけど、優巳は特別。こんなこと、他の子には絶対しないんだから」
「愛奈……」
 優巳は特別――愛奈の言葉が、優巳自身驚く程に鋭く胸の内を揺り動かす。幼い頃はそれこそ無二の分身の様に仲が良かった姉との立ち位置に凄まじい落差を感じていただけに、本当に嬉しかった。
「愛奈。いっぱい気持ちよくしてくれたから、今度は私がシてあげる。今度は愛奈が腰がくがくさせて、あへあへってなっちゃうくらい、いーっぱいしゃぶってあげる」
 囁くように言いながら、優巳は愛奈の下半身へと手を伸ばし――どうやら愛奈は下着をつけていなかったか、知らぬ間に脱いでしまっていたらしい――ギンギンにそそり立つ肉の槍を優しく撫で擦る。
「やん……優巳のエッチ。嬉しいけど、次にすることはもう決まってるの」
 肉槍を撫でつける手がつかまれ、強引に引きはがされる。
「フェラよりも、今はクチュクチュのトロットロに仕上がってる優巳のナカに早く入れたくて堪らないの……」
 ぎりっ――痛みすら感じるほどに力強く、愛奈が手首を握りしめてくる。はぁはぁ、ふぅふぅ、まるで空腹の肉食獣が捕らえた獲物を見下ろすような血走った目に、優巳は興奮と、僅かばかりの恐怖を覚える。
「はぁはぁ……優巳……入れる、ね?」
「う、うん……来て、愛奈…………アッ………………!」
 ………………。
 …………。
 ……。
 


 誇張なしに”今までで一番”かもしれない――何度も、何度も声を荒げイかされながら、優巳はそう思い始めていた。
「あンッ、あンッ……優巳っ、優巳っ……あぁぁっ、もう出ちゃうっあぁぁぁッ!!」
「あっ、愛奈っ、ぁあっンッ……! あっ、あぁぁあァァっ!!!」
 絶頂に打ち震える体内に、びゅうびゅうとすさまじい勢いで白濁液が注ぎ込まれる。
「ぁっ、ぁっ、ぁぁぁぁ……うっ、まだ、出るっ……ぅっ……はぁはぁはぁ……」
 射精しながら、愛奈はさらに二度、三度と腰を使い、喘ぎながら腰を跳ねさせる。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……あ、愛奈……ちょっ……すこし、休憩しよ? わたし……もう、くたくた……」
 まるで、強力な痺れ薬でも盛られたかの様に体に力が入らなかった。そのくせ”下半身”だけはヒクヒクと強張りを締め続けていて、否が応にもその質量を優巳に自覚させる。
「ぁっ、ぁっ、やんっ……ダメだよ、優巳……そんなふうに締めたら、またしたくなっちゃう……」
「ま、待って……愛奈……態とやってるわけじゃ……」
「あぁぁ……優巳、優巳! イき過ぎて涙目になっちゃってる優巳の顔、すっごく可愛い! あぁんっ、興奮しちゃうよぉ……!」
 優巳は背筋が冷えるのを感じた。”興奮”は良いが”興奮しすぎ”はNGなのだ。
「ま、待って愛奈! いくらなんでもがっつき過ぎだから」
 優巳はそっと愛奈の首へと手を回し、抱き寄せるようにして唇を重ねる。
「折角久しぶりに愛奈とするんだから、私ももっとじっくり楽しみたいの」
 ちゅっ、ちゅっ――言葉の合間合間にキスを挟みながら優巳は徐々に、徐々に愛奈をクールダウンさせていく。”興奮しすぎ”た愛奈が求めるものは、最終的には”流血”になるからだ。
「あんっ……優巳ぃ……焦れったいよぉ……」
 もどかしそうに小刻みに腰を使いながら、愛奈はねだるように指先で乳首を転がしてくる。
「ねぇ、もう動いてもいいでしょ? いっぱいキスしたし、休憩は終わりでいいよね?」
 息も絶え絶えに。まるで瀕死の重傷でも負っているかのような息使いでの哀願に、優巳は優越感と――そして疑念が沸くのを感じた。
(……おかしい。いつもの愛奈だったら、いちいち私に伺いを立てたりなんかしないのに)
 基本的には、自分がやりたいことを自分がやりたいようにやる――それが黒須愛奈もとい、土岐坂愛奈のセックスだ。相手をする優巳にできるのはせいぜい愛奈が怒らない程度にいくつかの提案をし、”痛み”を軽減する――それくらいなのだ。
「ぜ――……全然休憩には、なってない、けど……愛奈がそんなにしたいなら……いいよ。”このまま”でいいの?」
「……ううん、次は”後ろ”からシたい」
 素直な要求に、つい笑みが漏れる。優巳は上体を起こし、愛奈のリクエスト通りに四つん這いになる。
「あんまり乱暴にしちゃヤだよ? 愛奈ってばすぐお尻叩くんだから」
「あはっ。でも優巳のお尻ってあんまり贅肉がついてないから、叩くと私の手も痛いんだよね」
「私はもっと痛いの! そういうのは叩かれて喜ぶような子にしてあげなよ」
 とにかく今日はめっ!と叱るように言うと、たちまち愛奈は甘えるように被さって来た。
「あっ、愛奈!?」
 後ろからしたいんじゃなかったの?――その疑問を口にする前に、ぎゅうと強く抱きしめられる。
「ねぇ、優巳。”お姉ちゃん”ね、優巳にお願いがあるんだけど」
 うわっ、と。思わず声に出すところだった。愛奈が自分を”お姉ちゃん”と呼ぶときは、およそろくでもないことを要求される時だ。
「今日は”こっち”でシたいなぁ」
 吐息が耳を撫でるほどの距離で甘えるように囁きながら、愛奈は屹立しきった肉の槍を優巳の尻へと擦り付けてくる。
「こっち……って、まさか――」
「うん。優巳のお尻に挿れたいの」
「や、やだ……お尻でなんて……」
「お願い、ね? 一回だけ。一回だけでいいから……優巳の男の子みたいなお尻に挿れたくて挿れたくて我慢できないの」
 ひょっとして、”その為”に機嫌取りをしてきたのか――姉の不自然な態度に漸く合点がいくと同時に、それでもおかしいと優巳は思う。
 そう、やりたいプレイがあって、それを許してもらうために機嫌をとる――極めて自然なプロセスであるが、それはあくまで一般人の場合だ。
(愛奈は、そんな面倒なことは、絶対にしない……)
 やはり、今日の愛奈はおかしい。一体何があったのか――優巳が”その先”を考えようとした瞬間。
「優巳ぃ、ね? 優しくするから、お願い」
 ”あの愛奈”が”お願い”をするという珍事に、再び心がざわつく。そう、確かに姉の変化は変ではあるが、少なくとも優巳にはこの変化は喜ばしいものに思える。
「もー……わかったよぉ……そのかわり、中には出さないでよ? 前みたいに、愛奈がどばどば出したせいで後でお腹痛くなっちゃうのは絶対嫌だから」
「あはぁ、ありがとー、優巳!」
 愛奈が早速とばかりに体を起こす。そしてほどなく、”いつもとは違う場所”へと、先端が宛がわれる。
「んっ……やだっ……んんんっ!」
「ぁっ、ぁっ……ぁふっ、この……無理矢理ぐいぐい押し込んでいく感じっ……好きぃぃ……!」
 ”前”に挿れられるときとは違う、明らかな違和感。ゾゾゾと背筋を走るのは悪寒というよりも嫌悪に近い。アナルセックスは正直好きにはなれないと、優巳は思う。
 ――が。
「んっ……入っ……たぁっ……はぁぁっ……んっ、締め付けキツっ……でも、最っ高……♪」
 本当に”可愛い男の子”とシてるみたい――そんな姉の呟きに、優巳は飽きれて小さくため息をつく。そう、結局のところ愛奈がアナルセックスをしたがるというのは、”そういうこと”なのだ。
(”あのゲーム”のせいで、いつになく”ヒーくん”が欲しくなっちゃった、ってことかな)
 ひょっとして、今日自分が呼ばれたのも”女官の誰よりも少年っぽい体つきだから”なのかもしれない。
「ひっ……や、やだっ……ちょっ、愛奈……?」
「あぁ、ごめんね優巳。ちょっと興奮してきちゃって……」
 むくむくと肥大する肉槍に無理矢理尻穴を広げられる。ぎちぎちと限界ギリギリまで広げられる感覚に優巳は息苦しさすら感じる。
「ほ、本当に乱暴にしないでよ? さ、裂けちゃうからぁ……」
「大丈夫だよ、優巳。裂けちゃったとしても、あとでちゃんと治してあげるから」
 乱暴にしないとは一言も言ってくれない愛奈に、優巳はただただ諦めるしかなかった。
「あはっ、でもほんっとぎっちぎちだね。確かにこれじゃ、乱暴にしたら裂けちゃいそう」
「やっ、ちょっ……愛奈っ、そんなところ触らないで……」
「どうして? 恥ずかしい?」
 つつと。ギリギリまで広がっているその場所をなぞるように、愛奈の指が動く。優巳はたちまち顔が熱くなるのを感じた。
「あはっ。……優巳、動くよ?」
「っ……んっ……!」
 優巳は枕に顔を埋めるようにして、ぞわぞわと背筋を登ってくる寒気にも似たものを堪える。
「ぁっ、やっ……んんっ!」
「うふ、ちょっとずつ早くしていくからね? …………優巳、気持ちよかったら声出しちゃっていいんだよ?」
「気持ちよく、なんて……っ……」
「そう? 気持ちよくない?」
「っ……ぁぁぁぁああっ! ちょっ……あ、愛奈っ……速っっ……んんんっ!!」
 愛奈は優巳の腰の括れをしっかりと掴み、自らの腰を打ち付けるようにして突き入れてくる。
「あンッ……あんっ……! あぁっ、ぁぁっ……イイよぉ、優巳! そんなふうにイヤイヤってされたら、興奮してきちゃう!」
 ぐぐぐと。尻穴の中に潜り込んでいる部分がさらに、優巳の体を持ち上げようとするかのように力強く屹立しようとするのを感じる。
「あぁんっ、優巳ってば、耳まで真っ赤になっちゃってる……お尻に挿れられるの、そんなに恥ずかしいんだ?」
「あっ……愛奈っ……やんっ……んんっ! ぁっ、やっ……!」
 はぁはぁと息を荒げながら愛奈は優巳の背中を撫でまわしてくる。それに合わせて、深く、根元まで肉槍が挿入されてきて、優巳は咄嗟に枕カバーを噛んだ。
「ねぇ、ゆみ?」
 深く、根元まで挿入しながら愛奈が被さってきて、甘えるような声で囁いてくる。
「ほら、ちゃんと答えて? ”お尻でするのなんて恥ずかしい”んでしょ?」
「ううぅ……」
 渋々、優巳は頷く。
「だーめ、ちゃんと口で言って」
「お、お尻でするのなんて……恥ずかしい……」
「ダメダメ、もっと”男の子っぽく”。ほら、優巳?」
 優巳には分かっている。愛奈は”男の子っぽく”と言うが、それは愛奈なりの”照れ”だ。本当は”ヒーくんっぽく”という意味であると、優巳は察する。
「お、お尻でするのなんて……恥ずかしい、よぉ……」
 記憶の中にある少年月彦の声色を可能な限り真似て言い直すや、たちまち愛奈がゾクリと体を震わせるのを――密着している肌越しに感じ取った。
「あっ、ンっ……ダメだよぉ、”ヒーくん”にそんなこと言われたら…………お姉ちゃん、ヒーくんの中でイきたくなっちゃう……」
 たちまち、愛奈は興奮に血走っていた目をとろんと情欲に濡らし、猫撫で声でそんなことを言いだした。やっぱりこうなった――優巳はげんなりしつつも、しかし口には出さない。愛奈が”ノっている時”に下手に口をはさんで素に戻すとそれこそ取り返しが付かなくなるからだ。
「ねぇ……お姉ちゃん、このままナカに出しちゃいたいな。ダメ?」
 両手で肩を掴み、ぴたぁと密着したまま小刻みに腰を使いながらのおねだり。もちろん優巳には言うべき言葉は分かっている。
「だ、ダメ……中には、出さないで……」
 ゾクゾクゾクッ――愛奈が身震いするのが伝わって来る。はぁぁ、と熱っぽい吐息が後ろ髪にかかる。
「どうしても、ダメ?」
 ここは返事をせず、顔を赤らめたまま俯く。
「ねぇ、ひーくぅん……お願い、お姉ちゃんヒーくんのナカでイきたいの」
 お・ね・が・い――密着したまま、再度甘えるように小刻みな腰使い。ここで優巳は漸く小さく頷く。
「いいの? ホントに?」
 再度頷く。
「……だーめ。ちゃんと声に出していいって言って?」
 少し苛立つような愛奈の声。
「い、一回だけ、だよ? アイお姉ちゃんだから、特別だよ?」
 いい加減この子芝居に付き合わされるのもうんざりだと――そんな気持ちは微塵も混ぜず、優巳は”少年”を演じきる。
「あぁん! お姉ちゃんもヒーくん大好き!」
 ぎゅうううっ!――肋骨が軋むほどに強く抱きしめられた後、ほどなく愛奈が体を起こした。
「じゃあ、イくよ?」
 腰を掴んでの抽送。どうやら興奮の極みにあるらしい愛奈の頭にはおよそ手加減という文字は無く。小さく喘ぎ交じりの声を漏らしながら、一心不乱に腰を振り、攻め立ててくる。
「はぁっ、はぁっ、んぁっ……ヒーくんの、おしっりっ……きもちいいよぉ……! あぁんっ! でちゃうっ……出ちゃうぅうう!」
「っ……っ……ンッ…………っ……!」
 極太の肉槍で乱暴に尻穴をほじられながら、優巳はただただ声を押し殺す。下手に声を出せば”興を削がれた”と愛奈に仕置きをされるかもしれないからだ。
「あぁぁぁぁぁああァァ! 出るっ、出るっ、出るっ、出るぅう! あっ、あっぁっああァァーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!」
 愛奈がほとんど叫ぶような声をあげ、肉槍を根元まで押し込んでくる。その直径がほんの一瞬太くなったと感じた時にはもう、優巳の直腸内に特濃の精液がぶちまけられていた。
「ああぁぁぁっ!! あぁっ! あっっッ! あぁっ!!!!」
 射精の度に、愛奈は喘ぎながら大きく体を跳ねさせる。
「あッ、んっ……あふっ、あふぅ……あンッ……やっ……ダメ、止まらなっっ……
あンッ……!」
 がくがくと体を揺らしながら、崩れるように愛奈が被さってくる。はぁはぁ、ぜえぜえ。呼吸を整えながら、甘えるように優巳の後ろ髪、首の後ろに鼻先を擦り付けてくる。
「はぁぁっ……すっごく良かった…………」
 びゅるっ、びゅっ――漸くにして射精が止まった。愛奈が、愛しいものでも撫でるような手つきで優巳の腹部を撫でまわしてくる。
「ごめんね、優巳。結局中に出しちゃった」
 ”優巳”と呼んだ――ということは、声を出してもいいということだ。
「大丈夫、だよ、愛奈。私も気持ちよかったし」
「嘘ばっかり。お尻でするの、本当は全然好きじゃないんでしょ?」
「そんなこと――」
 否定しようとして、口をつぐむ。嘘だとバレている以上、否定は無意味だからだ。
「……でも、嬉しい。自分が嫌なことでも、私のために我慢してくれたんだよね? やっぱり優巳が一番だよ」
 密着されたまま、よしよしと頭を撫でられる。その撫で方がどうにも肉親や恋人をというよりはペットかなにかを褒めているような手つきで、優巳はぷっと噴き出してしまう。
「ねえ、愛奈。ひょっとして、私が胸もお尻も大きくならないのって、愛奈が”そういう風”にしてるからじゃないよね?」
「まさか。私がその気なら、優巳は今頃、顔も声もヒーくんそっくりにしてるよ?」
 それもそうかと、優巳は納得する。
「あぁ、でも……”声”だけなら……エッチの間だけなら……弄っちゃうのはアリかなぁ?」
「えっ……ちょ、ちょっと……愛奈!?」
 するりと愛奈の手が首元へと這ってくる。丁度、優巳の喉元を掴むかのように。
 このまま愛奈が力を籠めれば、喉が握り潰される――そんな恐怖に、優巳はたちまち体が震え出す。今の愛奈は機嫌がいいはずだ。だからそんなことはされないと思う反面、”それでもやる”のが愛奈だという経験則が、優巳の目じりに恐怖の涙を滲ませる。
「ねえ、優巳。終わったらちゃんと元に戻すから……”今だけ”ね?」
 そんな囁きと共に、愛奈に触れられている部分が熱く、火照るように疼く。
「待って……さっき、お尻でするのは一回だけって……」
「ん、もうちょっと高めかな? ”調整”が難しいね、これ」

 そして”声の調整”が終わるや、もう一回、もう一回としつこく求められ続けるのだった。


 やはり、今日自分が呼ばれたのは”ヒーくんの代替品”として性欲処理に利用するためだったのだろう――朝方までしつこくアナルセックスを求められながら、優巳は突然の呼び出しをそのように解釈した。
 とはいえ、それが嫌かと言われると自分でも不思議な程に嫌悪感は無かった。もちろん”もっとヒーくんっぽく”と演技を要求されるのは辟易するが、それでもかつて痛い目に遭わされた記憶から、どうしても判断してしまうのだ。――”ギロチンごっこ”や”人間マーライオン”といった”遊び”に付き合わされるよりは何倍もマシだと。
 何より、愛奈の態度だ。一体全体どういう心境の変化か、いつになく気づかいに溢れ、あまり無理強いもしてこない。そもそも愛奈とセックスをして一度も血を流さずに済んでいること自体おかしいのだ。もちろん、毎回必ず暴力を振るわれるわけではなかったが、それはあくまで通常の交わりでのことだ。溜まってるとか、ムラムラしてるとか自分で言い出した時の愛奈は大抵手がつけられないくらい凶暴で、日ごろの鬱憤をすべて優巳にぶつけるような暴力的なセックスになるのが常なのだ。それはもはや爪も牙もある野獣に犯されるのと何も変わらない、優巳にしてみればただただ苦痛なだけの拷問に他ならない。


「ほらほら、昨夜いーっぱい気持ちよくしてくれた優巳のために特別豪勢にしてもらったんだから。遠慮しないでどんどん食べてね」
「あ、うん……ありがとう、愛奈」
 朝食――時間帯的にはもう昼も過ぎてしまっていたが――を愛奈と二人。用意された膳を挟むような形で食べながら、それでも優巳はつい考えに耽ってしまう。
 目の前に居るのは、本当に愛奈本人なのだろうか――と。
「……うん、美味しいね。ほんと……いつもと全然違う……気がするよ、愛奈」
「んもう、優巳ってば美味しいんならもっと美味しそうな顔しなきゃ。……でも、本当に遠慮なんかしなくていいんだよ?」
 やっぱり変だと、優巳は思う。こんなの愛奈じゃない。愛奈は妹の食欲の有無など気にしないし、むしろ食事中に何の前触れもなくいきなり脇腹を蹴飛ばしてきて、畳の上で食べたものを吐きながら悶絶する様を指さして嗤うタイプだ。
(……なんで急に優しくなったんだろう)
 ひょっとして、ゲームの”あのシーン”に感化されたからだろうか――考えて、優巳は首を振る。過去に何度も愛奈があのシーンをプレイするところを見たが、その前後で愛奈の態度に変化があったことなど無かった。むしろ凶暴になったことならあった気がするが。
「ねえ、優巳。さすがに今日はもう帰っちゃうよね?」
「そ――うだね。昨日今日と二日も大学休んじゃったし……明日は土曜日だけど、週明けに出さなきゃいけない課題が溜まってるし……」
「そっか……そうだよね」
 しゅんと、愛奈が肩を落とす。らしくない――そう思う。愛奈なら、もっと泊まって欲しいと思った時は有無を言わさずそうさせる筈だ。
「ねえ優巳。ここまで遊びに来るのって、遠いし……大変だと思うけど、それでも来てくれると私、嬉しいな。優巳と一緒にゲームするの好きだし、大学の話とか聞くのも楽しいしさ」
 嘘だ――思わず口にしかけて、慌てて飲み込む。以前大学での話を振った時は「何それ、自慢?」と露骨に嫌そうな顔をしたくせに。
(……おかしい、愛奈、一体どうしちゃったの?)
 ひょっとして、これはかつて無い程に愛奈が激昂する前触れではないか――そんな恐怖が、優巳の心を支配する。そう、さながら大津波が来る前に海が一度干上がるように、かつてない怒りの前に、かつてないほどに優しくなっているだけではないのか。
(それとも――)
 愛奈を侮るのは危険だ。それは分かっている。しかし優巳は”そちらの可能性”も考えずにはいられない。そう、姉がいつになく優しいのは、単純に寂しかったからではないのかと。度重なる仕打ちにほとほと嫌気がさし、足が遠のいて初めて自分を訪ねてきてくれる妹の存在の貴重さに気付いたからではないのかと。
(……もし、そうだったら――)
 これほど愉快なことはないと、優巳は思う。長く、傍若無人な振る舞いを続けてきた愛奈がその実ただの寂しがり屋で、一人ぼっちになるのが怖くて今までさんざんに虐げてきた妹の機嫌を伺い始めるなんて。
「…………うーん、でも夜までだったら居られるかな。電車の時間次第だけど」
 確かめなければならない――そんな思いから、優巳は長居を決めた。
「本当!? じゃあ、晩御飯は優巳の大好物にしてあげる! ねえねえ、何が食べたい? なんでも言って?」
 ぱっと輝くような笑顔を零す愛奈に、優巳はうっかりと”後者”だと即断しそうになってしまう。が、さすがに軽々には踏み切れない。
(でも、本当に”そう”なら――)
 愛奈の望み通り、これからは足しげくこの場所に通うことになるだろう。尤も、それが愛奈にとって今までのように楽しい時間となるかは分からないが――。



 夕飯までの間、二人でゲームをして遊んだ。やはり、愛奈は機嫌を取ろうとしているらしいと、優巳はほぼ確信した。何をやっても、およそ姉には勝てない優巳だが、それはゲームの腕前も同じだ。愛奈と対戦ゲームをして勝ち越したことなど今までただの一度も無い。
 にも関わらず、今日この時に限っては思わず吹き出しそうになるくらい互角で、しかも最後は決まってギリギリの接戦の後に優巳が勝ってしまうのだ。”それ”が演出出来てしまうこと自体、相当な技量の差があることが明白なのだが、愛奈本人は精一杯”接待”をしているつもりらしいというのが、一周回っていじらしいとすら思う。
(でも、まだ分からない)
 すでに優巳は九分九厘”後者”だと確信はしていたが、それでも不安の種はぬぐい切れない。九分九厘を十全にするために、優巳は賭けに打って出ることにした。
 まずは、愛奈にゲームソフトの変更を提案した。愛奈は二つ返事で頷き、優巳の希望通りスゴロク式のパーティゲームへと変更される。これも対戦ゲームには違いないが、操作するキャラが踏んだマス目によっては操作プレイヤーだけでなく全プレイヤーが不利益を被るイベントが発生することがある。
 優巳はひたすら”その時”を待った。そう、愛奈のキャラが踏んだマス目のイベントのせいで、自身の操作キャラの所持金が減った瞬間を狙って。
「あぁ、もう! 愛奈のせいでお金減っちゃったじゃん!」
 ぺしーんと、さも思わず手が出てしまったという具合に、優巳は愛奈の頭を軽く叩く。口調とは裏腹に、内心はハラハラしていた。もし、平常運転の愛奈にそんなことをすれば、千倍返しどころでは済まない。
「痛っ……た…………ご、ごめんね、優巳……」
 しかし、叩かれた頭を擦りながら、愛奈はにへらと卑屈な笑みを浮かべただけだった。さながらいじめられっ子が浮かべるような苦笑いに、優巳は思わず愉悦の笑みを我慢しきれなくなった。
 もはや間違い無い。愛奈は、漸くにして黒須優巳の貴重さに気が付いたのだ。
「ねえ愛奈。喉渇いた」
「分かった。お茶でいい?」
 すかさず、愛奈がテーブルの上にあった2リットルペットボトルの栓を空け、紙コップに茶を注いで差し出してくる。
「……ジュースの方がいいなぁ」
「分かった。すぐ持ってこさせるね」
 部屋の隅に下がっている鈴のついた帯を鳴らそう立ち上がる愛奈を、優巳が止める。
「待って、愛奈。それだと時間かかるから、愛奈が直接取ってきてよ」
 人を呼び、命じて、持ってこさせるのでは時間がかかりすぎる。そこまで説明しなくとも、愛奈ならば理解できるだろう。
「……うん、わかった。炭酸が入ってるのでいい?」
「うん。ああでも、炭酸なしのオレンジジュースがあるなら、その方がいいな」
「わかった。すぐ取ってくるね」
 ふわりと巫女服の袖を舞わせて、愛奈が部屋を後にする。
(愛奈、さすがにちょっとムッとしてたな……でも――)
 逆らえない。それが今の愛奈の立場なのだ。そのことが可笑しくて、優巳はこみ上げてくる笑いを抑えきれずにくつくつと嗤った。


「ねえねえ、ぶっちゃけさ。愛奈って男の子と女の子、どっちの方が好きなの?」
 ジュースを飲み、お菓子を食べ。かつて無い程に優巳は寛いでいた。文字通り足を延ばし、スナック菓子のかけらが散らばるのも厭わずに食い散らかしながら。……愛奈が”その手の質問”に戸惑うと分かった上で。
「どっちの方がって……急に言われても答えられないよ」
「そうなの? 愛奈は絶対”男の子”って答えると思ってたけど」
 一番は”ヒーくん”でしょ?――そう続けると、意外にも愛奈は複雑な顔をした。
「もちろん、ヒーくんのことは一番好きだよ? だけど……」
「だけど……?」
「……ごめん、うまく言えない。もうこの話は止めよ」
「えぇー、いいじゃん。教えてよ」
 ずいと、優巳はテーブルに上半身を乗り出すようにして、俯く愛奈に詰め寄る。
 うずうずと、胸の内側が痒みすら感じるほどに疼く。長く、長く重石によって押さえつけられていたものが噴き出すように。
 優巳は”反逆”する。
「私さ、前々から気になってたの。愛奈って、ずっとヒーくんヒーくんって言い続けてる割に、私とか、他の女の子めちゃくちゃ食い漁ってるよね。その辺、愛奈の中でどう割切ってるのかなぁ、って」
「そ、それは……いいじゃない。別に……」
「良くないって。それってさ、”浮気”じゃないの?」
 こんなこと、”今まで”だったら怖くて絶対に詰め寄ることなど出来なかった。愛奈だったら、都合の悪いことから耳を塞ぐために、詰め寄る相手の首の骨を折って聞かなかったことにするくらいのことは平気でやりかねない。
 ……少なくとも今まではそうだった。
「浮気……じゃない、よ……全部遊びだし……一番好きなのはヒーくん、だから……」
「それは愛奈が勝手に言ってるだけでしょ? ヒーくんが実際に愛奈がやってることを知って、どう判断するかじゃないの?」
「そんな……だって…………」
 愛奈はすっかり俯いてしまい、もごもごと口ごもる。長年絶対的強者として君臨し続けてきた姉のそんな姿を前にして、優巳はもうゾクゾクが止まらない。
(何これ……すっごく楽しい!)
 愛奈に意見し、詰る――それは優巳にとって、麻薬にも等しい快楽だった。絶対にやってはいけない禁忌の行いに伴う快感と興奮。昨夜はほとんど一晩中愛奈に責められて性欲などカケラも残っていないはずなのに、気を抜けば疼く下半身に手を伸ばしてしまいそうだった。
(こんなに楽しいなら――)
 夜までと言わず、もう2,3日逗留するのも悪くないかもしれない――そんな誘惑に危うく屈しかけて、優巳は小さく首を振る。それだけは絶対にやってはいけない。長居をして、愛奈が妹の存在を疎み始めたら元も子もない。”これ”はあくまで愛奈の弱みに付け込んでいるだけで、二人の力の差が逆転したわけではないのだ。
 だから。
「大丈夫だよ、愛奈。私にはちゃんとわかってるから」
「優巳……?」
「ヒーくんの為に我慢したくても、出来ないんでしょ? 愛奈ってば絶倫だもんね。愛奈の中の”男の子の部分”が愛奈の言う事聞かなくて、溜まって溜まって爆発しちゃいそうになっちゃうから、”仕方なく他の女の子で発散してるだけ”で、浮気とかじゃないんだよね?」
 適当なところで、ちゃんと”助け船”も出してやる。愛奈にただの嫌な奴だと認識されれば、それが命の切れ目だ。
(でも、本当に”ヒーくんのために我慢する”んなら、”仕方なく発散する”のもほかの女の子に対してじゃなくて、自分だけで処理するべきじゃないのかなぁ?)
 そこを指摘されたら、愛奈は一体どんな顔をするだろうか。ゾクゾクするほど愉しみだが、それは後に取っておこう。
(折角だし、もっともっと時間をかけて愉しまなきゃ)
 今まで散々な目に遭わされてきたのだ。たった一日で晴らしてしまうのは勿体ない。じわりじわりと、真綿で首を絞めるようにいたぶらなければ。
「あっ、そろそろ帰らなきゃ」
 時計に目をやり、優巳は腰を上げる。
(……本当は、もっとずっと長居して、困ってる愛奈を見ていたいけど)
 愛奈に帰らないで欲しい、また来て欲しいと思わせ続けるには、あまり長居をするのは禁物だ。
「優巳……帰るの?」
「うん。さすがにもう出ないと乗り換えの途中で電車が無くなっちゃうから。……そーだ、愛奈。駅まで歩くの面倒くさいから、車で送ってくれない?」
「えっ……車で……?」
「そ。これだけ大きな屋敷なんだもん。買い出しの車と、それを運転する人くらい居るでしょ? てゆーか、次からは駅までくらい迎えを出してよ。遠いところわざわざ訪ねてきてあげてるんだからさ」
「………………。」
「ちょっと、愛奈。聞いてるの?」
「あっ、うん。……車の運転ができる子に頼んでみる」
「迎えも、ね。次来る時、駅に迎えが来てなかったらそのまま帰っちゃうんだから」
 言いながら帰り支度をし、部屋を後にする。「あっ」と、愛奈の弾かれたような声に、優巳は不意に足を止めた。
「愛奈?」
「ごめん、優巳。帰る前に、一つだけ……頼みたいことがあるの」
「私に頼みたい事?」
 首をかしげて――優巳は思い出す。そういえば、そもそも”大事な用”があるからと、愛奈に呼ばれたことを。
(……てっきり、”性欲を処理するため”だとばかり思ってたけど……)
 それとは別に、”本当に大事な用”があったということだろうか。
「もしかして、それが”大事な用”?」
「うん」
「もぉ……そういうのはもっと早くに言ってよね。もう本当に時間ギリギリなんだから……で、何?」
「んとね…………ヒーくんのね……………………やっぱりいい。優巳、絶対やだって言うもん」
「ひょっとして、またお菓子渡して欲しいとか、そういう頼み?」
 乙女オーラを出しながらもじもじと身をくねらせる愛奈に、優巳は苛立ちを隠そうともせずに詰め寄る。
「……少し近い、かな。……でも、お菓子を渡すよりちょっぴり大変かも」
 はあ、と。優巳は大きく肩を揺らしながらため息をつく。
「やだよ、面倒くさい。何か渡したいなら他の人に頼めばいいじゃない」
「優巳じゃないとダメなの。……ねぇ、おねがい」
 ぎゅっ。気が付くと、愛奈に腕を掴まれていた。さっきは”やっぱりいい”と言ったくせに、腕を握る力の強さは明らかに”うんと言ってくれるまで絶対離さない”という強い意思を感じさせる。
 優巳は再度、大きくため息をついた。
「わかった。そこまで言うなら聞くだけ聞いてあげるから、言ってみて。何をして欲しいの?」
 ぱぁ、と。夜闇を照らすほどに、愛奈が輝くような笑みを零した。
「あのね、優巳に頼みたいのはね……………………ヒーくんの赤ちゃんを産んで欲しいの」


「へ…………………………?」
 聞き間違いかと、最初は思った。しかし恋する乙女のように恥じらい、人差し指同士でつんつんしている愛奈の姿を見て、自身の聴覚には何の問題もなかったのだということを確信した。
「ほら、私と優巳って、”一応”双子じゃない?」
 ”一応”の部分をことさら強調して、愛奈は続ける。
「ってことはさ、優巳とヒーくんの子供は、私とヒーくんの子供ってことだよね?」
「な……っ……」
 眩暈を覚えて、優巳はくらりと体を揺らし、そのまま壁に凭れかかる。
「ちょ、ちょっと待ってよ……愛奈……冗談、だよね?」
「冗談? どうしてそう思うの?」
「だって……」
「もしかして、嫌なの?」
 頬を染め照れ笑いをしていた愛奈が、唐突に真顔に戻る。それだけで、優巳にしてみれば首筋に刃物を押し当てられたも同義だった。
「い――」
 嫌じゃない――反射的にそう口にしかけて、優巳は唇を噛む。違う、今はもう違うのだと。自分の方が立場は上なのだと、思い直す。
「嫌に、決まってるじゃない。だいたい、なんで私がヒーくんの子供なんて……」
「でも、これは優巳じゃないとダメなんだよ? 優巳以外の女の子じゃ、私とヒーくんの子供にはならないんだから」
「いくら愛奈の頼みでも限度があるよ。子供を産んで欲しいだなんて……しかもヒーくんのだなんて、絶対嫌。そんなにヒーくんとの赤ちゃんが欲しいなら、自分で――」
「自分で……?」
「あっ」
 ヤバっ――優巳はたちまち恐怖に全身を凍り付かせた。歩いていたわけでもないのに、足の下からカチリと特大の地雷が起動した音がはっきりと聞こえた。
「ご、ごめん……愛奈は……」
「……………………。」
 殺される!――そんな確信が優巳の全身を支配する。逃げる事も、防ぐことも出来ない確実な死の予感。
 そう、優巳は見た。愛奈の右手がピクリと動き、寸分の狂いもなく優巳の首目掛けて動こうとした瞬間――”左手”がそれを止めたのを。
「……ッ……!」
 愛奈の顔が苦悩と憎悪が入り混じったもので大きく歪む。全身を凍り付かせている優巳の目の前で、ゆらりと。愛奈は幽霊のように背後を振り返るや、いきなり木の柱に自らの額を打ち付けた。
「ひっ」
 ごんっ、ごっ、ごっ。
 さらに二度、三度と愛奈は柱に額を打ち付け、再びくるりと優巳の方へと向きなおった時にはすっかり元通りの笑顔に戻っていた。……ばっくりと割れた額から滴る鮮血さえ無視すれば、だが。
「…………だ、大丈夫……私は許すよ。だって、優巳には、ヒーくんの赤ちゃんを産んでもらわないと、いけないんだから」
 普段とまったく同じ声――には、聞こえなかった。無理に無理を重ねて、かろうじて平生を装っているのだ。腸が煮えくり返っていても平然とニコニコしていられる愛奈が、それすらも出来ていない。声は震え、巫女服の袖から覗いている白く嫋やかな指先は見えない何かに爪でも立てているように不自然に折れ曲がったまま硬直している。
「良かったね、優巳。何をやっても人並以下で、生きてる価値なんて微塵もない優巳でも、たった一つだけ取り得があったんだよ? この世でたった一つだけ、私にはできなくて優巳にだけ出来ることがあったんだから、喜ぶべきなんじゃないのかな?」
 割れた額から流れ出た血が目に入り込んでも、愛奈は瞬きすらしない。朱色に染まった目で、顔を覗き込むように笑いかけられ、優巳はただただ震えることしか出来ない。
「ああ、子育てのこととか、そういう心配は一切しなくていいよ。赤ちゃんが生まれたら私が引き取って、優巳には一切迷惑をかけないから。きちんと私の子供として育てて、間違っても優巳のことをママだなんて呼ばせないようにするから」
 愛奈の言葉とは裏腹に、優巳は”子育て”については微塵も心配などしていなかった。事実、愛奈はその通りにするだろう。たとえどれほど手のかかる赤子であったとしても、愛奈は絶対に育児放棄などしない。それはもう手厚く、片時も手放さず、溢れんばかりの愛を注ぎ込むだろう。
 尤も、そうやって愛奈に育てられた子供がまともな人間になるとは、優巳には到底思えないのだが。
「あ……愛奈の、ヒーくんとの赤ちゃんが欲しいっていう気持ちは分かるよ。だけど、ごめんね。愛奈の頼みでも……さすがに妊娠は嫌、かな……」
 大丈夫、今までとは違う。事実、愛奈は今、手が出せなかったではないか。嫌なことは嫌だと言えばいいのだ――優巳はなけなしの勇気を振り絞り、拒絶の意を示す。
 がっしりと。まるで巨大な猛禽類でも降り立ったかと錯覚するほどに強く、両肩を掴まれたのはその時だ。
「私がこんなに頼んでもダメなの?」
 鼻先が触れるような距離で、再度詰め寄られる。思わずひいと悲鳴を漏らしそうになるのを飲み込んで、優巳は再度勇気を振り絞る。
「………………ごめんね。他の事なら、できる限り協力するから――」
 ドンッ――突然、鈍い衝撃が腹部を貫き、優巳は最後まで喋ることも出来ず、たちまちくの字に体を折った。
「かはっ――」
 腹を殴られたと認識するよりも先に、”二発目”が来る。一度目よりも凄まじい衝撃に、パンッと。体の内側で何かが爆ぜるような音が聞こえた。打ち身や切り傷とは明らかに違う、体の内部からの痛みに優巳はたちまちその場に崩れ落ち、悶絶する。
「じゃあ、もう”それ”要らないよね?」
 どんっ。容赦のない蹴りが腹部へと突き刺さり、優巳はしゃくりあげるようにして夕飯をすべて吐いた。
「優巳のことだもん。どうせろくでもない男に引っかかって、子供が出来た途端捨てられてシングルマザーになっちゃって、その子供もロクに育てられなくて母子共々不幸になるに決まってるんだから、もう”無い”ほうがいいよね?」
「い、嫌っ……愛奈、待っっっ……ごふっっっ……」
「優巳のために、お姉ちゃんがひと思いに潰してあげる」
 足先で転がされるようにして仰向けにさせられ、”その場所”目掛けて思い切り愛奈が右足を振り下ろしてくる。腹部にめり込むその足を、優巳は両手で必死に掴むも、到底抗いきれるものではない。
(何……? なんで……愛奈は、愛奈はもう……)
 一人で居るのが寂しくて、唯一自分を訪ねてきてくれる妹の貴重さにやっと気づいたのではなかったのか。
 だから頭を叩いても。使い走りをさせても怒らず、へらへらといじめられっ子のように笑っていたのではなかったのか。
(違う……違った……愛奈は……愛奈は、ただ――)
 そう、優巳は大切なことを失念していた自分に、漸く気が付いた。愛奈には、”ヒーくんしか眼中に無い”のだ。
 独りぼっちが寂しいから。訪ねてきてくれる妹を失いたくないから。だから機嫌をとった?――そんな馬鹿な話があるわけがない。何故そんな簡単なことに気が付かなかったのか。
(独りぼっちが寂しいだなんて、そんなまともな感覚が、愛奈にあるわけが、ない……)
 ”ヒーくんのため”なら、千年の孤独すらも笑顔のまま耐えるのが愛奈だ。その愛奈が機嫌をとってくるのならば、それはもう”ヒーくんのため”に他ならない。
 そう、すべては”ヒーくんとの赤ちゃん”を手に入れるために。その為に愛奈はプライドを殺して見下している妹の股ぐらに顔を埋め、好物で機嫌をとったのだ。頭を叩かれて使い走りにさせられて腸が煮えくり返っても耐え続けたのだ。
 立場の逆転など、とんだ思い上がりだったのだ――。
「あ、愛奈……ぎっぃぁっ……ァアア!」
 愛奈は踏みつける右足に容赦なく体重をかけてくる。自分を見下ろす姉の目は大きく見開かれ、血の赤が入り混じったそれは怒り狂った夜叉のようだ。口元には暴力による興奮と愉悦の笑みが浮かび、そこには一片の慈悲も見出すことは出来ない。
(つ、潰されちゃう……本当に……!)
 愛奈は、やる。そして今回ばかりは”治癒”すらも期待できない。仮に命はとりとめたとしても、確実に子供は産めない体にされる。
 何故なら、”ヒーくんの子供を産んでくれない子宮”など、愛奈にとって砂粒ほどの価値も無いからだ。
 両目から涙を溢れさせながら、優巳は弾かれたように声を上げた。
「う、産む! 産むっ、から……愛奈の言うとおりにする、からぁ!!!」
 だから、助けて――その言葉を口にする前に、フッと。唐突に”圧力”が消えた。
「本当!? やったーー! 優巳、だーいすき!」
 ほんの一秒前まで、夜叉のように怒りを露わにしていた愛奈が、たちまち天使のような笑みを浮かべて抱きついてくる。
「ごめんね、痛かった? でも優巳がいけないんだよ? 素直にうんって言ってくれたら、私もこんなことしなくて済んだのに。優巳ってばどうしてそんなにバカなの? 学習能力無いの?」
 背中へと手がまわされ、優しく抱き起される――とたん、優巳はごふっ、と。どす黒い血の塊を吐き出した。
「わわっ、すっごい血。もしかして内臓破裂させちゃったかな? それとも肋骨が折れて刺さっちゃった? すぐに治してあげるからね」
 愛奈の手が、患部を優しく擦ってくる。悪魔のような本性にはあまりに似つかわしくない癒しの力は見る見るうちに傷を癒してくれるが、しかし痛みの方はなかなか引かない。
「ねえ優巳。ヒーくんの赤ちゃんを産んでくれるのは嬉しいんだけど、優巳のそういうバカなところが遺伝しちゃわないか正直心配になってきたよ。もちろん”私とヒーくんの子供”だから、どんな子供でもちゃんと育てるつもりだけど、あんまり優巳に似られると自分の子供だって実感が薄れちゃいそうで、それだけが本当に心配だよ」
 愛奈の言葉が、ひどく遠くで聞こえた。愛奈の力は確かに傷を癒すが、大きすぎる損傷の修復は同時に強い眠気も伴うのだということを、優巳は今更ながらに思い出した。
(ヒーくんの子供を妊娠だなんて……嫌……だな……)
 しかし、愛奈には逆らえない。そう、結局のところ黒須優巳の立場はなんら変わらないのだ。
 優巳は自嘲の笑みを浮かべ、そしてそのまま意識を失った。


 目が覚めたのは深夜だった。布団に寝かされていた優巳は傍らに座している姉の姿に気づくなり、ギョっと体を強張らせ慌てて起き上がろうとした。
 ――が、とっさに掛布団の上から押さえつけられ、優巳は体を起こすことは出来なかった。
「まだ横になってた方がいいよ。私の力も万能じゃないからね。傷は治せるけど、体の方も相当体力を使った筈だから、朝までゆっくり休んでたほうがいいよ」
 そう言う愛奈の方こそ、額には痛々しく包帯が撒かれていた。手当をしたのは女官だろうか。
(……愛奈、自分の傷は治せないのに)
 そのくせ、愛奈は自分の体が傷つくことをなんとも思っていない風であるのが、優巳には不思議だった。痛みを感じていないわけではない筈なのに、事実クッキーの一件の際などは爪を剥がした痛みのあまり涙まで流していたのに。
「朝になったらちゃんと起こすし、誰かに頼んで駅まで送らせるから。安心して寝ていいよ」
 まるで、子供におとぎ話を聞かせるような、そんな優しい声。第三者が聞いたら、まさかこの声の主が鬼女のように顔を歪めて子宮を潰そうとしたなどとは絶対に信じないであろう、慈愛に満ちた声だった。
(……分かってる、愛奈は、私が心配なんじゃない……)
 黒須優巳が産む予定の”ヒーくんとの赤ちゃん”のことを心配しているだけなのだ。
「そーだ、ねえ優巳。眠っちゃう前に念のためもう一回、はっきりと返事を聞かせて? 優巳は、ヒーくんと私の赤ちゃんを産んでくれるんだよね?」
 室内は暗く、行燈の光に照らされた愛奈の横顔は影が濃い。ゆらゆらと動くその影が愛奈の顔をあるときは菩薩に、あるときは夜叉へと変化させる。
 優巳は力なく頷いた――瞬間、枕のすぐ隣に愛奈の手が突き刺さった。
「ちゃんと口で言って」
 気づいた時には、鼻先同士が触れそうな距離に、愛奈の顔があった。ひっ、とこみ上げてくる悲鳴を必死に飲み込んで、優巳は姉が聞きたいであろう言葉を紡ぎだした。
「ご、ごめん……ちゃんと、産む、よ……愛奈と、ヒーくんの、赤ちゃん」
「……うん。何度も確認してごめんね。優巳のことだから、後になってごめーん、大学の課題が忙しくて忘れてたー、なんて言いそうだから」
 愛奈がうんと頷いて笑顔を零し、再び布団の傍らへと腰を落ち着ける。もはや優巳は慣れっこだが、時折愛奈は文字通り”目にもとまらぬ速さ”で動く。そんな人外じみた姉に対して、勘違いをしていたとはいえマウントをとったつもりになっていたほんの半日前の自分に、思わず変な笑いがこみ上げそうになる。
「あっ、でも……愛奈?」
「うん? なぁに?」
 小首をかしげながら眠気に襲われている母親のような優しい声で「なぁに?」と尋ね返す愛奈に、優巳はもうただただ恐怖しか感じない。人の心を持っていないような女でも、こんな優しい声が出せるのだから。
「えっ……と……怒らないで聞いて欲しいんだけど……私は、ちゃんと愛奈に言われた通りの結果が出せるように努力はするし、全力を尽くすけど……だけど、ほら……赤ちゃんって、セックスをすれば必ず出来るってものでもないじゃない?」
 愛奈は何も言わない。言いたいことがあるならとりあえず最後まで聞いてやるから好きにしゃべれとでも言わんばかりに、微笑を称えたまま黙っている。
「だから、さ……もし、私が頑張っても……赤ちゃんが出来なかった時は……そのときは、許してくれない、かな……?」
 愛奈は何も言わない。”許す”とも”許さない”とも答えない。
「そ――それに、ね? 言いにくいけど……私はほら、愛奈と違ってヒーくんにはあまり良く思われてないから、さ……もちろん私も最善は尽くすつもりだけど、それでもヒーくんがどうしてもヤダって言ったら、セックスするのはちょっと無理かなぁ、って……」
「大丈夫だよ、優巳」
「な、何が……だいじょうぶ、なの?」
「優巳が言う通り、最初はヒーくんも渋るかもしれないね。いきなり赤ちゃんが欲しいって言われたら、ヒーくんだってびっくりすると思うよ。……でもね、私が欲しいって言ってるって伝えたら、ヒーくんなら絶対分かってくれるよ」
「そう……かな」
「うん。優巳のことがどれだけ嫌いでも、私の為ならって、ヒーくんは絶対協力してくれるよ」
「で、でも……もし――」
「くどいよ、優巳。絶対大丈夫だって言ってるじゃない」
 そこまで言ったところで、ハッと。愛奈はまるで”何か”に気付いたように黙り込んだ。
「…………そっか、考えてみたら、セックスする相手が優巳だもんね。いくら私との赤ちゃんを作るためでも、優巳が嫌いすぎてセックスしたくないって断られる可能性も、当然あるよね」
「そ……そう! そうだよ、愛奈! だからね、そのときは――」
「そのときは」
 優巳の言葉が、強引に切られる。
「ちゃんと”泣いて頼む”んだよ? 優巳。ヒーくんは優しいから、優巳のことが嫌いで嫌いで、優巳に触るくらいなら腐ってウジが沸いてる動物の死骸に触る方がマシだっていうくらい嫌われてても、優巳がきちんと泣きながら頼めば、ヒーくんなら絶対うんって言ってくれるよ」
 でも、とは口に出せなかった。もし言えば、今度は喉が握りつぶされる。”物理的に四の五の言えない状態”にされる。
 直感で、そう感じた。
「それから、もう一つの可能性――”セックスしても、必ず赤ちゃんができるとは限らない”に関しても、優巳は心配しなくていいよ」
「え……どう、して?」
「さっき、優巳の怪我を治す時に”そういう風”にしておいたから」
 まるで、雨が降りそうだったから洗濯物はとりこんでおいたとでもいうような、けろりとした顔で愛奈は言う。
「”不妊治療”はさ、もう慣れっこなの。どうしても子供が欲しい、でも出来ない。だから出来るようにしてほしい――そんなのはもう、ここに連れてこられてからさんざんやってきたの。だからね、優巳のも”そういう風”にしておいたから」
「待って、愛奈……”そういう風”ってどういうこと? 私の体に何をしたの?」
「頭の悪い優巳にも分かるように簡単に言うとね、中出しされたら100%赤ちゃんが出来る体にしてあげたんだよ」
「なっ――」
 思わず、優巳は布団の中で腹部へと手を宛がった。
「ついでに、他にもいろいろ”調整”しておいたから。今の優巳とセックスしたら、ヒーくん絶対ビックリするよ? もうね、キツキツのウネウネのニュルニュルのギュウギュウで、一度突っ込んだら完璧クセになっちゃって、連続射精不可避な超絶名器にチューンしておいたから」
「か、勝手に……そんな……」
「だって、優巳のことだから”セックスはしたけど、射精してもらえなかった”とか言い訳しそうなんだもん。優巳にそのつもりがなくても、色気がなさ過ぎて射精できるほどヒーくんが興奮出来ないかもしれないし……」
 愛奈の用意周到さに寒気がした。そう、優巳に本当はそのつもりが無く、命惜しさに”とりあえずこの場はうんと言って、全力は尽くしたけどダメだったことにしよう”などと考えていたとしても、孕まざるを得ないように”失敗の可能性”を虱潰しにしているのだ。
「どう、優巳。まだ何か心配な事はある?」
 愛奈は本気だ。本気で孕ませようとしている――今更ながらに、姉の執念が見えない茨のように全身に絡みつくのを感じる。
(そんな……嫌だよ……ヒーくんの子供を、本当に孕むなんて……)
 好きでもない男の子供を妊娠する――それは女であれば誰しも無縁でありたい災難の一つだ。それは優巳とて例外ではない。
「……ねえ優巳、気づいてる? 今、優巳”もう、死ぬしか……”っていう顔してるよ? ヒーくんの子供を産むの、そんなに嫌なの?」
「えっ……そ、そんなこと……ないよ? あっ……えと……全然嫌じゃないっていうわけじゃないけど……」
 ハッとして、優巳は慌てて笑顔を浮かべる。
「愛奈の力にはなってあげたいって思ってるけど……ただ、妊娠ってやっぱり大変なことだし……大学を休んだりもしなきゃいけないだろうし……」
 それに、親に黙っているわけにもいかないだろう。愛奈が考えているほど、妊娠は簡単なことではないと、優巳は暗に諭す。
「大学には休学願いを出して、”そっちの親”にはいつもみたいに適当に嘘ついて誤魔化して、出産まで優巳はこの屋敷に居ればいいよ。大丈夫、ヒーくんの赤ちゃんを身ごもってる優巳のことは、私が全力で守るから。誰にも何も言わせないし、手も出させないよ」
 そして愛奈は意味深に、右手を袖から出して優巳の前へと翳す。
「……私の力を使えば、出産を早めることも多分出来るだろうとは思うけど、それはやりたくないの。大事な大事なヒーくんとの赤ちゃんだもん。出来るだけ自然な形で、元気に生まれてきて欲しいから」
「愛奈……」
 やはり、本気だ。妊娠は嫌だが、しかし妊娠中は全身全霊で守るという愛奈の言葉のなんと頼もしいことか。
 しかし、不意に愛奈が表情を曇らせる。
「…………万全……そう、これでもう万全だと思うけど、だけどそれでも失敗しちゃうのが優巳だって、私は知ってる。優巳はダメな子だって、身に染みてる。だからね、やりたくないけどダメ押しをするよ?」
「ダメ押し……って、やだ……愛奈……何する気……?」
 咄嗟に上体を起こし、仰向けのまま布団を蹴るようにして優巳は愛奈から距離を取る。が、やはり愛奈の言う通り体力が回復していないのか、まともに遠ざかることはできなかった。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、優巳。”鞭”ばっかりじゃダメなんだって、私にだって分かるよ。ダメ押しっていうのは”飴”のこと」
「アメ……?」
「うん。……ねえ、優巳はさ、”焼き肉”と”しゃぶしゃぶ”どっちが好き?」
「え……なんで……そんなこと、聞くの?」
「好きな方を準備しておいてあげる。優巳がちゃんと言いつけ通り上手くやって戻ったらお祝いしなきゃいけないでしょ?」
「お祝い……」
「そ。どっちが好き? 優巳が食べたい方を準備しておいてあげる」
 何故だろう。愛奈の言葉に、何か引っかかるものを感じる。しかし、一体何に引っかかるのかが分からない。
「………………焼き肉かしゃぶしゃぶか、どっちか決めるのってそんなに時間がかかることかな」
「や、焼き肉っ、が、いい……かな。しゃぶしゃぶは、あんまり好きじゃないし……」
 うんざりしたような姉の声に、優巳は慌てて答えた。
「焼き肉、ね。りょーかい。今度はちゃーんと準備しとくから、楽しみにしててね」
「う、うん……」
 ふあ……と。しなくてはいけない話は終わったとばかりに、愛奈が大あくびをする。
「ずいぶん夜更かししちゃった。私もそろそろ寝ちゃうね。じゃあ、おやすみ、優巳」
「あ、うん……おやすみ、愛奈」
 どうやら今夜は一緒には寝ないらしい。すっくと立ちあがり、行燈の火を消し障子戸を開けようとして、愛奈が上半身だけ振り返る。
「そうそう、言い忘れたけど。”その状態”は多分、一週間くらいしか持たないから。それまでにはちゃーんとヒーくんとエッチしてね」
 ふあ……再度欠伸をして、愛奈は障子戸を開け、廊下へと出ていく。
「一週間……」
 ぴしゃりと音を立てて、障子戸が締められる。うっすらと月明かりに浮かんだ姉のシルエットが部屋の前から遠ざかるのを見送った後、優巳は途方に暮れた。


 どうやら愛奈はよほど妹を信用していないらしい。翌朝、朝食を済ませるなり「やっぱり不安だから」と、優巳は念書まで書かされた。私は絶対にヒーくんの赤ちゃんを妊娠します――愛奈の用意した上質な和紙に十回にわたって繰り返し書かされて、漸くに優巳は開放された。
(どうしよう……)
 屋敷からの帰り道、優巳の頭に浮かぶのはそのことばかりだった。駅のホームで電車を待つ間など、いっそもうこのまま”終わり”にしてしまおうかとすら思った。
(妊娠なんて……)
 服の上から、腹部に手を当てる。愛奈に”改造”をされたという実感は、少なくともこうして触れるだけでは分からない。しかし愛奈が”そういう風にした”というのであれば、それは真実だろう。
(絶対に嫌……だけど、でもやらなきゃ……)
 今度は一体どんな目に遭わされるか、想像するだに恐ろしい。愛奈の頼みごとを断ろうとしただけで、内臓破裂するほどに殴られたのだ。ましてや、愛奈を期待させて散々おぜん立てまでしてもらって失敗したとなれば、一回や二回殺されるくらいでは済まされないだろう。
 いっそ、誰かに助けを求めようか――少し考えて、優巳は小さく首を振る。助けを求めようにも、そんな相手など存在しないのだ。愛奈のことを知っている人間ならば、優巳をかばって愛奈を敵に回すことのリスクの大きさを鑑みて絶対に助けてはくれないだろうし、愛奈のことを知らない人間はそもそもあんな”怪物”が存在するということ自体信じてはくれないだろう。
 もう諦めて産むしかないのかもしれない――どうあがいても愛奈の言う通りにするしかないのならば、逆らって痛い目に遭うだけ損だ。唯一の救いは、愛奈に限っては育児の途中で飽きて「やっぱりいーらない」と子供を突き返してくるような心配だけはしなくて済むことだろうか。むしろ愛奈の場合は「赤ちゃんが可愛すぎて食べちゃったから、もう一回産んで?」と頼まれることのほうがありそうだと、優巳は歪んだ笑みを浮かべる。
 ただ――と。優巳はさらに陰鬱な気分になる。仮に覚悟を決めて産むのだとしても、それはそれで問題は山積みだ。何せその為に今度は月彦の了解を取らねばならないのだから。
「…………。」
 ため息が出る。黒須姉妹を毛嫌いする月彦にコンタクトを取らなければならないというだけで気が重いというのに、さらにそんな月彦と寝なければならないのだ。
(ヒーくんのことだから……中に出したら絶対妊娠するってことは伏せておいたほうがいい、かな……)
 いくら月彦がチョロい甘ちゃんとはいえ、中出ししたら確実に孕む女とは寝ようとはしないだろう。そこはもう、なんとか事後承諾でいくしかない。
(……愛奈に比べたら、ヒーくんなんて)
 正直、月彦の子供を身ごもるなどという恥は自分と愛奈だけの秘密にしておきたい。しかし、愛奈はきっとそれを許さないだろう。月彦にきちんと事情を説明した上で、優巳が産んだ子供だが、遺伝子的には紺崎月彦と土岐坂愛奈の子供と同じなのだときちんと認識して、月彦にもちゃんと可愛がって欲しいとか、そういう”妄想”を抱いているに違いないのだ。
(そうだよ、愛奈のことだから……)
 事あるごとに赤ん坊の記念写真をとっては、月彦に送ったりするに違いない。ひょっとしたら、突然赤ちゃんが欲しいなどと言い出したのは、赤子をダシにして自分に会いに来させようとする狙いが少なからずあるからなのかもしれない。
 優巳は小さく首を振る。やはり黙っているのはダメだ。”何か”が起きた時に責任がすべて自分に覆いかぶさってくるのだけは避けなくてはならない。保身のためにも、責任は月彦と二分されるべきだ。
 そのためには最低限、月彦は自分が優巳と寝たことで子供が出来たということは知っていなくてはならない。しかしそれは事前告知する必要はない――。
「…………よし」
 プランは決まった。まずはあのチョロ甘の年下男を口先三寸でうまいこと騙してセックスに持ち込み、その後で”事実”を伝える。――月彦の子供を身ごもるなどという屈辱極まりないミッションだが、唯一楽しみがあるとすれば、あれほど毛嫌いしている愛奈との子供を作ってしまったのだということを知った時の、月彦の苦渋と絶望に満ちた顔を見れるということだろうか。

 長い長い道のりを経て、電車は漸くに最寄り駅へと到着する。本来ならば昼過ぎにはアパートへと帰りつける筈だったが、いざ駅を出ると辺りはすっかり日が暮れ、通勤帰りの背広組でごった返していた。
 時間がかかったのは、途中何度もホームで休憩をとったからだ。”重傷”からの治癒の影響がまだ残っているのか、長時間電車に乗っていると次第に眩暈と頭痛、そして吐き気に襲われ、やむなく一旦電車を降りて頭痛が収まるまで休憩というようなことを繰り返していたからだ。優巳の知る限り、愛奈に体を治してもらった後でここまで酷い後遺症が現れたことは無いから、これは治癒によるものではなくその後に行われたであろう”改造”の方の副作用なのかもしれない。
 あまり食欲は無かったが、それでも途中でコンビニに寄っていくつかのパンと飲み物を買った。とにかく帰ったらすぐ横になろうと、優巳は速足に自宅アパートへと帰りつき、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴へと差し込む。ドアを開け、重いキャリーバッグは玄関に置きっぱなしにして靴を脱ぎながら手さぐりに照明のスイッチを探す。
 ――その手が、唐突に闇から現れた手に掴まれた。
「えっ、きゃっ! ……んんンっ!!!!」
 腕を引かれ、何者かに羽交い絞めにされる。悲鳴を上げようとした口が、何か布のようなもので塞がれる。甘いような、それでいてアルコールのような刺激臭が鼻を突き、急速に意識が薄れていく。
(な、何……誰……!?)
 体から力が抜けていく。薄れた意識でかろうじて分かったのは、崩れ落ちそうになった自分の体を支えたのは紛れもない男の手だということだけだった。
 


 


 目は開いているが、意識はない――そんな状態が、おそらくしばらく続いていたのだろう。半分以上夢うつつで、自分の上に何かがのしかかっていて息苦しいというのと、手足が自由に動かせないということと、整髪料と汗の混じったような臭いがとにかく不快だと、優巳は感じていた。
「はぁはぁ……ううううぅっ、また、出るっ、ぅうう!」
 ぼやけた視界の中でうごめいていた影がのしかかってきて、息苦しさが増す。影が激しく動いた後、唐突に”圧力”が消え、腹部の辺りにびゅるっ、と。何か生暖かいものがかけられる。
「はあはあはあ……なんだこれ……めっちゃくちゃ気持ちいい…………優巳のって、こんなに良かったっけ……?」
 影が何かをしゃべっているというのは分かるが、それを理解するだけの思考力が、優巳には無かった。影はそのままぶつぶつと独り言を言って、むちゅうと優巳の唇を奪ってくる。
「はぁはぁ……もう、ゴム無いのに……一回だけ……明日、引っ越すからその前に……最後に一回だけのつもりだったのに……」
 ギシギシと、耳障りな音がするのは、影が再び動き出したからだ。
「はぁはぁ……はぁはぁはぁ……畜生、優巳っ、優巳のちっぱいもこれで最後かぁ……畜生、畜生、畜生……!」
 動きが止まったかと思えば、今度は胸元を舐め回される。あまりに擽ったくて、優巳は思わずふふっ、と笑い声をあげてしまう。
 途端、”影”がビクリと怯えるように動きを止めた。
「まさか……もう、起きたのか?」
 影は明らかに狼狽していた。そのくせ、どこか名残惜しむように優巳の体へと手をのばし、執拗に撫でつけてくる。
「畜生、鈴木のヤツ、何が”絶対朝まで目を覚まさない”だ。くそっ、くそっ……言っとくけど、優巳が悪いんだからな! いきなり人の事ストーカー扱いし始めて、おまけに新しい男まで作りやがって……! いいか、これは天罰なんだからな!」
 恫喝――というよりは、悲鳴に近い声を上げながら、”男”は優巳の上から体を退けるや大急ぎで服を着始める。
「あぁ……クソッ……やっぱ最後にもう一発だけ……」
 が、着衣の途中でどうしても我慢が出来なくなったのか、再び下半身だけ服を脱いで優巳の上へとのしかかってくる。
「うおおおっ、おっ、おっ! す、げ、ぇっ……これ、やべっ……電動オナホみたいににゅるにゅる動いて、スッゲー締めつけっ、てっ、くるっぅっ………し、搾り取られるぅぅう! おっ、ほおおおおっ!!!」
 挿入から一分と経たず、ガクガクと体を揺さぶりながら、男が果てる。
「あっ、やべ……中に出しちまった…………妊娠なんて、しない……よな? ほんのちょびっとだし……」
 ほとんど飛びずさるようにベッドから降りた男は再び慌てて下着とズボンを履き、そのまま玄関の方へと向かおうとして、足を止める。
「……優巳…………」
 後ろ髪を引かれ再び男はベッドの傍らへと戻って来る。
「く、そ……もうスッカラカンなのにヤり足りねぇ…………やっぱもう一発だけ……」
 はぁはぁと息を荒げながら胸元の肉をかき集めるような手つきで揉んでくる。
「いやでも、さすがにこれ以上はヤバいか……? おい優巳、もう起きてるのか?」
 ぺちぺちと頬を叩かれ、優巳は反射的に焦点を結べない目で男の顔を見た。途端、ひいと男は悲鳴を上げ、今度は一目散に部屋から飛び出していった。


 優巳がはっきりと意識を取り戻し、そして体を動かせるようになったのは、それからさらに数時間後のことだった。両手首がストッキングでベッドの足へと固定されていて、まずはこれを外すのが一苦労だった。漸くにして拘束を外し、体を起こすとそれだけでくらりと眩暈がした。全身が気怠く、目の奥が重い。どうやらクロロホルムか何かで意識を失わせた後、さらに別の薬を飲まされたか、打たれたかしたらしい。よく見れば左手の内側に注射の跡のような内出血があった。
 行きずりの犯行――などではない。襲われている間ほとんど意識など無かったが、それでも相手が誰だったかくらいは分かる。そう、少し前まで自分が黒須優巳の彼氏であるという妄想に取りつかれ、ストーキングをしてきたあの男だ。そういえば風のうわさで大学を辞めて遠い親戚がやっている店の手伝いをすることになったとか、そんな話を聞いた覚えがあった。
 どうせ遠くに引っ越すなら、最後に気に入っていた女を襲おう――とでも考えたのだろうか。引っ越してしまえば、仮にバレても警察沙汰にはならないと、本気で思っているのだろうか。
 何か匂うと思ったら、渇いた精液のそれだった。どうやら、意識が無い間に顔にかけられたらしい。同じくヘソの辺りにも渇いた精液が付着していた。ということは、避妊具はつけずに、最後だけ外に出していたのか――そこまで考えて、優巳はハッと青ざめた。
 違う。
 はっきりとは覚えていないが、違う。
 否、ひょっとしたら”アレ”は夢だったのではないか。薬を打たれ、朦朧とした意識の中で見た夢だ。そうに違いない。
 そうでなかったら――。
「………………。」
 青ざめながら、優巳はベッドスタンドの灯りをつける。自分の股ぐらへと手を這わせ、深呼吸をしてから右手の人差し指と中指とを差しこむ。
「……んっ、ぅ」
 にゅぐりと。”こそぐ”ように動かして引き抜く。ベッドスタンドの光によって照らされた指先。そこに絡みつく、明らかに女性の分泌物ではない、白く濁った粘液の残滓に思わず目を見開いた。
「う、そ……」
 呟きと同時に、優巳は失神した。


 再び目を覚ました優巳は、半ば茫然自失としながらシャワーを浴び、1時間以上かけて全身を丁寧に洗った。といっても、洗っている時間よりも茫然としながら湯を浴びている時間の方が遥かに長かったのだが。
 シャワーを終えたあとは散らかった部屋を片付けた。部屋への侵入手段は不明だが、少なくとも窓ガラスを割って、というようなことは無かったらしい。念のため何か無くなっているものが無いか調べてはみたが、現金やクレジットカード、通帳の類は手付かずのまま残されていた。
 どうやら男は本当に体だけが目当てで部屋に侵入し、待ち伏せをしていたらしい。本来なら、真っ先に警察に通報し、被害届を出しているところだ。
 そう、”こんな時”でさえなかったら。
(……どうしよう、どうしよう………………)
 散らばっていた使用済み避妊具を捨て、汚れたベッドシーツを剥がして洗濯機に放り込み、優巳はその場に膝から崩れ落ちる。
(どうしよう、どう、すれば……)
 部屋着の上から腹部に手を当てる。”こんなこと”はさすがに想定外だ。よりにもよって愛奈に”処置”をされた直後に部屋にレイプ魔が潜んでいて襲われるなんて、運が悪いにも程があるではないか。
(どう、しよう……)
 いっそ、今すぐ愛奈に正直に話すべきでは――考えて、考えただけで、優巳は震えが止まらなくなる。愛奈は妹の失敗を決して許したりはしないだろう。愛奈にとっての判断基準は”非は誰にあるか?”などではない。”ヒーくんとの赤ちゃんを手に入れられるかどうか”だからだ。
 これだけお膳立てをしてやったのに、それでもダメなのかと。憤りを通り越して呆れ、さらにその呆れを通り越してどす黒い憎悪を炎のように全身から立ち昇らせている愛奈の姿が目に見えるようだった。「やっぱり、優巳には”これ”要らないね?」――そうにこやかに嗤って、下腹部に直接右手を突っ込み、力ずくで子宮が引きずり出される――優巳は自らの未来を想像し、そのあまりに克明な痛みに絶叫し、嘔吐した。
 やはりダメだ。愛奈に話すというのはダメだ。ならば、一体どうすれば――殆ど胃液のみの吐しゃ物を汚れた洗濯物でぬぐっていた優巳の耳が、携帯のバイブ音を拾ったのはその時だ。
 まさか――そんな思いを胸に優巳は部屋着のハーフズボンのポケットから携帯を取り出し、画面に表示された名前を見るなり悲鳴を上げて放り出した。ごとんと鈍い音を立ててフローリングの床の上に転がった携帯は尚も呼び出しを続けていて、優巳はその音から逃げるように脱衣所の角に張り付き、頭を抱えて蹲る。
 呼び出しは、尚も続く。留守電に切り替わると即座に切れ、そして再度震えだす。そんなことが二度、三度……五度、六度……十度を越えたところで、優巳は観念して携帯を手に取り、通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『あっ、やっと出た! 優巳、何してたの?』
「ご、ごめん……お風呂入ってたら寝ちゃってて……」
『もー! 昨日もずっと電話してたんだよ? まさかずっとお風呂に入ってたわけじゃないよね?』
「昨日……?」
 言われて、優巳は携帯の画面を確認し、ハッとする。日曜日――優巳の感覚では、今日は土曜日の筈だった。薬のせいか、極度の精神性ショックのせいかはわからないが、どうやら丸一日寝入ってしまっていたらしい。
「ごめん……昨日はちょっと熱出ちゃって……寝こんでたの」
『昨日熱が出て寝込んでたのに、今日は長風呂しながら寝てたの?』
 露骨に訝しむような愛奈の声に、優巳は完全に青ざめていた。愛奈に指摘されるまでもなく、自分でも支離滅裂な言い訳だと気づく。
『……ねえ優巳。リミットは一週間だって、私ちゃんと言ったよね? 体調悪くてヒーくんに会えなかったなんて言い訳、私絶対に許さないよ?』
「大丈夫……ちゃんと、わかってる。今日、お風呂あがったらヒーくんに会いに行く予定だったし……」
『……それならいいんだけど。ねえ優巳、一応言っておくけど、私がやったのはあくまで”100%妊娠する処置”であって、”ヒーくんとの子供だけを100%妊娠する処置”じゃないからね? ヒーくんとする前にほかの男と寝ちゃったりしたら台無しだってこと、ちゃんとわかってる?』
「わ、わかってるよ! なんで……そんなこと聞くの?」
 まさか、もうバレたとでもいうのか。そんな筈はないと思う反面、相手が愛奈なら何があっても不思議ではないと思える。
『…………一応聞いてみただけ。だって、優巳ってばほんとダメな妹なんだもん。今まで何か一つでも、私が頼んだことをきちんとやってくれたことがあった?』
「それは……」
 優巳はいくつか”例”が頭に浮かんだが、口にはしなかった。それは成功例と呼ぶにはあまりに少なく、そして愛奈の言う通り失敗した例はその十倍近くあるからだ。
『ああもう、優巳がなかなか電話に出ないから最初の要件忘れるところだったじゃない。……ねえ優巳、最初に確認させて。優巳は、ヒーくんのこと好き?』
「え……」
 思わぬ質問に、優巳は言葉を失った。
(なんて答えたら……)
 ”本音”を言うなら、嫌い寄りだと言わざるを得ない。そしてそれは、愛奈も知っていることだ。ならば何故、そんな分かり切っていることを今更、わざわざ確認するのか。
「えっと……正直、”普通”かな……」
『わかった。じゃあ、ヒーくんとエッチする時だけ、私と同じくらいヒーくんのことを好きになってね』
 へ?――おもわずそう口にする所だった。
『あのね、優巳が帰った後、赤ちゃんのことをいろいろ調べてみたの。そしてたらね、愛のあるセックスで生まれた子供の方が、断然いい子に育ちやすいんだって』
「ちょ、ちょっと待って……愛奈?」
『だから、優巳もセックスの間だけでいいから、ヒーくんのこと大好きになってね。心の底からヒーくんの子供を妊娠したいーって念じながらイチャラブセックスしてね』
「そんな……」
『あとあと、できれば最初は女の子がいいな。一姫二太郎って言うし、最初は女の子で、次は男の子ね。”そういう風”になるように、優巳もしっかり念じながらセックスしてね』
「待って愛奈! ”次”って何!? 私、こんなこと、もう――」
『ごめん優巳、呼ばれたからもう切るね。また明日電話するから今度はちゃんとすぐ出てね』
 通話が、一方的に切られる。手から握力が消え、握っていた携帯がゴトリと床に落ちる。優巳はそのまま力なく壁に背中を預けた。
「”愛奈と同じくらい”なんて……絶対無理だよ」
 そもそも”あの月彦”とイチャラブセックスをしろというのも無理ならば、一人目は女の子を埋めというのも無理、そもそも今となっては月彦の子供を孕むこと自体無理なのだから。
「どう、すれば――」
 愛奈に正直に言えば、きっと殺される。比喩では無く、文字通り息の根を止められて、その上で蘇生され、さらに殺される。そしてそれは愛奈の気が済むまで繰り返され、最後には今度こそ子供を産めない体にされる。
 既に他の男の子を宿していることを黙って月彦と寝て、月彦の子ではないとバレても同じだ。あの愛奈の事だ、生まれた赤ん坊が本当に月彦と血のつながりがあるかは絶対に調べるだろう。何故なら、愛奈は妹のことなど小指の爪の先ほども信用していないからだ。
 正直に話しても、誤魔化しても絶望の未来しか見えない。
 ならば。
「きひっ……そうだね。もう……それしかないよね」
 口元に歪な笑みが浮かぶ。そう、黒須優巳が助かるにはもう、この悪魔のような発想に身を委ねるしかない。罪悪感など、当然ありはしない。元を正せば、黒須優巳をここまで追い込んだ愛奈が悪いのだから。
「きひっ、きひひっ!」
 歪んだ笑みが止まらない。皮肉な話だ。”それ”を実行するということはイコール愛奈の要求を満たすことにもなるのだから。
 尤も、その先――愛奈が本当に欲するものが手に入るかどうかについては、優巳には保証は出来かねるわけだが。
「愛奈も、ヒーくんも、揃って地獄に落ちちゃえ! きひひひひひひひひひひひひっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。
 …………。
 ………………。
  人間だれしも、自分がやっていることが理解できないということは、ままある。紺崎月彦の場合、現状がまさにそれだった。
(…………俺、何やってんだ……?)
 生まれて初めて、妙子からデートOKの許しをもらえて舞い上がっていた矢先の、まさかの黒須優巳との遭遇。誰でもいいから人助けがしたいなどという願いを、神でも天使でもなく悪魔が盗み聞いたとしか思えない邂逅。
 何度も。
 何度も何度も何度も「すみません、やっぱ”誰でも”というのは無しで!」と心の中で謝り、回れ右をしようと思った。しかしそんなことをすれば妙子への想いまで軽くみられてしまいそうで――そもそも誰に軽く見られてしまうのかもわからないが――結局、ほとんど縋り付くようにして助けを求めてくる優巳に対して「とりあえず話だけは聞いてやる」というスタンスを取らざるを得なかった。
 とはいえ、優巳を家には上げたくなかった。結果、適当なファミレスに入り、机を挟んで向かい合っているという状況。
(……しっかし、優巳姉と会うのは久々とはいえ)
 ”こんな”だったかなと、いざ実物を前にしながら、月彦は思わず首をひねりそうになってしまう。パッツン気味の前髪や、肩にかからない程度のショートカットについては今はそういう髪型なのかという程度の感想しかないが、異常なのはその”目”だ。
 三白眼とでも言うべきか。瞳が異様に小さく、まるで小動物のように落ち着きなくきょろきょろと動き回るその様は常に何かに怯えているかの様。よく見れば目の周りにはクマのような黒ずみもあり、顔色そのものも良くない。
 そう、今の優巳は見るからに”深刻な何か”を抱えている。そんな姿を見るに見かねたから、やむなく”話くらいは”という気になったというのも、無論ある。
 ほどなく、席に着くなり注文していたアイスカフェオレとメロンソーダが届いた。優巳は真っ先に自分が注文したメロンソーダを手元に引き寄せ、ストローを指してちううと飲み始める。
「ふう……ひ、ヒーくんは飲まないの?」
「ああ、そうだな」
 月彦も左手でストローの袋を破り、アイスカフェオレに突き刺す。軽く口をつけ、すぐにテーブルへと戻す。
 そもそも、別に喉が渇いていたわけではない。
「……とりあえず話は聞いてやるとは言ったけど、俺も別に暇なワケじゃないからな。相談があるならこれを飲み終わるまでにしてくれ」
 暗に、飲み終わったらすぐに帰ると、宣言したつもりだった。ただでさえ常軌を逸している風の優巳が、さらにそこに緊張の色合いを強める。……黒い瞳が、きょろきょろと動く頻度が上がる。
「ぁ……えっと、ね…………そ、そーだ! ヒーくん、その右手どうしたの? 転んだの?」
「まあ、な」
「ひょっとして骨折? そんなの、愛奈に頼めばすぐに――」
 ずぞぞぞぞっ――月彦はストローに口をつけるや、一気にカフェオレを半分ほど吸い上げる。あぁ、と優巳が泣きそうな声を上げた。
「ご、ごめん……もう、愛奈の話はしないから……だから……」
「いいから、早く本題に入れよ。さっさと済ませて帰りたいんだ」
 普段ならば、絶対にそんなことはしない。しないが、あえて月彦はイラついていると示威するためにコツコツと人差し指でテーブルを叩く。
「ぁ……と、ね……実は、ヒーくんにお願いがあって……」
「どんな」
「ぇと…………私と、デート……して、くれない、かな」
「またかよ。いい加減にしてくれ」
 うんざりだと言わんばかりに、月彦は声を荒げる。
「優巳姉、確か前にも似たようなこと言われて、仕方なく一日付き合ってやったことあったよな?」
「あはは……遊園地の時だね…………あれは、ちょっと失敗だったね」
「ちょっとどころじゃないだろ。しかもあの後、優巳姉の部屋に行ったら痺れ薬飲まされたんだよな。忘れたとは言わせないぞ」
「…………ごめん」
「それから、この前は由――っ…………風邪引いて熱出してる優巳姉を部屋まで連れて行ってやったら、脅迫されかけたんだよな。ほんと、優巳姉のクズっぷりには頭が下がるぜ」
「だって、あれは……」
「そのうえさらに”助けて”ときたもんだ。どういう神経してんだ? 愛姉もまともじゃないけど、優巳姉だって全然負けてないぜ」
 自然と語気が荒くなる。このまま怒りに任せてボロクソにこき下ろしてやりたいという誘惑は決して小さなものではなかった。
 が、今の優巳相手にそれをするのは弱っている相手に対して喧嘩を吹っ掛けるような、そんな後味の悪さを伴いそうで、月彦は奥歯を鳴らしてぐっと言葉を飲み込む。
「…………ごめん、デートしてっていうのは、ただの冗談……本当は――」
「本当は?」
「………………もう、いい加減にして、って言いに来たの」
「はぁ?」
 優巳の言葉に、思わず眉尻が上がる。それはこっちのセリフだと喉どころか歯の裏側まで出かかる。
「……分かってる。ヒーくんも同じ気持ちだよね、それは分かってるけど、私ももう限界なの」
 優巳は両手で水滴のついたグラスを握りしめながら、そこに半分ほど残った緑色の液体を凝視しながら。
 溜まりに溜まった鬱憤を吐露するように、続ける。
「ねえ、ヒーくん。いつまで愛奈から逃げるの?」
 優巳の目が、グラスから月彦へと向く。それは優巳の言葉と共に、少なからず月彦の心へと突き刺さった。
「そうやってヒーくんが愛奈を避け続けるから、私も、愛奈の周りの人たちもすごく迷惑してるんだよ? この前ヒーくんがクッキーを受け取らなかったあと、私がどんな目に遭わされたかわかる?」
「…………それは…………言っただろ。愛姉に会わなけりゃいいだけの話なんだから、もう会わないようにすればいいって」
「…………私だって、愛奈の側になんて行きたくないよ。でもさ、私まで愛奈を見捨てたら、愛奈は本当にひとりぼっちになっちゃうじゃない」
「…………なんだそりゃ。優巳姉にもそういうまともな感覚があるってのが驚きだな」
 月彦は鼻で笑った。――が、その実、感心してもいた。優巳の様子を見るに、実の姉に相当な仕打ちを受けているのは事実だろう。それでも尚、一人にしておけないからと側に居続けるのは並大抵のことではない。
(それが本心なら、な)
 姉の愛奈に負けず劣らず、妹の優巳も性根が腐った女であることは知っている。どれだけまともそうなことを口にしていても、信用は出来ない。
「だからさ、もうね……愛奈に直接言ってやって欲しいの。嫌いだ、って。顔も見たくないって。ヒーくんと面と向かって直接言われたら、さすがに愛奈も諦めると思うし、そしたらもう私もヒーくんに会いに来なくて済むと思うし……」
「冗談じゃねえ! 絶対に嫌だ!」
 思わず声を張り上げてしまって、月彦は慌てて声のトーンを落とした。
「だいたい、そんなの優巳姉の口から言えばいいだろ」
「ダメだよ……私はもう、愛奈に信用されてないから。……ううん、私以外の誰が言っても同じ。ヒーくんが直接言わないと、愛奈には伝わらないよ」
「……勘弁してくれよ。愛姉の名前を聞くだけで吐きそうなくらい気分が悪くなるってのに、直接会うなんて出来るわけないだろ」
 電話で話すのだって無理だと、月彦は溜息混じりに付け足す。
「……これはたとえ話だけど」
 そう前置きをして、優巳は言葉を続ける。
「もの凄い力を持った邪悪な魔王が居たとして、その魔王を倒す唯一の力を持った勇者が、魔王とは戦いたくないって逃げ回ってたら、周りの人たちはどう思うかな」
「…………なんだよそれ。愛姉のことを魔王みたいだって言いたいのか?」
「ううん。ヒーくんのことを腰抜けって言いたいの」
 けろりとした顔で言う優巳に、月彦はすぐには言葉を返せなかった。
「愛奈を止められるのはヒーくんだけなんだよ。会って、一言”嫌いだ”って言うだけのことなのに、それすら嫌だって逃げ回るから、みんなが迷惑してるの。…………ねえ、本当に”いい加減にして欲しい”って言いたいのはどっちか、分かる?」
「………………勘弁してくれ」
「”助けて”って言ったのは、そういう意味なんだよ? 自分一人だけ愛奈の手が届かないところに隠れてないで、しっかりと気持ちを伝えてくれないと、いつまでたっても状況は変わらないんだよ?」
 優巳の言葉に耐えられず、月彦は席を立つ。
「逃げるの?」
 しかしその背にさらに追い打ちの刃が突き刺さる。
「それとも、またキーちゃんに泣きつくの? ”優巳お姉ちゃんがボクをいじめるの! なんとかして!”って?」
「…………っ………!」
 さらに追いかけてくる優巳の言葉を振り切るように、月彦は逃げた。そう、文字通り手も足も出ず反論も出来ずに逃げ出したのだった。



 天国から地獄。まさにそんな気分だった。これだからあの姉妹とは関わりたくないのだと憤慨しながら早足に自宅へと帰り着いた月彦は、いつものように台所に立つ葛葉にまずは無断外泊の件について詫びた。
「……あらあら。妙子ちゃんの部屋に泊まった割には顔色が良くないみたいね」
「いや、べつに……」
 息子と幼なじみが一線を越えたのかどうかを見透かそうとするような母親の目から逃れるように顔を背けながら、月彦は苦笑いをする。いつも空恐ろしいほどに見透かしてくる葛葉だが、さすがに幸せ絶頂気分で帰宅途中、悪魔姉妹の片割れに文字通り地獄に引きずり落とされたことまでは察せなかったらしい。
「…………で、何か手伝うことはある?」
 無断外泊してしまった詫びに、という体だがその実、早く話題を逸らしたいという気持ちが強かった。
「ありがとう、月彦。でも、夕飯用の仕込みをしてるだけだから、母さん一人で手は足りてるわ」
 第一、その手では手伝いもままならないでしょうと暗に微笑に含められ、それもそうかと納得する。
「そっか……真央は?」
「真央ちゃんなら、お部屋よ。昨日からほとんどご飯も食べずにずーっとお部屋に籠もって何かしてるみたい」
「真央が部屋で……?」
 はてな、一体何をしているのだろう。良からぬことであれば叱ってやらなければと。月彦は階段を上がり、自室のドアの前で一度立ち止まり、深呼吸をする。
 ”気持ち”を切り替える為だ。
「真央、何やって――……なんだ、ゲームしてたのか」
 どうやらよほどゲームに没頭しているらしい。ドアを開け声までかけたというのに、真央の目はゲーム画面に釘付けのままだ。
「なんだ、”けもフォレ”がそんなに気に入ったのか?」
 意外――という気は、あまりしなかった。事実、月彦もこのゲームにハマっていた頃は材料集めから道具製作、食料の確保にその加工と次から次に作業に追われ、気がつくと一日が終わっていたなんてことはザラだったからだ。
 ベッドに腰掛け、一心不乱にコントローラを操作している真央の隣へと、月彦も座る。が、真央はそれでも気がつかないのか月彦の方を見もしない。
「おい、真央……なんだ、ひょっとして怒ってるのか?」
 もしかして、妙子の部屋に行っていたことがバレているのではないか――とはいえ、“いつものお泊まり”とは違い、今回は純粋な人助けだ。仮にバレたところで非難されるいわれはないと、月彦はあくまで強気に、真央の尻尾の付け根をこちょこちょと擽った。
「きゃっ……と、父さま!?」
「やっと気づいたか。どんだけゲームに没頭してたんだ……」
「ご、ごめんなさい……これ、すっごく面白くて…………」
「意外だな。真央がそんなに気に入るなんて…………どれ、ちょっと貸してみろ」
 コントローラを受け取り、月彦はステータス画面を開いてみる。
「……127年目……だと。てことは50年目の隕石イベントまでにサノキャノンを開発して隕石の破壊に成功したのか」
「うん! 一回目の時は隕石が落ちてきてゲームオーバーになっちゃったから、二回目は頑張ったよ!」
「…………まぁ、確かに隕石イベントは初見殺しというか、初回プレイはほぼ確実にゲームオーバーになるから仕方ないとして……二回目でサノキャノン作ったのか……」
 普通はシェルターを作って少数だけ生存するノーマルエンドに行くものだが――月彦はさらにステータス画面を確認していく。
「キツネ族と他種族との関係は良好……つか、ほぼ最高値なのに、タヌキ族とだけは”赤ちゃんもツバを吐くレベル”で険悪か……それはまぁ予想通りとして、なんでタヌキ族は他の全種族とも険悪なんだ……」
 一体全体どういうプレイをすればこんなことが出来るのか。自分なりにゲームを知り尽くしていると思っていただけに、奇術か魔術でも見せられている気分だった。
「だいたい、30年も立てば森はタヌキ族であふれかえって、その人口比だけで押しつぶされるもんだが……全種族の中でタヌキ族が一番少数って……」
「あっ、それは簡単だったよ、父さま。お薬を使ったの」
「薬って……このゲームには人口を減らすような、そんな物はなかった筈だが……」
「でも、増やす薬はあるでしょ?」
「増やす薬を使ったら増えるじゃないか」
「大丈夫だよ、父さま。あの薬と”恋の季節”イベントを巧く使えば、タヌキの数は増えなかったよ」
「恋の季節……そうか、その手があったか!」
 恋の季節というのは、つまるところ”発情期”だ。その期間にNPC達はそれぞれカップリングを行い、そして一度の出産数も多いタヌキ族はそれこそ爆発的なスピードで増えていく。
「タヌキ族のオスの方には”恋の季節”が早まるように調整した薬を与えて、メスの方には遅くなるように調整した薬をあげるの。これならカップリングがほとんど成立しないの」
「いや、待て待て真央! 確かに理屈じゃそうだが、そもそもその薬を飲ませるってのが難しいだろ。NPCにアイテムの押しつけは出来るけど、相手がそれをすぐ使うとは限らないだろ? 最悪ずっとアイテム欄に入れっぱなしのままゲーム終了までそのままだぞ」
「それも解決したよ。相手の種族との仲が”視界に入り次第釘バットで殴りかかるレベル”以上に険悪で、こっちが空腹状態の時にバトルに負けると、相手は絶対に飲食系のアイテムを奪って、目の前で食べちゃうの」
「なっ……つまり、薬を持った状態でバトルを受けてわざと負けりゃ、相手は即座に薬を飲む……ってことか」
 うん!――最高に無邪気な笑顔で、真央が頷く。
「後はね、同じ手口でいろんな弱体化の薬を飲ませて弱らせながら、他の種族の家をこっそり壊した後、タヌキ族を犯人として告発したりして評判を落としていったの」
「なんとまぁ手の込んだことを…………」
 はて、ここは父親として「ゲームの中とはいえ、タヌキ族を迫害するのはよくないぞ?」と窘めるべきか、真央にはゲームの才能があるんだなと褒めてやるべきか。
 悩んだ結果、月彦は真央の褒めて褒めてオーラに負けて褒める方を選んだ。
「よ、よく頑張ったな、真央。脱帽だ」
 よしよしと髪を撫でてやると、真央はくすぐったそうに声を上げながら、じゃれるように体を擦り付けてくる。それだけで、月彦は真央が何を求めているのかを悟った。
「こ、こら、真央……もうすぐ夕飯だから…………その後、久々に風呂は一緒に入るか」
「うん!」


 真央とのがっつりケダモノエッチで――もちろん利き腕をかばいつつではあったが――優巳とのことは一切を記憶から消していつもの日常に……というわけには、いかなかった。
 一時的に忘れることは出来ても、心の隅に澱のように蟠ったそれは時折思い出したように腐臭を放ち、歪な笑みを浮かべた優巳の姿がフラッシュバックする。”そういうところ”も含めて、心底厄介な存在であると思える。
(……でも、昨日の優巳姉、いつになくテンパった感じだったな)
 愛奈に相当な目に遭わされているというのは本当なのかもしれない。でなくては、ああも会う度に人相が変わるということはないのではないか。
 とはいえ、優巳の言う通り愛奈と直接対決しろという要求は飲める訳がない。紺崎月彦にとってそれは、ビルの五階から飛び降りた方がまだマシだと思えるほどに、凄まじい苦痛を伴う選択なのだ。

 結局一日中優巳の言葉に振り回され続け、授業はほとんど上の空だった。月彦自身、自分がこれほどまでに優巳の言葉に影響を受けたということが信じられず、同時に自覚はなくても”また逃げるの?”という優巳の言葉が深く突き刺さっているのだということを思い知らざるを得なかった。
 放課後、無意識に霧亜の病室へと足を向けてしまいそうになって、慌てて矯正する。これまた、優巳の「またキーちゃんに泣きつくの?」という言葉が突き刺さっていたからに他ならないが、月彦はそれを認めたくはなかった。そう、優巳に指摘されたからではなく、このくらいの問題は霧亜に相談せずとも自力で解決すべきだと判断したに過ぎない。
 霧亜の病室には向かわず、代わりにとでもいうように月彦は馴染みの中古ゲーム屋へと足を運んだ。もし”けもフォレ”の続編が安く売られていたら、真央への土産に買って帰れば喜ぶだろう――そんな軽い気持ちで入った店内で、月彦は思いも寄らぬ人物と遭遇した。
「あ、れ…………倉場、さん?」
 何やら真剣な顔でゲームソフトが並んだ棚を凝視していた佐由は、声を掛けるなりハッとした顔で振り返り、そして照れ混じりの笑顔を見せた。
「や、やぁ……紺崎君。奇遇だね、こんなところで会うなんて」
 本当にそうだと、思わず頷きそうになる。そもそもこのゲームショップ自体お世辞にも客が多いとは言えない上、佐由の印象もまたゲームをやるようなタイプには見えなかったからだ。
「……右手、痛そうだね。大丈夫かい?」
「あぁ、吊ってるけど、別に折れたりとかはしてないんだ。動かさなければ痛くはないよ」
「ふふっ。ということは、”白石君のおっぱい”もしばらくおあずけだね」
 佐由の言葉に、思わずドキリとする。ひょっとして、治ったら妙子とデートするということまで知られているのかと考えて――ただの冗談だと気づく。
「で、でも……本当に意外だ。なんとなく、倉場さんってゲームとかやらなそうなイメージがあったから」
「あぁ、うん……そう、だね。紺崎君のその認識は概ね間違ってはいないよ」
 熱でもあるのか、それとも思わぬ場所で他校の男子と遭遇したのが恥ずかしいのか、佐由はいつになく顔を赤らめている。お世辞にも空調が効いているとはいえない店内にもかかわらず、ぱたぱたと時折仰ぐような仕草までしていた。
「ただ、どうしてもやってみたいゲームがあってね。静間君からここなら売っているかもしれないと聞いて来てみたんだ」
「あぁ、成る程ね。和樹から聞いたのか、道理で」
 静間和樹は――自分を除けばただ一人の――この店の常連だ。おそらくは先日フリマで一緒になった際に教えてもらったのだろうと、月彦は納得する。
(……にしても、倉場さん……なんかちょっと雰囲気変わったな)
 ”女の子らしくなった”――そう感じるのは、ひょっとしたら自分の感じ方の問題なのかもしれない。
(………………そういえば、由梨ちゃんも――)
 最初はどこか無機質でぶっきらぼうな印象だったが、骨折して入院した頃を境に徐々に可愛く見え始めたものだと――鈍い胸の痛みと共に思い出しかけて、月彦は首を振って由梨子の幻影を振り切った。
「良かったら、探すの手伝おうか。なんてタイトルのゲーム?」
「ええと……”ブレスオブドラゴン”というソフトなんだけど……」
 えっ――思わずそんな声が出そうになり、月彦は再度小さく首を振る。
「ブ……ブレドラかぁ……有名どころだね。てことは、1か2か、4か5かな。もし1,2なら古すぎてさすがにもう売ってないとは思うけど……4か5ならあるかもしれないな」
「いや、確かシリーズの三作目だったと思う。だから4でも5でもなく3じゃないかな」
 佐由の言葉に、月彦は思わず全身の動きを止めた。
「……倉場さん、それは多分聞き違いだよ。ブレドラは確かに人気のあるゲームでシリーズもずっと続いてるけど、3だけは凄く評判が悪いんだ。倉場さんにそのゲームを勧めたのが誰かはわからないけど、3だけは絶対違うと思うよ」
「……いや、紺崎君の言葉で確信した。私が探しているのは間違い無くその”3”だよ」
「はは、そんなまさか。絶対に聞き違いだって」
 そう、自分以外にあのゲームを気に入る人間など居る筈が無いという卑屈とも言える思いから、つい月彦はそんな言葉を口にしてしまう。
「3は本当の本当に、真の意味でクソゲーだから。笑えるクソゲーとか、遊べるクソゲーなんて言葉があるけど、そんなのはクソゲーでも何でもないんだよ。本当のクソゲーっていうのは、誰一人面白いと思ってくれる人が居ないゲームなんだから」
「誰一人……? ということは、紺崎君もつまらないと思う派なのかい?」
「いや……俺は――」
 言葉を切り、わずかに悩んで、ほとんど溜息交じりに続けた。
「…………ひょっとしたら、世界中でただ一人かもしれない、あのゲームのファンだよ」
 ほう――そんな呟きと共に、佐由の眼鏡がキラリと光る。
「奇遇だね。実は私もそのゲームの評判を聞いて、むしろ私向きかもしれないと思って探してたんだ」
「倉場さん向き……?」
「白石君ほどじゃないが、私もひねくれ者でね。周りが良い物だと褒めちぎればアラを探したくなるし、逆にこれは悪い物だと言われれば良いところを探したくなるのさ」
「……いや、でも倉場さん。このゲームだけは本当に生半可な覚悟でやっちゃダメだよ」
 幼なじみである三人は誰一人共感出来ず全滅、それに加えてもあの真央ですらダメだったのだから。
「言ったろう? ひねくれ者だと。止めた方が良いと言われたら、意地でもやってやりたくなるのさ」
 でも、という言葉をぐっと飲み込む。ひねくれ者であると自称する佐由ならば、ひょっとしたら気に入ってくれるかもしれない――そんな淡い期待に、むずむずと胸の奥が疼き出す。
「倉場さんがそこまで言うなら……ごめん、あえて言わなかったけど、ブレドラ3もこの店じゃ買えないと思う。なんてったって不人気過ぎて、発売前から買い取り拒否の張り紙が出てたなんて噂もあるくらい、中古ゲーム屋に嫌われてるゲームだから」
「そうだったのか。ということは……他の店を回っても見つかる可能性は低そうだね」
「ぶっちゃけ、俺もあのゲームが中古で売られてるのは見た事ないよ。…………だから、もし倉場さんがどうしてもやりたいっていうのなら――」


 佐由を連れて店を後にし、自宅へと戻る。さすがに部屋に上げるのはいろいろと問題がある気がして佐由を門の前で待って貰った。一足先に帰宅し”けもフォレ”中の真央の傍らでソフト一式を手早く紙袋にまとめ、再び家の前へと戻る。
「……お待たせ。倉場さん。これがそのゲームだよ。一応攻略本も一緒に袋の中にいれといたけど……」
「ありがとう、紺崎君。本当に助かるよ……でも、攻略本の方は申し訳ないが断らせてくれるかい。フェアにプレイしたいからね」
「いやでも、このゲーム本当に難しいよ? 俺でも攻略本を読んでやっと先に進めたってところが何カ所かあったし……」
「まぁ、可能な限り自力で頑張って、どうしても詰まったら…………その時は優しいインストラクターにお願いしようかと思ってるよ」
 ちらりと、佐由が意味深な目を向けてきて、月彦は吹き出すように笑った。
「ははっ、いいよ。このゲームのことなら何でも聞いてくれ」
「それは凄い。頼りにしてるよ」
 佐由が原付のキーを回し、エンジンをかける。
「……それにしても、不思議なものだね」
「うん?」
「どうしてもやってみたいゲームソフトを探して店に行ったら、普通の人はまず所持していないであろうそのソフトの所有者である紺崎君とたまたま鉢合わせるなんて。…………偶然というには少々出来すぎてる気がしないかい?」
 確かにと、思わず頷いてしまいそうになる。
(……倉場さんとは、”縁”があるのかもしれないな)
 或いは佐由ならば、和樹も千夏も、そして真央ですらも共感することが出来なかったあのゲームの良さを分かってくれるかもしれない。
 そんな月彦の心を読んだように、佐由もまた微笑を浮かべる。
「……なんとなくだけどね、私もこのゲームが好きになる予感がするよ」
「…………もし、そうなったら俺も嬉しいよ。今まで、本当に誰とも話が合わなかったからさ」
 世辞でもなんでもなく、それは心からの本音だった。
「それじゃあ、名残惜しいけど、帰ったら早速プレイしてみることにするよ。今日は本当に助かったよ、ありがとう、紺崎君」
「いや、こっちこそ……っていうのも変な話だけど……あっ、もし気に入らなかったらその時は正直に言ってくれて大丈夫だから」
 酷評されるのは慣れていると、苦笑交じりに付け加える。佐由が手を振って原付を発進させ、その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、さあ家に戻ろうかと踵を返したところで。
「成る程。次はあの子に手を出されるわけですね」
 夏場の木陰からの風のような涼やかな声に、月彦はすぐさま振り返った。ゆらりと。空気がモヤのように揺らいだかと思えば、たった今佐由が去ったその場所に着物姿の男が姿を現した。
「は、白耀!? ……いつからそこに!?」
「いつからだなんてとんでもない。”ずっと”ですよ。月彦さんの行動を観察して参考にするのは僕の生きがいですから」
 んな、と絶句する月彦を前に、白耀はくつくつと笑って「冗談です」と零した。
「たまたま通りがかったら、何やらずいぶんと親しげに話しこまれている様でしたので。これは邪魔をしてはいけないと、影から見守らせてもらいました」
「待て、待て白耀! 勘違いするな! 倉場さんとは”そういうの”は一切無い! 純粋に友達として、ちょっとゲームソフトを貸しただけだ!」
「そうでしたか。つい邪推に走ってしまうのは血かもしれませんね。申し訳ありません」
 申し訳ないと口にしてはいるが、実際には申し訳なさなど毛ほども感じていないような、そんな軽やかな声だった。
(邪推するのは血、か……)
 確かに真央にもそういうところがあると、頷かざるを得ない。尤も、真央の場合は邪推ではなく真実をまことしやかに捉えた明確極まりない推理だったりするのだが。
「ときに、月彦さん。その手はどうされたんですか?」
「ん? あぁ……ちょっと転んでな。まあ、たいした怪我じゃないんだが、大事を取って吊ってるだけだ」
「そうでしたか……どうかご自愛なさってください。月彦さんにもしもの事があったら、菖蒲もたいそう悲しむでしょうから」
「えっ………………な、なんで……菖蒲さんが?」
「おや、菖蒲が月彦さんの心配をするというのがそんなに意外ですか?」
 ドキドキと撥ね回る心臓を押さえつけるように、月彦は吊ったままの右手で胸元へと爪を立てる。
「い、意外……っていうか、てっきり俺は菖蒲さんには嫌われてるものだとばかり思ってたから、さ」
「はは、そんなことはありませんよ。まぁ、確かに菖蒲はあまり感情を表に出さないところがありますから、月彦さんが誤解なさったのも仕方ないかもしれません。……ですが考えても見て下さい。そんなに嫌っている相手に、引っ越しの手伝いを頼んだりするでしょうか?」
 ましてや、家出した際の避難場所にするでしょうか?――白耀の言葉に、月彦は苦笑いを浮かべながら頷かざるを得なかった。
「そ――そういや、そうだな。うん、確かに白耀の言う通りだ…………嫌われてるわけじゃなかったのか……それなら良かった。嫌われてるよりは、嫌われてない方が断然いいもんな」
「そうそう、話は変わりますが――月彦さん」
 唐突に、白耀の声のトーンが変わる。その目までもが、鋭くまるで鋭利な刃物のように細まり、思わず気圧されるように月彦はたじろいだ。
「な、何だよ……白耀、ちょっと顔が怖いぞ」
「あぁ、申し訳ありません。怒っているわけではなく、真面目な顔をしようとしただけなんです」
 照れるような笑みと共に、白耀が申し訳なさそうの頭を掻く。
「実はその……月彦さんにお願いしたいことがありまして……今日近くまで来たのも、そのことを打診する為だったんです」
「俺に……?」
「はい。以前、新しい趣味を始めたということをお伝えしたと思いますが……その”趣味”の方が漸く形になってきまして。もし良かったら、月彦さんに一度、作品を見ていただけないかと」
「趣味……って……あぁ、そういや前にそんなこと言ってたな」
 いずれお披露目をする時が来る、とも。
(何だろう……まさか油絵とか、陶芸とかか?)
 作品が形になってきたというのは、人に見せられるレベルになったという意味だろうか。しかし絵画にしろ陶芸にしろ、わざわざ見て面白いと思えるようなものだとは、月彦には思えなかった。
(……でも、白耀には返しきれないくらい借りがあるからなぁ……)
 素人に毛が生えた程度の歪な作品を見せられても、ベタホメをするくらいの気遣いはしなければいけないかもしれない。
「まぁ、そんなに見て欲しいってんなら構わないけど……先に言っとくけど、俺はそういう芸術とかって全然分からない方だからな?」
「はは、大丈夫ですよ。ただ、見て、純粋に感想を述べていただければ、それだけで満足ですから」
「本当にいいのか? そこまで言うなら遠慮無く正直に感想言っちまうぞ?」
「もちろん、正直に答えていただいて構いません。月彦さんの”本音”が聞けるのなら、僕は本望です」
 その”作品”とやらを見てもらえるのが本当に嬉しいのだろう。白耀はなんとも無邪気な――屈託が無いとも言える――笑顔を見せ「後日、改めて招待状を送らせていただきます」と深々と頭を下げた後、去って行った。



 自分の皮肉な立ち位置に月彦が気がついたのは、翌日の授業中のことだった。
 そう、佐由に関して言えば、月彦は”共感して欲しい”と感じる立場であるのに対し、白耀に関しては”共感を求められる立場”になっているのだ。しかもどちらも同じ日に、それも立て続けに起きたというのが、佐由ではないが”偶然というには出来すぎている”とすら感じる。
 となれば、佐由に対して――世間一般的にはクソゲー扱いされているものを――出来れば気に入って欲しいと願うのであれば、白耀の新しい趣味とやらがどれほど受け入れがたいものであったとしても褒めちぎってやらなければならないのだろうか。
 自分が求めるのであれば、人から求められた時も応じるべき――だとは思うのだが、嘘をついてまで話を合わせるべきなのだろうか。
(うーん……やっぱり程度次第、だよなぁ……)
 いくら白耀には借りがあるとは言え、どんな趣味でも無条件に賞賛するというのはいかがなものか。例えば新しい趣味とやらが腹に絵を描いて躍ることであった場合、是非一緒にやって欲しいと言われても、さすがに共に躍る気にはなれそうもない。
(…………だから、倉場さんがこれは無理って言っても、落ち込まないようにしよう)
 もちろん佐由のことであるから、面と向かって「やっぱりクソゲーだった」とは言わないだろうが、やんわりと婉曲に自分には合わないと告げてくるかもしれない。”その時”にあまりショックを受けないようにする為にも、過度の期待は禁物だ。
 そう、過度の期待は禁物――ではあるが、やはり少なからず佐由のリアクションには期待していたのだろう。だからこそ、放課後昇降口で靴を履いていたところに先に帰った筈のクラスメイトから「他校の女子から、裏門で待ってると伝言を頼まれた」と聞いた時には、思わず飛び上がりそうな程に嬉しかった。
 まさか、あまりに苦痛すぎるゲームだから家にも置いておきたくないと突っ返しに来た――とは思わなかった。きっと佐由的にもすさまじくど真ん中ストライクなゲームで、感激のあまり居ても立っても居られなくなったに違いないと、月彦は勝手に判断し、大急ぎで靴を履いて裏庭へと直行した。
 


 結論から言えば、月彦の期待はものの見事に裏切られた。というより、”他校の女子”というのはそもそも佐由ですらなかった。
「やっ、ヒーく…………ヒーくん!?」
 裏門で待っていたのが佐由ではなく優巳だと気づいた瞬間にはもう、両足から力が抜け月彦はその場に両膝から崩れ落ちていた。
「ちょ……人の顔見るなり膝から崩れ落ちるなんて酷くない?」
「………………。」
 驚いて駆け寄ってきた優巳に返す言葉も無くて、月彦は無言で立ち上がるや優巳の体を押しのけるようにして歩き出す。
「待って! ヒーくん! 今日は話があって来たの!」
 相手をしてはいけない。話をするのももってのほかだ。先日に引き続いてのあまりに短い間隔での訪問に、月彦は完全に嫌気がさしていた。
「ねえお願い待って! もしかしてこの前のこと怒ってるの?」
 優巳を無視して早足に歩き続ける月彦と併走するように、優巳も息を乱しながらついてくる。
(”この前のこと”だって?)
 思わず足を止めてしまいそうになる。本当にこの女の頭の中はどうなっているのだろう。一応ながらも同じ人間である筈なのに、そして使う言語も同じ筈であるのに、ここまで意思の疎通が出来ない相手が存在するというのが、実物を目の前にしていて尚月彦には信じがたい。
「ねえ待って! お願い! この前のことは、私も言い過ぎたって謝りに来たの! ねえ、ヒーく――」
「触んな!」
 縋るように左手を掴まれるや、月彦は力任せに振り払う。――”それ”が失敗だったと、後から気づいた。
「きゃあっ!」
 掴んだ腕を力任せに振り払われた優巳が悲鳴を上げ、派手に転ぶ。それはもう、月彦が腕を振り払った瞬間、自ら飛んで歩道に転がったのではないかというほどに、服のそこかしこを破り生傷をこしらえ、さらに言うなら周囲の注目を一挙に引く甲高い悲鳴つきで。
「……っ……!」
 それでも、知らぬ顔をして一気に走り去ってしまえば、まだ逃げられたかもしれない。が、足を止め痛々しく地面に横たわる優巳の姿をまともに見てしまった時点で、月彦の”負け”は確定した。
 
 



 まがりなりにも自分が手を振り払ったせいで怪我をさせてしまったのなら、最低限傷の手当てくらいはしてやらなければならないだろう。例え相手がどれほど嫌いな女であっても、十中八九自分に構わせる為の罠であろうと分かっていても、見捨てることなど出来なかった。
「あいたたた……ご、ごめんね……。やっぱり、私と話をするのなんて、ヒーくんは嫌だよね」
 拵えたばかりの生傷を手で押さえながら、ひょこひょこ歩きで去って行こうとする優巳の姿をあざといとすら感じつつも、やはり見過ごすことが出来ない。
「…………アパートまで送ってやる」
 ぶっきらぼうにそれだけ言って、月彦は三角巾を外し、肩を貸す。
「ぁ……ありがとう、ヒーくん」
 優巳もまたそれだけを言い、わずかばかり体重を預けてくる。口を開いてもろくに返事はもらえないと漸く悟ったのか、優巳のアパートに着くまでの三十分弱の間、終始無言なのが月彦としてはありがたかった。
「ね、ねえ……ちょっとだけ待ってて」
 部屋の前へとたどり着くなり、優巳は早口に言って中へと入っていく。無視して帰ろうという気持ちが8割以上を占めていたが、結局月彦は言われるままに優巳が戻ってくるのを待った。
「ぁ……良かった。待っててくれたんだ…………はい、これあげる」
 再びドアを開けた優巳が差し出してきたのは、常温で保存されていたらしい缶コーヒーだった。
「開封してないやつだから、これならヒーくんも安心して飲めるよね」
 いや、優巳姉が直に手で持ってきた缶コーヒーなんて気持ち悪くて飲みたくない――そんな言葉を、ぐっと飲み込む。そう、さすがに全身至る所に擦過傷をこしらえ、思惑はどうあれ見た目上は健気にお礼をしようとする相手に対して、さすがにそこまで敵意をむき出しには出来なかった。
「…………話をするのは、やっぱり嫌……かな」
 そしてうつむいたまま、ほとんど独り言のように言う優巳に、月彦は大きく溜息をつく。
(……分かってる。全部優巳姉の”手”だってのは、分かってるんだ)
 しかし、どうしても無視をすることが出来ない。十中八九九分九厘演技で、心の内でしめしめと舌を出されていると分かっていても、”万が一”を考えてしまう。
「……分かった。十分だけな」
 そう、ひょっとしたら――優巳もまた自分同様愛奈の被害者に過ぎないのではないかという可能性。霧亜には呆れられたが、それでも月彦は黒須優巳の中に存在するかもしれない良心の可能性を信じずにはいられないのだった。


 まず、優巳が破れた衣類を脱ぎ、下着だけの姿になってから、消毒と手当を行った。幸い傷はどれもかすり傷で、消毒液と絆創膏で事足りた。
「こんなにあちこち怪我したのなんて、子供の時以来だよ。……昔だったら、愛奈がすぐ治してくれたんだけどなぁ」
 照れ気味に笑って、優巳が部屋着を身に纏う。そんな優巳の独り言と着替えを、月彦はテーブルの前に置かれたクッションに座り、冷めた目で缶コーヒーを啜りながら眺めていた。もちろん、優巳の下着姿になど微塵も魅力を感じないし、そもそも優巳を女子とも女性だとも認識していないから照れ気味に視線を逸らすなどということもない。
「あっ、ごめん……十分だったよね」
 ハッとしたように、優巳がテーブルを挟んで座る。
「あはは……っていっても、そんなに大した話じゃなくってごめんね……。本当に、ただこの前は言い過ぎたって、言いたかっただけなの」
 この前”は”――そこの認識がズレている時点で、言葉を交わすには値しない相手だと、月彦は思う。
「うん……ていうか、ちょっとあり得ないよね。ヒーくんが怒って帰っちゃうのも当然だって、今なら分かるよ」
 怒って帰ったわけじゃない――そう思うが、それはわざわざ口にする事ではない。ましてや、怒ったわけではなく単純に優巳の”正論”に心が耐えられなくなって逃げ出したなどと、わざわざ教えてやる必要は微塵も無い。
「悪いのはヒーくんじゃなくて、私の方なんだよね。双子の妹の私が、愛奈があんな風になっちゃう前に止めなきゃいけなかったんだよね。愛奈がヒーくんを虐めて遊ぼうって言い出した時も、そんなことしちゃダメだよって、私がちゃんと言ってたら……」
「…………。」
「……………………自分がやらなきゃいけなかったことを棚に上げて、全部ヒーくんが悪いみたいな言い方しちゃって本当にゴメンね。簡単に許してもらえることじゃないと思うけど……それでも、やっぱりこうやってちゃんと謝りたかったの」
 目の前の優巳を見る限り、本心から反省して謝罪をしているようにしか見えない。見えないが、もちろん月彦はそれをそのまま鵜呑みにしたりなどしない。
(……優巳姉のことだ。また何か悪巧みをしてて、改心したフリをしてるだけなのかもしれない、けど……)
 そう、この悪魔姉妹に味わわされた苦い経験が臆病ともいえるほどに月彦を慎重にさせていた。が、しかし本心としてはやはり「黒須優巳は本当はそんなに悪い女ではない」という自分の直感を信じたかった。
「……ぁ……十分、経っちゃった、かな」
 優巳の目線に促される形で、月彦も壁掛け時計へと目をやる。成る程、確かに優巳の言う通り、入室してから軽く十分は経過していた。
 しかしどういうわけか、月彦は今すぐ腰を上げようという気にはなれなかった。
(優巳姉のことだ……全部が演技で、俺はまた騙されかけているのかもしれない。だけど……)
 月彦はややうつむき気味に、しかし盗み見るように優巳の顔色を窺う。一昨日よりは若干マシとはいえ、しかし今尚顔色は良くない。あまり眠れていないのか目元は黒ずみ、熱いわけでもないのに額には汗が滲み、小さく萎縮した黒目は何かに怯えているようにひっきりなしに動き続けている。
 そして、そんな優巳の明らかな死相に加えてもう一つ。部屋に入ってこうしてテーブルを挟んで面と向かうことで気づいたことがあった。外に居たときは長袖の上着を着ていた為気がつかなかったが、部屋着のTシャツに着替えた優巳の左手首には、女の手には不釣り合いな大仰な青のリストバンドが巻かれていた。額に浮いた汗を拭うわけでもなく、かといってファッションの為とも思えないそれが、月彦には気になって仕方ないのだった。
「……そ、そーだ! ヒーくんおなか空かない?」
 沈黙に耐えかねたのか、優巳が場違いな明るい声に加えて、ぱむと手を叩く。――が、月彦は見逃さなかった。手を叩いた瞬間、優巳がわずかに顔を歪めたのを。
 もちろん、そこかしこに拵えた生傷が痛んだから――なのかもしれない。が、そうでないかもしれない……。
「近くに、出前の美味しいラーメン屋があるの。……どう、かな?」
 自分が作ったものでは口に入れたくないだろうから――そんな優巳の気遣いが透けて見えるかの様。本来ならばそんな気遣いすらも鬱陶しいと感じこそすれ、心苦しさなど微塵も感じなかった筈なのに。
(…………右手も、”前”よりは使えるか)
 少なくとも、箸を使うくらいなら支障は無い。となれば、残念ながら断る理由は特にない――ということになってしまう。
「………………確かに、今日は昼もパン1個だけだったし、小腹が空いたな」
 ぱぁぁと、たちまち優巳が目を輝かせる。そんなに嬉しそうな顔をするなよ、と。思わず口にしてしまいそうな程に。
「わかった! すぐ注文するね! あっ、普通のラーメンでいい?」
「別に、何でもいいよ」
 ぶっきらぼうに言うと、優巳は全てを察したとばかりに頷き、携帯を取り出して電話をかけ始める。
(……………………何やってんだろ、俺)
 胸中に渦巻くのは相反する二つの思い。己の舵取りを見失い、ただただ困惑するしかない月彦だった。


 出前だが美味しいラーメン屋という優巳の言葉ではあったが、果たしてそれは真実であったのか、月彦にはなんとも疑わしかった。ひょっとしたら、単純に引き留める為の口実だったのかもしれない。
(まぁ、別に不味いわけでもないんだけど……)
 少なくとも、食えないレベルではない――優巳とテーブルを挟み、会話らしい会話もなくひたすらラーメンを啜り合う現状が、どうしてかひどくさもしいものに感じる。とはいえ、こちらから優巳に対して特に語りかけるようなこともないなと、ラーメンを啜る月彦の目が、トッピングのゆで卵にとまったのはその時だ。
「あー……優巳姉?」
「えっ、な……なーに? ヒーくん、どうかした?」
 まさか声をかけられるとは思ってなかったのだろう。ぎょっとしたように顔を上げた優巳に対して、月彦は自分のどんぶりを差し出すように、わずかに前に出す。
「優巳姉、ゆで卵好きだったろ。俺あんまり好きじゃないからやるよ」
「え……い、いいの? てゆーかヒーくん、よく知ってたね。私がゆで卵好きだって……」
 腐っても従姉妹だからな――口には出さず、目線だけで早く取れと促す。弾かれたように優巳が半分にカットされたゆで卵を月彦のどんぶりから拾い上げ、自分のどんぶりへと移す。
「ありがとう、ヒーくん」
「どーいたしまして」
 反射的に返事をしてしまって、ハッと口を噤んで首を振る。そんな一部始終を優巳にも見られてしまったのだろう、くすりと笑われ、月彦は顔を背けながら唇を噛んだ。
「ほんと、ヒーくんは優しいよね。私のことあんなに嫌ってたのに、それでも私の好物は覚えててくれたんだもん」
「…………。」
「きっと愛奈も――…………ごめん、何でもない」
 優巳が黙る。月彦もまた喋る理由を見いだせず、黙ってラーメンを啜る。優巳が話題を切り替えなければ、食べ終わるまでそのままだっただろう。
「…………そういえば――さ」
 月彦は俄に目の前のどんぶりから目線を上げる。
「ヒーくんって、キーちゃんのこと大好きだよね」
 優巳の言葉に思わず首をかしげそうになる。そんな当たり前のことを、何故いまさら確認する必要があるというのか。月彦にしてみれば「太陽って、東から昇るよね」と言われたようなものだった。
「実際、キーちゃんってすごい美人だと思うし、勉強もスポーツも万能だったみたいだし、ヒーくんにとって自慢のお姉ちゃんだってことは分かるんだけど……」
 優巳姉なんかに姉ちゃんのすごさが分かってたまるかという思いが半分、霧亜のすごさが認められて純粋に嬉しいというのが半分。そんないかんともしがたいむず痒さに、月彦はとうとうラーメンを啜る手を止めて優巳の方を見てしまう。
「でも、そんな完璧なキーちゃんと比べられて、ヒーくんは嫌じゃなかった?」
「…………実際、姉ちゃんとは出来が違うんだからそこはしょうがないだろ」
「ホントに? 強がりじゃなくて、心の底からそう言える?」
「言える」
 即答はしたものの、内心は若干複雑ではあった。霧亜の凄さは認めているし、自分との差が大きいということも自覚している。が、だからといってコンプレックスが全くないかと問われれば、頷くことは出来ない。
「そっかぁ……ヒーくんは強いね」
 優巳が箸を置き、右手を左手首のリストバンドの上から重ねる。
「……考えてみたらさ、私とヒーくんってそっくりだね」
「はぁ……?」
「ごめん、そっくりっていうのは”境遇”のことね。私もヒーくんも、どっちも絶対に勝てないお姉ちゃんが居て、尊敬しつつも同時にコンプレックスも感じてる」
 つい、反射的に睨むような目を向けてしまう。図星を突かれての、無意識の反射だ。
「……ううん、やっぱり違う――かな。似てるけど、普通の姉弟と双子じゃ、全然別物だよ。……ヒーくんだってきっと、キーちゃんが”双子の姉”だったら、絶対今みたいに優しいままじゃ居られなかったと思うよ」
「普通の姉弟とか、双子とか関係ないだろ。俺は姉ちゃんと双子だったとしても、今と何も変わらないって断言できるぜ」
 ふっ、と。優巳が鼻で笑う。
「それはね、双子の辛さをヒーくんが知らないからだよ。…………”本物”と並べて飾られる、出来の悪い複製画の気持ち、ヒーくんに分かる?」
「複製画……?」
「なまじ似ているから、”劣っているところ”が浮き彫りになっちゃう気持ちなんて、ヒーくんには分からないよ。キーちゃんには絶対かなわないって、最初から諦めてるヒーくんには、絶対に」
「愛姉と比べられるのが辛かった、だからこんな風に歪んだ性格になったって言いたいのか?」
 半ば嫌味で口にしたようなものだった。――しかしそれは、思いのほか深く、優巳の心に突き刺さったらしい。
「さすがにそれは愛姉に責任転嫁しすぎじゃないのか? 少なくとも俺には、子供の頃の優巳姉が愛姉へのコンプレックスで歪んでたようには見えなかったけどな」
「それは――……」
 優巳が唇を噛み、そしてリストバンドの上から、手首を握るように押さえつけ、そして首を振った。
「……ううん、ヒーくんの言う通りだね。私のそういう卑怯な所は、きっと生まれつきなんだと思う」
「”だと思う”じゃなくて、間違い無く生まれつきなんだよ」
 そこまで言って、ハッと口を噤む。いくら優巳相手とはいえ、さすがに言い過ぎたか――そんな思いから、月彦はちらりと優巳の顔色を覗く。
「………………。」
 優巳は肩を縮こまらせ、自己嫌悪とも自嘲ともつかない卑屈な笑みを口元に浮かべていた。”そんなこと”はもう言われるまでも無く分かってる――そんな顔に、月彦には見えた。
「…………ヒーくんの言う通り、愛奈と離れれば……愛奈と関わらなければ、私も変われる……のかな」
 それは独り言の体を装いつつ、出来れば”返事”が欲しい――そんな呟きだった。
「変われれば……ヒーくんとも、キーちゃんとも仲良く出来るのかな」
「さぁな」
 優巳とは目を合わせず、月彦もあくまで独り言の体を装い、続ける。
「俺はともかく、姉ちゃんは優巳姉のことは一生許さないかもしれないな」
 視界の外で、優巳が破顔したのが分かった。そんな優巳の反応に、反射的に舌打ちをしたくなるが――我慢する。
「変わりたい……なぁ…………」
 それもあくまで独り言――しかし、月彦には変えて欲しいと、懇願されているように聞こえた。



 ラーメンを食べ終え、器をかたづけた後、すぐに帰ることも出来た。出来たが、なんとなく優巳を見捨てられなくて――もちろん”そういう風”に振る舞っているだけの可能性も考えてはみたが――結局月彦は家に電話をいれ、そのまま長居をしてしまった。
 といっても、別に昔話に花が咲いたとか、一気に距離が縮まってそのまま体を重ねてしまった――というわけではない。ほとんどは優巳が喋るのを適当に相づちをうってただ聞いているだけだった。
 そう、なんとなく優巳を見捨てられなくて長居はしてしまっているが、とはいえ簡単に信用するわけにはいかない。受け答えにも慎重を期さなければならず、自然と言葉少なにならざるを得ない。
(……それに、”話せる話題”も少ない)
 何しろ共有している記憶の大半が被害者加害者の関係のそれだ。至極話題も当たり障りの無いものを選ばざるをえないことになる。当然盛り上がりにも欠け、なんとか場の雰囲気を和ませようと優巳が努力していることは伝わってくるのだが、かといって月彦の側から何か話題を提供するほどの義理も感じず、拭いきれない気まずさにますます「俺、何やってるんだろう……」感が強まってきたところで。
「――そ、そういえばさ……ヒーくんの例の彼女……えと、ユリコちゃんだっけ。最近どんな感じ?」
 優巳の質問に、月彦の心臓は一瞬止まりかけた。
「別に……もう、由梨ちゃんとは何もないよ」
 胸を内側から針で刺されるような鋭い痛みに、月彦がかろうじて言えたのはそれだけだった。あっ、と。優巳もそれだけで全てを察したらしい。
「そ、っか。ごめんね、私……知らなくて」
「いいよ、別に。優巳姉のせいってわけじゃないし」
 さすがに由梨子との破局まで優巳のせいにするのはお門違いだ。”そこ”に関しては優巳には全く落ち度は無いと、月彦は小さく首を振る。
 ――が。
「……………………そっか。じゃあ、今……ヒーくんフリーなんだ」
 その優巳の呟きには、いささか耳を疑った。さも「じゃあ、狙っちゃおうかな」というような響きが含まれていたからだ。さらに言うなら、その後の優巳の沈黙も、機嫌を伺うような上目遣いも、まるで月彦の側から水を向けてくれることを期待しているように見えて、さすがに舌打ちをしそうになる。
(ふざけるなよ。姉ちゃんを階段から突き落とすような奴に俺が気を許すとでも思ってんのか)
 ちょっと優しくしてやればすぐこれだと。呆れる反面、”それ”も姉の愛奈に対する恐怖故に本当はやりたくないことを強制されていたのではないかと考えてしまう。変わりたいという優巳の言葉が正真正銘本音であり、そして優巳の性根を正すことで今後二度と愛奈の命令を実行させないで済むのなら、それは霧亜の安全にも繋がるのではないか――。
「あ、あのね……ヒーくん、勘違いしないでね?」
 優巳の言葉に、月彦は目線だけを挙げて優巳の顔を見る。
「え、っと……ヒーくんの彼氏にして欲しいとか、そういう意味じゃないの。さすがに、そんなこと……言う資格は無いって、私でも分かってる、から…………」
 ただ――と、優巳は左手のリストバンドを右手で握りながら、続ける。
「時々でいいから、こんな風に……話し相手になってくれないかな。ううん、返事なんてしてくれなくてもいい。ただ、私が話すのを聞いてくれるだけでいいの。ヒーくんが側に居て、黙って聞いてくれてるだけで、すごく心が落ち着く、から」
「……ただ聞くだけでいいなら、俺が居る必要なんて無い。壁にでも話せばいいだろ」
 一瞬、優巳が泣きそうな顔をして――慌てて笑顔で塗りつぶす。わざわざ口に出して言うことではなかったと、月彦は己の発言を後悔した。
「………………悪い、今のは言い過ぎた」
 溜息。優巳のことが嫌いなのは、優巳と居ることで自分の冷酷な一面に気づかされるからかもしれないと、月彦は思う。
「だけど、本当に話を聞くだけでいいなら別に俺じゃなくてもいいだろ。誰か他の、大学の友達とかでもさ」
「………………いないよ」
「へ?」
「大学で会って、普通に話をするくらいの友達はいるよ? だけどこうして部屋に呼んだりできるような友達は……一人も居ない」
 私は性格が悪くて、性根も腐ってるからと、優巳は自虐の笑みと共に付け加える。
「昔はいつも愛奈と二人で居たし、愛奈が養女に出された後も……特別仲間はずれにされたりとかは無かったけど、はっきり友達って呼べるような相手は居なかったな。…………ううん、私が気づいてなかっただけで、やっぱり周りから避けられてたのかな」
 そういえば、学校ではいつも一人だったと。優巳はまるでたった今そのことを自覚したとでも言わんばかりに苦笑する。
「だけどね、私はそれを寂しいとは思ってなかったんだよ。ううん、むしろ誇らしく思ってた。周りの子達と自分は違うんだって、私が特別で、私と対等に話が出来るのは愛奈だけだから仕方ないんだって」
 成る程と、むしろ月彦は納得する。十数年ぶりに再会した時の優巳が、まさに”そんな感じ”だったからだ。
「でも、違ったんだよね。特別なのは愛奈だけで、私は普通――ううん、普通以下だった。愛奈にもよく言われるの、二人分の人間の材料から、優れてる部分だけを集めて作られたのが愛奈で、私はその”余り”なんだって。何一つ人より秀でたところが無い、”人並み”ですらないのが私なんだって」
「……………………。」
「……もうっ。そこは”そんなことない”って否定してよ。酷いなぁ」
「いや、だって実際……優巳姉って胸も全然無いし……」
 う、と。優巳が反射的に胸元を隠すように腕を交差する。
「”そこ”なの!? ヒーくんにとっての”人間の価値”って、まず”そこ”なの?」
 いや、そういうわけじゃ――思わず苦笑しかけて、慌てて顔を引き締める。
(いかんいかん……優巳姉相手だってのに、何和みそうになってんだ……)
 でも――と、月彦は考える。ひょっとしたら、優巳が何度酷い目に遭わされても愛奈の元に通ってしまうのは、単純に寂しいからなのではないかと。


「ねえ、ヒーくん……私……もう、帰り道に待ち伏せしたりとかしないからさ、その代わり……」
「………………。」
 八時を回り、さすがにこれ以上長居は出来ないと腰を上げ玄関を出ようとした月彦の腕を、優巳は縋り付くように掴んでくる。掴んで、そしてすぐにハッと――振り払われることを恐れるように自ら離した。
「時々でいいからさ……ね? 私、夜はいつも部屋に居るから……」
「…………。」
 優巳の右手が、再び左手首のリストバンドへと触れる。無意識に、ついそこを触ってしまう――そんな手つきで、何度も。何度もリストバンドの上から手首の内側を撫でつける。
「…………あぁ、分かった。気が向いたらな」
「う、うん! 待ってるよ……ずっと、待ってる、から……」
 靴を履き、玄関を出ても尚、名残惜しむように優巳はついてきた。まさかそのまま家まで着いてくる気では――そんな月彦の危惧は、アパートの敷地ギリギリのところで足を止めた優巳の姿によって霧散した。
 そのまま歩き続け、角を曲がろうとしてふと気になって振り返って――ぎょっと目を剥きそうになった。優巳は、まだアパートの敷地前に立っていた。色白の肌に、生気の無い顔、縋るような目はまるで動きたくともその場所から動くことが出来ない自縛霊か何かの様。
 月彦は優巳には気づかなかった体でそのまま前を向き、角を曲がる。が、その実脳裏には優巳の不安げな――それでいて生気を感じさせない虚ろな顔が焼き付いていた。
(………………厄介なことになった)
 心底そう思う。黒須優巳には明らかに助けが必要だ。本来ならば、そんなのは知ったことかと、自業自得だと鼻で笑える筈であるのに、どうしてもそれが出来ない。
(優巳姉の部屋に通って、”まとも”になる手助けを俺がする?……冗談だろ)
 あの悪魔姉妹がまともになどなれる筈が無い。すっかり油断しきった頃に一服盛られるのがオチだ。
(でも――……)
 優巳も被害者に過ぎず、そして助けを求める手を自分が振り払ったせいで取り返しのつかないことになってしまったら――青のリストバンドを押さえつけるように摩る優巳の手が、どうしても頭から離れない。
 そう、誰にも相談出来ない悩みを抱えた優巳が唯一同類だと――”同じ境遇”と思われること自体、月彦としては反吐が出る思いだが――認識している紺崎月彦にすら見捨てられたことが、”最後の一押し”となってしまったら。
「………………はぁぁぁぁ………………クソッ…………いくらなんでも、寝覚めが悪いよな…………」
 せめて、優巳が深刻な状態を脱するまで、壁代わりに話を聞いてやるくらいなら――
もちろん、その間も一切油断などするつもりはないが――問題はないだろう。
 帰り道、何度も何度も溜息をつきながら、優巳と自分の甘さへの悪態を呟き続ける月彦だった。



 気が向いたら顔を出す――とは言ったものの、もちろん即日様子を見に行くようなつもりは、月彦には無かった。せいぜい週末に学校帰りに部屋に寄って壁代わりに話を聞いてやるくらいのつもりだった月彦だったが――
「…………何でだよ」
 放課後、気がつくと家に帰るよりも先に優巳のアパートの前に立っている自分に気がつき、思わずしゃがみ込んで両手で顔を覆った。
 確かに、昨日の優巳の様子は気がかりではあった。さらに言うなら、朝食時につけられていたテレビのニュースでたまたまアパートの自宅から女性の遺体が見つかり、しかも自殺らしいと報道されていてヒヤリともした。結局女性の遺体が見つかったアパートというのは近所ですらない、他県の話だったのだが、それでも優巳は大丈夫だろうかと不安になったのは事実だ。
(……だけど、いくらなんでも即日はない。これじゃあ、優巳姉にだって甘く見られちまう)
 ちょっと寂しいフリをすれば、簡単に引っかかる甘ちゃんだと思われかねない。そんなことになればあの優巳のことだ、ますます図に乗って気を引こうとしてくるかもしれない。
(……そう、だよな。今日の所は帰るか)
 自分の性格は分かっている。ちょっと顔だけ見てすぐ帰る――などということは不可能だと。ならばもう、顔を見る前に帰るしかない。
 優巳の部屋の辺りを見上げ、さあ帰ろうと踵を返した時だった。がっしゃーんと、食器が割れるような音と共に聞こえた悲鳴を耳にするなり、月彦は再び振り返っていた。
「優巳姉!?」
 冷静に考えれば、そもそも食器の割れる音が本当に優巳の部屋から聞こえたのかどうかも怪しければ、聞こえた悲鳴が優巳のものだったかどうかも怪しく、何より食器が割れたからといって別に何か深刻な事態になるとは限らないと気がつけた筈だった。
 が、不安の種で頭がいっぱいになっていた月彦を走らせるには悲鳴というのは十分すぎ、そして――月彦にとって不幸なことに――優巳の部屋のドアには鍵がかかっていなかった。
「優巳姉! 大丈夫か!」
「えっ……ヒーくん!?」
 玄関のドアを開けてすぐのリビングで驚き固まっているのは部屋着姿の優巳。そしてその足下には、一枚の平皿が無残に砕け散っていた。
「なんだ……皿を落としただけ、か……………………てゆーか優巳姉、鍵くらい掛けとけよな、不用心だろ」
「ご、ごめん……最近、よく忘れるの…………」
 ぱちくりと、今尚月彦が目の前に居るのが信じられない――そんな顔だった。ハッと、思い出したようにしゃがんで、砕け散った皿の破片を拾おうとして。
「痛っ……」
「あぁ、いいから! 俺が拾うから優巳姉はそっちに避難しててくれ」
 肩に掛けていた鞄を降ろし、優巳を居間の方に避難させて砕けた皿の後片付けをする。程なくどこからか掃除機を持って来た優巳が、拾いきれない破片を掃除機で吸い、漸くのことでひと心地つく。
「……ごめんね。皿を取ろうとしたら、食器棚の中に蜘蛛が居て驚いちゃって……」
「蜘蛛くらいで驚きすぎだろ。だいたい優巳姉は虫とか平気だろ?」
「それは子供の頃の話。それに苦手じゃなくてもいきなり飛び出して来たら驚くじゃない」
「まあそりゃ、な」
 納得して、はたと気づく。
(いや、待て。何普通に話してんだ、俺……)
 優巳の部屋に行って、壁代わりに話を聞いてやるつもりではいたが、返事をする必要など無いではないか。
「……ね、ねぇ……ヒーくんこそどうしたの? ひょっとして――」
「あぁ……いや……ちょっと別の用事で近くまで来て、アパートの前を通りかかったら悲鳴が聞こえたから…………」
 下手な嘘だ。きっと優巳にもすぐバレたことだろう。
「そっか……。…………でも、嬉しい。来てくれてありがとう、ヒーくん」
 恐る恐る――そんな手つきで、優巳が手を握ってくる。不思議と不快ではなく、振り払おうという気になれなかった。

 意外にも――と言うべきか。優巳の”容態”は落ち着いているように見えた。それでいて特に何かを要求してくるというようなことは無く、不快な話題を振ってくるということもない。きっと優巳なりに精一杯”居心地良く”過ごしてもらおうという配慮の末の絶妙な距離感なのだろう。
(……でも、それが逆に怪しいんだよな。今度は何を企んでるんだ……?)
 優巳が側に居るというのに居心地がそんなに悪く無いということが逆に、月彦に警戒心を抱かせる。
「そう、いえばさ」
 当然優巳との会話は弾まない。が、それでも沈黙しているよりはマシということなのか、優巳は健気なまでに話題を振ってくる。
「ヒーくんって、学校の成績とかどんな感じ?」
「別に、普通だけど」
「もし苦手な科目とかあるなら相談乗るよ? これでも一応大学生だし」
「いや、遠慮しとく」
 静寂。
 ノータイムでの”返し”に、優巳も二の句が継げないのか、口をあけたまま目をぱちくりさせ、そしてえへへと卑屈に笑う。
「そ、そーだ! 何かゲームでもする? ヒーくんは――」
 優巳がぱむと手を叩いた瞬間。その背後で突然音楽が鳴り始めた。
「ひっ――」
 たちまち優巳が悲鳴を上げ、顔を引きつらせたかと思えば、次の瞬間には目の前のテーブルをひっくり返していた。
「ゆ、優巳姉!?」
 テーブルの上に乗っていたお茶――優巳が自販機で買ってきた、缶入りのもの――はたちまちひっくり返り、絨毯へと吸い込まれていく。が、それよりなにより半狂乱になって暴れる優巳を落ち着かせなければと、月彦はひっくり返されたテーブルを跨いで優巳の手を掴む。
「優巳姉、落ち着けって! 一体どうし――」
 ハッとして、漸くに月彦も気づいた。突然聞こえ始めた音楽というのは携帯の着メロであり、同時に鈍い音を立てて震えている優巳の携帯に表示されているその名前を見るなり、月彦もまた危うく悲鳴を上げそうになる。
「――っっっ…………!」
 着信を受ける――などという選択肢などありはしなかった。一も二も無く月彦は携帯を掴むやガラス戸を開け、ベランダへと放り出すやすぐさま戸を閉めた。
 そのまま、月彦は力なく膝から崩れ落ちる。全身に冷たい汗が滲んでいた。やったことといえばただ携帯をベランダに放り出しただけであるが、体感的には邪悪な魔物が封印を破る寸前のところで再封印に成功したかの様。さながら、ホラー映画の主人公にでもなったような気分だった。
「っ……」
 今頃になって全身に震えがくる。携帯を投げ捨てる際、誤ってタッチパネルの着信を触ってしまっていたらと考えるとゾっとする。そんな筈は無いと分かってはいても、通話が成立した瞬間、受話器を通じてあの女が目の前に現れるのではないか――そう感じる程に、月彦は今尚黒須愛奈への恐怖が根強く己の中に残っているのだと知る。
「携帯……携帯どこ……!?
「お、おい……優巳姉!?」
 が、のんびりと肩を抱いて震えている暇などありはしなかった。はたと気づけば、半死人のような形相の優巳が絨毯をかきむしるようにして携帯電話を探していたからだ。
「出なきゃ……出ないとまた、お仕置きされる……」
「ダメだ、優巳姉! 出るんじゃない!」
「ヒーくん! 私の携帯どこやったの!? 早く出ないと……愛奈が、愛奈が……!」
「大丈夫だ! もう愛姉からの電話になんか出なくていい!」
 一体どれほどの恐怖を刷り込まれているのか。狂乱状態でつかみかかってくる優巳のそれはおよそ女の細腕の力とは思えず、月彦はやむなく負傷している右手も使って強引に組み伏せざるを得なかった。
「大丈夫だから……」
 同情――というよりも、それは共感に近かった。自分と同等――或いはそれ以上に愛奈を恐れる優巳に対して、今この瞬間だけは。月彦は全ての嫌悪を忘れて優巳の体を抱きしめる。
 優巳の荒々しい息使いが、嗚咽混じりの声が、徐々に治まっていくのを感じる。腕の中で藻掻き続けていた優巳の体が、ふっ……と。まるで憑き物が落ちたかのように脱力する。
「ひー……くん……」
 恐る恐る――そんな手つきで、優巳の手が背中へと回される。
「…………暖かい…………」



 


「………………落ち着いたか?」
「うん……ありがとう、ヒーくん」
 自販機で買ってきたお汁粉を飲む優巳の傍らで、月彦はお茶を吸ってじっとりと湿った絨毯を布巾で擦る。なんで俺がこんな事を、とか。自分で零したんだから自分で拭けとか、いろいろと言いたいことはあったが、すっかり憔悴しきっている様子の優巳の姿を見ればとても口には出来なかった。
(……電話がかかってくるだけであんだけ怯えるのなら、そりゃあ窶れもするわけだ)
 
 恐らく、”着信を無視したらどうなるか”を骨の髄まで刻み込まれているのだろう。事実、黒須愛奈の恐怖を骨の髄まで刻まれている者として、優巳の気持ちは痛い程に理解出来る。
(……愛姉と会うなって言っても聞かないのも同じ理由なのかもしれないな)
 双子の妹に対してさえ、これほど容赦なく追い込めるということは、やはり愛奈は怪物そのものなのだろう。月日が経ち、あの女の凶暴性もひょっとしたら影を潜めたのではないかという淡い期待も、優巳の様子を見る限り微塵も抱けなかった。むしろまだ記憶の中にある黒須愛奈の方が可愛げがあるのではとすら思える。
「……美味しい」
 まるで暖を取るようにお汁粉の入った缶を摩りながら呟く。
「………………優巳姉って、なんか体温低いよな」
「えっ、えっ? きゅ、急にどうしたの?」
「いや、ほら……さっき……暴れる優巳姉を押さえつけた時……冷たかったから……」
「そ、れは……ひ、ヒーくんの体温が高かっただけじゃないのかな?」
「俺は普通だよ。優巳姉がおかしいんだって」
「う……確かに冬場はあんまり体温上がらないっていうか……平熱が34度くらいだけど……」
「平熱34度って……低すぎだろ! よく生きてるな……」
 この女、本当にヘビかなにかの化身ではないのか。普段からやれキツネの化身やらタヌキの化身やらを相手にしている身としては、黒須優巳がヘビの化身であったとしてもなんら不思議はないと思える。
「…………そうだね。もうすぐ、本当に死んじゃうかもしれない」
「……な、何言ってんだよ。ほんの冗談だって」
「だって……愛奈からの電話を無視しちゃったんだよ? 」
 たかが電話だろ――そう笑い飛ばすことは出来なかった。そう、少なくとも”たかが電話”ではないのだ。相手が愛奈の場合は。
「…………なぁ、優巳姉。前にも言ったけど……愛姉とはやっぱり縁を切った方がいいって。優巳姉だってその方がいいって本当は分かってるんだろ?」
「でも……」
「優巳姉がそうやって言いなりになってるから、愛姉だってそれが悪いことだって分からないんじゃないのか? 愛姉の為にも一度がつんと突き放して、自分がやってることがどういうことなのか分からせてやったほうがいい」
「だ、ダメだよ……そんな……愛奈に逆らうようなこと……絶対、出来ない……」
「出来ないじゃない。やるしかないんだ」
「無理! 絶対に無理だよ! 私一人じゃ……」
 一人では無理――膝を抱えたままの優巳に縋るように見上げられ、うぐと月彦は後ずさりする。
「や、やめろ……俺を、頼るな、よ……」
「ヒーくん、それはズルいよ。私には愛奈に逆らえって言っておいて、自分は愛奈が怖いから関わりたくないっていうの?」
「ま、待て、待ってくれ優巳姉! それとこれとは話が別だろ?」
「全然別じゃないよ。ねえヒーくんお願い、ヒーくんと一緒なら、私も……多分、頑張れると思うの」
「うぐぐ……ぐぐぐ……」
 返す言葉を見つけられず、月彦はただただ唸る。確かに優巳の言う通りなのだ。お前は勇気を振り絞って巨悪と戦えと言っておきながら、じゃあ手伝ってと言われて俺は無理!というのでは説得力などカケラも無いではないか。
「ねえ、ヒーくん」
 何かひやりとしたものが右手に絡んでくる。白いヘビかと思いきや何のことはない、優巳の手だ。
「私は何も私の代わりに愛奈と直接対決して欲しいって言ってるんじゃないの。ただ、愛奈に電話でしばらく会えないって伝える時、側に居てくれるだけでいいの」
「いや、でも……」
「愛奈の声を聞きたくないなら耳栓でも何でもしてていいから。とにかく側に居て欲しいの……」
 一人じゃ絶対無理だから――泣きそうな声でそう付け加えられ、月彦は唇を噛みしめる。
(…………優巳姉の気持ちは、分からなくは、ない……)
 少なくとも、自分には優巳のように――例え電話機越しでも――愛奈と言葉を交わす勇気など無い。その点だけを見れば、紺崎月彦より黒須優巳の方が勇気があると言えるだろう。
 その優巳が、愛奈への恐怖を紛らわせる為に手を握っていて欲しいと言っている。仮に同じことを自分がやろうとした場合、手を繋いでいる相手が真央でも葛葉でも、あるいは霧亜でも出来ないであろうことを鑑みれば、少なくとも愛奈が怖いからと優巳の要請を断ることは心ある人間のするべき事では無い。
「…………っ…………わ、かった。………………本当に、側に居るだけでいいんだな?」
「ヒーくん!? いいの!?」
 優巳自身、まさか月彦が承諾するとは夢にも思っていなかった――そんな素っ頓狂な声だった。
「確かに……優巳姉の言う通りだ。優巳姉にだけ勇気を出せって言っておいて、自分は怖いから嫌だは通らないよな。………………愛姉のことは苦手だけど、優巳姉が喋る間近くに居るくらいなら……」
「ヒーくん……」
 嗚咽混じり――というよりは、涙腺が緩んだような声。同時に、ほとんど飛びかかるような勢いで優巳に抱きつかれた。
「ゆ、優巳姉!?」
「ごめんね、ヒーくん。ヒーくんが愛奈のこと苦手だって、私が一番よく分かってるよ。それでも、私の為に頑張ってくれるんだね。ヒーくんは本当に優しいんだね」
 抱擁――まるで、母が子にするような手つきで、よしよしと頭を撫でられる。うっかり身を任せてしまいそうになって――ハッと、相手は年上とはいえ優巳なのだと思い直す。
「わ、わかったから……止めてくれよ、優巳姉…………は、恥ずかしい、だろ……」
「止めないよ。私、今度という今度はヒーくんのこと本気で見直しちゃったんだから………………カッコイイよ、ヒーくん」
「だ、だから……止めろって…………っ…………」
 止めろ、といいつつも力任せに優巳を引きはがしたり突き飛ばそうとまでは思わない。部屋着のシャツ越しに優巳のスポーツブラらしき感触と、その向こうに本来ならば存在していなければならないたわわで柔らかい乳肉の感触が無く、頬骨に痛みすら感じていても「まぁ別にこのままでいいか」と抵抗する気も起きない。
 それがひとえに自分には出来ないことをやろうとする優巳に対する尊敬の念故なのか、はたまた好意の芽生えによるものなのか。
 その答えは月彦にも分からないのだった。


「じゃあね、ヒーくん。……明日、待ってるから……約束だよ?」
「……あぁ、分かってるって。じゃあな」
 月彦を玄関の外まで見送り、その姿が廊下の奥を曲がって階段へと消えていくのを確認してからドアを閉める。……閉めるなり、くつくつと意地の悪い笑みが滲み出るのを優巳は止められなかった。
 チョロい。
 本当にチョロ過ぎる。
 本当にもう、何という甘ちゃんだろうか。
「ダメだよぉ、ヒーくん。もうちょっと人を疑うってことを覚えなきゃ、悪い女に騙されちゃうよ?」
 ニヤニヤが止まらない。月彦を騙すことなど朝飯前だとは思っていたが、ここまで楽だとも思わなかった。一体全体どれほどお気楽な人生を歩んでくれば、あそこまでめでたい頭に育つのだろうか。
「ヒーくんのためを思って、いっぱいいーっぱい虐めてあげたのに、なーんにも学習しなかったんだね」
 鼻歌交じりにガラス戸を開け、ベランダに転がっていた携帯を手に取る。案の定、愛奈からの着信が数件と、その倍以上のメール。その殆どは電話に出ない事に対する文句だったが、唯一画像ファイルが添付されたものだけが”別件”のようだった。
 無駄に容量の大きいそのファイルに思わず舌打ちが出る。添付されていたのは、すっかり浮かれたご様子の愛奈が男の子用と女の子用の二着のベビー服を両手に持っている写真だった。恐らく撮影の方は女官にでも頼んだのだろう。
「”双子でもいいよ!”……か。いくらなんでも気が早すぎるよ、愛奈」
 赤ん坊が生まれた直後にベビー服を着るとでも思っているのだろうか。それとも、生まれた後でも十分間に合うと頭では分かっていても、気がはやってはやってつい先走ってしまったのか。
 愛奈の性格的に間違い無く後者だろうと、優巳はほくそ笑む。
「ごめんね愛奈。折角楽しみにしてくれてるところ悪いんだけど、生まれてくる子供はヒーくんの子供じゃないの」
 腹部を撫でる。さすがにまだ妊娠の兆候も自覚も無い。が、”その瞬間”はいずれ必ずやってくる。
 ”発想の転換”は本当に大事だ。最初はレイプされ妊娠させられたと知り怖気と絶望に嘔吐までしたが、今は生まれてくる子供を愛奈に突きつける瞬間が楽しみで仕方ないのだから。
「でもね、安心して? ちゃんとヒーくんに自分の子供だって認めさせるから。ヒーくんが認知しちゃえば、”本物かどうか”なんて愛奈には関係ないよね?」
 くふくふと”悪い笑み”の理由が変わる。あの愛奈が。あれほどに月彦との子供を切望していた愛奈が。本当は月彦の子ではないと知りつつも、それでも月彦が認知したからにはと無理矢理自分を納得させて、どこの馬の骨とも知らない男の子供を育てるはめになるのだ。
「嫌がる私に無理矢理ヒーくんの子供産ませようとしたんだから、それくらいの地獄は当然だよね?」
 おそらく――否、間違い無く愛奈は葛藤するだろう。例え月彦が認めたとはいえ、”この子供”を本当に月彦の子だと認識して良いのかどうかを。目の前の子供は、無限の愛を注ぐに足る存在なのかどうかを。
 ミルクをあげながら、ふとその事実が頭をよぎることもあるはずだ。あるいはおしめを替えながら、あるいは離乳食を作りながら。自分がせっせと世話をしているのは月彦とは血のつながりも何もない、赤の他人の子供であると知りながら、それでも愛するに足るのか――。
「愛奈、悩みすぎて頭おかしくなっちゃったりして。あぁ、元々狂ってるんだから一緒か、キャハ!」
 愛奈さえそうやって黙らせてしまえば、あとは甘ちゃんの月彦一人どうとでも料理出来る。チョロ甘の世間知らずではあるが、”下半身”の方は悪くないからまずは飽きるまで弄んでやろう。
 最初はそれこそ愛奈の影に怯えるいたいけな少女のフリで。黒須優巳は自分が守ってやらねばと、分不相応な正義感を抱く月彦に満足感を与えつつ、その心を捕らえ虜にする。
 そうなれば後はじっくりと調教して、黒須優巳なしでは生きていけない体にしてやるのだ。
「くふくふ、”そうなったヒーくん”を見たら、キーちゃんはどんな顔するかなぁ?」
 全裸に首輪、犬のように四つ足で歩く弟の姿を見た時の霧亜の顔を想像するだけで、優巳は思わず下着の中に指を伸ばしそうになる。
「ショックで引きつってるキーちゃんをそのままヒーくんにレイプさせちゃうのも面白いかな? それともいっそ、おばさんをレイプさせちゃおっか?」
 まるで頭の枷が外れたかのように、邪悪な発想が次から次に沸き出、止まらない。そのどれもが優巳には簡単に実現可能に思え、そしてそういう発想を出来る自分を誇らしくすら思う。
 そう、黒須優巳が――ひょっとしたら唯一――愛奈に勝てる部分があるとすれば、発想の残虐さではないかとすら思える程に。
「ううん、やっぱりキーちゃんだよね。あのキーちゃんが蒼白になって愕然としてるところを間髪入れずに襲わせて……ううん、私も一緒に――ダメ、やっぱりヒーくんに襲わせて、そして私はショックでまともに抵抗出来なくてされるがままになってるキーちゃんを撮影して……」
 あの霧亜が。私は血統書つきなのよ!と人間を見下しているペルシャ猫のように澄ました顔をした霧亜が顔を引きつらせあるいは恐怖に歪め、半狂乱になって抵抗する様など、そう見れるものではない。月彦に混じって霧亜を襲うより、”そちら”を撮影するほうが遙かに大事だ。
「くふくふくふ、キーちゃんって絶対処女だよね。なのにいきなりヒーくんの巨根が相手じゃあいくらキーちゃんでも泣いちゃうよね? キャハッ、ヒーくんの巨根で無理矢理処女喪失させられてガン泣きしてるキーちゃんの顔、絶対ヤバいよぉ……動画に撮って一生の宝物にしなきゃ」
 リアルすぎる妄想に、次第に下半身がうずき出す。このまま妄想のままに自慰に耽りたいのは山々だが、ここは我慢だと優巳は頬をぺちんと叩いて頭を振る。
「……少しでもセックスに抵抗がない状態にしとかないとね。なんてったって明日はヒーくんと寝なきゃいけないんだし」
 いくら月彦がチョロ甘の頭がハッピーセット男だとはいえ、いきなり子供を認知してほしいと言われてうんとは言わないだろう。しかしきちんとタイミングを選びさえすれば、月彦を頷かせる自信が、優巳にはある。
「しょうがないから、明日はサービスしてあげる。改心した優巳お姉ちゃんは本気でヒーくんのことが好きなんだって……ヒーくんが錯覚するくらいには、ね」



 紺崎月彦はチョロ甘のクソザコちゃんではあるが、だからといって舐めすぎるのは禁物だ。少なくとも、雑魚も雑魚なりに追い詰められれば牙を剥くということを、優巳は身をもって知っている。
(でも、そこがヒーくんの弱点でもあるんだよねー?)
 それは裏を返せば、追い詰められなければ何も出来ないということだ。優巳にしてみれば”そんなの”は何も出来ないのと同じであり、だからこそ月彦はチョロ甘のクソザコちゃんなのだ。
 優巳は準備を怠らない。月彦はドレッドノート級のお人好しでついでにオマヌケさんだから十中八九大丈夫であっても、優巳は十中十を目指す。大学など行っている場合ではない、午前中は食材の買い出しに行き、部屋を片付け、夕方にはきちんと”メイク”を施す。不自然でない程度に”深刻な状態”に見えるように。
「あぁ、そうそう。”これ”も忘れないようにしないとね」
 引き出しから、優巳はジョークグッズのシールを取り出し、左の手首にぺたりと貼る。あまり出来の良くない”傷痕シール”だが、リストバンドの隙間からちらりと見せる分には構わないだろう。月彦の性格を考えても、わざわざリストバンドをひっぺがして傷痕を確認するようなことは、絶対に無い筈だ。
「さてと。ヒーくんは何時くらいに来るかなぁ?」
 後は、料理の準備を進めながら月彦が来るのを待つ。昨日と同様、学校が終わるなりすぐか。それとも日が落ちてからか。これも優巳には予想がついた。
「そろそろかな?」
 呟いたまさにその時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「あぁん、もぉ。ヒーくんってば分かり易過ぎ!」
 調理の手を止め、玄関へと向かおうとして、一度足を止める。ぺちんと、軽く頬を叩き、スイッチを切り替える。
(……よし)
 俄に脱力し、歩き方も頼り無げに。声の抑揚は消し、目は常に伏せ目がち。そして要所要所でさりげなく左手のリストバンドを触る。さも、”傷痕”を指で辿ってしまう――そんな風に。
 ”今の状態”を再確認し、優巳は玄関のドアを開ける。
「ぁっ……」
 と。目が会うなり月彦が目を逸らす。ほんの数日前には「汚いものから目を逸らす」ようだったそれが「気恥ずかしくて逸らす」に変化していることに、優巳はもちろん気がついている。
「ヒーくん……良かった、本当に来てくれたんだ」
 喋っている優巳自身、思わず吹き出してしまいそうな程に巧く出来た声色だった。これなら誰が聞いても”来てくれるかどうか本当に不安だった”様に聞こえるだろう。
「……当たり前だろ。俺は……約束は守る男だ」
「うん、知ってる。……それに、凄く優しいってことも」
「止めてくれ」
 気恥ずかしさに耐えかねるように月彦が頭をかく。くすりと笑い「上がって」と促す。
(思った通り、今日は私服なんだ? 精一杯おしゃれしてきたのかな?)
 昨日より遅れると優巳が睨んだのは、一度帰って着替えてから来るだろうと予想したからだ。黒のテーラージャケットに薄手の白セーター、デニムパンツという出で立ちは馬子にも衣装といったところか。
(……ま、私もあんまり人のコトは言えないんだけどね)
 黒のTシャツに、下はカーキ色のショートパンツ。そしてその上から赤のエプロン――もちろん過度に着飾らないのはわざとだ。月彦の頭の中では、黒須優巳は自殺寸前にまで追い詰められ、誰かの助けが無ければ到底立ち直れない状況なのだ。そんな時におしゃれになど気が回る筈が無い。
「あれ、そういえばヒーくん……右手もう大丈夫なの?」
 はたと、優巳は気がつく。月彦が、昨日までつけていた三角巾を今日はつけていないことに。
「あぁ……まぁ、痛みがまったくないわけじゃないけど……やっぱり目立つからさ」
「そっか……確かに、どうしても目が行っちゃうもんね」
 言いながら、優巳も左手首を触る。月彦の目が動くのを見て、思わずニヤけそうになって慌てて唇を引き締める。
「優巳姉は……もしかして料理中だったのか?」
「うん。ラザニア作ってたの。……ここのところずっと食欲が無かったんだけど……夕方くらいから急におなかが減ってきちゃって……」
 もうすぐヒーくんが来てくれるって思ったら、少し気が楽になったのかも――かろうじて聞き取れる程度に呟く。
「…………だけど、ちょっと材料が多すぎたかな。…………良かったら、ヒーくんも少し食べる?」
 いつもの月彦なら、頑として断る所だ。
 ――が、優巳の見立てでは。
「…………そうだな。小腹も空いてるし……少しだけ貰おうかな」
 やはり、と。思わずニヤけそうになる。
(ダメだよ、ヒーくん。”敵地”で出されるご飯なんか食べちゃ……前に一回酷い目に遭ったのもう忘れちゃったのかな?)
 月彦の頭の中には脳みその代わりにお花畑でも広がっているのだろう。そうでなくては一度薬を盛られたにもかかわらずこうも簡単に食事に手をつけようとする筈が無い。
(……でも良かったね。今夜ヒーくんに出すのはただの”手作り風冷凍ラザニア”だよ)
 そもそも今夜は月彦に一服盛るために呼んだのではない。徹底的にもてなし、骨抜きにする為だ。
「えっ……いいの? だって……私が、作るんだよ……?」
 だから、月彦の言葉にさも驚いたフリもしてみせる。予想外――だけど、嬉しい。そんな微妙なアクセントも添えて。
「そりゃあ、抵抗が全く無いって言ったら嘘になるけどな。……だけど、勇気を出して愛姉と決別しようとしてる優巳姉を見てたら、俺だって優巳姉を見直さなきゃって思って当然だろ」
「ヒーくん……!」
 感極まり、思わず駆け寄ろうとして――ハッと、月彦との間にある”溝”に気づいて、足を止める。
 そんな演技を挟んでから、優巳はあえて屈託の無い笑顔を浮かべる。
「……分かった! じゃあ、ヒーくんにはとびきりのラザニアを食べさせてあげる! 私、料理はあんまり得意じゃないけど、ラザニアだけは得意なの!」
「……まぁ、あんまり期待しないで待ってるよ。……テレビ見ててもいいか?」
「もちろん。ヒーくんはお客様なんだから、ゆっくりしてて。あと三十分はかからないと思うから」
 月彦の性格的に手伝いたいと言い出す筈――少なくともそう見込んでいた優巳は予想とは違う月彦の行動に少しだけ驚いた。驚いたとはいっても、丸めたティッシュを適当に投げたら運良くゴミ箱に入った程度のものだが。
(あぁ、そっか。一応右手怪我してたんだっけ……)
 はたと思い直し、そのことを加味すれば今度はむしろ断って当然だと思える。
(……でも、良かった。手伝うって言われた時の方が面倒だったし)
 なにせ冷凍食品の容器から耐熱皿に移し、オーブンで加熱するだけの作業だ。手伝いなど要らないのはもとより、巧く月彦の目と手を遠ざけなければ手抜きであることまでバレてしまう。
(だけどヒーくんのくせに手伝おうともしないなんてナマイキだから、ヒーくんの分だけ唾入れちゃおっと)
 耐熱皿に移したラザニアに、ぺっ、ぺっとたっぷりと唾液を眩した後、チーズをふりかける。あとはオーブンで加熱すれば、”手作り風冷凍ラザニアの唾液風味”の完成だ。
(くすくす……ヒーくんのエサなんてこれでも上等なくらいだよ)
 本当なら爪の垢でも混ぜてやりたいところだが、生憎と指も爪も清潔そのもので垢などは欠片も無い。なら、枝毛の一つも混ぜてやろうかと思って――万が一にも故意に入れたと気づかれる可能性を鑑みて、優巳は渋々断念した。



「どう、かな……美味しくなかったら、正直に言ってね。残してもいいよ」
「大丈夫、ちゃんと食えるレベルだよ。…………なんだろ、友達の家で食べたラザニアそっくりの味だな……」
「多分、そこの家のお母さんが参考にしたレシピが、私が見た料理サイトのレシピに似てたんじゃないかな。てゆーか、ラザニアだもん、誰が作っても似たような味になるよ」
「それもそうか」
 うんと納得をして、月彦がフォークを手にラザニアを口に運ぶ。
(うわぁ……私の唾入りのラザニア食べちゃってる……)
 しかも、まんざらでもなさそうに。もちろん多少唾を混ぜたからといってラザニアの味そのものがそう変化したりはしないだろうが、それでも幾分優巳の溜飲を下げる手助けにはなった。
「…………ところで、優巳姉。昨日の話だけど……」
 一足先にラザニアを食べ終わった月彦がフォークを置く。
「……愛姉への電話って、やっぱり今日、するのか?」
「…………うん。だから、ヒーくんも今日来てくれたんでしょ?」
「まぁ――な。……でも、本当に良いのか?」
「ヒーくん、それは今更だよ。昨日はヒーくんだって、それしか手はないって言ってたじゃん」
「そうだけど…………でも優巳姉にとって、愛姉は姉ちゃんなわけだろ?」
「……そう、だね」
 あえて、そこで言葉を切る。さも、いくつもの複雑な思いに逡巡しているかの様に。
(本当にヒーくんはバカだね。私が愛奈を捨ててチョロ甘のヒーくんの提案なんて飲むわけないじゃん)
 そう、月彦は愛奈の怖さを読み違えている。愛奈を裏切ったが最後、愛奈を敵に回したが最後、二度と安心して眠れる夜は来ないのだから。
 例えどれほど逃げても、距離を取っても。屈強なボディーガードを雇って二十四時間自分の周りを警護させてても。愛奈には通じない。
 本気になった愛奈を止めることなど誰にも出来はしない。ある日目覚めてふと目を開けると、鼻先が触れそうな距離でジッと寝顔を覗き込まれている――”そんな日”が必ず来るのだ。
「……でも、私は信じてる。私が変われたみたいに……愛奈だって変われるって。そのためには、今は愛奈から離れなきゃいけないんだって、ヒーくんのおかげでやっと分かったの。だから、今度は私が愛奈に教えてあげなきゃ」
「優巳姉……」
 顔を見るだけで、月彦の考えが透けて見えるようだった。きっと「なるほど、”そっち”が本当の優巳姉だったんだな……」とでも考えているのだろう。そんな月彦の発想に吐き気を催すほどに嫌悪が沸くが、もちろん優巳はおくびにも出さない。
「…………ヒーくんさえ良かったら、もう……すぐにでも電話するけど……大丈夫?」
「………………しまったな。先に晩飯食うんじゃなかった…………想像しただけでさっきのラザニアを戻しそうだ」
 チョロ甘のクソザコでさらにヘタレだなんて救いようがないね――思わず口にしかけて、優巳は慌てて言葉を飲み込んだ。
「……ヒーくん、顔色悪いよ? 本当に大丈夫? 無理なら別の日に……」
「…………いや、大丈夫だ。俺ばっかり格好悪い所見せるわけにはいかないもんな。…………だけど、一応洗面器は用意してもらっててもいいかな」
「わかった、すぐ持ってくるね。……だけどヒーくん、本当に無理そうならちゃんと言ってね?」
 自前のゲロ袋くらい持参しろと心の中で毒づきながら、優巳は仕方なく浴室へ行き、洗面器を手に戻ってくる。
「……ありがとう、優巳姉。…………もし”使う”ことになったら、ちゃんと新品を買って返すからさ」
「そんなの気にしないで。元はといえばヒーくんが愛奈を苦手になったのも、半分は私のせいなんだから」
 頭の中に”いかにも月彦が喜びそうなセリフ”を浮かべ、その中の一つを適当に選ぶだけの簡単なお仕事。もちろん優巳は自分のせいだとは思っているがそのことを”悪い”などとは毛ほども思ってはいない。
「……えっと、それじゃあヒーくん…………電話、かけるけど……」
「あぁ、ちょっと待ってくれ! 一応耳栓持って来たんだ!」
 耳栓、と月彦は言ったが、それはどう見てもイヤホンだった。月彦はまずそれを耳に装着し、さらに持参した音楽プレイヤーを再生して優巳にも聞こえるほどに音楽のボリュームを上げた後、さらに持参したヘッドセットを耳に装着した。
「よし、これでもう何も聞こえない! 優巳姉の声も聞こえないから、通話が終わったら携帯をテーブルに伏せて終わったって合図してくれ!」
 いくら愛奈の声を耳に入れたくないからと、ここまでするのかと。優巳は半ば呆れた。そして少しだけ、姉のことを不憫に思った。
(…………いっそ、本当に愛奈に電話をかけて、咄嗟にヒーくんの”耳栓”をとっぱらっちゃったらどうなっちゃうかな?)
 もちろんそんな事をしたら”計画”は台無しだ。しかしその思いつきに、優巳は抗いがたい誘惑を感じる。
(スピーカーモードにして、音量を最大にしちゃえば耳栓が無くなっただけで絶対耳には入るだろうし………)
 これほどまでに恐怖する愛奈の声を耳にした月彦がどうなってしまうのか――月彦はさぞ愉快なリアクションを見せてくれることだろうが、残念ながらその未来には黒須優巳の”先”が無い。
(……そう、だね。まずは愛奈を最低限納得させるために、ヒーくんには私の虜になってもらわないと……)
 つい唇を噛みそうになって、慌てて我慢する。月彦は耳は塞いでいるが目は開いている。そんな月彦の前で、さすがに”悔しげに唇を噛む”なんて真似は出来ない。
 溜息をつきたくなるのもぐっと堪えて、優巳は携帯を手にさらに指で指し示して月彦に見せる。今からかけるぞというジェスチャーのつもりだった。伝わったのか、月彦が大きく頷いてみせる。
 優巳も頷き、携帯を操作する。連絡先リストの中から愛奈の名を選び、発信する。
 ……。
 …………。
「あっ、もしもし。愛奈? 今大丈夫?」
『丁度ごはん食べてたところだよ。何?』
「そうなんだ、実は丁度今、私たちもご飯食べてたところなの」
『たち……?』
 まるで絶句でもするように、愛奈が言葉を途切れさせる。ちらりと横目で見た月彦の顔が蒼白になっていて、思わず吹きそうになった優巳は慌てて月彦に背を向けた。
「うん、今ヒーくんと一緒に食べてるところ。……電話、ヒーくんと代わろうか?」
『……っ……』
 受話器の向こうで、姉が息を飲むのが分かった。くつくつと、口元に笑みが浮かぶ。
『え……っと……今ちょっと、喉の調子が良くないから……』
 数秒の沈黙の後、げほげほと噎せるような咳と共に、露骨に愛奈の声が変わる。まぁそうだろうなと、優巳は内心ほくそ笑む。
「そっか。……あっ、ヒーくん、私は愛奈ともう少し話してるから、先にお風呂入ってていいよー!」
 ちらりと振り返る――が、月彦はヘッドホンの上からさらに両手で押さえつけ、目まで瞑っていた。
「……で、愛奈に電話したのはね、例の件”は順調だって伝えたかったの。……この時間にヒーくんと一緒に晩ご飯食べて、お風呂に入ってもらってる意味、愛奈なら分かるよね?」
『ぇ……じゃ、じゃあ――』
 ごくりと、生唾を飲む音がはっきりと聞こえた。激しい息使いも、姉の鼓動の音さえ、受話器のスピーカーから伝わってくるかの様だった。
「うん。今夜はもう、ヒーくんを帰さないよ。朝までじっくりたっぷり、愛奈の代わりに相手をしてあげるつもり」
『…………〜〜〜〜っっっっ………………!』
 唸りとも、歯ぎしりともつかない”音”に、優巳はもう意地の悪い笑みが止まらない。愛奈にしてみれば、喉から手が出るほど欲する月彦との赤ちゃんが手に入るという期待と同時に、”その相手”を自分が出来ないというジレンマに身を焼かれる思いだろう。
「そーだ、愛奈。何かリクエストとかある?」
『リクエスト……って?』
「ヒーくんとシて欲しいコトとかさ。……一応、愛奈の代わりにヒーくんとセックスするわけだし、何かリクエストがあるなら聞いてあげるよ?」
『そんな……』
 考えもしなかったとでも言いたげな、掠れたような声。”あの姉”がこんな恋する乙女のような声や反応をするというのがちゃんちゃらおかしくて、優巳は頬を抓って必死に笑いを堪えていた。
『じゃ、じゃあね……優巳。一つだけ……』
「うんうん、何をすればいいの?」
『あのね、優巳が下で、ヒーくんが上でね、手を握り合ったまま『ヒーくん、好きだよ』って優巳が言って、ヒーくんが『僕もお姉ちゃん大好きだよ』って言いながらシて欲しい、な』
 うわっ、と。思わずそう口に出してしまうところだった。月彦の頭がハッピーセットなのはしょうがないが、愛奈もこと月彦に関しては”そう”なのではないかと優巳は思う。
「フェラとか、体位とかのリクエストっていう意味だったんだけど……わかった、なるべく愛奈の言った通りになるようにやってみるね。……ただ、今のヒーくんは”僕”なんて言わないから、そこは難しいんじゃないかなー?」
 そもそも、リクエストの内容に月彦の言動まで指定されても困ると、優巳は笑いを噛み殺すのに必死だった。
『と、とにかく……ヒーくんとはちゃんとイチャラブセックスしてね? そうじゃないと、良い子が生まれないって本に書いてあったんだから』
 ”良い子”が欲しいからだじゃなくて、自分がそういうセックスを月彦としたいだけのクセにと、もちろん優巳には察しがついていたが、口には出さない。
『ねえ……優巳…………もう、電話が終わったら、すぐするの?』
 うずうずしているのがはっきりと分かる――そんな声。
「どうかなー? ヒーくんの後私もお風呂入る予定だし、ひょっとしたらその前に襲われちゃうかもだし。襲われなくても、その場の雰囲気とかもあるしさ」
『そ――……そう、だよね…………あのね、優巳……もし、無理じゃなかったら……”始まる前”に、空メールでもなんでもいいから、知らせて欲しい、な』
「どうして? あっ、わかった! 愛奈も一緒にオナニーするつもりなんでしょ?」
『と、とにかく……出来るだけ知らせてね! 待ってるから!』
 うわずった声を上げた愛奈に、通話が一方的に切られる。ふふと鼻で笑って、優巳はそっと月彦の方を振り返り、携帯をテーブルに伏せる。
 ――が、当の月彦の方が目を閉じたままなにやら念仏のようなものを呟き続けている為、折角の合図が伝わらない。
 やむなくちょいちょいと月彦の腕を突いた瞬間――
「うわぁああっ!?」
 自慰中に背後から声をかけられても、そこまでは驚かないんじゃという程に大声を上げて、漸くに月彦が目を開けた。優巳は黙って伏せた携帯を指さし、全てが終わったことを伝えた。
「ぁ……お、終わった……のか……」
 見れば、月彦は顔面蒼白なだけでなく、全身に脂汗まで掻いていた。”そこまで”なのかと、さすがの優巳も驚きを隠せなかった。
「あっ、そっか……耳栓とらなきゃ……」
 月彦がヘッドホンを外し、音楽プレイヤーを止め、イヤホンをとる。その時にはもう、優巳の”自己暗示”はばっちり完了していた。
「……優巳姉…………」
「…………大丈夫、ちょっと震えが止まらないだけ。…………自分で決めたことだけど……やっぱり辛いね。愛奈とはずっと一緒だったんだもん」
「…………愛姉に何か言われたのか?」
 優巳は黙って首を振る。本当は言われたが、心配をかけたくないから言われてないと言い張っているだけ――そう、月彦が”錯覚”するように。
「………………そうか、分かった。でも、とにかくこれでもう愛姉の所には行かなくて済むって思うしかない」
「そう、だね……。愛奈も早く分かってくれるといいんだけど……」
 さりげなく、月彦の側へと身を寄せる。肩を抱いたまま、さも”震えが止まらない”という体で。
「優巳姉……?」
「……ごめん、ヒーくん。少しだけ、側に居させてもらっていいかな…………怒ってる愛奈の声って、やっぱりすごく怖くて……」
「………………。」
 無言のままに、月彦が右手を背中へと回してきて、そのまま右腕を掴む形でぐいと抱き寄せられる。
「…………ぁっ……」
「……こんなことくらいしか出来ないけど…………だけど、気休めくらいにはなるだろ」
「…………気休めなんかじゃ、ないよ」
 優巳は強ばらせていた体を脱力させ、月彦へともたれ掛かる。そのままこてんと、肩に頭を乗せて目を瞑る。
 沈黙。月彦の肩に頭を乗せたまま、優巳は待った。月彦が”切り出す”のを。
「…………汗、掻いちまったな」
「ヒーくん……?」
 目を開け、もたれ掛かったまま月彦の顔を見上げる。
「あぁ、いや……」
 顔を赤らめ、慌ててそっぽを向く月彦の姿に、優巳は堪えきれずに吹き出してしまった。
「私の部屋にだって、シャワーくらいあるよ。……使う?」
「えーと……」
 なんなら、一緒に浴びる?――そこまで言えば、逆に月彦は怪しむだろう。だからあえて優巳は黙ったまま、月彦の答えを待った。
「じゃ、じゃあ……シャワーだけ、借りよう、かな」
 のそりと立ち上がり、ぎこちない足取りで脱衣所へと向かう月彦を見送ってから、優巳は小さく溜息をついた。
 あぁ、本当にチョロい――と。あまりに予想通り過ぎる月彦の言葉に、優巳はむしろ落胆した。せめてもうちょっと”駆け引き”を楽しめないものだろうか。
(ま、でもヒーくんだし、そこまで求めるのは残酷かな)
 何より、ヤりたい盛りの男子高校生なのだ。目の前に美人の従姉妹が居て、しかも自分に身も心も許している風であれば、肉欲に負けてしまうのも仕方ないかもしれない。
(考えてみたら、愛奈も私の体が一番イイって言ってたし、ヒーくんも本当は私とシたくてシたくて堪らなかったのかなー?)
 口では嫌いだ関わりたくないとゴネていたくせにその実、黒須優巳の魅力にゾッコンなのだとすれば、月彦のチョロ甘っぷりも多少は可愛く見えてくるというものだ。
(くすくす……折角だし、ヒーくんがどれだけチョロいか確かめてあげよっかなー?)
 愛奈の希望通りのイチャラブセックスなどしようものなら、一晩かからずに虜になってしまうのではないだろうか。
(ヒーくんと寝るなんて嫌だったけど……でも、ちょっとだけ楽しみになってきたよ)
 そわそわと浮き立つ気持ちを抑えながら、優巳は月彦の帰りを待つのだった。


「ヒーくん……いい、の……?」
「いいの?って……今夜は一人で居たくないって言ったのは優巳姉の方だろ?」
「そ、そうだけど……あっ、あん!」
 月彦をベッドに誘い込むのは、本当に――本当に簡単なことだった。シャワーを終えた月彦が帰ろうともせず、かといって何をするでもなく。
 まるで優巳の方から何かを切り出すのを待っているかのようにソワソワしていたところに、ぽつりと独り言を呟くだけでよかったのだから。
 そう、”今夜は一人で寝たら、怖い夢を見そうだな”――と。
「でも、でも……ヒーくんは、私のことなんて……」
 体をまさぐられながら、優巳は戸惑いを隠せないという体でおざなりな抵抗を続ける。あっさりと月彦に押し倒されればそれはそれで、チョロ甘の月彦でも不審に思うであろうから。
「…………確かに、優巳姉とはいろいろあった……けど、愛姉との電話に関しては、本当に凄いと思う。……そんな優巳姉の為に、俺も何かしてあげたいんだ」
 真面目な顔で寝言としか思えない言葉を口にする月彦に、思わず吹き出しそうになる。
(せめて、もうちょっとマシな理由は思いつかないのかな? 建前だとしても)
 本当はもっともらしい理由をつけて優巳お姉ちゃんとエッチがしたいだけのクセにと、耳元に囁いてやろうか。それはそれで面白そうだが、今はまだ時期尚早だ。
「ヒーくん……気持ちは、嬉しいけど……だけど、義理とか、義務感とかでエッチするの……私はあんまり好きじゃない、な……」
 部屋着のTシャツをまくし上げようとする月彦の手をそっと握って「ね? 止めよ?」という目で見上げる。もちろん優巳は、そうやって制止を促したところで月彦が止まらないであろうことなど百も承知だ。
「…………優巳姉、悪いけど……義理とか、義務感”だけ”……じゃないんだ」
「ヒーくん……?」
「……なんていうか……”素”の優巳姉って弱々しくて放っておけないっていうか……そういう優巳姉なら俺も嫌いじゃないっていうか……ええと……」
「…………わかった。ヒーくん、それ以上は言わなくていいよ」
 優巳は抵抗を止め、両手で月彦の首を捕まえるようにして抱き寄せ、ちゅっ、と短く唇を重ねる。
「ヒーくんがほんの少しでも……義務感や義理じゃなくて、ほんのちょびっとでも、私のことを好きになってくれたのなら、それだけで十分だよ」
「優巳姉……」
「だけど、できれば優しくしてね。……あと、左手首はちょっと怪我してるから、あまり触らないでくれると嬉しいな」
「……分かったよ、優巳姉。左手には、絶対触らない」
 今度は月彦の方から唇を重ねてきて――優巳はできる限り辿々しく応じる。月彦なんかに本気のキスなど不要だという思いが七割、残りの三割はあくまで弱い女を演じる為だ。
「ぁっ、ぁっ……ヒーくん……あっ!」
 月彦の手がシャツの下へと潜り込み、胸元をまさぐってくる。体に与えられる刺激のままに、優巳は素直に声を上げる。
「あっ」
 そんな声を上げ、突然月彦が愛撫の手を止めた。
「……ヒーくん?」
「ごめん優巳姉。そういや玄関のドア、ちゃんと鍵かけてたかなって思ってさ」
 例えるなら、二人三脚状態でさあ走り出そうとした途端、唐突に足を止められたような気分だった。折角――仕方なしにとはいえ――今からセックスに興じようと気持ちを切り替えた矢先にそれを言い出すのかと、優巳は危うく舌打ちをしそうになる。
(……気が短い女の子ならヘソを曲げちゃってるところだよ? ヒーくん)
 もちろん自分は寛大であるし、何より”事情”があってこうしているのだ。デリカシーゼロの月彦の言葉にさえ、優しい笑みを返す余裕さえある。
「ヒーくんが来た時に、自分で鍵かけてたよね? だからヒーくんがその後開けてない限りは大丈夫だと思うけど……」
「そっか。優巳姉、昨日も鍵かけるの忘れてたみたいだし、ちょっと気になっただけなんだ」
「昨日も……? や、あんっ」
 無駄話は終わりだと言わんばかりに、愛撫が再開される。スポーツブラの内側へと滑り込んできた指にピンと勃った先端をくりくりと弄られ、優巳は小さく声を上げながら徐々に、徐々に息を弾ませていく。
「そういえば……優巳姉って、ここ弱いんだっけ?」
「ぁっ……やっ……んっ! なんで、知っ……ぁっ……!」
「なんでって……”前”の時に自分で言ってただろ? 乳首触られるの好きだからもっと触って欲しいって」
「ぅぅ……そんなの、いちいち覚えてなくていい、のにぃ……ぁっ、ぁっ、だめっ、だめっ……ぁああ! ちょっ、そんなっ……直接っっ……コリコリってぇ……!」
 いつのまにかスポーツブラまで捲し上げられ、堅くなった先端に直接月彦の指が触れていた。そのままコリコリと、弄ぶようにいじられ、優巳は声を抑えながらも喘ぎ、喘ぎながら身悶えする。
「くす……優巳姉、だいぶ暑そうだな。ちょっと脱ごうか」
「ぁ、やっ……」
 ひっきりなしに先端ばかりを弄られ、いい加減体が熱くなってきたところで両腕を上げさせられ、シャツとブラをはぎ取られる。そのまま両手を挙げた状態で呼吸を整えていると、不意に月彦がくすりと笑った。
「ヒーくん……?」
「あぁ、いや……ごめん。…………綺麗だよ、優巳姉」
 何故か、ひどくとってつけたような”綺麗だよ”に聞こえたのは気のせいだろうか。
「優巳姉って凄く色白だよな。まるで死体みたいだ」
「し、死体!?」
「あぁ、ごめん……表現が悪かったかな……死体っていうか、ほんと北国の雪みたいに真っ白で綺麗だよ」
「……確かに、肌が白いとはよく言われるけど……」
 何となく釈然としないものを感じるも、愛撫が再開されるにつれ次第に思考がそちらへと引っ張られていく。
(……っ……ヒーくんの、くせに……)
 優巳にとって癪なのは、少なくとも”胸の扱い”については文句の付け所が無いことだった。何の取り柄も無い凡愚のくせに、こと胸に対する愛撫だけはその道のプロを思わせるような手つきなのだ。結果、どんな下手くそなさわり方でも感じてるフリくらいはしてやらなきゃ、という優巳の思惑とは対照的に、逆に抑える必要があるほどに喘がされてしまう。
(偶然とか、まぐれとかじゃない……ちゃんと、私が気持ちいい所、全部分かってやってる……っ……)
 そうでなければ、いくら”サービスする予定だった”とはいえ、こうも簡単に声を出したくはならない。愛奈の指に比べればずいぶんと無骨な男の指がなだらかな膨らみを撫でつける度に喉を直接擽られているかのように声が出たりはしない。
「っ……ンっ……ヒーくん……もう、そこはいいよ……ね?」
 さりげなく、胸への愛撫はいいと促してみる。
 ――が。
「……俺がもっと優巳姉のおっぱいに触りたいんだ」
 あまり慣れてないし――と、独り言のように呟き、月彦の手が、指が先端部を捕らえる。ゲームコントローラのスティックでも動かすような手つきで擦り上げられると、たちまち優巳は声を抑えられなくなる。
「やっ……待って! 胸は、もう……!」
 気がつくと息が弾み、月彦の手を掴むようにして懇願していた。このままでは、胸だけでイかされてしまう――それでなくとも、胸への愛撫だけで下着を濡らしてしまっているというのが、優巳にしてみれば屈辱極まりないことだった。
(ヒーくんの、くせに……)
 ひょっとしたら、胸への愛撫だけなら愛奈より上かもしれないと優巳は思う。それがまた癪であり、月彦のくせにと思う都度、優巳の中で屈辱が増す。
「ね、ねぇ……待って……私にも、させて?」
 こうなったら、攻性に転じるしかない。出来るだけ大人しく、それこそレイプ被害にでも合った直後のように――実際には”様に”ではないのだが――粛々としているつもりだったが、攻められっぱなし喘がされっぱなしはさすがに矜持が傷ついた。
「いやでも……」
「私がヒーくんにシてあげたいの。ほら、横になって?」
 強引に月彦の腕を引き、横にならせて今度は優巳がその足の間へと体を入れる。そして月彦の膝の辺りから、徐々に徐々に手を這わせ……。
(……勃ってないし!)
 いざ股間の辺りへと手を這わせた優巳は予想に反したぐんにゃりとした感触に激怒した。人の体を、というか胸をあれだけしつこく弄り倒しておいて勃起すらしていないというのはどういう事なのかと、うっかり月彦の方を睨むように見上げてしまう。
「はは……やっぱり、ちょっと”無さ過ぎ”て……」
「……しょ、しょうがないなぁ…………じゃあ、胸で楽しませてあげられなかった分、口でいっぱい気持ちよくしてあげるね?」
 精一杯の笑顔――だが、口の端がヒクつくのまでは止められなかった。いっそこのまま噛みついてやろうかとすら思うが、全ては”計画”の為だと優巳は奥歯を噛みしめる。
 胸ではさして興奮させられなかった――が、さすがに直接触るのは効くらしい。ズボンの上から弄り続けていると、みるみるうちに屹立し、なんとも頼もしげなテントが眼前に出現した。
「うふっ、そういえばヒーくんのっておっきいんだよね? あんまり興奮しちゃダメだよ? クチに入らなくなっちゃうから」
 ズボン越しに扱くように撫でつけ、頬ずりをする。もちろんこれも全て月彦を”良い気分”にさせるためのサービスだ。
「優巳姉……そろそろ……」
「うん、じゃあ脱がせちゃうね?」
 ベルトを外し、ジッパーを下げる――や、
「きゃっ」
 ぐんと。トランクスのゴム部分を根元へとずり下げながら剛直がたちまちそそり立つ。そのあまりの規格外なサイズに、分かっていた筈なのについ目を白黒させてしまう。
「あ、あはっ……すっごぉい……ひ、ヒーくんのって……こんなだったっけ?」
 過去、何度かセックスはした筈だが”こんなモノ”の相手をしたのかと、自分で自分が信じられなかった。
(てゆーか……コレ、ほんとにスゴいんだけど……)
 ごくり……。
 無意識のうちに生唾を飲んでしまっている自分に、優巳は気がついた。きゅんと下腹の辺りが疼き、”その時”の記憶が脳裏に蘇る。
(っ……ヒーくんの、くせに……)
 ただ、屹立した剛直を目の前にしているだけ。それなのに、体の奥が疼いて堪らない。かつてこの肉の槍で突かれ、さんざんにイかされた時のことを体のほうが覚えているかのように。
「優巳姉……?」
「あっ……うん、ご……ごめんね。ちょっと、ぼーっとしてて……じゃ、じゃあ……口でシてあげる、ね?」
 そっと手を添え、握るようにして優しく擦る。手のひらから伝わってくる”熱”のすさまじさに思わずとろけてしまいそうになる。
 優巳にはもちろん、”普通の男子”との経験がある。それも一度ならずあるが、そのどれとも違う、圧倒的な質量と高度、そして人間の体温なのかと疑いたくなるほどに熱い肉の感触に、つい観察でもするようにまじまじと見入ってしまう。
「優巳姉、早く」
 すこし焦れたような月彦の言葉にハッと我に返り、弾かれたように唇を添える。
「んっぁ」
 れろり、れろぉ。
 舐めるというよりは、舌を使って唾液を塗りつけるように。優巳は両手で剛直を支えながら、れろり、れろりと舌を這わせる。
(す、ごっ……熱くって、舌がジンジンする……)
 時折唇だけで食むようにしながら、絡めた唾液を啜るように吸い付きながら。相手がさんざんに見下していた月彦であるということなど忘れてしまったかのように。
「はぁ、むっ……んむっ……ふはぁっ、んっ……れろっれろぉっ……あむっ……」
 ”計画”のことすらも忘れて、優巳は夢中になって剛直にしゃぶりつくのだった。


「優巳姉、もう十分だよ。ありがとう」
 そんな言葉を掛けられて漸くに、優巳は自分が時間も忘れて剛直にむしゃぶりついていたことに気がついた。
「ふぇぁ……? ぇっ、あ、あれ……?」
 事態の把握に、優巳は数秒の時間を要した。目の前には、唾液とカウパー氏線液にまみれた剛直が。そしてそれを握る自分の手も同様にぬらついた液体まみれ。唇も、そして頬までもが。
「さすが優巳姉だ。めちゃくちゃねっとりした舌使いで、途中何度もヤバかったよ」
「そ、そう……? ヒーくんが気持ちよくなってくれたなら、私も嬉しいな」
 一体どれほどしゃぶり続けていたのだろうか。舌と顎の筋肉が疲れ切っていて巧く喋ることが出来ない程だった。
(嘘……どうして)
 そもそも、”我を忘れる”程に夢中になって食らいついていたということ事態、自分のことながら優巳には信じられなかった。実際目の前に動かぬ証拠があり、顎と舌が疲れ切っていても、何かに化かされたとしか思えない。
「優巳姉、疲れたろ? 今度は俺にさせてくれ」
「えっ、ちょ……ちょっと待って」
 断るまもなく腕を引かれ、月彦に添い寝をするような形で抱き寄せられる。
「ひゃっ」
 そんな声が出たのは、月彦の手が部屋着のショートパンツの下、さらに下着の中まで潜り込んできたからだ。
「どろどろだ」
 耳元に囁かれた言葉に、反射的に月彦を睨みそうになって――慌てて照れ笑いに作り替える。
「ひっ……ヒーくんのをしゃぶってたから、そうなっちゃったんだよ? は、恥ずかしいから……あんまり言わないで、ね?」
「分かったよ、優巳姉」
 代わりに、とでも言うかのように。月彦の指がくちゅりと、蜜の泉へと埋没する。
「アッ……んっ……やっ、待っ……あぁぁ……!」
「大丈夫、優しくするから」
 事実、月彦は言葉を違えなかった。浅く埋められた指が円を描くようにゆっくりと動き、背筋を走る甘い快感と共に、優巳は全身の強ばりが溶けていくのを感じていた。
「あはぁっ……んんっ……じょ、上手、だよ? ヒーくん……でも、もうちょっと、強くしても……大丈夫、だから……」
 正確には、絶妙な力加減の愛撫が徐々に物足りなく感じ始めていたのだった。優巳ははぁはぁと息を弾ませながら、さらなる愛撫をねだるように、月彦の指の動きに併せてゆっくりと腰をくねらせる。
「ああぁぁぁっ……いいっ! あぁぁぁっ……あぁぁぁぁぁぁァァァ!!」
 少しずつ、少しずつ指が深くまで挿れられる。優巳は月彦に縋るようにシャツを掴み、腰をくねらせながら声を上げる。
(ゆ、指っ……入れられてるっ、だけでっ……どうして、こんなっっ…………)
 これではまるで、本気で感じてるみたいではないか。”演技”をしなくて済むのは楽だが、だからといって月彦に好きなようにされていいわけがない。
(あっ、あっ、あっ! でもっ……でもっ、でもっ!!)
 気持ちいい――痺れるような快楽に、何もかもがどうでも良く思えてくる。両手で月彦に抱きつき、自ら腰を振りながら喘ぎ声を漏らす自分を恥じつつも、屈辱に奥歯を噛みしめながらも、優巳はどうしても抗うことが出来ない。
「……だいぶほぐれてきたかな。…………優巳姉、そろそろいいか?」
「え……?」
「優巳姉に挿れたい」
「……っ…………!」
 思わず、呼吸が止まる。”アレ”を入れられる――そう思っただけで、下半身の疼きが倍加したかの様。
(指、でも……こんなに、気持ちいいのに……)
 ”アレ”を入れられたら、一体どうなってしまうのだろうか。一体、どれほどの――否、少なくとも自分は”その快感”を知っている。知っているからこそ、体が疼いて堪らないのだ。
 そう、まるで喉の渇きが耐えがたいように。”アレ”が欲しくて欲しくて堪らなくなってしまっているのだ――。
「……ダメ、かな?」
「だ、ダメじゃ……ない、けど…………ほ、本当に私でいいの?」
 ダメだ、声がすっかりうわずってしまっている。”演技”が出来ていない――自分でもそれが分かっているが、どうにもならない。既に思考力の大半が”早く欲しい”で埋め尽くされているのだから。
「優巳姉としたいんだ」
「……ぁ…………う、嬉しい……私も、ヒーくんだったら………」
 どうしても声がうわずってしまう。両目の焦点がもうさっきからずっと屹立した剛直に釘付けだ。
 一体何度、生唾を飲んだことだろう。自分の体が、自分で制御出来ないというのはとても恐ろしいことだ。
 早く冷静にならなくては。月彦と寝るのはあくまで計画の一環として、月彦をベタぼれさせ、他人の子を自分の子だと認知させるためだ。
 なのに。
「……分かった。じゃあほら、優巳姉?」
 半ば強引にショートパンツが脱がされ、さらに下着までも脱がされる。足の間へと月彦が体を入れてきて、じっくりと時間をかけてほぐされ、ぬらついた液にまみれて光沢を放っているその場所が晒される。
 本当なら、恥ずかしがるフリの一つもするべきだ。年上なのに、ヒーくんに触られてこんなになっちゃってるなんて――そう言って恥じらえば、チョロ甘月彦のハートなど鷲掴みだろう。
 しかし、どうしても”演技”が出来ない。
「ま、待って……ヒーくん……アレ……つ、つけない……の?」
 優巳にかろうじて言えたのはそれだけだった。
「アレ……? ……………………あぁ、優巳姉は、やっぱりつけたい派?」
「つ、つけたい派っていうか……避妊は、ちゃんとしないと……」
「もしかして、危ない日だったりする?」
 優巳は言葉に詰まった。危険日だと言えば、月彦は避妊をしようとするかもしれない。しかし安全日だと言って、後で危険日だったと言うのは、月彦の信頼を損ねはしないか。
 優巳は”欲しい”で埋め尽くされ極端に落ちた思考力で、それでも――自分なりの――最適解を導き出した。
「……たぶん、大丈夫な日だと思うけど絶対じゃないし…………で、でもね? ヒーくんが生でシたいなら、シてもいいよ?」
「優巳姉……」
「……いいよ。ヒーくんの赤ちゃんなら大歓迎だよ。もちろん、後で責任とって結婚してなんて言わないから、安心して」
「……ありがとう、優巳姉。でも、さすがにそれは俺でも拙いってわかるよ」
 だから、と。月彦は真面目な――そのくせ、ちょっと恥ずかしそうに。
「”その時”はちゃんと責任はとる。だから、優巳姉もそこだけは安心してくれ」
「ヒーくん……」
 感動のあまり、涙腺が緩んだ――出来るだけ、”そういう風”に見せたつもりだったが、本当にそう見えたかどうかは怪しい。
(本当、なら――)
 ”これ”でチェックメイトだったのだ。余計なイレギュラーさえなければ、月彦と避妊無しセックスをして、それでミッションコンプリートだったのだ。
(なんて、簡単な……)
 ああも平然と避妊無し生セックスに興じようとする月彦の良識を――今更ながらに――疑わずにはいられなかった。月彦は相手を孕ませることが怖くないのだろうか。それとも、まさか本気で”優巳姉となら結婚してもいい”と思っているのだろうか。
(……でも、それならそれで――やりやすい)
 むしろ、月彦が既にそこまでベタぼれなら、わざわざしたくもないセックスをして骨の髄まで虜にしてやる必要も無いのではないか。
 そう、したくもないセックスを、それも避妊具無しで――。
(……ごくっ)
 ――やはりダメだ。いくらなんでもこの状況からやっぱり無し、は不自然だ。月彦も少なからず不満に思うに違いない。
 だから仕方なく――そう、流れ的に止まれないから、仕方なく続きをするしかないのだ。
「じゃあ、優巳姉? 挿れるよ」
「う、うん……ゆ、ゆっくりね? ヒーくんのおっきぃから……乱暴にされたら、裂けちゃうかもしれないから」
「わかった。優巳姉、もう少し足開けるか?」
 言われるままに、促されるままに、優巳は足を開く。息が弾むのは、もうすぐだと体が期待しているからだ。
(っ……一回ヤッて、スッキリしたら……具合が悪くなったとか嘘ついて、すぐ、止めればいいんだから……)
 ヤッて性欲がスッキリすれば、頭もクリアになるし冷静にもなるだろう。こんな常に炬燵の中にでも入れられてるような状態では、演技もろくにできないし咄嗟の対応も出来ない。
「あっ……」
 ぴくんと、背が反る。敏感な粘膜に、まるでキスでもするように堅く熱い肉の塊が押し当てられたからだ。
 そして、次の瞬間には――
「あっ……あぁぁ…………………………〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
 背骨が軋むほどにのけぞりながら。
 膣肉を押し分け押し入ってくるその塊に、優巳は顎を突き出しながらあられもない声で鳴いた。


 こんなの、知らない――優巳が最初に感じたのは、”記憶にある快楽”との大きな差分だった。
「やっ、ま、待っ……くひぃっ……や、やめっ……そんなに、奥っにぃっ……お、押し込まないでぇえ!」
「っ……そうは、言われても、な。……さすが優巳姉だ、体格はそんなでもないのに、作りが深いっていうか……っ、し、締まり、も……」
「ぁっ、ぁっ、やっ……ひぃぃっ! ま、待って……何か、変っ……あぁぁうううっ!!!」
 ぎゅぬっ、ぎゅっ、ぎゅううっ!――まるで、押し入ってくる剛直を押し返そうとでもするかのように、強烈に締め上げたかと思えば、今度は雑巾でも絞るかのようにギュルギュルと”捻る”ように肉襞が蠕動する。
 そのどれもが優巳の意思とは無関係に、半ば無意識の反射として行われるのだ。
「ちょっ……こ、れ……凄っ…………ゆ、優巳姉のって、”こんな”だったっけ? くぁっ……キツ……ッ……」
 言われて、優巳は漸くに思い出す。そう、愛奈が施した”仕掛け”は何も妊娠しやすくするものだけではなかったということいを。
(で、でもっ、これっ…………!)
 体が勝手に、剛直の味を楽しむようにしゃぶりつき、強烈な摩擦を伴って蠕動を繰り返す。優巳にしてみれば、敏感な粘膜を無理矢理剛直に擦りつけられているようなものだった。
(そんなっ……ただでさえ…………)
 どういうわけか前回、そして前々回の時よりも感度そのものが上がっているというのに。
「は、はっ……すっげ……本当にヘビか何かに丸呑みでもされたみたいだ…………めちゃくちゃ絡みついてくる……」
「ヒーくん……ご、ごめん……ちょ、ちょっと一回仕切り直そ? こ……こんなの、絶対おかしい、からぁ」
「仕切り直す? そんなことしなくていいだろ」
 月彦がわずかに腰を引き、ずんっ――と突いてくる。きひぃっ、と。くぐもった悲鳴と共に、優巳は思わず白目を剥きそうになった。
「こんなに気持ちいいのに。…………優巳姉だってそうなんだろ?」
 だから、そんなにひっきりなしに腰をくねらせてるんだろ?――月彦が目線だけで語る。
「ち、違っ……これは――」
 愛奈が、と口にしかけて慌てて止める。今、愛奈の名前を出すのはまずい。それくらいは、優巳にも分かる。
「優巳姉、動く……ぞ」
「ま、待…………〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
 月彦が軽く腰を前後するだけで、びくびくと腰が撥ねる。
「アハァ! アァ!」
 次の瞬間には月彦にしがみつくように密着しながら、あられもない声を上げていた。
「……優巳姉、それは気持ちいいってことだよな?」
「き、気持ちいい……けど……だけど、こんなの、知らっ……し、知らなっ……だ、だめっ動かなっ……あんっ!」
「優巳姉、大丈夫、分かってるって。優巳姉にはちゃんと彼氏も居て、付き合った相手だって一人や二人じゃないってことくらい」
 無理に純情ぶらなくてもいいと優しく語りかける月彦に、優巳は涙目ながらに訴えたかった。
 違う。
 本当に”違う”のだと。
 もちろん愛奈の”仕掛け”のせいで快感が倍加しているのだろうが、その分を差し引いたとしても比較にもならない。
(まさか、これも愛奈が……?)
 あの愛奈のことだ。ひょっとしたら、月彦に抱かれると快感がさらに倍増するような”仕掛け”をしていたとしても何の不思議も無い。
(っっっ……余計、な――)
 そう、余計な事だ。本当に余計なことだと思う。そんな仕掛けなどしなくとも、与えられた命令くらい遂行して見せるのに。
「ああァァ! あ、ぁっ、あっ、あああァァァ!」
 むしろ、この大きすぎる快感の方が任務遂行の妨げだ。冷静な判断力を効かなくし、下手をすればボロを出しかねない。
「っぉっ……くぁっ……す……っげ、優巳姉の、中っ……すげーいい…………」
 不幸中の幸いは、その強すぎる快楽が月彦の方にも作用していることだろうか。早くも余裕が無く、そのくせ腰を動かさずにはいられないという月彦の姿は滑稽にすら見える。自分が、その何倍も喘がされている身でなければ、間違い無く指を指しながら笑っていただろう。
「はぁっ……はぁっ……んぁあっ、ぁあんっ! はぁっ……はぁっ……あンっ! あっ……あぁっ!!」
 もちろん優巳は今、人を笑うどころではない。ひと突きひと突きに全身を電流のように走る快感に白目を剥きそうになりながら、必死に意識を繋がねばならないからだ。
「あンっ……! あンっ! あんっ! あっ、あっ、あっ!」
 不意に、月彦が小刻みに連続で突いてくる。優巳は視界に火花を散らしながら声を荒げ、必死になって月彦の手首を掴み、制止を懇願するように首を振る。
「ヒーくんっ……お、おね……がい……優しく……優しく、してぇ……!」
 それはもう、演技でもなんでもない。心からの哀願だった。あの巨根で、愛奈に人間電動オナホにされた体を良いように突かれては本当に壊されてしまうかもしれないからだ。
「優巳姉……でも……」
「お願い……ヒーくん……」
 優巳はそのまま、月彦の腕を辿るようにして手のひらへと行き着き、しっかりと指を絡めて握る。
「優巳お姉ちゃんは、ね……優しいヒーくんが好き、だな」
 我ながら、よくもまぁこんな吐き気のするセリフが言えるものだと思う。もちろん手を握ったのはその分月彦を動きにくくする為であるし、握った後でそういえば偶然にも愛奈からの要求通りなのだから一石二鳥だと気づけば、今更手を離す理由も無い。
「…………………………わかったよ、優巳姉。優しく、する」
「ありがとう、ヒーく――……あん!」
 早速とばかりにずんと突き上げられ、優巳は手を握り合ったまま「こらぁ!」と声を荒げる。
「か、勝手に動いちゃダメ、だってばぁっ! あんっ! あんっ! ちょっ、まだっ……話っ、はっ……んんっ!」
「悪い、優巳姉。……優巳姉の中が気持ちよすぎるし、怒ってる優巳姉が可愛過ぎるから止まれない、無理だ。俺も残念だよ」
「こ、このっ……あァん! あっ、あっ、あっ……だめっ、だめっ……ちょっ、ほんとにっ、もう……!」
「……優巳姉、イきそう?」
 普段であれば。それこそ体の自由がきけば。迷わず横っ面をひっぱたく程に憎たらしい顔で問われる。
 しかし今は頷くしか――もちろん”計画”の遂行のために――選択肢は無かった。
「俺も、だ。……優巳姉の中がほんとスゴくてさ…………早くて、ごめん」
 この早漏が!――月彦のモノが貧弱で、かつ愛奈という厄介な後ろ盾さえなければ、そう毒づいているところだ。しかし今だけは、早漏で命拾いしたと言わざるを得なかった。
「あっ、あっ! ひ、ヒーくん……一緒っ……一緒に、イこ……?」
 手を握ったついでだ。愛奈のリクエストでも叶えてやろう。それに後々月彦と愛奈がもし顔を合わせ、”子作り”の話でもされた時に、ひょっとしたら本当にイチャラブセックスをしたのかどうかを確認されるかもしれない。
 だから仕方なく、優巳は演じる。
「あっぁっ! あぁぁっ! あぁぁーーーっ!!! いいっ……イイ、よぉ……ひーくぅん……気持ちいいっ……はぁはぁ……気持ちいい、よぉ……!」
「優巳姉っ……そんな蕩けた顔、されたら……俺も、すぐに……」
「あっ、あっあっ、ああぁぁーーーーーーッ!! やぁぁっ、ヒーくんのいじわるっ……私だけっ、先にイかそうとしてるっ…………やめっ、奥っ、ぐりぐりってするのらめぇ!」
 しかし、次第に演技そのものが出来なくなる。ずん、ずんとリズミカルに――しかし、あくまで優しく突き上げられ、快楽という液体が全身の細胞に充ち満ちていく。はぁはぁと息を弾ませながら、悶え狂いながら、優巳は必死になって月彦の手を握りしめ、かろうじて意識をつなぎ止める。
「あんっ、あンッ、あンッ! あぁぁぁぁヒーくん好きぃっ、大好きぃっ……! ねぇ、ヒーくんも好きって言ってぇ!」
「ゆ、優巳姉っ……それは――」
 さすがに、と絶句する月彦を涙目で優巳は見上げる。
「ヒーくん、お願い」
「……分かったよ、優巳姉。………………好きだ、優巳姉」
「あんっ! 私もぉ……好きだよ、ヒーくん……好きっ、好き、好き……」
「う、ぁっ……ちょっ、また、すっげぇうねって……ゆ、優巳姉!?」
「はぁはぁ……はぁはぁはぁ……好きっ、好きぃっ……はぁはぁはぁ……好きだよ、ヒーくん……好きっ、好きぃっ!」
 優巳自身、愛奈に言われたから仕方なく”好き”だと言っているのか。それとも、巨根で突き上げられた時の反射的反応で勝手に口が動いてそう言ってしまっているのか分からなくなってくる。
 何度も、何度も指を絡めた手を握り返しながら。優巳は喘ぎ、鳴き、うねるように腰を撥ねさせながら。
「ゆみっ……ねっ…………!」
「〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!」
 イく。
「っっっぃひィ! うぐひぃぃいいッ!!!!」
 ”上品な喘ぎ声”を上げる余裕など、微塵も無かった。最高潮に達した興奮の最中、ぐりぐりと押し当てられた剛直の先端から特濃の白濁汁が注がれるのを感じながら。
 黒須優巳は交尾中のメスブタのようなあられもない声を上げ、白目を向いて絶頂――失神、した。



 ぜえぜえと呼吸を整えながら、優巳は涙でぼやけた視界越しに月彦の姿を見ていた。短く失神でもしていたのか、わずかながら時間の隔絶を感じる。全身、爪の先まで快楽に満ち満ち、心地よい気怠さに包まれながら、優巳は漸くにして”考える余裕”を得た。
(……何……今の……)
 思い出すだけで、ぶるりと体が震え、背筋が凍る。”気持ちの良いセックス”なら、今までに何度もしてきた。それどころか”失神するくらい気持ちが良い”セックスですら、愛奈相手なら両手の指で数え切れないくらい経験してきた。
 なのに。
(……一回ヤって、”スッキリした”ら、それでもう終わりにするはず、だったのに)
 スッキリするどころか、ヤる前より体が疼いているような気さえする。精液ではなく、強力な媚薬を注入されたのではないかとすら思う程に。
「……優巳姉、もうこれ、離してもいいかな」
 あっ、と気づいて、優巳は自分が月彦の手を握りっぱなしだった事に気づき、慌てて離す。
「ごめんね……なんだか、夢中になっちゃって…………す、すごく良かったよ、ヒーくん」
 慌てて取り繕う――が、自分でもはっきりと分かるほどに不自然な笑顔と声色だった。
(ヒーくん、なんかに……)
 ”前回”や”前々回”に続き、またしても月彦相手に不覚を――我を忘れる程に喘がされたという屈辱に、思わず歯を食いしばりそうになる。
(愛奈が、余計な事しなきゃ……)
 ”ああ”はならなかったのに――とはいえ、とにもかくにもこれで愛奈の命令はほぼ遂行したことになる。過程はどうあれ、結果的に目的が達成できるのならば問題は無い。
(……ヒーくんにも、ちゃんと中に出させたし)
 腹部に手を這わせる。あの暴漢の時のように、指で触って確かめないと分からない――というようなものではない。たっぷりと出された白濁液の熱で、子宮まで熱くなっているかの様。
「……ヒーくん、こんなにいっぱい出しちゃったんだ」
 腹部を撫でながら、呟く。独り言の体を装っているが、もちろん前振りだ。
「…………ホントに赤ちゃん出来ちゃったら、どうしよっか」
 これも独り言。ただし、月彦に聞かせるための独り言だ。
 優巳はちらりと月彦を見上げ、”返事”を待つ。不安げに、さも優しい返事を期待しているという体で。
「何言ってるんだよ、優巳姉。…………ちゃんと責任とるって言っただろ?」
「……ヒーくん……!」
 感激して、思わず涙声になってしまった――そう、声色を変化させる。内心、やっぱり月彦はチョロいとニヤつきながら、優巳は感激しつつも、それでも不安が拭いきれないという目で、月彦を見上げる。
「責任、って……いいの? ヒーくん、本当に……私なんかで……」
「当たり前だろ。昔の優巳姉ならともかく、今の……ちゃんと愛姉とも決別して、真面目になろうとしてる優巳姉だったら何の問題も無いよ」
 格好をつけているつもり――なのだろうか。爽やかな笑顔すら見せる月彦が、優巳にはもうこれ以上無いほどに間抜け面に見えて仕方ない。思わず吹き出してしまいそうになるのを必死に堪えながら、優巳はあくまで感激の余り言葉も出ないという体を装う。
「………………あのね、ヒーくんは気のせいって笑うかもしれないけど」
 腹部を撫でながら、優巳は言葉を続ける。声色を微妙に変化させながら、さも”女”ではなく”母親”としての自覚が芽生え始めている――そう月彦に伝わるように。
「……今日、初めてヒーくんと気持ちが通じ合ったセックスをしたせいかな。なんとなく予感がするの。あぁ、これ絶対受精しちゃうやつだ、って」
「優巳姉、さすがにそれは……」
「やっぱり信じられない? でもね、”本気の想い”っていうのは特別なんだよ。ヒーくんが私のこと大好きって想いながら出してくれた精液なんだもん、そんなの絶対妊娠しちゃうよ」
「……優巳姉、それは気のせいだって」
 月彦が苦笑する。が、優巳は構わず言葉を続ける。
「………………大丈夫、しばらくして私のお腹が大きくなれば、嫌でもヒーくんも信じられるようになるよ。本気で好き合った男女なら、子供なんてすぐ出来ちゃうんだって」
 そう、否が応にも月彦は信じざるを得ない筈だ。もちろん生まれてくる子供は月彦のそれではないが、少なくとも”心当たり”がある以上、自分の子ではないという主張は出来ない筈だ。ましてや、月彦のようなチョロ甘ちゃんであれば、生まれた子がたとえ自分とは似ても似つかなくても盲目的に実子だと信じるだろう。
(仮に血が繋がってないってバレても、ヒーくんの性格なら私も子供も捨てたりなんか絶対出来ないよね?)
 何しろ月彦は”弱い女”に弱い。ならば、トコトンまでそこを利用させてもらうまでだ。
(でもね、ヒーくん。私も鬼じゃないから、ヒーくんがちゃんと言う事聞くなら、ある程度までならヒーくんのお願いを聞いてあげてもいいよ?)
 例えば、月彦が結婚したいと言うのであれば、絶対服従を条件に受けてやるのも悪くはないかもしれない。二人目、三人目が欲しいというのであれば、今度こそ月彦の子を産んでやるのもいいかもしれない。
(……”前”は、ヒーくんと結婚なんて……それどころか彼氏彼女の関係だって、冗談じゃないって思ってたけど)
 優巳自身、己の心変わりが信じられなかった。それどころか今でさえ、月彦に対して好感など微塵も抱いていないと言っていい。それでも尚、月彦が望むのなら結婚してやってもいいと少なからず思うのは、ひとえに”夜の生活”を期待しての事だ。
(”これ”を毎晩味わえるなら…………)
 下腹部に収まったままの剛直に意識を移す。月彦と話をしている最中でさえ、疼いて疼いて堪らなかった。一度腰を動かせばイくまで止められない気がして、懸命に堪えてはいるが、その我慢も限界に近い。
(愛奈が”悪戯”した分を差し引いても…………やっぱりこれ、スゴいし……こんなの味わっちゃったら、もう……)
 例え頭と心は蛇蝎のように月彦を嫌っていても、体の方が引き寄せられてしまう。”コレ”無しでは満足出来ない体にされてしまう。だったらもういっそ割切って夫婦になってしまった方が色々と便利ではないか。
「……ねえ、ヒーくん?」
 月彦を見上げる。照れ混じりの顔で、媚びた目で。
「ヒーくんって今……フリーなんだよね?」
 あまり触れられたくない話題なのか、月彦は一瞬ばつが悪そうに顔を歪めた。
「………………じゃあ……私、彼女に立候補しちゃおう、かな」
 月彦にかろうじて聞こえる程度の声で。多分拒絶されるだろうと自分で分かっているけど、言わずにはいられない。一縷の望みに賭けて呟いてみた――そう、月彦に聞こえるように。
(……ほら、ヒーくん。”こういう風”に言われると、弱いでしょ?)
 優巳はもう、紺崎月彦という男の人となり――弱点から思考法まで全てを把握したつもりだった。自分がどう言えば月彦がどう返し、月彦にやらせたいことがある場合、どう言えば良いのか。
 その全てを理解したつもりだった。
 だから。
「悪いけど、遠慮するよ。優巳姉を彼女にするとかありえないから」
 けろりとした顔で返された言葉を、優巳は”理解する”ことが出来なかった。


「…………え?」
「えっ?」
 十数秒経って漸く出た優巳の「えっ?」に月彦の「えっ?」が繋がった。
「ご、ごめん……よく聞こえなかったんだけど……ヒーくんひょっとして今、”遠慮する”って言った?」
「うん」
 即答だった。えっ、と。今度は掠れた声が出た。
「あっ………………あはっ、はっ………………そ、そーだよね! 彼女にするなんて嫌だよね…………ごめんね、ちょっと、先走り過ぎちゃったみたい……」
 慌てて取り繕う――が、優巳の頭は混乱していた。月彦の返事が、ロジックに合わないからだ。
(どうして? ヒーくんなら……)
 絶対うんと言う筈なのに。ひょっとして自分の耳がおかしくなったのだろうか――その疑わしい耳に、くつくつと”意地の悪い笑い”が聞こえてきたのはそんな時だった。
「嘘、冗談だよ、優巳姉。…………優巳姉のことが大好きな俺が、彼女にしないわけないだろ?」
「えっ……冗談?」
 なんだ、冗談だったのか――やはり月彦はチョロいと安堵する反面、同時に疑念が沸く。月彦は”そういう冗談”を言うような男だっただろうか。
「も……もー! ヒーくんってそういう冗談言う子だったの? てっきり本当に嫌なのかなって勘違いしちゃったじゃない」
「ごめんごめん。でもさ、今まで優巳姉にはたくさん意地悪されたんだし、少しくらいいいだろ?」
「そ、そうだけど……ぁ、やっ……」
 ずんっ。
 今まで微動だにしなかった剛直が不意に引かれ、大きくひと突きされる。
「……そろそろ続き、シてもいいかな?」
「う、うん……いい、けどぉ……んっぁっ! あぁぁ!」
 ”続き”に関しては、優巳としても願ったり叶ったりだった。何しろ挿れられている間ずっと疼きっぱなしだったのだから。
(あぁぁぁぁぁあ! コレ、やっぱり、イイ! あぁぁぁぁあああァァッ!!!)
 最奥を小突かれる度に腰が跳ね、ビクビクと痙攣する。
「ぁハァ! ああァ! あァァ!」
 優巳は腰を浮かせたまま声を荒げ、両手でシーツを握りしめる。堅い肉の柱が突き入れられる都度、電激のような快楽が全身を襲い、声を上げずにはいられない。
「ァッ! ァッ! ァッ! ァァァァッ!!!!!」
 そして不意に、深く挿入されたかと思えばぐりぐりと先端でほじくるように最奥を刺激され、視界に火花が散る。
「イひァァアアッ! そ、それっ……らめええっ!」
 たまらず、優巳は腰を掴んでいる月彦の両手首を掴み、引き剥がそうとする――が、渾身の力を込めても微塵も動かせなかった。
(い、イくっ……また――)
 ”アレ”が来る――全身が、絶頂という名の津波に備えるように小刻みに震える。恐れと、その何倍もの期待と興奮。既にその味を知っているが故に、優巳はその瞬間を待ちわびる。
 ――だが。
「あんっ…………ぇっ――」
 先ほどあれほど引き剥がそうとしても腰から外れなかった月彦の両手があっさりと外れ、同時にずるりと剛直までもが引き抜かれてしまう。
「やだ……ヒーくん……どうして…………」
 たちまち襲ってくる、強烈な”焦れ”。それはさながら薬物依存の禁断症状の様に、耐えがたいほどの”渇き”の信号という形で優巳の脳へと突き刺さる。
「と、途中で止める、なんて…………」
 動悸、息切れ。体が疼いてたまらず、優巳の両目はぬらついた液にまみれヘソまで反り返った剛直に釘付けだった。
「悪い、優巳姉。…………なんだか急に口でシて欲しくなっちゃって」
「く、口で……?」
 気まぐれにしても程があると、優巳は内心毒づく。せめて、ちゃんとイくまでやってから要求しろと言いかけて――飲み込む。
「”彼女”なら、いいだろ? もう一回、優巳姉の心が籠もったフェラを味わってみたいんだ」
 月彦が一足先にベッドへと腰掛け、促すように髪を撫でつけてくる。つまり、ベッドから降りてしろという意味だと理解はしても、優巳のプライドがそれを行動に移すことを許さない。
(………………っ……ヒーくんのくせに……)
 今はまだ、”演技”を続けなければならない。それは優巳にも分かっている。今キレて月彦を罵倒するのは容易いことだが、それでは何もかもがご破算となってしまう。
 何より、愛奈に”お仕置き”をされてしまう。
「……分かったよ、ヒーくん。いっぱいナメナメして、気持ちよくしてあげるね」
 渋々、優巳はベッドから降り、月彦の足の間へと体を入れる。ギンギンにそそり立った剛直を目の前にして、思わずごくりと喉が鳴ったのは、”下半身”の方が疼きっぱなしだからだ。
(今はまだ我慢……今はまだ我慢…………)
 いずれ月彦を骨抜きにし虜と化してしまえば、好きなだけ”コレ”を味わうことが出来るのだから。
 手を這わせ、握りしめると月彦の体温がはっきりと伝わってくる。平熱が低い優巳にとって、手のひらから伝わってくる熱量のすさまじさに思わずうっとりと目を細めてしまいかけて、慌てて首を振る。
(さっきまで、こんなのが――)
 下半身に深々と入れられていたのだ――ごくりと生唾を飲み込む。そのまま何も考えずに舌を這わせそうになって、ハッと。
「……じゃ、じゃあ……するね? ヒーくん、ちゃんと見ててくれなきゃやだよ?」
 これはあくまで、月彦の機嫌をとるために仕方なくしていることだ――そう自分に言い聞かせながら、優巳はまず先端へと口づけをする。やるからには、きちんと成果を上げなくてはならない。月彦が”あぁ、優巳姉は本当に俺の事が好きなんだな”と実感を持つくらい、本気のフェラをしなくてはならない。
「んはぁっ……んふっ……れろっ……ちゅっ……あはっ、すっごぉい……ヒーくんのコレ、ホントにスゴいね。今までで一番だよ」
 時折”年上の余裕”を見せながらも、優巳はフェラを続ける。れろぉ、れろぉと舌を押しつけるようにして舐め上げながら、唾液に濡れた剛直を時折手で扱きながら。
「んはっ、んふっ……ちゅっ……好きっ……好きだよ、ヒーくん……ちゅっ……ちゅっ……」
 愛しくて、ついキスをしてしまう――そんな演技を交えながら、時折優巳は月彦を見上げ、しっかりと目を合わせながられろぉ、と舐め上げる。
「っ……なかなかいいよ、優巳姉。悪くない」
 ”悪くない”とはまたずいぶん強がったものだと、優巳は内心ほくそ笑む。
(本当はもうイきそうで我慢できないクセに)
 先端からひっきりなしに漏れる透明な液体がその証拠だと。優巳は舌先でちろちろともてあそぶように舐め散らかす。
「……優巳姉、そろそろイきそうだ。咥えてくれないか」
「えぇー、どうしよっかなぁ?」
 つい”素”で答えてしまい、ハッと笑顔で誤魔化す。
「頼むよ、優巳姉」
 しかし、月彦は特になんとも思わなかったらしい。頭を撫でるようにして懇願され、仕方なく優巳は先端へと口づけをし、そのまま喉の奥へと剛直を飲み込んでいく。
(ふふ、今までヒーくんが味わったことないくらい、奥まで咥えてあげる)
 ディープスロートなら愛奈にさんざんやらされて鍛えられている。思わず腰が浮くくらい深く咥えてやろう――内心得意げですらあった優巳だが。
(ちょっ……)
 優巳の知っている”一番奥”へと到達した剛直が、さらに奥へと侵入してくる。
「ごっ……えっ!」
 反射的に吐き出そうとする優巳の頭を、月彦の右手が掴む。さらに左手が下顎を凄まじ力で固定し、”噛む”ことすら出来なくされる。
「んごぉっ……おごっっ……!」
「あぁ……最高だ、優巳姉。……このまま出すぞ」
 くっ、と。月彦が口の端をつり上げた瞬間、口いっぱいに頬張っていた剛直が膨れ上がった――ように感じた。
「おぼごっ、ごぼっぶほっ!!!」
 たちまちゲル状の白濁液が、”喉射”される。そのあまりの量に嚥下は追いつかず、優巳は全身を痙攣させながら口から、鼻から、ひいては目からも白濁汁をあふれさせる。
「ははっ! すごいな優巳姉。目から牛乳を出す一発芸みたいだ」
 月彦の軽口に反応する余裕などは全く無かった。地獄のような苦しみの中、優巳はただただ藻掻き続ける。漸くにして”押さえつけ”が無くなった途端、優巳は剛直を吐き出し、”息継ぎ”をする。
「けぇえっ! けほっ、げほっ、ごぼっ……ぶぼっ……!」
「はは、すっげぇ。それ”精液ちょうちん”ってやつだろ? 初めて見たけどホント笑えるな」
 月彦の軽口に反応する余裕など無かった。濃厚な白濁汁が気管を塞ぎ、呼吸を阻害してくる。優巳は噎せながらそれらを吐き出し、或いは嚥下し、空気の通り道を確保しなければならなかった。
 ぐいと、腕が掴まれたのはその時だった。
「やっ……待っ――」
 腕を引かれ、ベッドへと昇らされる。尚も噎せ続けている優巳に抵抗する力は無く、されるがままに四つん這いにされる。
 次の瞬間、ずんと。下半身を貫く肉の塊の感触に、優巳は腕でもねじ込まれたのかと思った。
「きひぃぃいっ!」
 口の端から白濁まじりの涎を零しながら悲鳴を上げる。ぐいぐいと下腹部が内側から広げられ、息を深く吸うことも出来ない。
「どうした、優巳姉。最初の時みたいな”アレ”はもうやってくれないのか?」
「さ、さい、しょ……?」
「ギュルギュルって搾るみたいに締まって、うねうね吸い付いてくるヤツだよ」
「あ、れ、は――……」
 愛奈が、と言おうとした瞬間、ずんと深く突き上げられ、声が掠れて消える。
「かはっ、ぁっ……!」
「まぁ、してくれないなら別にいいんだけどな。このまま普通に”恋人同士”っぽく、”普通のイチャラブエッチ”をするだけだ」
「アッ! アッ! アッ! アッ! アァァーーーーーッ!!!!」
 腰のくびれが掴まれ、乱暴に突き上げられる。およそ人間技とは思えない――まるで、機械式のピストン装置の先につけられた樹脂製の張り型でも突っ込まれているかのような抽送に、優巳はただただ声を上げ続ける事しか出来ない。
(な、何――急に、何が……?)
 理解が追いつかない。ほんの数分前まで、それこそ恋人同士のようにセックスをしていた筈が何故急に。
「ひぃやぁぁぁっ……やぁっ、やらぁっ……! ひーくっ……ひーくんっ……ちょっ、やす、ませっ……あああああああああああっ!!!!」
 今度は小刻みなピストン攻撃に、優巳は両手でベッドシーツを握り締めながら喘ぎ、立て続けに二度、三度とイかされる。
「あーーーーーーーーーッ!!!! あーーーーーーーーーーーーッ!!!! あーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 何度も、何度も。
 絶え間なく襲い来る絶頂の波に、優巳はイかされ、狂ったように声を上げ続ける。
 まるで全自動の拷問機械にでもかけられているかのように、”絶頂”を絶え間なく、一方的に押しつけられる。そんな”責め”が小一時間ほども続いて漸く、優巳は”本気”で泣きを入れた。
「やっ、やめっ……もっ、やめっ……ひんらうっ…………死んじゃうのぉ!」
 月彦に対する嫌悪も、プライドも何もかもかなぐり捨てて、優巳は懇願する。
「ゆる、ひて……こ、壊れちゃう、からぁ……」
 ぴたりと。唐突に月彦の動きが止まり、優巳がホッと安堵の息をつく。
「………………何言ってんだよ、優巳姉。”夜”はまだまだこれからだろ?」
 後ろ髪が掴まれ、体を起こされる。何をされるのかと思えば、どうやら枕元の置き時計を見せたかったらしい。
 9時47分――”それ”が一体何を意味するのか、優巳にはおおよそ予想がついた。
「俺の”彼女”なら、もちろん朝まで付き合ってくれるんだろ?」
「ひぃっ……む、無理っ……もぉ、無理、だからぁっ……!」
「何言ってんだよ。”最初の時”はもっとがっつりヤっただろ。ほんの3,4時間で根を上げるなんて優巳姉らしくないぜ」
 ”その時”とは事情が違うのだ。確かにあの時も月彦の怒りにまかせたようなセックスに翻弄され続けた。だが、それはいわば長距離走のようなものだったし、何よりここまで極端に喘がされも、一方的にイかされもしなかった。
(ま、るで――)
 ”長距離走”ではなく、”短距離走”を延々繰り返しやらされているかの様。息をつくまもなく絶頂に翻弄され続けた体は痺れ、脱力し、ほとんどまともに動かすことが出来ない。
「ダメだよ、優巳姉。俺の彼女になるなら、ちゃんと最後まで付き合ってくれなきゃ」
 月彦の言葉に、優巳はただただ首を横に振る。
「む、無理ぃ……こんなの、無理だよぉ……」
「何だよ、それ。彼女に立候補するって言ってきたのは優巳姉の方だろ。無理ってどういう事だよ」
 剛直が引き抜かれ、仰向けに寝かせ直される。優巳を見下ろす月彦の目は氷のように冷たく、およそ人間味を――そして”甘さ”も感じさせない。
 これが本当にあの”チョロ甘ちゃん”だというのか。優巳は我が目を疑った。
「ま、待って……ヒーくん、あのね? ヒーくんの彼女になるのが、無理っていうんじゃなくて……その……」
 うまく”演技”が出来ない。本物の”怯え”を隠しきれず、優巳は引きつった笑顔を浮かべる。
「優巳姉は俺のこと好きなんじゃなかったのか? あんなに”好き好き大好き”って言ってくれたのに。俺がもっと優巳姉とセックスしたいって言ってるのに、無理だって言うのか?」
 あからさまに怒気を放つ月彦に、優巳は演技でなく怯え、震えた。イかされ続け体は巧く動かせない上、完全に月彦に”上”を抑えられている。
 ”いざ”となった場合、優巳には逃げることも、抵抗することも出来ないのだ。
「ああっ、クソ。なんか無性にイラついてきたな。…………そうだ、優巳姉をボコボコに殴って憂さを晴らすか」
「ひっ、ぃ…………」
 拳を握る月彦の影に怯え、優巳は両手を頭を庇うようにクロスさせる。十数秒ほどそうして”防御態勢”をとっていた優巳は、不意にぽむぽむと。優しく肩を叩かれ、恐る恐る目を開けた。
「う、そ。冗談だよ優巳姉。今日は体調が悪いんだろ? 大丈夫、分かってるって」
 あまりの”豹変”に、さすがの優巳も何かがおかしいと気がつく。優巳の疑惑の目に晒されながら、月彦がくつくつと笑う。
「何……なんで、笑ってる、の……?」
「………あぁ、いや……優巳姉、ちょっと手を借りるぞ」
 月彦に両手を掴まれ、無理矢理万歳の形をとらされる。そしてそのまま両足を伸ばされ、ゆるく弧を描くような姿勢にされるや、今度はゲラゲラと声を上げて笑われる。
「あぁ、やっぱりそっくりだ!」
「そっくり……?」
「そそ。ほら、道路に寝そべってる野良猫の中に、たまにえらく細長いやつが居たりするだろ? 香箱座りじゃなくって、だらーんって体を伸ばしきって寝てるやつ見て”長っ”って思ったこと無いか?」
 一体全体何の話をしているのか、優巳には皆目分からなかった。構わず、月彦は続ける。
「ちょうどそんな感じなんだよな。優巳姉の凹凸が少ない裸って」
「……っっ!」
 反射的に、優巳は両手を動かして――なんとももったりとした動きではあったが――胸元を隠す。それを見て、月彦が声に出して笑う。
「なんだ、気を悪くしたのか? 悪いな優巳姉。でもさ、本当の事だからしょうがないよな」
「ひ……ヒーくん、どうしちゃったの? いくらなんでもちょっと感じ悪いよ?」
「そうかな」
「自分で分からないの? いつもはあんなに優しいのに――」
「なあ優巳姉」
 言葉が、強引に切られる。
「優巳姉ってさ、よく詰めが甘いって言われないか?」
「えっ……?」
 眉をひそめる。やはり、月彦が何を言っているのか、言おうとしているのかが分からない。
「じゃあ、独り言が多いって言われないか?」
「なんで……そんなこと……」
「答えられないのか? それとも指摘してくれる友達も居ないのか?」
「ひ、ヒーくん!? いい加減にしないと、私でも怒るよ?」
「俺、聞いちゃったんだよな」
 ゾクッ。
 思わず背筋に寒気を感じる程に、月彦の声は冷たかった。
「昨日さ、優巳姉の部屋を出た後、帰る途中で家の鍵が無いのに気づいてさ。やべっ、優巳姉の部屋に忘れちまったかなって思って戻ったんだ。そしたらドアに鍵がかかってなくって、ついそのまま開けちまったんだよな」
「ヒーくん……ま、まさか――」
「”しょうがないから、明日はサービスしてあげる。改心した優巳お姉ちゃんは本気でヒーくんのことが好きなんだって、ヒーくんが錯覚するくらいには”だっけか。……だから俺、今日はすっげぇ期待してたんだぜ? どんなサービスしてもらえるんだろう、ってな」
「………………っ…………!」
「愛姉に電話をかける時はさすがに気分悪かったけど、頑張って我慢したんだぜ? 優巳姉が一体どうやって俺をハメようとしてくるのか、そっちの方もすげー楽しみだったからな」
「ひ、ヒーくん……あのね?」
「あぁ、そうそう。鍵は結局鞄の中で見つかったよ。こういうおっちょこちょいな所は俺たち、確かにそっくりなのかもな。……優巳姉もちゃんと玄関の鍵かけなきゃダメだぜ?」
 じゃないと、絶対に聞かれちゃいけない話を、絶対聞かれてはいけない相手に聞かれることもある――耳元で優しく、睦言のように囁かれたその言葉が、優巳には”脅し”にしか聞こえなかった。
「わ、私を……どうする、気?」
「なぁ、優巳姉。俺……割と本気で優巳姉のこと信じてたんだぜ? 優巳姉は本当に変わろうとしてる――そもそも、本当は悪い奴じゃない、って。悪いのは愛姉だけで、優巳姉はひょっとしたら、嫌々愛姉に付き合ってただけじゃないか、って」
 違う。”これ”は自分の問いに対する返事ではない。月彦はただ、自分が喋りたいことを喋っているだけだ。
「なのに”自分の子供だってヒーくんに認めさせる”に”キーちゃんをレイプさせる”だもんな。…………これってもう、優巳姉は正真正銘性根から腐りきったガチクズだって判断していいってことだよな?」
 月彦の目が冷ややかに”変化”する。まるでゴミでも見下ろすかのような目から、殺意にも似たものが肌に突き刺さるのを感じて、優巳は慌てて”先手”を打つ。
「…………ひ、ひひっっ…………ダメだよ、ヒーくん。脅しても無駄だよ、だってもう、手遅れなんだから」
「手遅れ……?」
 ”無視”される可能性もあった――が、ひとまず賭には勝った。優巳は引きつった笑みと共に、続ける。
「言ったでしょ、ヒーくんの子供を妊娠する予感がする、って。本当は今日は超危険日なんだよね。ヒーくん、さっき言ったよね? 子供が出来たらちゃんと責任とるって」
「ああ、言った」
 不思議と月彦に動揺はみられなかった。そんな馬鹿なと思いつつも、優巳は余裕たっぷりの笑みで続ける。
「あのね、ヒーくん。私、本当は愛奈に命令されて来たんだよ? 愛奈に、絶対ヒーくんの子供を妊娠してこいって、その為に”中出しされたら絶対妊娠する体”にされちゃったんだよ? ねえヒーくん、私が言ってることの意味、分かる?」
 月彦が、露骨に顔を歪める。さながら夏場に生ゴミの詰まったポリバケツの蓋を開けた時のような顔で、舌打ちまでする。
「……なんだよ、それ。聞くだけで胸くそが悪くなるな。優巳姉たちって本当に頭どうかしてんじゃないのか」
「ひひっ……その頭がおかしい優巳お姉ちゃんと、ヒーくんは子作りしちゃったんだよ? ヒーくん、もちろんちゃんと責任とって認知はしてくれるんだよね?」
 もし、月彦が嫌だと言ったら――その時はもうなりふり構っていられない。紺崎家におしかけて、月彦にレイプされたと葛葉あたりに訴えかけてでも、月彦の認知をとりつけるしかない。
 そう、もはや恥も外聞もない。優巳にとって、愛奈の怒りを避ける事以上に優先すべき事項はこの世に存在しないのだから。
「……あぁ、そうだな。その時は責任をとってやるよ。…………”妊娠してたら”な」
 しかし意外にも月彦はあっさりと首肯した。焦りも、混乱もまったく感じられない。まるで伏せている手札はロイヤルストレートフラッシュだと言わんばかりの、強気な態度だ。
「強がっても無駄だよ? もう、妊娠しちゃうのは確定してるんだから」
「なぁ、優巳姉ってさ……頭悪いってよく言われるだろ?」
 なっ――と。優巳はあまりのショックに二の句が継げなかった。
(ヒーくん、なんかに――!)
 怒りの余り、唇が震える。――そう、確かに”頭が悪い”と言われたことはある。しかしそれは相手が愛奈だから許されるだけで、”紺崎月彦ごとき”にそれを言われる筋合いはない。
「あのな、優巳姉。落ち着いてよーく考えてみてくれよ。俺はさ、昨日の時点で優巳姉が何か企んでて俺をハメようとしてるって分かってたんだぜ? しかも子供を認知させるのさせないのって独り言まで聞いてた俺が、だ。こうやって優巳姉の部屋までのこのこやってきて、優巳姉の目論見通りセックスしたのはなんでだと思う?」
「それ、は――」
「わかんないのか? やっぱり頭悪いな、優巳姉は」
「っっっっっっ――――………………!!!!!」
「そう、その顔だよ」
 くっ、と。月彦が口の端をつり上げ、嗤う。
「優巳姉のその顔が見たかったから、騙されてるフリをしてやったんだよ。なぁ優巳姉、どんな気分なのか参考までに教えてくれないか? 俺もさすがに経験ないんだよ。自分は賢いつもりで、バカな従兄弟を手玉にとってるつもりが実は逆に騙されてたなんて、間抜けな優巳姉にしか出来ないことだからな」
 言葉のナイフでズタズタに切り刻まれながらも、優巳は一言も反論出来なかった。ただただ歯を食いしばり、屈辱の涙を目尻一杯に貯めながら、それでも最後の意地で月彦を睨み続ける。
「いや実際、優巳姉の”演技”に合わせるのは大変だったし、笑いを堪えるのはもっと大変だったんだぜ? 特にアヘ顔晒しながら”ヒーくん大好き”って言ってるところなんて何度も吹きそうになって必死に堪えてたんだからな?」
「あ……アヘ顔、なんて……晒して、ない……」
「晒してたよ。いくら愛姉に言われたからって、よくもまぁ好きでもない男相手にあんな真似が出来るもんだぜ」
 俺だったらやらないと殺すと言われても絶対に断ると、月彦は鼻で笑う。
「あぁ、それから一応言っとくけど、”避妊対策”の方はばっちりだからな。ちゃんと薬を飲んできたから、中に出しても100%妊娠はありえないから、そこは安心していいぞ優巳姉」
 キッ、と。優巳が反撃の糸口を見つけたのはその時だった。
「……100%妊娠はありえない? 甘い、甘いよヒーくん。私の嘘を見破って得意げなのは分かるけど、愛奈の力を甘く見すぎだよ。一体どんな薬を飲んだのかは分からないけど、そんなの愛奈の力の前じゃ無力なんだよ?」
 月彦がわずかに眉を揺らす。それもそうだろうと優巳は納得する。愛奈の存在は今尚、月彦の中では強大無辺な筈だ。その愛奈の力ならば、確かに不可能を可能にするかもしれないと、少しでも月彦が考えれば、まだ――。
「…………優巳姉、何か隠してるな?」
「ぇ……な、なんで……――ぁっ……」
 しまったと、口を覆おうとした時にはもう遅かった。
「やっぱりな。まーだ何かあるんだな? ……ったく、ホントどうしようもないな」
「ち、違っ……何も、隠してなんか――」
「あぁ、いい。いいから、そういうのは。……もう優巳姉の”演技”と”嘘”に付き合う気は毛頭ないから、手っ取り早く吐いて貰うぞ、洗いざらい」
「待って……一体何す…………ひっ」
 月彦の”下”から逃げようとするも、体が巧く動かず、優巳に出来たのはわずかに藻掻くことだけだった。そんな優巳の緩慢な動きを嘲笑うかのように、あっさりと月彦の手で両足を開かされ――
「ああァッ!」
 挿入される。
「い、嫌っァ……やめっ――」
「嫌じゃないだろ。さっきまであんなにアンアン言ってたじゃないか」
「っっ……それ、はっ……演技でっ……!」
「そうだったのか、そいつぁ悪かった、優巳姉。愛姉の命令で”仕方なく”だったんだな?」
 ずんっ――ゆっくり、大きく突き上げられる。しゃくりあげるように声が出そうになるのを、優巳は歯を食いしばって、耐える。
「いいぞ、優巳姉。やっぱりこうじゃないとな。頼むからあっさりと”白状”しないでくれよ?」
「――っっっ…………――〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!」
 歯を食いしばりながら、涙を貯めた目で必死に月彦を睨み付ける――それが今、優巳に出来る唯一の抵抗であり、矜持を保つ唯一の手段だった。



 優巳は、思いのほか粘った。それは同時に、それだけ”楽しい時間”が伸びたということでもあった。
 全ての企みが白日の下に晒され、本性を曝け出した優巳を一方的に犯す。最初は必死に歯を食いしばり、涙混じりの目で睨み付けてきた優巳が徐々に、徐々に快楽に屈していく様は例えようのない愉悦を月彦に与えた。
 もちろん、そこまで一方的に陵辱出来るのも先に”足腰立たなくなる程度”にいたぶっておいたからに他ならない。もはや逃げることも、抵抗することも出来ないくせに、一人前にプライドだけは高いらしい優巳を犯し、声を上げさせる。”こんなヤツに!”と屈辱に歪むその顔を緩みきったアヘ顔へと変えてやり、”隠し事”を全て白状させる。
「やぁっ、ぁぁっ! もぅ、言ったぁっ……ぜんぶ、喋った、からぁあっ……! ゆるひてっ……ゆるひてぇええ!」
「本当か? まだ何か隠してるんじゃないか?」
 優巳に白状させるのがあまりに楽しくて、「もう全部喋った」と優巳が一時間前から言い続けて尚、陵辱の手を止めることが出来なかった。
(……でも、さすがにもう出てこないかな?)
 優巳を陵辱し、吐かせるのは確かに楽しい。が、さすがに一時間以上も新しい情報が出てこないのでは優巳の言い分を信じざるを得ず、優巳が嘘をついていない以上抵抗出来ない状態の――”一応は”――婦女子を一方的に痛めつけるというのは、さすがに後味がよろしくない。
「…………仕方ない、信じてやる」
 目からは涙、口からは涎を垂らしながらただただ喘ぎ続けている優巳を見下ろしながら、ぬろりと剛直を引き抜く。たっぷりと責められたそこはヒクヒクとまるで呼吸でもしているように蠢き、時折嘔吐するようにごぽりと大量の白濁液を溢れさせてくる。
「…………ったく、いくら愛姉が怖いからって、まさか他人に孕まされた子を俺に認知させようとしてたとはな。愛姉の発想も胸くそ悪ぃけど、優巳姉のはそれ以上だな」
 そう、優巳には洗いざらい白状させた。大筋は先に優巳が”独り言”で語った通りだったが、部屋に帰って来た途端待ち伏せしていた暴漢にレイプされたというのは初耳だった。
(……優巳姉の話を聞いた限りだと、その暴漢ってのは多分――)
 ”元彼”だろう。最後に会った時の印象ではおよそ犯罪に走るようなタイプには見えなかったが、それだけ優巳に本気だったということなのだろうか。
(てゆーか、優巳姉の”計画”ってのも改めて聞くとひっでぇな。なんだよ、俺を惚れさせて、何でも言うこと聞くようにさせるって)
 一体、どれほど自分に自信があればそんな計画を思いつけるのだろうか。逆に、どれほど他人を――否、紺崎月彦を舐めていれば、その計画が巧くいくと思えるのだろうか。
(……絶対ぇ無理だろ。そもそも優巳姉、胸ぜんぜん無いし……)
 せめて優巳にあの性悪狐並のスタイルがあれば――少し考えて、月彦は首を振る。例えそれでも”無い”と。
(…………仮に、優巳姉の”独り言”を聞かなかったとしても、多分大丈夫だったな)
 確かに、弱々しい優巳の姿は見ていられず、助けずにはいられなかった。が、優巳の計画の全貌を聞く限り自分が到底ハマったとはどうしても思えなかった。
(…………むしろ、発想が幼稚すぎて可愛げすらあるくらいだ)
 とはいえ、途中まで騙されていたことには変わりは無い。少なからずむかっ腹も立ったし、怒りも沸いた。――が、それも先ほどの”お楽しみ”でその大半が雲散霧消した。
 ”残り”は。
「……優巳姉、まだダウンするのは早いぞ」
「んぁ……ひーく……」
 腕を掴み、体を引き起こす。涙と涎に濡れ瞳の濁ったその顔は痛々しくもあり、同時に記憶の中にある優巳の人を食ったような顔とのギャップに興奮も覚える。
「悪さをしたら、ちゃんと謝らないとな。俺はまだ優巳姉の”ごめんなさい”を聞いてないぜ?」
「っ……」
 濁った目に、わずかに意思の光が戻る。おっ、まだ抵抗する余力があるのかと、下半身が疼き出した途端、まるでそれを察知したかのように優巳が悲鳴を漏らし、意思の光も消えた。
「ご、ごめん……なさい……」
「違うだろ。……優巳姉、ちゃんと”いつもみたいに”しろ」
 月彦はあぐらをかき、優巳の髪を掴んで強引に引き寄せる。
「やっ……」
「嫌? 優巳姉、今、”イヤ”って言ったか?」
「ひっ…………い、イヤじゃ、ない、です……」
「だよな。だったら、ちゃんとしろ。やり方は前に教えただろ?」
「ううぅ……」
 優巳が剛直を握り、諦めたように目を瞑って先端へとキスをする。さながら、私は”コレ”に屈服しましたと宣言するかのような、服従のキスに、ゾクリと月彦は身震いする。
(”あの優巳姉”が……クク、いいザマだな)
 性格はガチクズ。胸も尻も無い、魅力などカケラも無い女だが、唯一。屈服して謝罪フェラをする様だけは楽しむことが出来る。
「いつまでそうしてる気だ。さっさと始めろ」
「……っ…………ごえん、なふぁいっ……ちゅはっ……れろっ…………ごめん、なさい……れろっ……れろっ……」
「”もうしません”だ」
「もう、しまふぇんっ……んぁっ……ちゅっ、ぷふっ……んちゅっ……」
「”許してください”」
「ゆる、ひて……くらふぁいっ……んふっ、んふっ……」
「あぁ、いいぞ……優巳姉。もっと、ちゃんと気持ちを込めて”謝罪”しろ」
 月彦は髪を掴んだまま、時には無理矢理頭を押さえつけて咥えさせ、何度も何度も”謝罪”させる。
(あぁ…………すげえスカっとする……俺って本当に優巳姉のこと嫌いなんだな)
 ごめんなさい、もうしません、ゆるしてください――うわごとのように繰り返しながら剛直をしゃぶる優巳の姿を見下ろしているだけで、蓄積した怒りが雲散霧消していく。
「……優巳姉、仕上げだ」
 くいと優巳の髪ごと頭を持ち上げ――
「きゃっ! やっ……」
 その顔めがけて、思い切り白濁汁をぶっかける。体をひねって避けようとするのを髪を掴んで許さず、一滴余さず優巳の顔めがけて打ち出していく。
「うぅぅ……ぅぅ…………」
 相当にプライドが傷ついたのか。優巳が歯を食いしばりながらぽろぽろと涙を流す。その涙を拭う様に月彦は先端を擦りつけ、最後に残っていたであろう優巳の矜持までをも白く汚し、粉々に砕く。
「ふぅぅ……ありがとな、優巳姉。たっぷり楽しませてもらったぜ」
 囁く――というよりは、さながら強姦魔が強姦被害者に吐き捨てるような言い方だった。髪を掴んでいた手を離すと、優巳は糸が切れた人形のようにベッドに倒れ伏した。


 月彦はそのまま優巳には一瞥もくれずにベッドから出て、シャワーを浴びる。もちろん、優巳に一言断ってから――などという考えは頭をかすめもしなかった。シャワーを終え、脱衣所を出て時間を確認すると午前二時を回っていた。
(…………今から帰るってのも、なんだかなぁ)
 せめてもう1時間早ければまだ真央が起きている可能性もあり、友達の家で遊んでいたらついつい長居をしてしまって――という言い訳も不可能ではなかったのだが。
(かといって、このまま優巳姉の部屋に泊まるなんてありえないな)
 ベッドはメチャクチャに汚れているし、何より優巳の側で眠るなんてありえない。下手をすれば寝首を掻かれる危険すらある。
(…………いやでも、優巳姉ってヤッた後は妙に大人しくなったりするし……大丈夫――か?)
 尤も今となっては、”ヤッた後の妙に大人しい優巳”もただの演技であった可能性が否めない。やはり、黒須姉妹の近くで寝顔を晒すなどありえないと、月彦は意を決して衣服を纏い、居間を後にしようとしたところで。
「ヒーくん、待って!」
「うわぁああっ! ゆ、優巳姉!?」
 一体いつの間にベッドから降りたのか。それとも落ちたのか。明かりの消えた室内で死体のように転がっていた優巳が突然足を掴んできて、月彦は思わず尻餅をつく。
「お願い……助けて……このままじゃ、私……愛奈に本当に殺されちゃう……」
 優巳は息も絶え絶えに言いながら、尋常では無い握力で足首を掴んでくる。消耗しきっている筈であるのに、何処にそんな力があるのか。月彦が引き剥がそうとしても剥がれず、それどころか優巳は絨毯を這うように近づいてきて足首を掴むだけでなく両手で抱き込むようにして縋り付いてくる。
「こ、こら! やめろって! 俺はもう関わりたくないんだ!」
「お願い、助けて……助けてくれたら、もう金輪際ヒーくんの前には姿を見せないから……だからお願い」
「知るかよ。妊娠の事は同情するけど、そんなのは優巳姉の親と、あと産婦人科医にでも相談すりゃいいだろ。俺に何が出来るっていうんだ」
「一言でいいから、愛奈に言って欲しいの! ヒーくんが一言口添えしてくれるだけで、私は酷い目に遭わなくて済むんだよ?」
 月彦は開いた口が塞がらなかった。
 この女は、本当に自分のことしか考えてないんだなと。
(…………優巳姉が酷い目に遭わないようにする為に、なんで俺が愛姉に口添えなんかしなきゃいけないんだ?)
 全くもって意味が分からない。例えば優巳ではな真央がそうしないと危険というのであれば、口添えでも何でもするだろう。しかし優巳相手にそんなことをする義理も、借りも、それどころか情すらもないというのに、どういうわけか優巳の頭の中では紺崎月彦は人肌脱ぐのが当たり前ということになっているらしい。
「ねえ、お願い! ヒーくんの子供を妊娠してこいって言われた時、私は最初断ったんだよ? いくらヒーくん相手でも、そんな騙すようなこと出来ないって。愛奈のことだから、ヒーくんの子供にもきっと酷いコトするってわかりきってたから、だから絶対嫌だって…………そしたら愛奈、”だったらそんな子宮もう要らない”って……私、内臓が破裂するまで殴られたんだよ? 私だってヒーくんに迷惑かけないように頑張ったんだよ? それなのに…………」
「あー、優巳姉。悪いけどもう優巳姉の言葉は説得力ゼロだからな。信用を無くすっていうのはそういうことだ。なんて言われても俺はもう金輪際優巳姉に協力なんかしないからな」
 さあ手を離せと、月彦は優巳の手首を掴んでは強引に引き剥がそうとする。――が、利き腕の握力がまだ十分でなく、思うようにいかない。優巳もまた必死であり、その必死さが言葉以上に”本当に命の瀬戸際”であることを月彦に実感させるが、だからといってやはり優巳相手に人肌脱いでやる義理はない。
「お願い……お願い、だから…………私、もう……ヒーくんしか頼るひとが居ないの…………お願い……お願い、します…………」
 優巳は両手で月彦の足を抱き込みながら、ほろほろと涙までこぼしている。その”涙声”が例え演技だと分かっていても、月彦の心を強烈に揺さぶり、かき乱してくる。
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ…………嫌だっつってんだろ!」
 これ以上、”涙声”で訴えられてはまずいと、月彦は渾身の力を振り絞って優巳の拘束を引き剥がし、立ち上がる。
「待って! お願い、ヒーくん、待ってぇ!」
 再び優巳が足を掴もうと手を伸ばすが、その手はすんでのところで空を切る。月彦はそのまま逃げるように玄関を飛び出し、廊下を駆け抜け、階段を段飛ばしで駆け下りる。さらにアパートの敷地内から飛び出し、二百メートルほど走って逃げたところで漸く足を止めた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……………………」
 そんな筈は無いと分かっていても、振り返ったらすぐ側に優巳が迫ってきていそうで、なかなか後ろを見ることが出来なかった。それでも後ろを確認せずには居られず、呼吸が整ったところで背後を確認するが、やはりそこには優巳の姿は無かった。
(………………知るかよ。愛姉にどんな目に遭わされても自業自得だろ)
 優巳に謝罪フェラをさせ、一度はスッキリした筈なのに、再び心の奥にモヤっとした澱が沈殿し、それが吐き気を催すほどに不快だった。
「クソ…………だからあいつらと関わるのは嫌なんだ」
 頭をかきむしりながら毒づき、帰路につく。しかし家に近づけば近づくほどに心の澱は濃度を増し、それに伴って不快感も耐えがたいまでに膨れ上がる。
「…………あぁ、クソっ……俺は絶対嫌だぞ……愛姉に口添えなんて冗談じゃない。しかも優巳姉の為とか吐き気がする」
 足が止まり、つい背後を振り返ってしまう。午前三時前の街はシンと静まりかえり、時折犬の遠吠えが聞こえるばかり。
「………………はぁ」
 月彦は夜空を仰ぎ、大きく溜息をついた。


 陰気な屋敷だと、いつ来ても思う。日当たりは決して悪く無いし、人の数が少ないわけでもない。それでも、来る度に思うのだ。なんて陰気な屋敷なんだろう――と。
 そう、少なくとも”前回まで”はそうだった。
(……なんだろう、なんか、変な感じ)
 正門をくぐり、母屋に通されるまではいつもと同じ流れだ。しかし何かが違う。応対する女官の一人一人の態度に違和感を感じるのだ。
 漠然としたその正体不明な空気をなんと表現すればいいのか。一言で表すなら――そう、”緩んでいる”と言うべきか。屋敷全体を覆っていたピリピリとした空気、ピンと張り詰めた緊張感のようなものが感じられない。
 皆が皆、いつ失態を見とがめられ、それを理由に自分たちの主のオモチャにされるか恐々としている。――それこそが、この屋敷の実態のはずだ。誰もが愛奈を恐れ、その目に止まることを、興味を引いてしまうことを恐れている。
 ”それ”が緩んでいる――そう確信したのは、姉の部屋へと向かう途中のこと。背後から不意にくすくすと笑い声が聞こえて、優巳は振り返った。折れ曲がった廊下の向こうで、二人の女官が庭の奥を指さしてニヤついているのが見えた。が、二人の方もすぐに優巳の視線にきがついたのか、すぐに顔を引き締めて逃げるように屋敷の影へと消えた。
 なんとなくだが、愛奈は二人が指さした方向に居るのではないかという気がした。丁度靴脱ぎ石の上に庭履きがあり、優巳はそれを履いて先ほど二人が指さしていた方角へと歩き出した。
 ちゃぷちゃぷと水の流れる音に、時折鹿威しの音がかぽーんと混じる中、庭木をかき分けるようにして進んでいくと、不意に耳が”それ以外”の音を拾った。
 否、それは音ではなく、声――歌声だった。それもどうやら子守歌らしい。近づくにつれて、歌っているのは愛奈であると優巳は確信する。姉以外に、こんな天使そのもののような歌声を出す人間に出会ったことが無いからだ。
「……………………。」
 微かな緊張が、優巳の足を止める。歌声を聞く限り、愛奈の機嫌はひどく良さそうだ。しかし今からする予定の”報告”を聞けば、間違い無く愛奈は怒り狂うだろう。それが分かっていて尚、自発的に愛奈の元へ迎えるのは、もちろん切り札があるからに他ならない。
(……大丈夫)
 ”これ”は、今回の失態を補って余りあるものだ。たとえ愛奈がどれほど怒り狂っていてもたちまち正気に――それどころか上機嫌になって褒めちぎってくれるに違いない。
 本当!? 優巳ありがとー!――優巳にはそう言い、飛び上がって喜ぶ姉の顔が目に浮かぶようだった。
「あっ、居た居た。あい――な……?」
 まるでダンスでも踊っているように体を左右に揺らしている姉の後ろ姿を見つけるなり声をかけようとして――くるりと振り返ったその姿に、ぎょっと優巳は硬直した。
 やはり、子守歌を歌っていたのは愛奈だった。しかしその腕に抱かれているのは赤ん坊ではなく、地蔵菩薩だった。
 そう、愛奈は一抱えほどもある石像を腕に抱いて、子守歌を歌っているのだ。
「愛奈……何、して……」
 絶句する優巳の耳に、くすくすという忍び笑いが飛び込んでくる。横目でちらりと見れば、先ほど見た――どうやら庭掃除の途中らしい――二人の女官が巨大な庭石に隠れるように潜みながら愛奈の方を見て嗤っているのが見えた。
(何で……どうして? 愛奈なら――)
 女官ごときに指を指されて嗤われる屈辱に愛奈が甘んじる筈が無い。愛奈なら、その手にした石像で嗤った女官の頭を片っ端から叩き潰すくらいのことは平気でやる。
 なのに何故。
(……違う。違うんだ、愛奈は――)
 優巳は首を振る。そう、”違う”のだと。もちろん、愛奈は自分を嗤う声になどとっくに気がついている。自分を嗤う女官達に腹も立っているだろうし、片っ端から殴り倒して頭を踏みつけてやりたいと思っているに違いない。
 ――が、”そんなこと”よりも、今の愛奈には大事なことがある、ただそれだけのことなのだ。そう、やがて妹が産むであろう月彦の子供を完璧に世話出来るよう特訓をしなければならないのだから。
(愛奈……そこまで…………)
 地蔵を抱いているのも、赤ん坊が泣き止まないのなら何時間でも抱いたまま子守歌が歌えるようにするために違いない。優巳は知っている。愛奈が時折見せる怪力はあくまで瞬間的なもので、あまり持続力は無いということを。愛奈の本当の怖さ、その攻撃力の根源はたとえやりすぎてしまってもいくらでもやり直すことの出来る”力”によって裏付けされた躊躇の無さと容赦の無さによるものであり、普段の筋力自体はあくまで常人の域を出ない。愛奈もそれが分かっているからこそ、ああして石像の重さに顔を引きつらせながらも必死に笑顔を浮かべて、子守歌を歌い続けているのだ。
 たとえ端からどれだけ滑稽に見えようが、”主”の変化にすっかり気を緩めた一部の女官達に指を指され嘲笑われようが関係ない。”それ”が子供をあやすために必要なのだとしたら、愛奈は庭一面に敷き詰められた剣山の上で両足を血まみれにしながらでも、同じように笑顔で子守歌を歌うことだろう。
 姉の”子守”に見とれている優巳の耳に、ぱしんぱしんと平手打ちの音が聞こえたのはその時だ。見れば、先ほど愛奈を笑っていた二人組が頬を抑えたまま玉砂利の上に倒れ込んでいた。傍らに立つのは多分、二人よりも立場が上の女官だろう。見た目は若く、恐らく年は自分や愛奈とそう変わらないのではないか。
 監督役らしい女官は抑えた声で、しかし厳しい言葉で二人を叱責し、すぐに立つように命じてその場から去らせた。最後に優巳と、そして愛奈の方へと目をやり、ぺこりと頭を下げて自らも去って行った。
「………………。」
 うずっ……。体の奥底で、そんな疼きを感じた優巳ははてなと軽く首を傾げた。少し考えて、監督役の女の顔が少しだけ霧亜に似ていたからだと気づく。よくもまぁ、憎き霧亜に似た顔の女を側に置いているものだと、愛奈に感心する。あの女を愛奈と二人がかりで虐めてやればさぞかし楽しいだろう。
 ――が、それもこれも全ては愛奈に”報告”を終えた後のことだ。優巳は再び愛奈へと目を向ける。丁度愛奈が歌いながら右手に持った哺乳瓶を地蔵の口元へと宛がうところだった。その仕草、手の動きのなんと流麗なことか。今にも地蔵が自ら手を伸ばして哺乳瓶を掴み、ミルクを飲み始めるのではないかという気がしてくる程に、愛奈の仕草は完璧だった。
「…………っ……」
 胸の奥が、ズキリと痛む。こんなにまで努力している姉に、今から真実を伝えなければならない。ひょっとしたら、愛奈はかつてない程に怒り狂うかもしれない。
 本来ならば、恐ろしくてとても愛奈の前になど居られないところだ。――優巳は再度、上着のポケットの中にある”切り札”の感触を確かめてから、姉の近くへと歩み寄る。
「……愛奈」
 よほど子守歌に集中していたのだろう。目と鼻の先まで近づいて声までかけて漸く、目の前に居るのが”単なる邪魔者”ではなく、妹であると分かったらしい。
「優巳! あはぁ、待ってたよーーーー! もぉ、どうして連絡くれないの?」
 ぱぁと、愛奈は地蔵を抱いたまま両目を輝かせる。そんな愛奈に、優巳はばつの悪い笑顔しか返せなかった。
 ”それだけ”で、姉は全てを察したらしかった。
「………………そっか」
 がちんと。鈍い音を立てて地蔵が愛奈の足下、玉砂利の上へと落とされる。
「また、失敗したんだね」
「ご、ごめん…………でもね、聞いて? ちゃんと理由があるの! それにね、今回は――」
 だらりと下がっていた姉の右手が、不意に消えた――という様にしか、優巳には見えなかった。次の瞬間、同じようにだらりと脱力している姉の右手の先には赤黒い、肉塊のようなものが握られていて。
「ごぶっ……」
 痛みと、溢れる血で自分が喉を”毟り取られた”のだと理解する。優巳は口から血を溢れさせながらも、両手で首を押さえつけてなんとか出血を抑えようとする――が、その勢いはおよそ”手で押さえたくらい”で止まるようなものではなかった。
 たちまり優巳の両手は赤黒い血で染まり、喋ることはおろか呼吸すらもままならなくなる。
「言い訳とか、もういいから」
 ぴっ、と掴んでいた肉塊を捨て、愛奈は肩を揺らして笑い出す。
「…………ふふっ、くふふっ……そっかぁ、またダメだったんだ。あんなにいっぱいお膳立てしてあげたのに、それでもダメだったんだ」
 ぱきりと。愛奈の足下に転がっていた地蔵の首に大きく罅が入り、ごろりと頭が転がる。おそらくは落としたショックによるものなのだろうが、優巳にはまるで姉の”邪気”に反応して地蔵が割れたようにしか見えなかった。
「ねえ優巳……優巳? ちょっともう本当に……いい加減にしてくれないかな? 一体何なら出来るの? ねえ! この前電話してきたとき、今からヒーくんとエッチするって、今回は絶対大丈夫だって言ってなかった? なのに! ねえ、どうして!?」
 肩を掴まれがっくがっくと揺さぶられても、優巳には答えようがない。口から喉から血を溢れさせながら、ただただ涙の溜まった目で姉に懇願をするしか術が無い。
「どうしてそんなに使えないの? この私が折角、ゴミクズ以下の優巳でも唯一役に立てる方法を見つけて、あんなに……あんなにお膳立てまでしてあげたのに、それすらも出来ないの? もしかして私をイライラさせて早死にさせるためにわざと失敗してるの? ねえ、そうなんでしょ?」
 ちがう――優巳は必死に首を振って否定する。そして訴える。今回は本当に違うのだと。ただの失敗ではない、手土産があるのだと。しかし溢れる血は止まらず、喋るどころか発声すらもままならない。
 こうなったら直接見せるしかないと血まみれの右手をポケットに入れようとしたところで、突然手首を掴まれた。
「来て」
 そのまま腕を引かれ、ほとんど引きずるように連行される。どこをどう歩いたのかも分からないままに優巳が連れてこられたのは庭の一角、そこにあったのはなんとも異様な物だった。
 それは、畳六畳分ほどの面積を持つ巨大な鉄板だった。厚さがゆうに二センチはあるそれがレンガで作られた”かまど”の上に乗せられているのだ。
「…………私は、優巳を信じてたんだよ。だから、とびっきり豪華な焼き肉を食べさせてあげようと思って準備までしてたのに」
 ”これ”を見せられて「ああ、料理用なんだね」と納得する人間が、果たしてどれだけ居るだろうか。それとも愛奈の言う”とびきり豪華な焼き肉”というのは、”ウシの開き”をまるごと焼くようなものを言うのだろうか。
「でも、しょうがないね。失敗しちゃったんだし。ご褒美の焼き肉は無しになっちゃったけど……使わないのももったいないから、代わりにこれで優巳を焼いちゃうけど、いいよね?」
 愛奈の声をかき消し、「新品のフライパン使わないのももったいないから、しゃぶしゃぶ用に買ってきたお肉焼いちゃうけど、いいよね?」という音声を宛がえばぴたりと合いそうな、そんな屈託の無い笑顔だった。
「ほら、優巳。自分から上がる? それとも抵抗して両手両足を折られてからにする?」
 声は出せない。腕は掴まれたままでポケットも探れない。左手でなんとか右ポケットを漁ろうとしたのを”抵抗”と見なされたのか、たちまち左の膝を踏み抜くように蹴られ、鈍い音と共に優巳の左足は普段とは逆の方向へと折れ曲がる。
「……………………ッッッ!!!」
 悲鳴すらも、ねばついた血の奔流という形でしか口を出ることが出来なかった。
「大丈夫だよ、優巳。見ての通り、まだ火はつけてないから。触った途端火傷するなんてことはないよ」
 愛奈が右手を離さないから、優巳はその場に崩れ落ちることも出来ない。ほぼ全体重がかかっている右足へと、愛奈が視線を落としてくる――それだけで、優巳は恐怖に全身をわななかせた。
 認識が甘かった。愛奈の怒りの度合いを見誤った。まさかここまで有無を言わせてもらえないとは思わなかった。もったいぶらず、最初から切り札を見せるべきだったのだ――。
「……優巳、何か言いたいことでもあるの?」
 絶望に打ちひしがれていた優巳は、愛奈の言葉に一縷の希望を見いだした。ある――そう訴えるように、優巳は必死に、何度も頷く。ほんの僅かでいい、かろうじて喋ることが出来る程度に傷を治してもらえれば、全てが巧くいくのだ。愛奈だって、絶対に喜ぶ筈だ――。
「……そうだね、優巳の言うとおりだよ。そうやってすぐ優巳を甘やかすのが、私のダメな所なんだね」
 耳を疑うとはこのことだった。愛奈はもっともらしく頷きながら、言葉を続ける。
「痛めつけてもすぐ治しちゃうからいけないんだね。”何をされても、最後には治してもらえる”んじゃ、おしおきにならないよね」
 一体何を言ってるのか、優巳にはまるで理解できなかった。傷が治れば、痛みや恐怖の記憶まで癒えるとでも思っているのか。何事も無かったようにけろりと忘れてしまえるとでも思っているのか。
「そう! そうだね、優巳の言うとおりだよ。これだけ私をイライラさせたんだもん、生半可なお仕置きじゃあダメだよね。……安心して? とびきりの備長炭をたっぷり使って、じっくり炭火で焼いてあげるから。そうだね、十時間くらい焼けば、優巳も反省できるかな?」
 この巨大な鉄板とかまどで十時間――それはもう、焼くとか焦がすとかいうレベルですらないように、優巳には思えた。
「”死なせない”よ?」
 まるで優巳の想像を見透かしたように、愛奈が笑う。
「熱くて痛くて苦しくて、もういっそ殺して欲しいって優巳が思うギリギリのところに調整してあげる。あとほんの一押しで死んじゃう、っていうところで釣り合うように治してあげる」
 ごふっ、と血を溢れさせながら、優巳はもしやと考えずにはいられなかった。愛奈は本当は赤ちゃんのことも月彦のこともどうでも良くて、単純に妹を――黒須優巳をいたぶるのが何よりも好きなだけなのではいのかと。たんに妹をいたぶる為の口実を作るために、無理難題としか思えない”おつかい”を命じているのではないのか――と。
「……いーち」
 びくんっ――愛奈の声に、背筋に電流が走る。
「にーい」
 体が、覚えている。このカウントダウンを”さんっ”まで言わせてはならないと。早く愛奈の言う通りにしろと、全身のあらゆる器官が悲鳴を上げる。事実、優巳は自発的に鉄板の上に上がろうとした――が、片足を折られたままでは巧く動けず――
「さんっ」
 愛奈には、躊躇も容赦も無い。妹が”自発的に動こうとしていた”などということで、裁可を待ったりもしない。愛奈が三つ数えるまでに鉄板の上に上がれなかった優巳は残る右足までも膝を踏み抜かれる形で折られた。掴まれていた右手も離され、もはや崩れ落ちるだけ――瞬間、優巳は最後の賭けに出た。
 血に濡れた両手で、優巳は必死に愛奈へとしがみつく。が、それもすぐに力任せに振り払われ、優巳は姉の足下へと崩れ落ちる。
「ああもう、優巳のせいで服が汚れちゃったじゃない」
 愛奈の巫女装束は金の刺繍が入った白衣だ。白い生地に血の赤はよく目立つことだろう。
「………………てがみ?」
 白衣の袖に書き殴られた血文字を呟く姉の声に、優巳は血を吐きながら安堵の涙を流した。

 



 決死の血文字は、愛奈に通じた。喉を治してもらった優巳は漸くにして月彦から手紙を預かっていることを伝えた。
「えっ……ヒーくんが……?」
 愛奈は絶句して驚き、しばし呆然とした後、ハッと思い出したように優巳の両足を治してくれた。途中、何度も「ごめんね」と謝る姉の姿に、優巳は自分の目論見が――怒りの度合いの方は見誤ったが――正しかったことを知った。
「本当にごめんね、痛かった? でも、優巳もいけないんだよ? ヒーくんからの手紙を預かってるなんて……最初に教えてくれたら……」
 こうして照れるように口ごもりながら人差し指同士でつんつんしている女が、ほんの三十分前まで実の妹の喉を素手で毟り取り、暴力の興奮に酔いしれるように目を輝かせながら両膝を踏み抜き、そのままバーベキューにしようとしていたなどと、当事者でなければとても信じられないだろう。
「……それで、ヒーくんからの手紙はどこにあるの?」
 そわそわ。
 そわそわ。
 早く欲しい今すぐ欲しいなんて書いてあるのか知りたい今すぐに!――見ているだけでそんな心の声が伝わってくる愛奈に優巳は疲れた苦笑を見せながら、ポケットに入っていた”手紙”を取り出す。
「これ……手紙っていうか、”伝言”なんだけど……」
 それは確かに、”手紙”の形をなしていなかった。何処にでもあるようなメモ用紙をただ四つ折りにしただけのそれには確かに月彦が書いたメッセージが綴られている。しかし、事ここに至って優巳はただ一つの懸念を抱いた。
 もし、この見るからに粗末な”四つ折りのメモ用紙”が月彦からの手紙などではないと愛奈が判断したら――
「これを……ヒーくんが……」
 しかし優巳の懸念とは裏腹に、愛奈は両手を――まるで水でも掬うような形にそろえて慎重にメモ用紙を受け取るや、その重さに負けるようにその場にへたりこんでしまった。
「…………………………。」
 愛奈はじっと、両手で作った”杯”の中に置かれたメモ用紙を凝視したまま身動き一つしない。瞬きはおろか呼吸すら忘れているのではないかという程に、愛奈の”時”は止まっているように見えた。
「愛奈……中、見ないの?」
 どうやら妹の言葉すらも届いていないらしい。どうやらこれまた自分が思っていた以上に愛奈にとっては”お宝”だったということだろうか。
 五分待っても十分待っても動き出さない愛奈に飽きて、優巳は一足先に母屋の方に戻ることにした。途中、振り返って見た姉の背中がひどく小さく――まるで幼子かなにかのように――見えた。


「…………あのね、優巳。怒らないで聞いて欲しいんだけど……」
 愛奈の部屋へと戻った優巳が”治療後の眠気”にうつらうつらしていた時、不意に姉の声が耳に飛び込んできた。一体どれほど時間が経ったのか、外はもう夕暮れ時で、障子戸の側に立つ愛奈の姿にも影が濃い。
「この手紙って……これだけだった?」
「どういうこと?」
「ごめんね。優巳を疑ってるわけじゃないんだけど……ほら、優巳にそのつもりがなくっても、本当は二枚あるのに、一枚ポケットに残ったまんまだったりしないかな、って思って……」
「ううん、ヒーくんがくれたのはそれ一枚だけだよ」
 ほら、と優巳は上着のポケットの生地をつまみ出し、何も入ってないと見せる。――瞬間、まるで分厚い雲が太陽を遮るように、愛奈の表情が露骨に曇った。
……でもこれ、優巳のことしか書いてない………………
 そう、メモに書かれていた文言については優巳も知っている。メモにはいかにも”仕方なく書いた”と言わんばかりの雑な文字でただ一言『優巳姉を叱らないでやってくれ』とだけ書かれていたのだ。
……………………ヒーくん、私のこと、何か言ってなかった?
 消え入りそうな声で、尚諦めきれないとばかりに食い下がってくる愛奈はおよそ、自分と同い年の――少なくとも成人した女性には見えなかった。
「えっと……”ちゃんとした手紙書けなくてごめん。連絡とったことがバレたら姉ちゃんに怒られるから……”って言ってたかな」
 今にも泣き出しそうな顔の姉に、優巳は心臓が握りつぶされるような苦しさを覚えた。ほとんど反射的にそんな”作り話”を口にしてしまっていた。
「…………そっか。やっぱり”そう”なんだ」
 ふふと、愛奈が自嘲気味に笑う。
「あのヒトブタ、まだ邪魔してるんだ」
 呟くその身から立ち上るのはどす黒い気炎。優巳の目には、まるで姉の周りだけ空間が歪んでいるようにすら見える。
(…………しまった)
 まずい方向に話を振ってしまったと、優巳は内心舌打ちする。この流れではまず間違い無く「霧亜を排除しろ」という命令が下されるだろう。
(…………なんか今は、そういう気分じゃないから……やりたくないな)
 あれほど屈辱的な真似をさせられたのだ。月彦に対して恨みは溜まっているし、その月彦を苦しませる為の報復方法として入院中の霧亜を傷つけるというのは極めて有効な手段だ。――が、どういうわけかいつものように心が奮い立たず、わくわくもしない。
 ”手紙”のおかげで九死に一生を得た――からではない。そもそも元を正せば愛奈にはた迷惑なミッションを命じられるのも全て月彦のせいなのだ。だから、月彦が黒須優巳の為に心を砕くのは当たり前のだし、そんなことで恩を感じるなどありえない。
「………………。」
 無意識に、下腹の辺りへと右手を宛がう。まるで、そこに注ぎ込まれた”熱”の残滓を探すかのようなその手つきに、優巳は小さく首を振る。月彦に抱かれることで情が移ったとでもいうのだろうか。それこそありえない。およそ年上を敬うということを知らない、人の体を胴の長いネコのようだとあざ笑う男に好意を抱くなどありえない。ましてや、”謝罪フェラ”などという非人道的な行いを強要してくる頭のイカれた男にレイプされたからといって、何故復讐を躊躇わなければならないのか。
 ……しかし、心が奮い立たない。優巳は恐々としながら、姉を見る。わなわなと全身を怒りに震わせ、もはや”殺すかどうか”ではなく”どう殺せば、より苦しませることが出来るか”という段階での思案がまとまり次第、命令が下ることを優巳は確信していた。そしてそれは、実行できなければそっくりそのまま自分の身に降りかかるであろうことも。
 ――しかし、次の瞬間。優巳は我が目を疑った。怒りに――否、もはや殺意と呼ぶにふさわしいそれに全身を震わせていた愛奈が、不意に小さなメモ用紙を開いたかと思えば、にへらと笑みを零したのだから。
「……でも、あのヒトブタの目をかいくぐって、ヒーくんが私のために書いてくれた手紙なんだよね。本当にありがとう、優巳。これ、宝物だよ」
 ”それ”は、優巳の知る限りおよそありえないことだった。”あの愛奈”が。”あの状態”から、誰の血も見ることなく平常心を取り戻すことなど優巳の知る限り前例の無いことだ。
(……”そこまで”なの?)
 にやにやとしまりのない顔をした姉を目の当たりにしながら、優巳は心がザワつくのを感じていた。同時に、何故自分が紺崎姉弟を――特に弟の方を目障りだと感じるのか。その根源的な理由を思い出した。
 月彦が現れるまでは、愛奈の――姉の”一番”は自分だった。双子の妹のことを、何よりも優先し、大事にしてくれていたのだ。
 それが今や、妹の涙ながらの懇願よりも月彦が書き殴った粗末なメモ一枚に感激し、普段であれば大暴れをして一部屋まるごと潰してしまいかねないほどの怒りすらも簡単に治めてしまう。
 だからイラつくのだと、優巳は納得した。月彦の事が嫌いだと感じるのはチョロ過ぎるからでも、お坊ちゃん育ちの甘ちゃんだからでもない。
 ”自分の場所”をかすめ取った男だからなのだ。
「………………ねえ、愛奈」
 心が、黒いもので満ちるのを感じる。でれでれと緩みきった顔で何度も何度もメモの切れ端を読み返している姉にも”この気分”を伝えてやりたいと思う。
「私が言うのも変なんだけどさ。そのメモの切れ端がヒーくんからの手紙だって、よく信じたよね。私だったら絶対信じないよ」
「えっ、だってこれヒーくんの字だよ?」
 予想外の即答だった。愛奈は気分を害するどころか、むしろ得意げな顔で優巳の側までにじり寄ると、メモの切れ端を広げながら文章を指さす。
「ほら、これは絶対ヒーくんの字だよ。だって、ヒーくんにひらがなの”を”の書き方を教えたのは私なんだよ? この”を”を見た途端、懐かしくて涙出そうになっちゃったよ」
「……そう、かな。別に特徴もなにもない”を”だと思うけど……」
 優巳自身、自分が何を言っているのか分からなくなり始めていた。そもそも、この手紙がニセモノだと愛奈が判断すればより苛烈な”お仕置き”をされるのは火を見るよりも明らかであるはずなのに。
「本当は私が嘘ついて、ヒーくんの字をマネして書いただけかもしれないよ?」
「無理だよ。優巳にそんな器用な真似できるわけないじゃない」
「私、だって……」
「くどいよ優巳。今回の事はヒーくんに免じて全部許してあげるって言ってるじゃない。蒸し返したいの?」」
 さすがにうんざりだと言わんばかりに言い残して、愛奈はさっさと部屋から出て行ってしまう。おそらくは何処か人気の無い部屋に移動して、飽きもせず”ヒーくんからの手紙”を眺めてニヤニヤするつもりなのだろう。
「……………………。」
 部屋に一人残された優巳は後を追うことも出来ず、呆然と呆けていた。そう、許された――文字通り、不問に付されたのだ。
 あんな紙切れ一枚で、あれほどに思い悩んだ無理難題が片付いてしまった。あんなに楽しみにしていた赤ん坊の事すらも、”何故失敗したのか?”すら問われなかった。
(やっぱり――)
 赤ん坊が欲しいというのは、そもそもフェイクだったのだろうか。最初から妹を嬲る為だけのつもりで出来そうもない無理難題をふっかけただけだったのだろうか。しかし実際に愛奈はベビー服を両手に持った写真を送ってきたし、屋敷を訪ねたときは地蔵を抱いて赤子をあやす練習までしていた。
 やはり、ただ妹を嬲って楽しむ為だけだったとは思えない。少なくとも愛奈は本気で、月彦との赤ん坊が手に入ると期待していたのだ。
 ”だったら”――優巳にはどうしても解らない事がある。
(だったらなんで……妊娠、してなかったの?)
 愛奈の言葉が本当ならば、愛奈の”処置”が正しく行われていたのならば、あの暴漢の子供を身ごもっていた筈だ。しかし、月彦に手紙を書かせた後、一応検査はしたほうがいいと言われて渋々行った結果は”陰性”だった。
(どうして……)
 愛奈が嘘をついたのか、それとも暴漢がたまたま種なしだったのか、それとも――。
「…………っ……」
 不意に訪れた頭痛と吐き気。心なしか、先ほど治してもらった喉と足のほうも痛みがぶり返しているような気さえする。
 何故、どうして――もはや尋ねる相手の居ない問いに苛まれながら、優巳はほとんど昏倒するように横になり、そのまま目を閉じた。


 




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