「はぁぁ〜…………いい湯ねえ、紺崎くん」
「そうですね。ちょっと熱すぎるくらいですけど、外気が冷たいからそれで丁度いいっていうか……」
 それとなく、周りを見回す。もうもうと立ちこめる湯気。はらはらと舞う粉雪。木の枝や大岩の上に積もったままの雪も、全てが風情がある。
「やっぱり、冬は温泉よねえ。ホント、もっと早くに来るんだったわ」
「はは……そうですね」
 確かに雪乃の言う通り、“冬の温泉”は最高の観光地の一つだと頷かざるを得ない。
(…………先生には言えないけど、今年に入ってからだけでも何度か温泉には入ってるんだよな……)
 先生には言えないけど、と再度念じるように胸の内で呟く。体の力を抜き、背後の岩へともたれ掛かる。
「でも、大丈夫なんですかね……」
「大丈夫って?」
「いやほら、人目とか……」
 月彦は周囲の竹垣へと目を向け、最後に脱衣所の方へと視線を向ける。湯気のせいで相変わらず視界は良くないが、今のところ他の客が入ってくる気配はない。
「大丈夫よ。お姉ちゃん達がスキーしに行ったのは確認済みだし、駐車場だって私たちの車しか駐まってなかったでしょ?」
 だから、もうちょっとくっつこ?――そう言うかのように、雪乃がぴったりと肩を合わせてくる。
「せ、先生……その、あんまりくっつかれると……」
「くっつかれると?」
 雪乃の方をわざわざ見なくても、笑いを噛み殺しているのが分かるような、そんな声。
月彦も、そしてもちろん雪乃も全裸であり、それでいてどこかの自宅備え付けの温泉のように濁り湯というわけでもないから、うっかり視線を向けてしまえばそれだけで――。
「紺崎くんが見たいなら、好きなだけ見てもいいのよ?」
「そりゃ……み、見てもいいなら……俺だって見たい、ですけど……」
 ぐぎぎと。意思に反して勝手に雪乃の裸を視界に捉えようとする眼球を封じるように、月彦は頑ななまでにそっぽを向き続ける。
(み、見ちゃったら我慢できなくなりそうだから、見れないんですよ!)
 と、口に出して言えたらどんなに良いか。もっとも、それで雪乃が離れてくれるのだったら言う価値もあるのだが、月彦にはまったく逆の未来しか想像できないのだった。
「ひょっとして……“見ちゃったら我慢できなくなりそうだから”ってコトかしら?」
「!」
 心を読まれたような一言に、思わず雪乃の方を向こうとするよりも先に、むにゅうっ、と。背中に柔らかい塊が押しつけられる。
「嬉しい!」
 さらに、雪乃の両手が回され、そのまま抱きしめられる。
「ちょっ……せ、先生!?」
「紺崎くんに“そういう対象”として見られるの、すっごく嬉しい。それだけでドキドキしちゃう」
 右肩のすぐ後ろに、雪乃の口がある。声は微かに震え、どこか甘えるような響きがある。
「ねえ、ほら……ドキドキしてるの、分かる?」
 ぎゅううっ、と雪乃がさらにおっぱいを押し当ててくる。
「す、すみません……さすがに、ちょっと……」
 おっぱいという脂肪の壁に阻まれて伝わりません――そんな言葉が、生唾と共に嚥下される。
「もうっ! そこは嘘でも“分かる”って言うところでしょ?」
 雪乃が抱擁をとき、僅かに体を離す。しかし今度は月彦の腕を掴み、えいやとばかりにその手のひらを自分の左胸へと押し当てる。
「せ、先生……うぁ……」
「どう? さすがにこれなら分かるでしょ?」
 もちろん、背中だろうが手のひらだろうが結果は変わらない。そこにはただただたわわなおっぱいの感触があるだけだ。
「あんっ」
 くすぐったそうな、それでいてなんとも甘ったるい声。ちゃぷんと水面を波立たせながら、雪乃は大げさに身じろぎをし、鼻にかかった声を上げ続ける。そこで初めて、月彦はただおっぱいに宛がっているだけだった筈の手が、もみゅもみゅと力任せに捏ね始めているという事実に気がついた。
「ンぅ……どう? 紺崎くん」
「え……っと……はい、すごく、伝わってきます」
「そうじゃなくて」
 苦笑。舌なめずり。目が、艶めかしく踊る雪乃の唇へと吸い寄せられる。
「エッチしたくなってきた? っていう意味で訊いたんだけど?」
「んなっ……わ、分からないですよそんなの! “どう?”だけでそこまで察するなんて……」
 今の今まで“ドキドキが伝わるかどうか”の話だったではないかと憤慨しながらも、月彦は雪乃のおっぱいを揉む手を止められない。
「そういうの、今はいいから。……ンッ…………ねえ、どうなの?」
「…………俺よりも、先生の方こそどうなんですか? 随分息が荒くなってきてるみたいですけど」
 事実、息を弾ませながら色っぽく喘ぎ続ける雪乃の姿に、月彦の方もいっぱいいっぱいだったりする。だからこその強がりなのだが、もちろん揉む手は止まらない。
「ンっ……んっ……いいから、訊かれたことに早く……あんっ…………こ、答えるまで、おっぱいはおあずけ!」
「ああぁ!」
 手首を掴まれ、強引におっぱいから引きはがされる。月彦は思わず、母牛から引き離される子牛のような悲鳴を漏らしてしまう。
「ほら、何か言うことは?」
「…………おっぱいに触らせてくれたら考えます」
「もぉ! 本気で怒るわよ!?」
 ざばぁと、雪乃は突如立ち上がるや、月彦の両足を跨ぐようにして座り込んでしまう。
「ちょっ……先生!?」
 がっしりと、雪乃の両足で腰を固定され、そのまま腰を落とされてはもはや逃げることも立ち上がることも出来ない。それでいて、目の前には水滴を滴らせる、たわわな巨乳が――
「ほら、紺崎くん?」
 ずいと、雪乃はさらに前屈みになろうとして――“何か”に気づいたようにハッと身を竦めた。
「ま、マズイですって、先生! そんな所に密着されたら――」
 うっかり“入ってしまう”かもしれない。何故ならもう、水面から先端が覗いてしまうのではないかと危惧してしまう程に、ガッチガチのギンギンなのだから。
「ふぅん……平気そうな顔してたクセに。紺崎くんってばポーカーフェイスが上手なのね」
 ニヤけ顔を噛み殺したような、ジト目。
「……別に平気そうな顔はしてなかったと思いますけど――はう!?」
 湯の中で、唐突に剛直が雪乃に握られる。
「ねえ……コレ、挿れたいんでしょ?」
「ちょ、ちょっ……先生、そんなに強く握らないでくださっっ……くぁ……」
 雪乃の左手は竿に、右手は先端を押さえつけるような形で、ぐいぐいと体重をかけられる。さらに、根元近くには“雪乃”の感触が――
「いいのよ? 紺崎くんがシたいなら。…………だけどその前に、ね?」
 ここまで来れば、さすがに月彦にも分かる。雪乃は、紺崎月彦の口から、直に自分を求める言葉を聞きたくて堪らないのだ。
「ねえ、もぉいいでしょ? いい加減にしないとココ抓っちゃうんだから。…………紺崎くん、お願い……焦らさないでェ……」
「……たい、です」
「なぁに? 聞こえない。ちゃんとほら、聞こえるように言って」
「せ、先生とシたい! 先生と、エッチ……したい、です!」
「…………! ……ンッッ………………!」
 ゾクゾクゾクッ――!
 密着している月彦にも、その“ゾクゾク”が伝わってくるかのようだった。雪乃は肩を抱きながら仰け反り、身震いする。そして大きく天を仰いだまま「はぁぁ……」と色っぽくため息をつく。
「エッチ……したい……私も、紺崎くん、と……」
 そしてとろんと蕩けた目で月彦を見下ろしながら。どこか譫言の様に呟く。呟きながら、雪乃は自ら腰を上げ――
「ンぁっ……!」
 既にトロトロになってしまっている秘裂の入り口へと剛直の先端を宛がい、
「ハァ……ハァ……ハァ…………ンッ………………ンンンっ…………!」
「うっ……おぁ…………せ、先生のナカ…………っっくぁぁぁ…………!」
 一気に腰を落とした瞬間、月彦もまた思わず声を上げてしまう。温泉で暖められたせいなのか、はたまた雪乃自身の興奮によるものか。いつになく膣内の温度は高く、まるで歓迎するように肉襞に絡みつかれ、月彦は早くも射精を堪える準備をしなければならなかった。
「ああぁ……! いいぃ……! すっっっっっっっごく良いっ……紺崎くんの……気持ちいい…………!」
「せ、先生の、ナカ、も……すごく、うねってて……熱く、て…………」
 はぁはぁと息を荒げながら、月彦は思わず両手で雪乃の尻を掴み、肉付きを愉しむように捏ね始めていた。雪乃もまたそんな愛撫にくすぐったそうに声を上げながら、少しずつ腰を前後させ始める――。
「あんっ、あんっ……シたかった……ずっと、紺崎くんとエッチしたかったのぉ…………あっ、あっ、あっ……!」
「っ……さ、散々俺に“エッチしたい”って言わせようとしてたくせに……せ、先生の方が…………ぅっ……」
「だってっ……ずっと、我慢っ…………あんっ! あんっ……紺崎くん……好きっ……好きよ……好き……好き……!」
 腰をくねらせながら、雪乃が被さるように密着してきて、そのままキスの雨を降らされる。
「好き……好き……好きっ……あんっ! 好きっ……好きっ……!」
「せっ、先生……ちょっ……激しっ……それに、声も……!」
 ざっぷざっぷと水面を波立たせながら声を荒げる雪乃に気圧されながらも、腰が振られる度に与えられる快楽の凄まじさに、月彦は苦言以上の抵抗が出来ない。
「アァァ!……良いっ…………コレっ……すっごく良いのぉ…………あぁんっ………あんっ、あんっ………ダメっ……ずっと我慢してたから……感じ過ぎちゃうっ! いっ……イッちゃう…………イクッ……イクッ……!」
 雪乃が一際高い声を上げ始めた――その時だった。
「おーーーーーーーい! ゆっきのー! 居るんでしょーーーーーー!?」
 突然、ガラガラと脱衣所の戸が開く音と共に響いたその声に、雪乃も、そして月彦も同時に反応した。
「おっ、お姉ちゃん!?」
「矢紗美さん!?」


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十一話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 




「……くん! 紺崎くんってば!」
「へ……? あっ、先生……どうかしましたか?」
「それはこっちのセリフ。一体全体どうしちゃったの?」
「……何か変ですか?」
「何か、って……何もかもよ」
 雪乃が呆れ気味にため息をつく。
「………………もしかして、お弁当、美味しくない?」
「いえ、そんなことはないですよ。好きなおかずばかりですし」
「でも、全然減ってないみたいだけど」
 言われて、月彦は手元に目を落とす。確かに雪乃の言う通り、そこにある弁当は8割以上手つかずのままだ。慌ててアスパラガスのベーコン巻きを摘み上げ、口をつけようとして――。
(うっ……)
 謎の満腹感――というよりは、非空腹感とでもいうべきか――により、月彦は開きかけた唇を閉じる。
(…………ダメだ、無理にでも食わないと……折角先生が作ってきてくれたんだから)
 今日は、週に一度の雪乃との会食の日だ。いつものように生徒指導室にこっそりと集い、雪乃手製の弁当を適度に褒めながら無難に過ごす――筈が。
「………………すみません。お弁当はすごく美味しいんですけど……今日はちょっと食欲がなくて」
「むー…………。まぁ、食欲が無いのに無理に食べろとは言えないけど……紺崎くんひょっとして具合が悪いんじゃないの? 熱、計ってみる?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと食欲がないだけで、それ以外は至って普通ですから」
「って言うけど……よく見ると顔色も悪いし、なんだかちょっと痩せたんじゃない? もしかして何日も食欲ないの?」
「何日もっていうか……」
 正直に答えれば、それだけで心配をかけてしまう気がして、月彦は言葉を濁さざるを得ない。
(ていうか、本当にちょっと食欲がないだけなんだけど……)
 雪乃には言えない。絶対に言えないが、月彦には何故自分の顔色が悪く、げっそりとしているのか、その理由を知っている。
(…………真央のサービスが……ヤバい)
 自分ではいつも通りに振る舞っているつもりだが、やはり“いつもと違う”というのは伝わってしまうのだろう。何があったのかを無理には聞かず、“体”で元気づけようとする真央の気持ちは嬉しいのだが……。
(…………“そんな気分じゃない”なんて、言う隙が無いもんな)
 勃たぬなら、勃たせてみせようホトトギス――そんなくだらない俳句が頭に浮かんでしまうのも、やはり“いつもと違う”が故なのか。とにもかくにも、真央がその母譲りの巨乳を服越しにすり当てるように身を寄せ、ほんのりと甘い匂いすら漂ってくる囁きで耳元を擽られるとそれだけでベルトやらズボンやらの金具をはじき飛ばさんばかりの勢いで体が反応してしまうのだ。そして一度そうなってしまってはもう、真央を押し倒して服をまくし上げ、たわわに実った巨乳を揉みくちゃにせずにはいられず、舐めずにはいられず、吸わずにはいられなくなる。真央の擽ったそうな声がこれまた下半身に響き、その黄色い声を悲鳴じみた嬌声に変えてやりたくてたまらなくなる。
 結果、食うものもろくに食ってないのに、毎晩毎晩搾精だけはしっかりされつづけている。まるで悠長な死刑でも受けているような状況だが、このままでは死んでしまうという危機感よりも遙かに一生懸命誘惑をしてくる真央が可愛くて堪らないという気持ちのほうが遙かに大きいのだから、月彦としても困ったものだった。
「……ねえ、紺崎くん。何か悩みでもあるなら相談に乗るわよ?」
「大丈夫です。ほんと、なんでもないですから」
 むーっ、と雪乃が唸る。そんな顔をされても、絶対に言うわけにはいかない。顔色が悪くげっそりとしているのは実の娘に毎晩搾精されているからで、今ひとつ元気がないように見えるのは仲の良かった後輩を知人のイケメンに取られ、結果フラれてしまったからだなどと、言えるわけがない。
「………………気のせいかしら」
 独り言のように言って、雪乃は両手を前に出す。丁度、見えない壁にでも手のひらを宛がうかのように。
「ここにね、壁があるような気がするの。それとも溝かしら……………………ううん、やっぱり壁ね」
「どういう意味ですか?」
「なんか、紺崎くんとの距離を感じるっていうか………………ねえ、本当にどうしちゃったの?」
「いや、ですから本当にどうもしてないんですって。少なくとも先生には全く関係がないことですから」
「むーー………………」
 これ以上追求しても“真相”は聞き出せないと思ったのか、雪乃が唸ったきり口を噤んでしまう。結局その日はそのままお開きとなり、食べかけの弁当箱は月彦が持って帰って後日洗って返すことにした。
(うーん…………先生にまで心配かけるようじゃホントダメだな。…………いい加減切り替えないと)
 由梨子を失ったダメージは思いの外大きい――まだ中身の詰まったままの弁当箱をいつになく重く感じながら、月彦はとぼとぼと教室に戻るのだった。



「…………っていうことがあったんだけど、お姉ちゃん何かわからない?」
「事前連絡も無しにいきなり上がり込んできたと思ったら……」
 ため息混じりにプルタブを開け、矢紗美がぐいと缶ビールを呷る。一本目――ではない。すでにテーブルの上には矢紗美が開けたものと説明をしながら雪乃が飲んだものとで合わせて5つの空き缶が転がっていた。
「要するに、紺崎クンが落ち込んでるみたいで、その理由を教えてくれないってコトでしょ?」
「そう! おかしいと思わない? 普通真っ先に私に相談するべきなのに、なんにも教えてくれないのよ!?」
 教師で、しかも恋人なのにと肩を怒らせながら雪乃は憤慨する。そんな妹に対して矢紗美は口を開きかけるも、結局何も言わずに缶ビールを口元へと戻し、ぐびりと煽る。
「……ま、そんな気に病むことも無いんじゃない? 紺崎クンだって色々あるわよ」
「だからその“いろいろ”を私に相談すべきなんじゃないの?っていう話をしてるの!」
 さっきから話が堂々巡りだと、苛立ちをぶつけるように雪乃は一気に缶ビールの中身を飲み干し、ぐしゃりと握りつぶす。。
「あぁん、もぉ……何なのよぉ…………今日も折角二人きりだったのに、紺崎くんが元気ないからなーんにも出来なかったし……」
「二人きりなのに、なーんにもされないのが不満なのね、雪乃は」
「別にお姉ちゃんが考えてるみたいないやらしい意味じゃなくて……なんていうか……肩をくっつけて座ったり、ぎゅーって抱きしめ合ったり、キスしたりとか…………それくらいしてくれたって良いじゃない」
 雪乃は愚痴を零しながら炬燵から這い出し、台所へと向かう。
 ――が。
「今日はビールしか無いわよ。急に来るんだもの」
 言わずとも雪乃の行動を読んだ矢紗美に先手を打たれる。その言葉を鵜呑みにせず、雪乃は普段矢紗美が酒を収納している戸棚や流しの下、はては冷蔵庫まで確認したが、確かに矢紗美の言う通りビールしか見つけることが出来なかった。
「もぉー……なんで切らしてるのよぉ……ビールだけじゃ全然酔えないじゃない」
 ぶうぶう言いながらも雪乃は冷蔵庫からさらに缶ビールを4つと、つまみ用のカマンベールチーズやらカルパスやらを抱えて炬燵へと戻る。今日は仕事が終わってそのまま矢紗美のマンションを訪ねたため、夕飯もまだなのだ。
「あのねえ、雪乃。結局あんたは紺崎クンがどうしてくれたら満足なの?」
「どう……って?」
「だから、紺崎クンに不満があるから、わざわざうちまで来て愚痴を言いに来たんでしょ。あんたの希望は何? って訊いてるの」
「そりゃあ……上げればキリがないけど…………」
 ぽう、と。頬の辺りに酒気のせいではない熱を感じる。恐らく顔も赤くなっているのだろうが、構わずに雪乃は口を開く。
「別に、もっとお泊まりして欲しいとか、デートしたいとか、そんな贅沢は言わないけど……ただ、もうちょっと“あぁ、紺崎くんは私のこと本当に好きなんだ”っていう実感が欲しいっていうか…………心が満たされたいっていうか――」
「めんどくさっ!」
 しかし雪乃の呟きにも似た“願望”は、姉の叫ぶような大声に一刀両断にされた。
「め、めんどくさいって何よ! いいじゃない! それくらい普通でしょ!?」
「…………自覚が無いなら処置無しね。つまりあんたは、紺崎クンがしょげてることよりも、自分がいい気持ちになりたいってのの方が優先なワケね?」
「そういう意味じゃ…………そりゃあ、紺崎くんが元気無い理由も気になるけど…………紺崎くんの悩みを解決してあげつつ、イチャイチャもできればなぁって……」
「あーもー……なんだか私まであんたの相手するのがめんどくさくなってきちゃった。じゃあさ、もういっそ別れちゃったら?」
「…………なんで?」
「なんでって……紺崎クンに不満があるんでしょ? だったらさっさと捨てて、新しい彼氏見つければ良いじゃない」
「………………あのね、お姉ちゃん。普通はそんな風には考えないものなの! 私と紺崎くんは運命の二人なんだから、そんな風に軽々しく別れるとかありえないの!」
 ブフーッ!――そんな音を立てながら矢紗美が噴き出し、そのままゲラゲラと笑い出す。
「な、なにそれぇ……う、う、う、運命の二人って……雪乃あんた…………そんなこと思ってたの?」
「う…………そ、そんなに笑わなくても良いじゃない! ふん! お姉ちゃんには分からないわよ! 私と紺崎くんって、相性ばっちりなんだから」
 そう、相性はばっちりなのだ。――雪乃の脳裏に、月彦との“思い出”がめくるめく蘇る。何故かその大半が月彦とのセックスの記憶ばかりなのが少々引っかかるが、とにもかくにも相性が良いことには変わりはない。
(……そうよ。紺崎くんと相性がばっちりだから……セックスだって……)
 うずっ……。月彦とのことを思い出すだけで下腹部の辺りが疼き、呼吸が乱れそうになる。最初の頃は、少なくともこんなことは無かった。セックスの回数を重ねる毎に感度が増し、徐々に徐々に“そういう風”になってしまったのだ。
(…………紺崎くんのことを考えた時しか、そういう風にならないんだから)
 仮にテレビや映画を見ていて、思わずうっとりとしてしまうようなソフトマッチョのイケメン俳優などが出ていたとしても、“そういう風”にはならない。ましてや、抱かれたいなどとは微塵も思わない。
(……そういえば、最後に紺崎くんとシたのはいつかしら…………もう、随分……)
 まるで、その残滓を追い求めるように雪乃は“全身”で最後のセックスを追憶する。背後から力一杯抱きしめられた時の、息がつまるほどの圧迫感。キスの時に啜るようにして嚥下した唾液の味。体をまさぐる手の感触。ぐにぐにと尻を揉まれたときのゾクゾクとした快感。
(うーっ……もぉ…………紺崎くんのほうが男なんだから……絶対、我慢なんか出来ない筈なのに……)
 下半身を刺し貫く、硬く太い肉の槍の感触。先端部でぐりぐりと子宮口を擽るように突き上げられると、それだけで雪乃は腰砕けになり、あられもない声を上げてしまう。その津波のような快楽の前には、教師という立場も、倫理観もなにもかもが容易く押し流されてしまうのだ。
(…………そうよ。だから、紺崎くん……いっつも……生でシたい、中で出したい、って……)
 雪乃は考える。“アレ”も一種の男としての本能のようなものではないのだろうか。月彦の方も、雛森雪乃を生涯のパートナーと認め、本能的な衝動で孕ませようとせずにはいられないのではないか。
(…………やだっ……私、紺崎くんにそこまで想われてたの…………?)
 雪乃は知っている。普段の紺崎月彦はどちらかといえばおとなしめであり、遠慮がちであり、思慮深い性格であると。しかし、そんな月彦が豹変せざるをえない程に、“雛森雪乃の体”にメロメロになってしまっているのだとしたら――。
「…………ぐふ、ぐふふっ……」
「ちょおっとぉ……もしもーし、雪乃さーん。涎垂れてますけどぉー?」
 あきれかえったような姉の声に、雪乃はたちまちピンク色の妄想世界から引き戻された。
「急に黙り込んでなーに考えてたか知らないけど…………あんたの言う相性ってまさか“体の相性”じゃあないわよね?」
 うぐと、雪乃は顔を赤らめたまま言葉を詰まらせる。矢紗美はたちまち吹き出し、テーブルをばんばん叩きながら大声で笑い出す。
「何よ! 別に良いでしょ!? 紺崎くんとするとすっっっっっっっっっっっっっっごく気持ち良くって、紺崎くんの方もすっごく気持ちいいって、何回も何回もシたがるんだから!」
「おーおー、言うじゃない。雪乃、実はあんたけっこう酔ってるでしょ? さすがに素面じゃそんなコト言わないもんね。……つまり、あんたはこう言いたいわけだ。紺崎クンとは体の相性がばっちりだから別れたくないって」
「か、体だけなんて言ってないでしょ!? 体の相性も良いけど、“それ以外”もばっちりなの! 私たちは!」
「どうかしら。そう思ってるのはあんただけだったりして」
「そんなコトない! 紺崎くんだって同じ風に思ってる………………筈よ!」
「そこまで言うならさ、雪乃。一つ試してみない?」
「試す…………って? まさか…………お姉ちゃん!」
 獲物を狙うヘビのような姉の目に、雪乃はハッと背筋を冷やす。矢紗美はそのまま頬杖をつき、挑発するように意地の悪い笑みを浮かべる。
「そ。私が紺崎クンを誘惑して、紺崎クンが乗って来るかどうか試すの。…………面白いと思わない?」


「じょ――」
 大声を上げようとして、雪乃は喉を詰まらせる。けほけほと軽く噎せてから。
「冗談言わないでよ! なんでそんなバカなことしなきゃいけないの!?」
「そんなにバカなことかしら」
 意外にも矢紗美は真面目くさった顔で見据えてくる。
「“恋人”の気持ちをきちんと確かめるっていうのは、大事なことだと思うけど」
「それは――……でも、だからって――」
「それに、あんたもさっき言ってたじゃない。“あぁ、紺崎くんは本当に私のこと好きなんだ”って実感が欲しいって。それって――」
 矢紗美がぐいと缶ビールを呷り、飲み干した後、ターンッと小気味の良い音を立ててテーブルに叩きつける。
「こっそり見ているあんたの目の前で、紺崎クンが私の誘惑を撥ね除けられたら、それこそ一番の実感になるんじゃない?」
「うっ……」
 たしかに――思わずそう頷いてしまいそうになる。矢紗美に誘惑されても、びしっと撥ね除ける月彦の姿を見ることが出来れば、これ以上無い“証明”になるのではないか――そんな“誘惑”が、沸々とわき起こるのを感じる。
「それとも、ひょっとして自信が無いのかしら?」
「な、何よ……何の自信よ!」
「そりゃあもちろん、私の誘惑に負けないくらい紺崎クンに想われてる自信よ」
「そんなの――」
 あるに決まっている――そう言おうとして、唇が止まる。果たして本当にそうなのだろうかと。
(ううん、紺崎くんとは間違い無く相思相愛なのよ。ただ――)
 そう、月彦に想われている自信はある。あるが、それ以上に雪乃には姉の手練手管が恐ろしいのだ。過去、“いい感じ”になった男子を悉く取られた経験が、侮ってはいけないとひっきりなしに半鐘を鳴らすのだ。
(それに、紺崎くんって……おっぱいに弱いし……)
 雪乃はちらりと、姉の胸元へと視線を向ける。身長こそ決して高いとは言えないが、そこには月彦を誘惑するには十分な量のおっぱいがあるように思える。女である雪乃には、一体全体月彦がおっぱいのどこにそんなに心を乱されるのかは理解しにくいが、自分の胸元に対する月彦の執着の仕方、愛撫の仕方を思い出すに、やはり“大きさ”は重要なポジションを締めているように感じられるのだ。
「ほらほら、どーするの雪乃。大丈夫だって、紺崎クンが本当にあんたのこと好きなら、私がどれだけ誘惑しても絶対にオチないから。……見たいでしょ? 紺崎クンが“やめてください、俺は先生を裏切りたくありません”って言うト・コ・ロ♪」
「ううう……」
 見たいかと言われれば、見たい。もしそんなシーンを目撃してしまったら、嬉しさのあまり頭がおかしくなってしまうかもしれない。想像するだけで全身が熱く火照り、下腹部が疼き出すほどの甘美な妄想に、雪乃は心が大きく揺れ動くのを感じる。
(見たい……見たい、けど……もし――)
 そこで月彦が姉の誘惑に屈してしまった場合、一体どうすれば良いのか。慌てて物陰から飛び出して、月彦に罵声を浴びせるのか。
(…………“失敗”したら、もう……絶対元になんて戻れない)
 それが怖い。月彦ならば十中八九――否、100のうち99は誘惑を撥ね除けてくれると信じてはいるが、残りの1を引いてしまった場合のことを思えば、軽々に踏み切れるギャンブルではない。
「んー? そんなに迷うってコトは、やっぱ自信が無いのカナー?」
 残り少なくなった缶ビールをちゃぷちゃぷと音を立てて揺らしながら、小首を傾げて矢紗美が煽ってくる。。
 グッと、雪乃は歯を食いしばり、その“煽り”に耐えた。
「……生憎だけど、その手には乗らないわ、お姉ちゃん」
「あっ、やっぱり自信が無いんだ?」
「自信はあるわよ? だからってそんな紺崎くんを試すようなコトをしたくないだけなの」
「あれー? でもこないだ浮気を疑ってなかったっけ?」
「あ……あれは……べ、別に疑ってたわけじゃなくって……お、お姉ちゃんに紺崎くんを見せびらかしに来ただけよ!」
「ま、いいけど。……あんたにしては懸命な判断だと思うわよ? 私の見立てじゃあ、紺崎クンって隙多そうだし。多分ちょっと服脱いで、おっぱいぎゅーって押し当てながら誘えば、最初は抵抗するだろうけどその先は意外と簡単にいけちゃうんじゃないかなー?」
 矢紗美の言葉に、雪乃は心中で密かに震えた。何故ならそれは雪乃が想像した“こうされたら紺崎くんは誘惑に負けそう”というシチュエーションにそっくりだったからだ。
(…………お姉ちゃんくらいになると、“そういうの”も分かるようになるのかしら)
 男のオトし方とでも言うべきか。あまり胸を張って言えることではないが、それは雪乃にはさっぱり分からない類いの分野だ。最近になって漸く“紺崎月彦のオトし方”は分かるようにはなってきたが、それが他の男にも通用するとはあまり思えない。
「ところで、話は変わるけど」
 新しくビールのプルタブを開けながら、矢紗美がけろりと声のトーンまで変える。
「今度の三連休だけど、あんた何か予定ある?」
「………………一応ある、けど、何?」
「一応、ね」
 ふっ、と。まるで妹の拙い嘘を見透かすように矢紗美が鼻で笑う。たちまち、雪乃は両手をテーブルに叩きつけるようにして膝立ちになった。
「あるって言ったらあるの! 連休は紺崎くんと一緒に過ごす予定なんだから!」
「……雪乃さー、見栄張りたいのはわかるけど」
 やれやれと、矢紗美は首を振りながらため息をつく。
「あんたのことを良く知ってる矢紗美お姉ちゃんはこう思うわけ。“連休は紺崎くんとイチャイチャしまくり!”って楽しい楽しい予定のあるあんたが、平日に、わざわざ私の部屋に来てまで、紺崎クンの愚痴なんか言うワケない、って」
「なっ…………そっ…………!!!」
「ホントは一人さみしーく過ごす予定なんでしょ? ほら、白状しちゃいなさい。そしたら優しいお姉ちゃんがとびきりの情報を教えてあげるから」
「……………………とびきりの情報?」
「“ごめんなさい、見栄張って嘘ついてました”が先でしょ?」
「……っ……!」
「言わないなら教えてあーげない。あーあー、もったいないなぁ。コレってぜーーーったい紺崎クンも喜ぶのになぁ」
 ぐぬぬと、雪乃は歯ぎしりをする。確かに姉の言葉が本当であれば、それこそここは歯を食いしばって――もちろん月彦の為に――下手に出ることも厭わないのだが。
(…………酔っ払ったお姉ちゃんの言葉を真に受けて、何回酷い目にあったか……!)
 それこそ両手の指ですら数え切れない。“酔ってない時”の言葉で酷い目にあった数も合わせればそれこそキリがない程だ。
「ふぅーん、そーゆー態度とるんだ? じゃあ、今から言うのはただの独り言だから。勝手に聞くんじゃないわよ? ……………………ねー、雪乃、あんた黒骨温泉って聞いた事ある?」
 はぁ?――思わずそう口にしてしまいそうになる。独り言だから勝手に聞くなと言った側から質問してくるとは一体全体どういう料簡なのか。
 そんな雪乃の不満そうな顔が面白いのか、矢紗美は缶ビールに口づけをするように唇を寄せながら、くすくす嗤っている。
「………………聞いたことないけど……」
 そうだろう、とでも言いたげに矢紗美は大きく頷く。
「ま、知らないのも無理はないっていうか、私もつい最近知ったばかりなんだけどね。山奥の県境にあるマイナーな温泉なんだけど、後輩の子の実家がそこで旅館やっててさ。で、連休中泊まる予定だったツアー客がキャンセルになっちゃって、部屋がぽっかり空いちゃったらしいのよ」
「ちょっと待って、お姉ちゃん、それって……」
「ちゃんとキャンセル料払って貰ったから、そっちは別に構わないらしいんだけど、折角だから泊まりにこないかーって声かけられちゃってるのよねぇ。ほら、私結構面倒見良いし、いつもお世話になってますからーって。さすがにタダっていうのは向こうに悪いから、半額負担ってことにはしたんだけど、よくよく考えたら先約があってちょーっと予定的に厳しいのよねえ……ねえ雪乃。あんた、連休中暇な知り合いとか居ない?」
「はい! 暇よ、お姉ちゃん! 私と紺崎くんそろって暇!」
 この季節に温泉。しかも半額。それはもう、矜恃を押さえ込むには十分過ぎる言葉だった。
「ちなみに、すぐ近くにスキー場もあって、結構な“隠れ人気スポット”らしーわよ? お世話になってる先輩だからって先に声かけてもらっただけで、もし私が行かないって言えば、通常料金でもすーぐ埋まっちゃうような所なんだから」
「行く行く! 行きたい! なぁに? お姉ちゃん、肩を揉めばいいの? それともお酒買ってきて欲しい? 何でも言って!」
 二泊三日の温泉旅行。しかも半額。しかもスキーまで出来る。極めつけは――。
(……紺崎くんと一緒に温泉だなんて、最高じゃない!)
 むしろ、何故今までその発想が出来なかったのだろう。ただ家に呼んだりするよりも、何倍も、何倍もイチャイチャできるではないか。
(そうよ! 旅館なら家族風呂とかもあるかもしれないし……そしたら……)
 一面の雪景色の中、のんびりと露天風呂に浸かりながら、月彦に甘えたり、逆に甘えさせたり。想像するだけで体が熱く火照り、下腹部に甘い痺れすら走る“その未来”の為ならば、鼻持ちならない姉の機嫌をとるくらい何でも無かった。
「……手のひらクルックルね。あんた、そんなに温泉好きだったっけ?」
「好き! 大好き! だからねぇ、いいでしょ? お願い、お姉ちゃあん」
 矢紗美の背後に回るや、雪乃は両手で肩を揉みながら猫なで声で懇願を続ける。
「どーしよっかなー? 同僚にも行きたいって子いっぱい居たしなー」
「お願い! お姉ちゃん! いっしょーーーーのお願い! 何でもするから!」
「んもー、しょうがないなぁ。じゃあ、可愛い妹の為に一肌脱いであげる」
「ホント!? お姉ちゃん大好き!」
「こ、こら! 抱きつくな! 苦しっっ……!」
 抱きつくというよりは、殆どチョークスリーパーのような形でひとしきり喜びを表現した後、雪乃は漸くに矢紗美を開放した。
「こ……ンの……相変わらずの馬鹿力ね。殺されるかと思ったわよ」
「ごめんごめん、でもお姉ちゃんホントにありがと! 今までの人生通して初めてお姉ちゃんが居て良かったって思った!」
「生まれて初めて、ね」
 頬の辺りをヒクつかせる矢紗美に、雪乃は大きく何度も頷き返す。
「ま、いーけど。……じゃあ雪乃、行くって伝えていいのね?」
「もちろん! 例え大雪崩が起きて道が通行止めになっても絶対行くって伝えて!」
「あと、ちゃんと料金は半分持つのよ?」
「大丈夫よ! 給料日前だけど、そのくらいちゃんと払えるわ」
 どんと胸を叩きながら、雪乃は小首を傾げる。その言い方ではまるで、先方の旅館と宿泊費を折半するように聞こえてしまうではないか。
(…………私が現国教師だったら言葉が変って突っ込んでるところよ? お姉ちゃん)
 ふふんと鼻で笑いながら、雪乃はあえて突っ込まずに言葉を飲み込んだ。珍しく役に立つ情報をもってきた姉に免じて、そのくらいの些細なミスは見逃してやろうと。時間限定ではあるが、雛森雪乃は大海が如き広い心を手に入れていた。


「今日はありがとう、お姉ちゃん! お土産は期待してていいからね?」
「どーいたしまして。ちゃんと代行呼んで帰りなさいよ?」
 台所まで雪乃を見送り、ばたーんとドアが閉められる。耳を澄ませば、部屋の前の廊下を遠ざかって行く妹の鼻歌が聞こえてくるかのようだった。
「………………さて、と」
 口元に笑みを浮かべながら、矢紗美は携帯を手にとり、操作する。連絡帳から目当ての相手を選び出し、発信ボタンを押す。
「…………あっ、もしもし、レミちゃん? ごめんねー、こんな時間に。今大丈夫? うんうん、久しぶりだねぇ。ところでさ、急で悪いんだけど、今度の連休何か予定あったりする?」


「えっ…………温泉、旅行…………ですか?」
「そう! お姉ちゃんのツテでね、半額で泊まれるところがあるらしいの! だから今度の連休、紺崎くんも一緒にどうかしら?」
 昼休み。昨日持ち帰った弁当箱を洗って返しに行った矢先、殆ど拉致されるように資料室へと連れ込まれたかと思えば、突然の“お誘い”に月彦は完全に面食らっていた。
「そうそう、もちろんお金は全部私が出すから、“そういう心配”は一切いらないからね?」
 まるで“経済的な理由”での辞退など絶対に許さないとばかりの釘の刺し方に、もはや月彦はぐうの音も出ない。
「あ、もちろんノンもちゃんと預かってくれる人を見つけてるから、“そっちの心配”も無用よ?」
 “逃げ道”が悉く先回りして潰される。そんな気分だった。
(……一緒にどう?とは訊いてるけど、これってようは――)
 雪乃の全身に満ちあふれている“行きたいオーラ”の凄まじさに、月彦は眩しさを通り越して目眩すら覚える。まるで「断ったらコロスぞ?」とこめかみに銃口でも突きつけられているような気分だった。
(…………なんだかんだで、先生ってエネルギッシュだよなぁ。パワーが有り余ってるっていうか……)
 自分が今、著しく気力を損なっているから余計にそう感じるのだろうか。今の月彦には、雪乃から向けられる好意の波動それ自体が、まるで夏の日差しのように眩しく、そして熱量を伴っているように感じられる。
「ほら、紺崎くん最近元気ないみたいだし、そんな時こそ温泉にゆっくり浸かってリフレッシュするべきよ!」
「……はぁ」
「もぉーーーー“はぁ”じゃないでしょ! 温泉よ温泉! しかもスキーも出来るのよ?」
 はぁ、と口にしかけて、飲み込む。
(温泉……先生と、か)
 正直なところ、あまり気は進まない。これは雪乃がどうというよりも、紺崎月彦という人間に気力がないというのが問題のようだった。
(……いやでも、そんな時だからこそ、先生に引っ張って貰うのがアリなのかもしれない)
 何よりも、今の調子で連休を真央とガッツリ過ごした場合、果たして月曜日の朝日を見ることが出来るのだろうかという危惧もあった。毎晩毎晩(主に体を使って)元気づけようとしてくれるのは嬉しいが、さすがにこれ以上は命にかかわりかねない。
「…………わかりました。確かに、温泉でリフレッシュするのはアリかもしれません」
「でしょでしょーーーー? 紺崎くんもやっぱりそう思うでしょ? だーいじょうぶ! 紺崎くんの元気ナイナイ病なんて、温泉でかるーく吹き飛んじゃうんだから!」
 ばんばんと肩やら背中やらを叩かれ、月彦はハハハと力ない笑みを浮かべることしかできない。
「それにね、温泉だけじゃなくってスキーも出来るらしいの! ………ちなみに、紺崎くんってスキーは滑れる方?」
「えーと……あんまり、ですかね。中学の頃の修学旅行で滑ったきりです」
 ぎらりと。雪乃の目が光ったような気がした。
「じゃあ、私が教えてあげる! 私、スキーは大得意なの! 昼はスキー、夜は温泉で三日間、たーーーーっぷり楽しみましょ?」
 するりと、雪乃の手が絡んで来たかと思えば、たちまちぎゅうーーーーっと抱きしめられる。微かな香水の香りが鼻先を擽ったと思った次の瞬間には
「えいっ」
 というかけ声と共に頭を抑えられ、鼻先をスーツの上から胸元へと埋めさせられる。
「……温泉についたら、今度は“服なし”で、ね?」
 ぼしょぼしょと色っぽく囁かれる言葉に、不覚にも下半身が反応しかけて、慌てて理性で押さえ込む。
(……この感じ、先生もけっこー“溜まってそう”だなぁ)
 ふんふんとスーツ生地越しに香水混じりの雪乃の体臭を嗅ぎながら、月彦は考える。果たして連休中、真央の相手をするのとムラムラしている雪乃と温泉に浸かりながらするのとでは、どちらが生き残る確率が高いだろうかと――。



 放課後、久々に霧亜の病室に顔を訪ねようと思ったのは、もちろんスキー旅行の件を話す為だった。由梨子に振られた後、かつてその由梨子を振った霧亜とは何となく顔を合わせづらく、見舞いを敬遠しがちであったということもあり、足取りは決して軽いとは言えなかったのだが。
(…………でも、姉ちゃんが危ないからよせ、って言うのなら、行くわけにはいかないしな)
 霧亜の入院も、元を正せば――月彦は今尚疑わしいと思っているが――スキーでの骨折が原因だ。故に、というわけではないが、なんとなく霧亜に話を通しておくのが筋のような気がするのだった。
(……でも、ほんと長いよな。優巳姉に突き落とされて再骨折してからもう随分たってんのに……)
 本当ならば、自分では無く霧亜が湯治にいくべきではないかと思う。それでなとも、骨折の治療だけならば無理に入院を続けなくとも自宅療養でも良いのではないかと。しかし霧亜は頑ななまでに退院も、そして転院も拒み続け、月彦にはそこが理解しがたく、だからこそいつまでも快方に向かわない姉の体が心配で仕方なかった。
(…………やっぱり、愛姉に怨まれてるから、なのかな)
 相談をもちかけたまみは一度は鼻で笑い、しかし本人に自責の念があれば話は変わってくると付け加えた。
(自責の念……罪悪感……まさか、な)
 あの姉に限ってそれはあり得ないと断言できる。ならばもう一つの可能性、それこそ人の分を越えるほどの凄まじい怨嗟によって心身を害されているのか。黒須愛奈の恐ろしさを身に染みている月彦としては、姉が罪悪感から体を壊しているという可能性よりもむしろそちらのほうが信憑性が高いと感じる。
(……もし、本当にそう、なら……)
 或いは、この身を差し出し、もう姉を怨まないでくれと懇願すれば劇的に快復するのだろうか。黒須愛奈に会う――それは月彦にとって、大あくびをしている牡ライオンの口の中に頭を差し入れるよりも遙かに勇気の要る決断であり、想像しただけで両足の震えが止まらなくなるほどに恐ろしいことだった。そう、決して容易く選べる選択ではないが、このまま姉の容態が悪化の一途を辿り、“他の可能性”が全て消えた時には、覚悟を決めねばならない――。
「………………。」
 足を止め、その場に立ち尽くしたまましばし月彦は考える。考えた結果、病室に行く前に最寄りの神社へと足を運び、破魔矢やらお札やらの邪気払いグッズを購入してから、再度病院に向かった。
(もし病室に置くのを姉ちゃんが嫌がるようなら、看護婦さんに頼んでどこか目につかないところにこっそり置いてもらおう)
 鰯の頭も信心から。もし本当に霧亜の体を蝕んでいるのが黒須愛奈の怨嗟であれば、同様に霧亜に快復して欲しいという家族としての願いも力となる筈だ。ましてや、霧亜の側にはほとんどつかず離れずで都がいる。霧亜に元気になって欲しいという想いは、ひょっとしたら自分のそれすらも上回るかもしれないとすら、月彦は思っていた。暇さえ在れば霧亜の病室に顔を出し、つかず離れず側に居てくれる都の存在が月彦にとっても、そして当然霧亜にとってもどれほど救いになっていることか――。
「あれ……?」
 神社に寄り道をしていたせいで肝心の見舞いのほうがすっかり遅くなってしまった。急がないと面会時間が終わってしまうと、やや駆け足気味に急いでいた月彦は、敷地前に立ち尽くし、なにやら意味深に病室の方を見上げている人影に気がついた。
「もしかして…………白耀、か?」
「………………やあ、月彦さん。おひさしぶりです」
 人影の正体――真田白耀はくるりと月彦の方へと向き直り、涼風のように笑った。



「お、おう……久しぶり、だな」
 いつものように挨拶をしようとして――ついぎこちない笑みになってしまう。確かに白耀ときちんと面と向かって話をしたのは久しぶりだが、由梨子とのデートを盗み見ていたという負い目が、小石を噛んだ歯車のように月彦の挙動を乱す。
「ひょっとして、お姉さんのお見舞いですか?」
「ああ。ちょっと時間が遅くなっちまったけどな」
 はて、姉が入院していることや、その入院先について白耀に話したことがあっただろうか。今ひとつ記憶がはっきりせず、月彦は首を捻る。
(……ていうか、本当に白耀……か? なんか雰囲気が……)
 姿形は、間違い無く月彦の見知った真田白耀のそれなのだが、どことなく纏うオーラが違うように感じるのは気のせいだろうか。
 そう、まるで真田白耀という皮を被った、獰猛な獣かなにかのような――。
「そうですか。実は僕も一度月彦さんのお姉さんにお会いしたいと思って来てはみたのですが……」
 白耀は忌々しげに、自分が立っている歩道と病院の敷地との境目の辺りを睨み付ける。
「あー……そういや、なんか狐除けのまじないがしてあるんだっけか」
「そのようです。……ひょっとして、月彦さんのお姉さんはここがそういう場所だと知った上で入院されたんですか?」
「いや……どうだろ……姉ちゃんがそこまで考えてたかどうかはちょっと分からないな。俺もワケあってどういう感じか味わったことあるけど、やっぱり入れないものなのか?」
「どうやら持っている力の強さに比例して体を害される、そういった類いの結界が張られているようです。正直、厳しいですね」
「そうなのか……。おかげで真央も見舞いに行けないし、姉ちゃんには病院移るかいっそ自宅療養したらどうかなって何度も言ってるんだけどな……。……悪いな、白耀。わざわざ見舞いに来てくれたのに」
「はい、本当に残念です」
 白耀は心底残念そうに頷く。
「月彦さんのような素晴らしい方のお姉さんがどんな方なのか、とても興味があったのですが」
「……俺はそんな大したヤツじゃないよ。むしろお前の方が――」
 ハッと、口を噤む。一体今、自分は何を言おうとしたのか、月彦は肝を冷やした。
「そうそう、入院といえば……月彦さん。聞きましたよ」
「聞いた……って、何をだ?」
「昔、由梨子さんが入院された時、肉まんを持ってお見舞いをされたんですよね?」
「なっ……!」
 かあぁと、顔が熱くなるのを感じる。ただでさえ、思い出す度に地面を転げ回りたくなるような恥ずかしいエピソードであるのに、それをよりにもよって由梨子の“今カレ”である白耀の口から聞かされるのは、それこそ叫び出したいほどの羞恥を伴う苦行だった。
(……ていうか、由梨ちゃん……そんな話まで……)
 由梨子の心が白耀に傾倒しているのはもはやしょうがないとしても、そんな“元カレ”の失笑エピソードまでぺらぺらと喋ってしまったのか。
(……確かに、口止めしたわけじゃないけど……)
 何となく、そういうことは言わないのがルールではないかと、月彦は唇の中で唸る。……羞恥故、だろうか。見慣れた白耀の涼やかな笑みすら、どこか相手を蔑む――侮蔑の笑みのようにすら感じられる。
「いや、勘違いされないでください。僕はその話を聞いた時、とても感動したんです。その発想、行動力、どれをとっても常人のそれではないと――」
「そ、そういや白耀! 最近何かあったのか? ちょっと前と雰囲気が違ったっていうか、ワイルドになったような気がするけど、イメチェンか?」
 恐らく悪意などカケラもないであろう白耀の精神攻撃に耐えかね、月彦は強引に話題を変えた。白耀もまたきょとんと目を丸くし、そしてすぐにいつもの笑みを浮かべた。
「いえ……特に意識はしてませんでしたが……そんなに変わって見えますか?」
「まあ、な。別人とまでは言わないけど、野性味が増したっていうか……目に力があるっていうか……」
「そうですか……それはひょっとしたら、最近始めた“趣味”のせいかもしれませんね」
「趣味……?」
「はい」
 よくぞ聞いてくれたとばかりに、白耀は大きく頷く。
「そうなんです。実はとても楽しい趣味を見つけまして。お恥ずかしい話ですが、最近はもうそれにばかり夢中になってしまって」
「へえ……そんなに夢中になれる趣味があるってのは羨ましいな。一体どんな趣味なんだ? スポーツかなにかか?」
「そうですね。スポーツと言えなくもないかもしれないですが……」
 くつくつと、白耀は口元を手で隠すようにしながら、まるでどこかの性悪狐のように口元を意地悪く歪めて笑う。月彦の知る限り、真田白耀という男が“母親そっくりの笑い方”をするのは初めてのことだった。
「……なんだ、白耀。ずいぶん下品な笑い方をするようになったな」
 それがあまりに真狐のそれに似ていて、月彦はつい苛立ち紛れに口に出してしまった。「おっと、これは申し訳ない。気に障ったのでしたらば謝罪します」
「いや、謝ってもらうようなことじゃ……」
 口ごもる。はて、白耀との会話というのはこうも波風の立つものだっただろうか。もっと、十年来の親友のように気楽に冗談を交えて言い合えるような間柄ではなかっただろうか――。
(…………由梨ちゃんのこと、ひょっとして根に持ってる、のか?)
 自覚は無い――筈だった。由梨子のことも、白耀のことも怨んではいない。より魅力的な男に引かれるのは女性として当然のことであり、自分には由梨子を引き留めるだけの魅力が無かった。ただそれだけの話だ。
 白耀に対してよくも由梨子をと言えるような立場では無いことは重々理解している。しかし、理解しているつもりで心の奥底ではやはり、“由梨子を盗った男”として怨みを蓄積させてしまっていたのだろうか。
「………………悪い、白耀。なんか今日は疲れてるみたいだ」
「それはいけません。良かったら後で店の者に何か精がつく物でも届けさせましょうか?」
「いや、大丈夫だ。気持ちだけ有り難くもらっとくよ」
「そうですか……残念です。では今度また、月彦さんの具合がよろしいときにじっくりと語り明かしましょう」
「語り明かすって……徹夜する気か?」
 冗談のつもりで尋ねた月彦だったが、意外にも白耀は大まじめな顔で頷いた。
「もちろんです。前に言いませんでしたか? 僕にとって月彦さんは師匠同然、それこそ生き方の指標といっても差し支えません。月彦さんがどういったことに喜びを感じ、どういったことに憤りを感じるのか、それら全ての判断基準を知りたいんです」
「待て、待て待て白耀。俺も何度も言うが、俺はそんな大した人間じゃない。過剰に持ち上げるのはいい加減止めてくれないか」
 悪意は無いのだろうが、ここまで持ち上げられると逆に馬鹿にされているような気分になる――さすがにそこは飲み込んだが、頭は決して悪くない白耀のことだ。皆まで言わずとも言いたいことは伝わっただろう。
「月彦さん……僕は本当に、月彦さんには感謝しているんです。何故なら、今の“趣味”に出会えたのも、月彦さんのおかげなんですから」
「俺の……?」
「はい。いずれ月彦さんにもお披露目する時が来ると思いますが………………僕は今からその時が待ちきれません」
「…………随分思わせぶりな言い方だな。自分にとって楽しい趣味が、他人にとってもそうとは限らないんだぞ?」
 ダメだ、何故こんな棘のある言い方をしてしまうんだ――分かってはいても、月彦は自分の口を止められない。
 もはや、自覚はなくとも由梨子の件を根に持っているのは明白だった。
「そうですね。確かに月彦さんの仰る通りです」
 くつくつと、白耀が口元に笑みを浮かべる。今度はそれを隠そうともしなかった。
「……今日の所は大人しく退散したほうが良さそうですね。……月彦さんもどうかお大事に」
「そう、だな。………………悪かったな、白耀。なんだかつっかかちまって…………。気を悪くしないでくれ」
「大丈夫です。……では、僕もこれで
 お姉さんにお会いできる日を楽しみにしています――そう言い残して、白耀がその場を後にする、気を取り直して病院に入ろうとして――月彦はすっかり暮れてしまった辺りの様子に気がつき、最後に時計の文字盤で面会時間が完全に終わってしまっていることを知った。



 霧亜には会えず、代わりに会った白耀とはモヤっとしたものが残る、お世辞にも気持ちの良いとは言えないやりとりしか出来なかった。これもひとえに、自分の気の持ちようが悪いと反省しながら帰宅した月彦は、自室に入るなりはてなと小首を傾げた。
「真央……? それは何だ?」
「あっ! 父さま! お帰りなさい!」
 制服のまま、なにやら大きな葉っぱのようなものを両手に持っていた真央は、月彦が声をかけるなりぴょんと飛び上がるようにして飛びついてくる。
「あのね、エトゥさんから手紙がきたの!」
「……誰だっけ?」
「小人さんだよ。ほら、珠裡ちゃんが来たばっかりのときに――」
「ああ!」
 そういえば、そんな話を聞いたと。真央の説明を受けて漸く月彦は思いだした。
(つっても、俺は会ったことないけど……)
 真央の話では、小人というものは人に見られると絶命してしまう呪いがかかっているらしい。ならば目を瞑っていれば握手くらいは出来るのだろうか、それとも接触もアウトなのだろうか。
「……で、手紙にはなんて書いてあるんだ?」
「んとね、流行病が無事治まって、みんなちゃんと元気になったんだって!」
「そっか。それはよかったな」
「それでね。もし良かったら一度遊びに来て欲しいって書いてあるの」
「遊びに……って、確かその“ぽんこたん”って、めちゃくちゃ遠いんじゃなかったか?」
「うん。電車とかバスとか使っても、多分片道1日くらいかかると思う」
「……遠いな」
「でもね、ほら……今度のお休みは月曜日まででしょ? だから――」
 真央はちらりとカレンダーの方を見、そして顎を引いた上目遣いでじぃ、と覗き込んでくる。そう、月彦にはもちろん分かる。これは典型的な“おねだり”の顔だ。
「なるほどな。つまり、真央は今度の連休でその小人に会いたいんだな?」
「うん! あっ……でも、もし父さまがダメって言うなら…………」
「ふむ……」
 月彦は考える。小人というのは、人間に見られただけで絶命してしまう生き物らしい。つまり、自分が同行することは小人達にとって非常にリスキーなことといえる。よって行くならば真央一人であることが前提となり、だからこそ真央もいつになく控えめに“ダメでもともと”というような切り出し方をしているのだろう。
(そのポンコタンって所が何処に在るのかにもよるが――)
 小人達が礼を言おうとわざわざ招いてくれるのだから、そっちについての危険はまず無いと思える。むしろやれナンパだの何だのの貞操の危険の方が心配なくらいだ。
(…………それに、実のところ渡りに船って感じでもあるな)
 雪乃に誘われ、何となく流れで温泉旅行を承諾はしたものの、連休中ずっと家を空ける件について真央になんと言い訳しようかと頭を悩ませていた所だった。むしろ真央の方が家を空けてくれるのであれば、少なくとも苦しい言い訳を重ねなくて済むのではないか。
(…………いや、待て。自分にとって都合がいいからって、厄介払い出来てラッキーみたいな考え方は良くないぞ、俺)
 ここは一つ、真剣に本当に危険はないのかを吟味しなければならない。
「分かった、真央。確かにそういう事情なら俺はついていけないし、真央も久しぶりにエトゥさんに会いたいだろう。丁度連休も控えてることだし、もし真央がきちんと旅行の計画を立てて、それが“これなら大丈夫”って思えるようなものだったら行ってもいいぞ」
「ホント!? 父さま、大好き!」
 どうやら、真央はダメだと言われるものだと思い込んでいたらしい。普段の三割増しほども激しく抱きつかれ、月彦は危うく壁で背中を強打しそうになる。
「こ、こら……喜ぶのはまだ早い…………ちゃんと安全に行って帰ってこれるって分からないなら行っちゃだめなんだからな?」
「うん!」


 真央がどれほど行きたがっているかは、風呂上がりに提出された旅行計画表に如実に表れていた。大学ノートに分刻みで緻密に書き込まれたそれは月彦がどれほどアラを捜そうとしても見つけられず、軽々に許可してはいけないと分かってはいても頷かざるをえない代物だった。
「……しかし、真央……電車の時間とか乗り換えのタイミングとかとか、よく分かったな」
「うん! さっきね、義母さまと一緒に調べたの! 義母さまもこれで絶対大丈夫って言ってくれたよ!」
「そ……っか。母さんが一緒に考えたなら、絶対に大丈夫だな」
 葛葉が太鼓判を押してくれた――それは単純に道順が正しいとか、電車の路線が正しいとか以上に“大丈夫”であると保証されたような、そんな絶対的な響きを含んでいるように感じられた。
「よしわかった、真央。これなら俺も文句はないぞ」
 よくできました――そう言外に含めるように、月彦は真央の髪を撫でる。真央はくすぐったそうに身をくねらせ、微かに声を上げて笑った後、何かを思いだしたようにハッと表情を曇らせた。
「ごめんね、ホントなら父さまも一緒に――」
「人間に見られたらダメなんだろ? 仕方ないさ」
 やはり真央は自分一人だけ旅行をすることに引け目を感じているらしい。やむなく、タイミングを見計らって月彦も切り出した。
「…………実は俺も、“友達”に一緒にスキーしにいこうって誘われてたんだ。真央が出掛けるなら、俺もそっちに行ってこようかな」
「父さま……スキーしにいくの?」
「まあ、折角だし、な。なんか道具とかも借りれるっぽいし、友達の知り合いがやってる旅館に泊まるから、料金も安くて済むらしいしな」
 あまり喋ると、ボロが出るかもしれないと、月彦は最低限の情報だけを口にして、真央と共にベッドへと腰掛け、右手を真央の腰へと回す。
「あン……父さまァ……」
 もぞりと。尻尾をくねらせ、真央がくたぁと体を凭れさせてくる。そうやってもたれ掛かりながら、ちゃっかり自分でパジャマの胸元のボタンを二つほど外す真央に、月彦は苦笑を禁じ得ない。
「まったく……どこで“そういうの”を覚えるんだ?」
 叱るような口ぶりだが、その実。左手は開いた胸元からするりと入り込み、もにゅもにゅと乳肉を捏ね始めている。
「ぁん……ンン……」
 胸を直に揉まれながら、真央が鼻にかかった息を吐く。月彦の手の中で早くも先端がしこり始め、月彦はそれをクリクリと手のひらで転がすようにしながら愛娘の乳肉の感触を堪能する。
「ほら、真央?」
「ンッ……ちゅはっ……んっ……れろっちゅ……んんっ……!」
 そして乳肉を捏ねながら唇を重ねると、真央の反応はさらに良くなる。れろり、れろりと生き物のようにうねる愛娘の舌を弄ぶように、月彦もまた舌技の限りを尽くす。
(ああ、くそ…………こうして揉んでるだけで…………!)
 キスをしながら、むらむらと憤りにも似た暴力的な性欲に体が支配されていくのを感じる。たまには処女を抱くように優しくしてやりたいと思っても、幼さの残った顔立ちとはあまりに不釣り合いな巨乳をこね回すうちにムチャクチャに犯してやりたくて堪らなくなるのだ。
「は、ぁふっ……ふぅ……ふぅっ…………あぁ……ヤベ…………すっげぇムラムラしてきた………こうやって揉んでるだけで、真央のことメチャクチャに犯したくて堪らなくなるぞ」
 月彦はわざと真央の耳元に唇を寄せ、荒々しい吐息と共に“本音”を囁く。
「ンっ」
 と、たちまち真央は全身を強ばらせ、ぶるりと震える。くつくつと、月彦は真央の耳の裏で嗤う。
(ちゃんと“想像してる”か? 真央?)
 あえて、具体的な内容については触れない。ただただ、手負いの獣のような息使いだけを聞かせ、“その先”は真央の想像力に任せる。それが最も“具合が良くなる”と経験から知っているからだ。
「やっ……とう、さま…………はぁんっ、あん、あん……ンン……!」
 徐々に、揉む手に力を込めていく。事実、握りしめるように揉んでやると、真央の反応が目に見えて良くなる。抑え気味の、それでいて股間がダイレクトに反応してしまうような艶めいた喘ぎ声をもっと聞きたいと、体の中の牡の部分が猛り狂う。
「とう、さまぁ……もっと……」
 はぁはぁと、喘ぎ混じりに真央が耳元で囁いてくる。
「もっと、おっぱい……むぎゅう、ってシて?」
 考える間も無く、月彦は真央を押し倒し、パジャマの前をはだけさせる。母譲りの巨乳を両手でこれでもかと揉み捏ねると、真央は背を逸らしながら甲高い声を上げる。
「あああァン……! ァ……はァ…………父さまァァ…………」
 とろんと、真央が濡れた目を意味深に細め、じぃと見つめてくる。それだけで、月彦は愛娘が何をされることを望んでいるのかが分かった。
「何だ。何かして欲しいことがあるならちゃんと口で言わないとな、真央?」
「あっ、んっ……やぅっ……とう、さま…………んんっ…………!」
 しかし、分かったからといって“それ”をすぐにしてやったのでは“教育”にはならない。月彦は意地の悪い笑みを浮かべながら、やんわりと。すべすべの肌触りだけを愉しむような、表面を撫でるだけの愛撫を繰り返す。
「ぁっ、ぁっ……や、ぁ…………おね、がい……父さまぁぁ……」
「“お願い”だけじゃあ分からないな。ほら、真央……どうして欲しいんだ?」
「ぁ、んっ…………お、おっぱい……犯して、欲しい、のぉ………………父さまの、……で、真央の、いやらしいおっぱい……オシオキして欲しいのぉ…………」
「お仕置きってのは、悪いことをした時にするもんだ。…………真央のおっぱいは、何か悪いことをしたのか?」
 さらに、焦らす。コリコリに硬く尖った先端には一切触れず、その周囲にだけを指先でなぞる。
 それだけで、真央は声を震わせ、切なげに喘ぎ出す。
「ぁぁぁぁ…………ま、真央のおっぱいは……悪いおっぱい、なのぉ………いっつも、父さまにむぎゅうってシて欲しいって、ウズウズしちゃってるのぉ…………!」
「……それはおっぱいが悪いんじゃなくて、真央がインランなだけじゃないのか?」
 苦笑混じりに言うと、真央は露骨に顔を赤らめ、視線を逸らす。もちろん月彦には、言葉責めに弱い娘が“淫乱”という単語に軽くイッたのが分かった。
「くす、しょうがないな。可愛い真央の頼みだ。………………二度と疼いたりしないように、念入りにオシオキをしてやるか」


 そして翌朝。一足先に目を覚ました月彦は真央の一人旅の話をふるついでに、自分も連休“友達”とスキー温泉旅行に行く旨を葛葉に伝えた。
「あら」
 葛葉は朝食の支度をしながら、口元に笑みを浮かべる。なんとも意味深な、息子の思惑など全てお見通しだと言わんばかりの笑みとも、その実特に何も考えていない笑みともとれる、絶妙な微笑だった。
「なんか友達の知り合いがやってる旅館とかで、料金もすっごく安いらしいんだ。スキーの道具とかも貸してくれるらしいし、断るのももったいないかなって思ってさ」
 嘘をついているという後ろめたさが、無駄に言葉を重ねさせる。それを自覚して、月彦は一端言葉を止めて葛葉の返答を待った。
「スキー……大丈夫かしら」
 手を止め、葛葉が物思いに耽るように呟く。“それ”については確かに危惧があると、月彦も頷く。
「昨日、一応姉ちゃんに話通しとこうかと思ったんだけど、時間が遅くなって会えなくてさ。今日学校が終わったら、もう一度行ってみるよ」
「霧亜に?」
 首を傾げる母親に、月彦は自分と母との間に認識の齟齬が発生していることを知った。
「いやほら、姉ちゃんもスキーで怪我して入院したから、行っていいかどうか一応姉ちゃんに聞いたほうがいいかなって……」
「それは………………母さんは賛成できないわねえ」
 うーんと、葛葉は難しい顔をする。
「賛成できないって……どうして?」
「あの子の性格だと、“過去の失敗をネタにバカにされてる”って思うんじゃないかしら」
 こちらにそのつもりがなくても、と葛葉は短く付け加える。
「そんな! 俺はそんなつもりじゃ――」
 と言いかけて、それはたった今母親が補足した言葉まんまだと気づき、口ごもる。
(…………確かに、母さんの言うとおり……スキーいってもいいかって許可をもらいにいくってのは“姉ちゃんは怪我したけど、俺は怪我なんてしないから行ってもいいか?”っていう意味にとれなくもない……か?)
 もちろん月彦にしてみればそんなつもりは毛頭無い。が、言葉の受け取り方次第で霧亜を傷つけてしまう可能性があるのならば、確かに葛葉の言う通りあえて何も言わないのが良いのかもしれない。
「どうしても気になるなら、母さんの方からそれとなく霧亜に伝えておくわ。それなら角も立たないでしょう?」
「そ……っか。じゃあ、姉ちゃんに伝えるのは母さんに任せるよ」
 姉に会いに行く口実が消えてしまったのは残念ではあるが、別にこれきり会えなくなるというわけでもない。それこそ、ただの見舞いであればいつでも行くことができるのだから。
「……でも、月彦も真央ちゃんも連休出掛けちゃうのねえ。それなら母さんもどこか旅行に行っちゃおうかしら」
「いいんじゃないかな。母さんも一人で羽を伸ばしてきなよ」
 顔を洗ってくる――そう言い残して、月彦は洗面所へと移動する。そして思う。ただ、母に話を通したというだけで得られる、この安心感は一体何なのだろうか。
(真央のことも母さんが大丈夫って言ってくれたし、姉ちゃんへの伝言も母さんが伝えてくれるって言ってたし)
 案外、霧亜の入院が長引いている件も杞憂なのではないか――楽観気分で浮かれ気味な月彦はもちろん、気づくことは無かった。
 母が、“息子のスキー旅行”については、何の“保証”もしてくれなかったことに。



 土曜日の早朝、月彦は欠伸混じりに家を出た。時刻はまだ五時前、当然日も昇っておらず、気温は恐らく0度かそれ以下。風が無いのが救いと言えば救いではあるが、寒いことには変わりは無い。
(…………確かに暖かい、な)
 が、その寒さも昨日新調した紺のジャケットのおかげで大分和らいではいる。そう、昨日の放課後「旅行には準備が必要だから」と雪乃に半ば拉致同然に連れて行かれ、旅行用のバッグやら上着やらを無理矢理新調させられたのだ。
(……なんか、日に日に先生のゴリ押しが酷くなってる気がする)
 上着も旅行バッグも既にあるからいらないという主張は通らず、問答無用で購入され押しつけられる形で渡されたそれをさすがに使わないわけにはいかず、月彦は夜空に向けてついため息を漏らしてしまう。
(…………そのうち下着とかまで“私が買ってあげたものじゃないとダメ!”って言い出しそうなのが怖いな)
 “そんな相手”とこれから二泊三日の旅行に出掛けねばならない――なんとも重い未来に思わず二度目のため息が出てしまう。いっそ断るべきだったのではないかと思わなくもないが、“あの雪乃”相手に断りを入れている自分の姿がどうしても想像出来ず、やはりこれはなるべくしてなったことなのだと観念する。……観念しながら、雪乃との待ち合わせのコンビニ駐車場まで歩く。予想通り、駐車場には既に雪乃の軽が止まっており、しかもこの寒い中わざわざ車の外に立って待っている雪乃の姿に、月彦は思わず重力が二倍にもなったような重圧を感じた。
「あっ……」
 雪乃の目が、月彦を捉えた――瞬間。ぼっ、と。まるで実際に湯気が確認できそうな程に、雪乃が顔を赤らめるのが分かった。
「お、おはよう……紺崎くん」
「おはようございます、先生」
 どこか他人行儀な挨拶の間も、雪乃はもじもじと――体をくねらせている。月彦にはそれだけで、雪乃が今回の旅行にどれほどの期待をしているのかが伝わって来るかのようだった。
「じゃあ……出発しよっか。あ、荷物は後ろにね」
「はい」
 荷物を後部座席に乗せ、助手席へと乗り込み、シートベルをつける。一足先に運転席に乗り込んでいた雪乃が、その一部始終を凝視し続けていたことに気がつき、月彦は思わずギョッと目を剥いた。
「な、何ですか先生……俺の顔に何かついてますか?」
「ううん……ちょっと、感慨に耽ってただけ。ホントに紺崎くんとお泊まり旅行に行くんだぁ、って」
 はふぅとため息混じりにうっとりと目を細められ、月彦は思わず怖気にも似たものを感じた。
(…………いくらなんでも“期待しすぎ”な気が……)
 まるで、ずっと書物の中でしか男女の交わりを知らなかった文学少女が想像する“初夜”に掛ける期待のような凄まじさ。そしてその期待に応えられるかどうかがひとえに己の双肩に掛かっているということが、月彦になんとも引きつった笑みを浮かべさせる。
「ねえ、紺崎くん…………キス、しよっか」
「えええ!? い、今ですか!?」
「うん。……なんだか、すっごくシたくなっちゃって」
 シたいのはキスだけですか?――思わずそんな言葉が出そうになる。ちらりと横目でコンビニの入り口の方へと目をやると、幸い人通りは無い。月彦は体を運転席側に寄せ、雪乃に会わせる形で唇が触れあうだけのキスに殉じた。
「ん……」
 一瞬の、ただ唇が触れあうだけのキス。しかし雪乃はそれで満足なのか、己の唇を撫でながら満足そうに微笑む。
「……じゃあ、そろそろ出発しよっか」
「そ、そうですね……ははっ、どんな所か楽しみです」
 これは覚悟を決めたほうがよさそうだ――胃を搾られるような重圧を感じながら、月彦は観念するように両目を閉じた。



 雪乃の話では、目当てのホテルは車で片道3時間ほどの距離らしかった。ただしこれは交通渋滞などを一切加味せず、さらに言えば“前の車なら”という条件つきらしい。つまるところ連休の初日の交通量を鑑み、さらに安全運転という縛りを設けた場合、適切な休憩をとる事も考慮すれば六時間くらいは見ておいたほうが良いらしい。
 というのは建前で(もちろん真実も混じってはいるのだろうが)本音を言えば、やはり少しでも長く“二人きりのお泊まり旅行”を愉しみたかったというのが大きいのだろう。

「そのジャケット……どう? 暖かい?」
「ええ、とっても。車の中だとちょっと暑いくらいですね」
「そう? じゃあ暖房止めよっか?」
「いやでも、先生が寒いんじゃ――」
 雪乃は首を振る。
「私も、暑いくらいだから……もう、体が火照っちゃって」
 そう言う雪乃の顔は確かに紅潮し、今にも汗が浮かびそうだった。雪乃も昨日の買い出しの際に買ったスキー用のジャケットにパンツジャージという姿。先ほど後部座席に荷物を置く際に別途コートも持って来ているということは知っているのだが、さすがに車中では暑すぎるということなのだろう。
「……ホントなら、窓あけて走りたいくらいなんだけど」
「いいんじゃないですか? 俺は平気ですよ」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ開けちゃうね?」
 雪乃が運転席側の窓と、後部座席のドアを2センチほど開ける。忽ち車内には寒気が舞い込むが、幸い耐えられないという程ではない。
「そーだ。一応お弁当も持ってきてるから、お腹が減ったら教えてね。…………ちなみに紺崎くん、朝ご飯は食べてきた?」
「ええ、軽く……ですけど」
「……朝ご飯も一緒に食べましょって先に言っとくべきだったわね。とにかく、お弁当はあるから」
「楽しみです」
 午前五時に待ち合わせの旅行に、手作りの弁当まで作ってくるなんて、一体何時に起きたのだろうか。やはり、今回の旅行にかける雪乃の執念は並大抵のものではない。
(ヤバいな、これ…………もしなにかトラブって、中止とかになったら先生キレちゃうんじゃないか)
 “その時”を想像して、月彦は寒さとは違った意味で体を震わせる。
「……紺崎くん、やっぱり寒い?」
「あっ、いえ……そうじゃなくって……」
 俺を震わせているのは先生の執念です、とはさすがに言えない。
「ほら、修学旅行でスキーしたって言ったじゃないですか。その時にインストラクターの人から聞いた話を思い出しちゃって」
「どんな話?」
「ええと……上級者用の斜面を滑ってた時に転んで、膝から骨が飛び出した話です。それ思い出したら、ちょっと怖くなっちゃって」
「そうね、油断するよりは、怖いって思ってるくらいのほうが怪我もしにくくて良いんじゃ無いかしら」
「そ、そうですね。はは、さすが先生です」
 笑いが、自然と引きつってしまう。美人で、しかも男子生徒の大半がオカズにする程のグラマラスなスタイルの持ち主と二人きりのお泊まり旅行の真っ最中だというのに、なぜこんなに顔が引きつってしまうのか。
 何故女教師ではなく、飢えた虎かなにかと同じ檻に閉じ込められているような気分にならねばならないのか。
「ねえ、紺崎くん。ひょっとして緊張してる?」
「えっ…………そう、見えますか? …………してるかもしれません」
 本当は“かもしれません”どころではないのだが、月彦はあえて濁した。
「大丈夫よ。私も…………かなりしてるから」
「えっ……先生もですか?」
「だって、紺崎くんとの初めてのお泊まり旅行なのよ? 緊張して昨夜なんて殆ど眠れなかったんだから」
「それは…………う、運転とか大丈夫なんですか?」
「それは大丈夫。眠気なんて微塵も感じてないから……ただ――」
「ただ……?」
「ただ………………ええと、ごめんなさい。ちょっと、それは言いにくいっていうか……言ったら絶対紺崎くんに引かれちゃうっていうか…………」
「いや、そんなこと言われたら余計気になるんですけど……」
「と、とにかく! 緊張してるのは紺崎くんだけじゃないんだから…………だから、ええと……その…………旅行をめいっぱい楽しみましょ!って、言いたいの!」
「それは……はい。俺もそのつもりです」
 返事をしながら、ふと月彦は記憶を辿っていた。
(そっか……先生とは初めてなのか)
 あまり初めてという感じがしないのは、雪乃の家には何度も泊まっているからだろうか。
(……そういや矢紗美さんとは――)
 “アレ”を“お泊まり旅行”とカウントしていいのかどうかは微妙なところだが、吹雪の中、共に車中で一夜を過ごしたという意味ではお泊まりと言えなくも無い。さらに言えば、ラビたちとの合宿もお泊まり旅行と言えなくもないかもしれない。
「あっ、大分風景が山っぽくなってきましたね」
 外の風景の変化に、月彦は記憶の旅を中断し、現実へと帰還する。民家はまばらに、商店の類いはもっとまばらに。枯れ木色に彩られた山がじわじわと近づいてくる光景に、思わず声が出る。
「そうね。渋滞が始まる前に都市部を抜けられたから、この分だと予定よりかなり早く着いちゃいそうね」
「チェックインは十二時なんでしたっけ?」
「うん。だからそれまでちょっと時間潰さないといけなくなるかも……」
 途中、コンビニに立ち寄ってトイレを済ませた後、さらに道なりに進む。道路には徐々に傾斜がつきはじめ、程なく完全な山道と化した。対向車はまばらで、ましてや同じ方向に向かう車は前にも後ろにも存在しない。この先に本当に“人気の温泉宿”なんて存在するのだろうかと、月彦が漠然と疑い始めた時だった。
「やっぱり、かなり早めについちゃいそうだし……この辺でちょっと休憩しよっか」
 雪乃が山道脇の退避スペースへと停車させ、エンジンを切る。
「なんだかお腹空いちゃって。お弁当にしない?」
「いいですね。俺もそろそろかなって思ってたところです」
 シートベルトを外して、後部座席へと移動する。一瞬、外で食事というのもアリかとも思ったが、軽く窓を開けてすぐにその発想は捨てた。
「ごめんね。出先で食べるものだし、あんまり凝ったものじゃないほうがいいかと思って……」
 そう言い訳をしながら雪乃が出してきた“お弁当”は大量のサンドウィッチだった。ただし具の方は様々で、ジャムのみのものもあれば、ツナマヨ、ハムチーズレタス、ハムポテトサラダ、トマトチーズレタス、ツナハム、ツナポテトサラダチーズ、マスタードハムチーズ等々千差万別。
「いや、先生これって……結構凝ってるように見えるんですけど……」
 雪乃から渡されたおしぼりで手を拭き、サンドウィッチの一つをつまみあげる。苺ジャムが挟まれたそれをはむっ、と口に含めば、芳醇な苺の香りと舌が蕩けるような甘み。そして微かに感じる、バターの香ばしさ。どうやら具材を挟む前に一度バターを塗って軽く焼くという手順を惜しまず作られたらしいそれは、空きっ腹をさらに減らすには十分すぎる味だった。
「うっま…………先生、これめっちゃ美味いですよ!」
「そう? 良かったぁ……。サンドイッチだけじゃ紺崎くん足りないかもって思って、唐揚げとかも作ってきたんだけど」
「折角ですから頂きます。……んっ、こっちも美味いですよ!」
 別途タッパーに用意された唐揚げをつまみあげ、口に放り込むや弾けるように美味が溢れ出し、月彦は舌鼓を打つ。
「あとねあとね、一応デザートも作ってみたの! こっちもあんまり手間がかかってなくって恥ずかしいんだけど……」
 さらに別途タッパーに用意されたティラミスを見て、さすがにそれは食後の楽しみにしますと辞退する。代わりに魔法瓶の蓋に注がれたお茶を渡され、それを啜りながらサンドウィッチにかじりつく。美味であることもさることながら、口当たりの軽さも相まっていくらでも食べられそうだった。
「いやこれ、ホント美味しいですよ! あれでも、先生は食べないんですか?」
「うん、食べる、けど…………」
 雪乃はといえば、おしぼりで手を拭いたっきり、なにやらぽうっと熱に浮かされた様に動かない。
「なんだか、私が作った料理を、紺崎くんが食べてくれてるのが嬉しくって、それだけでお腹いっぱいになっちゃいそう」
「な…………何言ってるんですか。別に、今日初めて食べたわけじゃ…………最近は割と良く先生の作ったお弁当ご馳走になってるじゃないですか」
「そうだけど……今日はやっぱり特別って感じがするの。……うん、そう、今日は特別なのよ!」
 謎の納得をして、雪乃は徐にスマホを取り出すや、サンドウィッチを頬張る月彦に向けていきなりシャッターを切る。
「なっ……せ、先生!? いきなり何するんですか!」
「折角だから、幸せのお裾分け」
 今度は月彦の隣に強引に座り、無理矢理身を寄せて自撮り風にぱしゃり。
「うん、よく撮れてる。……じゃあ、お姉ちゃんに送っちゃおっと」
「なっっ……だ、ダメですよ先生! そんなことしたら、また――」
「また……?」
「ああいや……そんな、デート中の写真なんて送りつけられても、矢紗美さんとしては迷惑だと思うんですけど……」
「そうかしら。でも今回の旅行の言い出しっぺってお姉ちゃんだから、今楽しんでまーすって教えてあげるのも礼儀じゃないかしら」
「や、矢紗美さんが言い出しっぺって……一体どういうことなんですか!? は、初耳なんですけど!」
「いーのいーの、そっちは紺崎くんは関係ないことだから」
 スマホをしまい、改めておしぼりで手を拭き、雪乃もまたサンドウィッチにかぶりつく。
「うん、美味しくできてる。ねえねえ紺崎くん、折角だし半分こにして食べていかない?」
「えっ……別にわざわざそんな食べ方しなくても……」
「ね? いいでしょ?」
 ずずい。ボリュームのある胸元を押し当てられ――といっても、スキー用のジャケット越しではそこまではっきりとは感じられないのだが――さらに甘えるように首を傾けられ、腰に手まで回されて密着されては、もはや断るという選択肢はなかった。



 


「あぁんもぉ! ここも通れなくなってるぅ!」
「ありゃりゃ……仕方ないですね。一端引き返して違う道行ってみましょう」
 苛立ちまかせにハンドルを叩く雪乃をどうにか宥めながら、月彦は窓の外へと目を向ける。はらはらと舞い落ちる粉雪は、丁度休憩を終えたばかりの頃に降り出したものだ。
 眼前には冬期通行禁止の看板と、進路を塞ぐように張られた鎖。理由は分からないが、冬期の通行を禁止するというからには、安全な道ではないのだろう。
「もぉーーー……これで三回目じゃない。どうしてあっちこっち通行止めにしちゃうのよ」
「はは……仕方ないですよ。でも、こう回り道ばっかだと、着くのがすこし遅れちゃいそうですね」
「そうねえ…………もぉ、嫌になっちゃう」
 折角のデートなのに――ぽつりつ呟きながら、やや乱暴な運転で雪乃は来た道を戻っていく。殆ど車の通りが無い為か、既に道路にまでうっすらと雪が積もっている。ましてや下り。山道に不慣れな月彦にしてみれば“いくらなんでも遅すぎる”と感じるようなタイミングでしかブレーキを使わない雪乃の運転にすっかり肝が縮んでいた。
(ていうか、ガードレールの向こうモロ崖下なんだけど……先生もしタイヤが雪で滑ったらとか考えないのか!?)
 密かに縮み上がっている月彦をよそに、雪乃は猛スピードで数キロほど戻った所にある迂回路の入り口へと突入する。再び登りとなり、ベタ踏みでも“それなり”のスピードしか出せない軽自動車は必然的に安全運転となった。
「………………やっぱり、山道じゃ軽はダメね」
 ぽつりと呟かれた言葉には、明らかな馬力不足への不満が込められていた。
「そ、そんなことないですって! これくらいが丁度良いじゃないですか!」
 月彦はスピードメーターへと目を向ける。先ほどまでの“下り”が異常すぎるスピードで錯覚していたが、登りの今も既に時速70キロを越えている。
 一体雪乃は登りの山道で何キロ出せれば満足なのだろうか――降りしきる雪までもが、まるで月彦の不安を煽るように激しさを増し始め、枯れ木色だった山は早くも一面雪景色になりつつあった。
(…………ヤバいな、これ。ちゃんとたどり着けるんだろうか……)
 いつぞやの時のように、車中に二人取り残されるのではないか――“あの時”も確かに不安ではあったが、矢紗美と一緒であるという安心感も同時にあった。そう、まずい事態になっても、矢紗美が一緒に居れば何とかしてくれるのではないかという、“年上の安心感”のようなものがあったからだ。
(…………変だな。同じものを先生からは微塵も感じないぞ)
 むしろ、雪乃の判断のままに行動をしていたら命にかかわるのではないかという不安ばかりが大きくなる。道路に降り積もる雪の量も厚みを増し、カーブにさしかかる度に明らかにタイヤが滑っていることも――どうやら雪乃は狙ってそういう挙動で走っているようだが――不安を煽る結果となっていた。
「せ、先生……いくらなんでもちょっとスピード出し過ぎじゃないですか? ほら、雪も大分積もってきてますし……」
「大丈夫。このくらいならまだ全然問題無いわ」
 そうは言われても、怖いものは怖いのだと、口に出来たらどんなに楽か。しかしそこはそこ、“男の子”として口にするわけにはいかなかった。
「で、でも……万が一事故ったりしたらマズいじゃないですか。ほら、俺と先生って一応生徒と教師なわけで、あんまりおおっぴらに出来る関係じゃないですし……」
「だから大丈夫だって言ってるでしょ。こんなスピードじゃ事故なんて起こそうと思っても起きないわよ」
 やはり、度重なるUターンとそれをリカバリできない馬力の無さに雪乃は相当苛立っているらしい。これはもういっそキスをするから時速40キロ以下走行をしてくれと頼むべきだろうかと、月彦が真剣に検討を始めた頃――だった。
「あっ! 紺崎くん、アレじゃない!?」
「えっ、まさか着いたんですか!?」
 雪乃に言われて目をこらせば、降りしきるボタ雪の遙か向こう、雪山の白とは明らかに違う黒々とした建物が確認出来る。
「まだ遠い……ですけど、アレっぽいですね。ていうか他に建物なんてありませんし……なんていうホテルなんでしたっけ?」
「えっと……ホテルじゃなくって旅館で……確か名前は黒鳴館だったかしら」
「…………なんか、あんまり縁起の良さそうな響きじゃないですね」
「そういえば温泉の方も黒骨温泉っていうのよね。どっちも黒がつくし、何か理由があるのかもしれないわね」
 気のせいか、フロントガラスを叩く雪の量も些か和らいだように感じる。“目的地”が見えたことで雪乃も機嫌を直したのか、今にも鼻歌を口ずさみそうな口調だった。少なくとも雪乃は、名前が不吉ということに関しては全く気にはしていないらしい。
 アクセル全開の甲斐もあり、黒鳴館は見る見るうちに近づいてくる。心なしか建物の空を覆う分厚い雪雲すらも黒く染まっているような気がして、月彦は心中の不安の種が疼くのを感じた。

 そしてそれは、思いの外早くに芽吹いた。

「えっ……ちょっ……まさか…………」
 そんな呟きが雪乃の口から漏れたのは、半分ほどが埋まった駐車場に車を停めようとした矢先のことだった。絶句しつつも雪乃は軽快にハンドルを操作し、停車する。が、その目はある一点を注視したまま大きく見開かれていた。
 月彦も、雪乃に習って視線を向けて――そして「んなっ」と口を大きく開いた。
 二人が見つめる先、そこには二人にとってあまりに見覚えのある乗用車が停車していて、その運転席には満面の笑みで手を振る矢紗美の姿があったからだ。


 最初に矢紗美が車から降り、続いて月島姉妹が。月彦が居り、雪乃だけがこれは悪い夢だと思い込もうとしているようにハンドルに額を当てたまま微動だにしなかった。
「紺崎クン達、随分遅かったじゃない。1時間近く駐車場で待ってたんだから」
「…………えーと……矢紗美さん。実は俺、事態がよくわからないんですけど…………」
 雪乃に誘われ、二泊三日の温泉旅行に来た筈が、何故か駐車場には矢紗美と月島姉妹の姿があり、なら旅行というのは二人きりではなく5人でのものだったのかと思い直そうとすれば、自分以上にショックを受けて車から出ることも出来ないらしい雪乃の姿のせいでそれもできない。
「よくわからないもなにも、合宿の時のメンバーで二泊三日のスキー温泉旅行いこーって、そういう話の筈だけど?」
 ねー、レミちゃん?――矢紗美が傍らに立つレミに同意を求めるように首を傾げる。
「こんにちわ、ぶちょーさん! 今日もお姉ちゃん共々よろしくおねがいします」
 レミが一歩進み出るようにして、ぺこりと頭を下げてくる。
「こ……こちらこそよろしく、レミちゃん」
「…………? ぶちょーさん、どーしたの? なんでそんなに遠くに?」
 言われて、気がつく。レミが一歩進み出た瞬間、月彦は5歩分ほども後退りしたせいで、立ち話をするには些か遠すぎるほどの距離がそこには存在していた。
「あれ……えーと…………」
 どういうわけか、レミの顔を見ているだけで全身に奇妙なざわつきが走る。胃が痛いような、胸が苦しいような、如何ともしがたいばつの悪さに、月彦は雪が降りしきるほどの寒さにもかかわらず冷や汗が止まらない。
「つ、月島さんもレミちゃんと一緒に矢紗美さんの車で来たんだね。れ、レミちゃんとおそろいのイヤーマフもとてもよく似合ってるよ」
 レミのやや後方に、レミを盾にするような位置取りで立っているラビは白のイヤーマフに毛糸の帽子、レミとは色違いのダウンジャケット姿。
(…………でも、ズボンは……体育用のジャージって……)
 レミのものは恐らくそうとしかいえないが、ラビのそれは間違い無く体育の授業中に女子が履いているものと同じだ。ということはひょっとしたらダウンジャケットの下も体育用のジャージなのかもしれない。
「…………………………。」
 ラビがレミにくっついているのは、見知らぬ場所に来て不安というのもあるだろうが、単純に寒くて堪らないからというのもあるのではないだろうか。そんな月彦の推測を裏付けるように、月島姉妹が交互にくしゃみをする。
「えーと……とりあえず旅館の中に――」
「お姉ちゃん、ちょっと」
 はいりませんか、という月彦の言葉を、いつのまにか車から降りてきた雪乃がぶった切る。そのまま矢紗美の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張って駐車場の片隅へと消えていく。
「あー…………と、とりあえず俺たちだけでも移動しようか。ここは寒いし」
「賛成! でも、雛森せんせーどうしたのかな?」
 ラビもまた不安そうに二人が消えていった方へと視線を向けている。ごうごうと吹き付ける風の音に混じって雪乃のヒステリックな声が聞こえた気がしたが、月彦はあえて聞こえないフリをすることにした。



 

 黒鳴館と銘打たれたその旅館は、名前ほどには黒くはなかった。遠目には真っ黒に見えた外壁も近くで見ればどちらかといえば灰色であり、それもその色に塗ったというよりは経年劣化と汚れでそういった色に落ち着いたという感じだった。
 とはいえ一度中に入ってしまえば暖房はしっかりときいていて、鼻を赤くしていたレミもラビもほっと息をついたのもつかの間。
「ひっ」
「わわっ」
 突然鳴り出した柱時計の音に、姉妹は互いに飛びつくように身を寄せて悲鳴を上げる。ぼぉーん、ぼぉーんとけたたましい音を立てるそれは振り子の部分だけでも子供の背丈ほどもある大きなものだった。
(…………なんか、嫌な感じがする時計だな)
 まるで耳を殴りつけるような激しい音を響かせる大柱時計は、設置されている高さのせいか、それとも振り子の独特のリズムのせいなのか。それはどこか首を釣った人間の体が揺れている様を彷彿とさせる。
 あまり、長居をする場所ではない――五感以外の感覚がしきりに警鐘を鳴らすのを感じる。いっそこのまま、キレた雪乃が旅行そのものをぶちこわしてくれないものかと月彦が祈るように思った時だった。
「おまたせー、ごめんね。ちょーっと雪乃に説明し忘れてたことがあって揉めちゃったけど、もう大丈夫よ」
「ごめんね、月島さん、レミちゃん。朝折角迎えにいったのに留守なんだもの、仕方なく紺崎くんと二人だけで来たんだけど、まさかお姉ちゃんが先に向かえに行ってたなんて知らなくって」
 恐らく怒りを必死に押さえ込んだ結果なのだろう。憤怒に歪んだ顔面を一度ぶあつい白粉で真っ新に整地し、新たに笑った目鼻口をとってつけたような、そんな不自然な笑みを浮かべる雪乃の姿は、少なくとも事情を知っている月彦の目には大変痛々しいものに見えた。
(…………先生、ファイトです)
 普段雪乃に対してはいろいろと思うことがある月彦だが、今日この瞬間に限っては同情せざるを得ず、応援の気持ちで一杯だった。
「さてと、じゃー手続き済ませてくるから、紺崎クン達は適当に寛いでて」
 弾むような足取りで、矢紗美が受付の方へと歩いて行く。なるほど、確かにロビーの一角にはソファとテーブルが備え付けられ、寛げるようにはなっている。ラビとレミが一足先にソファーに腰を落ち着けるのを横目で見ながら、月彦はそれとなく雪乃の方へと歩み寄った。
「先生、だいじょ――」
 うぶですか?――という言葉は、鬼気迫る表情でスマホを操作している雪乃の横顔を見るなり呻きへと変わった。
「先生、先生! 気を確かに!」
「大丈夫、紺崎くん。私は正気よ」
「それはむしろ正気を失いかけてる人しか言わない言葉です! 一体何を調べてるんですか!」
 雪乃のスマホを強引に覗き込み、これまた絶句する。表示されている検索サイトのテキストボックスに入力された”雪山”“事故にみせかけて”の単語に、嫌な予感どころの話ではなかった。
「ほら、深呼吸してください! 大丈夫、俺は先生の味方ですから」
「でも、いい加減処分しないと……」
「しょ、処分って何をですか! ていうか誰をですか! とにかく落ち着いてください!」 雪乃の体を覆っている漆黒のオーラを振り払いながら、月彦は声を落として囁きかける。
「“お泊まりデート”なら、別の日にやり直せばいいんですし、今回はこういう旅行に来たんだと割切って楽しみましょう」
「………………。」
 雪乃はしばし黙り込んだまま何かを思案し、そして渋々スマホを懐にしまった。ホッと月彦が安堵の息をついたのもつかの間だった。
「ちょっと……一部屋しかとれてないって、どうして!?」
 今度は矢紗美さんか――やれやれと肩を落としながら、月彦は受付へと足を運んだ。
「どうしたんですか?」
「それがさー、なんか一部屋しか予約出来てないんだって」
「申し訳ございません……あの、雛森さまから予約は一部屋だとお電話があったものですから……」
 受付の従業員が背を丸め恐縮そうに言う。ひどい猫背の大男で、もし胸を張って立てば30cmは高く見えるのではなかろうか。
「ってことは――」
 ちらりと、矢紗美が月彦の後方に目を向ける。
「ああ、電話をしたのは私よ? 何故か二部屋とってあるって言われたから、一部屋でいいって言ったわ。確かに」
 もちろん雪乃には悪びれた様子などない。きちんと予約がとれているかどうかの確認の電話をすることくらい人として常識だと言わんばかりに腕を組み、姉に向けて侮蔑と殺意の籠もった冷ややかな目線を向けている。
「………………なんとかもう一部屋とれないかしら。さすがに5人全員で一部屋っていうのはちょっと……ねえ?」
「はぁ……ですが、生憎と満室でして……」
 矢紗美と店員のやりとりになにやらモヤモヤと思い出されるものがあり、月彦は静かにその場を離れ、月島姉妹の元に身を寄せようとした。
「ん? 月島さん、レミちゃん、その人は…………」
 ソファに座っていた月島姉妹の傍らには見慣れぬ人影が鎮座していた。小柄な、和服を着た老婆で、月彦の視線に気づくやにこりと笑って立ち上がり、まるで足の裏についている車輪で移動しているのではという程に足の動きを感じさせない足取りで受付へと近づいていく。
「何か問題かしら?」
「ハッ……実は――」
 かくかくしかじかと、大男の店員が老婆に耳打ちをする。
「空室なら507号室があるでしょう。そちらに泊めてさしあげなさい」
 まるで開いた扇子を瞬時に閉じたような、ぴしりとした物言いだった。
「ハッ……しかしあの部屋は――」
 ごにょごにょと囁きあう大男と老婆のやりとりをなんとか耳で拾おうと、月彦が近づこうとした矢先、唐突にぐいと上着が引っ張られた。
「ねーねーぶちょーさん! アレ見て!」
「わっ、とと……れ、レミちゃん……どうしたの?」
「アレ! おとーさんの絵が飾ってある!」
「えっ……って、えええええ!?」
 興奮に鼻息を荒くしたレミが指さす先に飾られているのは一枚の絵画。絵自体はどうということもない――と感じるのは、絵の良さを感じるセンスが無いだけなのかもしれないが――風景画だが、その額の下に銘打たれた“月島公星”の名に、思わずレミと目を合わせてしまう。
「そういや……レミちゃん達のお父さんって……」
「私もおねーちゃんも、おとーさんの絵が飾ってあるところなんて初めて見たの! なんか感動して涙出てきちゃった……」
 見れば、ラビもまた両手を握ってふすーっ、ふすーっ、と鼻息を荒くしている。
「……よ、よかったね、二人とも……そういえば、さっきあのおばあさんと何か話をしてたみたいだけど、何の話をしてたの?」
「あ、うん……なんか、私たちみたいなお客さんが来るのは珍しいって言われたよ」
「俺たちみたいな客が珍しい……?」
 どういう意味だろうか。温泉に入れて、しかもスキーも出来る隠れ人気スポットではないのだろうか。
 そんな疑問が顔に表れていたからだろうか。レミがなにやら神妙な顔をして“奥様、これはココだけの話ですが”というようなポーズで身を寄せてくる。
「あのね、ぶちょーさん。この辺って、埋蔵金伝説があるんだって」
「埋蔵金!?」
「だから“そっち系”の客は多いけど、私たちみたいな普通のお客さんは珍しいんだって」
「んな……」
「おっまたせー! じゃあ、早速荷物置きにいこっか」
「や、矢紗美さん!? ってあれ、部屋は借りれたんですか?」
 指先に引っかけたルームキーをくるくる回す矢紗美とフロントを交互に見やる。先ほどの老婆の姿は無く、どこか仏頂面の雪乃と額に困り気味の笑顔を浮かべる従業員に、月彦もまた笑顔を返す。
「一応、ね。私と雪乃で一部屋、紺崎クン達で一部屋よ。そっちの鍵は紺崎クンに預けとくわね」
「俺と……月島さん、レミちゃんが同じ部屋ですか」
「さすがに女と男で分けちゃうとこっちが手狭だし、紺崎クンも一人で寂しいだろうし。かといって紺崎クンと雪乃を二人きりにするとナニするかわからないし、私と二人きりだと雪乃が暴れるだろうし、紺崎クンとレミちゃん月島さんどっちか一人だけ一緒にするっていうのもカドがたっちゃうし」
 他に選択肢はないと、矢紗美は肩を竦める。
「たしかに、そうですけど……」
 月彦はちらりと、まだフロントの側に立っている雪乃を見てから、矢紗美の耳に唇を寄せる。
「ていうか、一体全体どういうことなんですか。なんとなく、矢紗美さんが先生をハメたっていうのはわかりますけど……さすがに先生が可愛そうだと思うんですけど」
「だいじょーぶだって、あの子はこういうの慣れっこだから」
「………………。」
 月彦は、本日二度目の同情を禁じ得なかった。
「それに、雪乃から最近の紺崎クン、何か落ち込んでるみたいって聞いちゃったし。“そんな時”にあの子と二人きりの旅行なんて、息が詰まっちゃうでしょ?」
「そんなことは――」
 ない、とは言い切れず、“その沈黙”がおかしかったのか矢紗美がくすくすと笑う。
「だからさ。レミちゃんと月島さんも誘って、みんなでワイワイ騒いだ方が絶対気が紛れると思ったの。雪乃には悪いけど、普通に五人で旅行に行こうって言っても、あの子は絶対納得しなかったと思うし、かといって雪乃だけ仲間はずれっていうのも可愛そうじゃない?」
「それは……確かに……」
「とにかく、そーゆーわけだからさ。今回は別に裏なんて無いし、変に警戒したりせずに純粋に旅行を楽しんじゃいなよ」
「…………そう、ですね」
 今回は裏は無い――その言葉だけでは信じることは出来なかったかもしれない。しかし、矢紗美が月島姉妹を連れて来たことが“裏は無い”ことの証左のように月彦には思えるのだった。
(ただ単に先生をおちょくりたいだけなら、月島さんたちに声をかける必要はないしな)
 それこそ、二人きりのお泊まり旅行だとはしゃぐ雪乃の前にふらっと現れるだけで、雪乃をからかうという目的は達成されるではないか。そこをあえて月島姉妹に声をかけたということは、矢紗美自身純粋に合宿メンバーで旅行を楽しみたいと考えている証ではないか。
(…………先生と二人きりじゃ、息がつまる……か)
 雪乃の手前、おおっぴらに頷くことこそ出来ないが、かといって否定することも出来ない。元気な時ならいざ知らず、精神的に参ってる時であれば尚更だろうという――そこまでの気遣いが出来る矢紗美に、月彦は尊敬を感じずにはいられない。
(…………なんていうか、やっぱり先生とは違うよなぁ)
 見えているものが違うというべきか。最初は何故こんなむごい仕打ち(主に妹に対して)をと思ったが、説明を聞いてみればなるほどと納得せざるを得ないことばかり。
(…………なんだかんだで“お姉ちゃん”なんだろうな。うん)
 弟が姉に勝てないように、妹もまた姉には勝てないものなのかもしれない。
「えっ、トイレ? ちょっと待っててね、おねーちゃん。あのー! すみません、おトイレは――」
 とてとてと従業員の方に駆けていくレミと、もじもじしているラビの姿を視界に捉えないように体の向きを露骨に変えながら、月彦は頷き続ける。
「あっ、そういえば矢紗美さん」
「なーに?」
「ほら、さっきお婆さんとフロントの人と三人で何か喋ってたじゃないですか。一体何の話だったんですか?」
「あー………………アレねえ。全然たいした事じゃないから気にしないで」
「いやでも……なんか深刻そうな顔してたように見えましたけど……」
「うん。まあ……なんていうか……“出る”らしいのよ」
「出る……?」
落ち武者だとか、なんかそういう類いのヤツ。でも大丈夫、私も雪乃もそういうの全然気にしないタチだから」
「ちょ、ちょっと待ってください! つまり、幽霊が出るって噂の部屋に、矢紗美さんと先生は泊まるってことですか?!」
「あのね、紺崎クン」
 ちらりと、矢紗美は一瞬だけ受付の従業員の方へと目を向け、ひそひそ声で続ける。
「“こういうの”はね、気にしなきゃどーってことないの。それに他に空いてる部屋がないって言われたら、嫌でも泊まるしかないじゃない」
「そ、それがおかしいと思うんですよ! だって、駐車場には全然車なんてなかったじゃないですか! なのに満室って……」
「それは私も変だと思ったけど……でも、一部屋一部屋ちゃんと宿泊客が居るか確かめるわけにもいかないじゃない」
「でも……」
「だーいじょうぶだって。そもそも考えてみて? どうして旅館の五階の部屋に落ち武者の霊なんて出るの? 一階や二階っていうんならまだ分からなくもないけど、五階に出るってそもそも不自然だと思わない?」
「そりゃあ……何か理由があるのかも……」
「それに、もし幽霊が出るっていうのが本当で、しかも宿泊客に危害を及ぼす可能性が僅かでもあるなら、そもそもどんな理由があっても客を泊めたりしないでしょ? ていうことはつまり――」
 矢紗美はまたチラリと、従業員のほうを盗み見る。
「“幽霊が出る部屋がある”って、広めたいだけってことになるわけ。ね? 全然危なくなんかないでしょ?」
 それに、と。矢紗美は月彦に渡した部屋の鍵と、自分が持つ部屋の鍵の部屋番号を交互に指さす。
「見て? 幽霊が出るーって言われた部屋が507号室。で、紺崎クン達が泊まる予定の部屋が506号室。無理を言って融通してもらったいわくつきの部屋が予約できていた部屋の隣だなんてありえなくない?……多分だけど、この507号室って、最初に私が予約した部屋じゃないのかなーって思うのよね」
「……言われてみれば……なんか出来すぎな話ですね」
「そういうコト。……もし紺崎クンが幽霊見て見たいーっていうんなら、代わってあげてもいいわよ?」
「いえ、遠慮します。……万が一ってこともありますから」
 前に幽霊に殺されかけたことがある――とまでは、さすがに言えない。恐らく矢紗美も信じないだろう。
「ねえ」
 突然、矢紗美との間に割って入るかのように声を出したのは雪乃だった。
「お姉ちゃん、もしかして……“後輩の子の実家がやってる旅館”っていう話も嘘だったの?」
「あー、アレねー。後輩の子の実家が旅館やってるってのは本当よ? ただ、ここのことじゃないけど」
「どうしてそういう意味の無い嘘をつくの?」
「あのね、雪乃。特に理由も無くつく嘘だから、意味のない嘘って言うのよ?」
「すとーーーーっぷ! 先生ほら、落ち着いてください! 月島さんたちも居るんですから……」
 放っておけば今にもつかみ合いの喧嘩を始めかねない二人の間に再度割って入る形で、月彦は矢紗美と雪乃を引き離す。
「そうよ、雪乃。あんたも少しは大人になりなさい」
「どの口が……!」
「だからダメですって! 矢紗美さんも煽らないで下さい!」
 仲裁を続けながら、月彦は危惧せずにはいられなかった。出るかどうかも分からない落ち武者の霊などよりも、この二人が同室で宿泊する方がよほど危険なのではないか、と……。



「わあー! すっごく広い! あはっ、ベッドもふっかふかだー!」
「だー!」
 部屋に荷物を置くなり、興奮して走り回るレミとラビの姿を、月彦はほっこりとした気分で見守っていた。
(“あっちの姉妹”と違って、月島さんとレミちゃんはほんと仲がいいなぁ……)
 寝室で小さなキャビネットを挟んで設置されているベッドの上でぽよんぽよんと跳ねながら、月島姉妹は黄色い声を上げ続ける。
「……ベッドは二つだけ、か。てことは、あとで布団でも持って来てくれるのかな」
 部屋の中を見渡す。十畳の和室と、洋風の寝室にはベッドが二組。和室の方にはテレビも備え付けられていて、ベランダはなし。代わりに窓の外には一面雪化粧に彩られた山肌が広がっていた。
「れ、レミ……てれび、つけよ!」
「あっ、そうだね、おねーちゃん! テレビ見よう!」
「…………そっか。月島さんちのテレビって映らないんだっけ……」
 幸い、テレビは傍らに料金ボックスがあるタイプではなく、一部のチャンネル以外は普通に見れるらしかった。
(…………すごい。二人とも目が輝いてる)
 並んで正座し、何ということのないバラエティ番組を見ている月島姉妹の後ろ姿は涙を堪えきれないものがあり、月彦は思わず目元を覆ってしまった。
 どんどんと、ドアがノックされたのはその時だった。
「はいはい、今でまーす……って、矢紗美さんですか」
「良かった。まだ二人には手を出してないみたいね」
「出しません!」
「ホントのホントに襲っちゃダメよ? どーしても我慢できなくなった時は言ってくれればいつでも相手してあげるから」
「……先生に聞かれたら洒落にならないんで、冗談でもそんなことは言わないでください」
「あはは、それもそーね。……で、これから早速お昼食べて滑りにいこうかなーって思うんだけど、準備出来てる?」
「えーと……はい。多分……」
「んじゃ、先に雪乃と一緒に下で待ってるから、レミちゃんと月島さん連れて降りてきてね」
「はい。すぐに行きます」
 矢紗美を見送り、ドアを閉める。
「月島さん、レミちゃん、矢紗美さんがお昼食べて滑りに行こうってさ」
「あっ、そっか……スキーするんだった!」
 ぴょんと、レミが跳ねるように立ち上がり、月彦の隣に並ぶ。
「……あれ、レミちゃん…………着替えとかは?」
「えっ? ちゃんと鞄の中にいれてあるよ?」
 レミが言うのは、恐らく“下着の替え”という意味の着替えだと、月彦は推測した。
(……てことはやっぱり、体育用のジャージで滑りにいくのか……)
 スキーを甘く見ているのではなく、恐らく他に“運動用の汚れても良い私服”を持っていないのだろう。
(…………いくらなんでもこの格好でスキーは風邪を引いちゃうよな。後で矢紗美さんに相談してみるか)
 雪乃に相談してみる、という選択肢は浮かびもしなかった。
「ほーらー! おねーちゃん、テレビは後! スキー行くよ!」
「ぁぅ……」
 レミに腕を引かれる形で立たされ、ラビはしぶしぶテレビの前から引きはがされる。
(……何だろう、レミちゃんに怒られてる月島さんを見てると、すっごいモヤってする…………)
 それでも“姉”かと。ラビ一人のせいで、“お姉ちゃんがさいつよ!”という自慢の説の信憑性が脅かされているからなのかもしれない。
(……由梨ちゃんも“お姉ちゃん”で、しっかりしてたし……矢紗美さんも言わずもがなだし……。ホント、どうして月島さんだけが…………)
 いっそ、実はレミの方が姉だったというどんでん返しはないものかと、そんな思案を抱きながら二人と共に部屋を出、エレベーターへと向かう。
「わっ、見て、ぶちょーさん」
「うん?」
 レミが指さしたのは、エレベーターへと通じる通路の傍らに飾られている、五体の西洋人形だった。畳一畳分ほどの台座に座らされている人形はみなピエロのような格好をしていて性別は不明。顔の造作も似てはいるが全く同じではなく、焦点の合っていない目と笑顔の形に開かれた口だけが一致していた。
「随分と古びた人形だな。それになんか……」
「怖い……っていうか、気持ち悪い……」
 ぎゅっと。レミがしがみついてくる。ラビも同様に思うのか、月彦の服の裾を握りしめている。
(……いやな符号だな)
 人形のうち三体が黒髪で、二体が金髪に蒼い目というのが、不吉な予感を増大させる。
「……ねえ、この人形……さっき部屋に行く時もあったかな?」
 レミに言われて、月彦もまたハッとする。先ほど最初に506号室に向かう際も、同じ通路を通った筈だが、その時は人形に気がつかなかったというのも妙な話だった。
「あった……と思うけど、まあたまたま気にならなかったんじゃないかな。と、とにかく矢紗美さん達が下で待ってるから、少し急ごうか」
「そ、そうだね……おねーちゃん、行こ?」
 こくこくと頷くラビとレミを伴い、月彦は足早にエレベーターへと向かった。


 スキー場は、旅館からバスで三十分ほどの距離にあるらしい。月島姉妹と共にロビーに降りると丁度正面玄関前にバスが到着した所だった。
「紺崎クン! こっちこっちー!」
 矢紗美に急かされる形で小走りにバスへと乗り込む際、月彦はさりげなく矢紗美の隣へと陣取った。程なく、バスがなんとも重たそうな音を立てながら発進する。月彦はちらりと、すぐ後ろの座席に座っている雪乃の様子を横目で確認してから、矢紗美に耳打ちをした。
「……すみません、矢紗美さん。ちょっと相談が……」
「ひょっとして、月島さん達のコト?」
「……! そうなんです! さすがにあの格好じゃ寒すぎると思って……」
「丁度私も同じ事を考えてたの。さっき電話で問い合わせしたら、スキー用品だけじゃなくてスキーウェアとかの貸し出しもしてるって話だから、あっちに着いたら月島さん達には着替えてもらいましょ」
「良かった……さすが矢紗美さんです」
「二人で何こそこそ話をしてるのかしら?」
 不意に影が差して――何事かと思えば、背もたれの上から雪乃が覗き込んでいた。角度のせいだろうか。白目部分がいつになく多く見える雪乃の目はそれだけで怖く、正気をあまり感じさせないその眼差しに月彦は背筋を冷やした。
 そんな雪乃が突如にっこりと微笑み、封の開いた菓子袋を差し出してくる。
「紺崎くん、マシュマロ食べる?」
「え……と……い、頂きます」
 雪乃が差し出した――どういうわけか、徳用の――菓子袋からマシュマロを一つつまみ、口の中に放り込む。甘みなど微塵も感じず、むしろ苦味ばかりが口の中に満ちる。
「お姉ちゃんも、ほら。毒なんて入ってないから」
「……そーね。じゃあ一つだけもらうわ」
 矢紗美もまた笑顔で切り返し、マシュマロを摘んで口の中へと放り込む。
「あんまり美味しくないわね、コレ」
「そうかしら。お姉ちゃんの舌の問題だと思うけど」
 笑顔のまま火花を散らし、雪乃はゴゴゴと――さながら山の頂上から顔を覗かせていたダイダラボチが山の向こう側に身を潜めるような動きで座席へと腰をおちつける。
「月島さん達もマシュマロ食べる?」
「わぁっ、せんせーありがとー!」
 後方から聞こえて来る二人の声(と、辿々しいラビの声)に、ホッと安堵の息。膝の上に置いていた手に唐突に矢紗美が指を絡ませてきたのはその時だった。
「んなっ……!」
「ねぇ、紺崎クン。……今ここで、私にキスできる?」
「ちょっ……な、何言ってるんですか! 出来るわけないじゃないですか!」
 キスどころか、こうして指を絡ませ合っているところを見られでもしたら、それだけで雪乃がどうなってしまうかわからない。月彦はなんとか矢紗美の手をふりほどこうとするが、指と指をしっかりと絡まされていて引きはがすことが出来ない。
 ぷっ、と。矢紗美が噴き出したのはその時だった。
「うーそ、嘘。冗談、もーっ、紺崎クンってば、本気で狼狽えちゃって、かーわいいっ」
「何? お姉ちゃん一体何をしたの!?」
 再びずずいと、雪乃が背もたれの上から覗き込んできた時のは、矢紗美の手が離れた後だった。
「べっつにー? こっそりエッチなことしない?って誘ってみただけですけどー?」
 ギリッ――ひょっとしたら奥歯が欠けたのではないかというほどに、雪乃の歯ぎしりが“音”で聞こえた。
「…………紺崎くんもさ、ちょっと不用心よね。お姉ちゃんには気をつけてって、あれほど口を酸っぱくして言ってるのに。どうして隣に座っちゃうかな?」
「あっ……あーーーーっ、先生! 矢紗美さん! ほらっ、外見てください。あれってスキー場のリフトじゃないですか? もうすぐ着きそうですね! た、楽しみだなーーーっ!」
「へぇ、結構人多そうじゃない。安心したわ、お姉ちゃんの紹介の割にはまともそうなスキー場で」
「ホント、想像してたより随分人多いみたい。でも良かったわぁ、バカみたいにガタイのいい雪乃がいるから、遠目でもいい目印になりそうだし。レミちゃん達が迷子になっちゃう心配だけは無さそうね」
「ちょ、ちょっと……二人とも……」
「……気をつけてね、お姉ちゃん。雪山って意外と事故が多いらしいわよ?」
「あんたこそね。ぼけっとしてリフトから落っこちるんじゃないわよ?」
 ニコニコ笑いながら泥団子をぶつけ合っているような、そんな二人の間に居続けることに耐えかねて、月彦はこっそり脱出を計ることにした。
「……れ、レミちゃん、月島さん。ここいいかな?」
 左斜め後方の座席に仲良く並んで座っていた月島姉妹のとなりに補助席を出し、月彦はどうにか災禍を免れることに成功した。
「あっ、ぶちょーさん! ぶちょーさんもマシュマロ食べる?」
「これ、もしかして先生にもらったやつ?」
「うん。せんせーがもういらないから、って。………………もしかして、喧嘩してるの?」
 徳用マシュマロ袋をラビに渡し――受け取ったラビはさも嬉しそうにむしゃむしゃと食べ始めて――レミが手を“内緒の話”の形にして身を寄せてくる。
「あぁ……いや、喧嘩じゃなくって…………先生と矢紗美さんってだいたいいつもあんな感じなんだよ」
 不安がることはないと、月彦は笑顔を零す。
「…………そういや、レミちゃん達ってスキーは経験者?」
「ううん。私は初めてだし、多分おねーちゃんも……」
 レミが窓側席に座っているラビへと目を向け、つられて月彦もラビを見る。
(……うわ。月島さん欲張りなハムスターみたいになってる)
 雪乃からレミに、レミからラビへとバトンタッチされた徳用マシュマロを美味しそうに頬張りながら、ラビは雛森姉妹のギスギスしたやりとりなどどこふく風で雪景色に見とれているようだった。
(……お腹が空いてたのかな……でも、スキー場についたらみんなで昼ご飯食べるんじゃなかったっけか……)
 途中、雪乃と一緒にサンドウィッチを食べた為、あまり腹は減っていないが、恐らく矢紗美の車で来たラビ達は普通に腹を空かせているのではないか。
(……まぁでも、月島さんっていっぱい食べるし、大丈夫だろう)
 雪乃の弁当を三人で食べた時のことを思い出し、月彦は小さく頷く。
「ぶちょーさん?」
「ん? あぁ、いや……なんでもないよ。スキーは俺もあんまり滑れないんだけど、先生がスキーかなり巧いらしいからさ。いい機会だし、三人で一緒に教えてもらおうか」
「うん! レミね、前の合宿の時は雛森せんせーとは全然おしゃべり出来なかったから、今日はすっごく楽しみにしてたの!」
「そ、そうなんだ……」
 その期待を裏切らなければいいけど――口の中だけで、月彦は一人ごちる。
「……そういやさ、レミちゃんと月島さんは矢紗美さんの車で来たんだよね?」
「うん、そうだよ?」
「ひょっとして、旅行の連絡も矢紗美さんから直接?」
「うん! 一昨日くらいだったかな? いきなり矢紗美おねーちゃんから電話がかかってきて、連休旅行しよーって」
「へ、へぇ……レミちゃん、矢紗美さんと連絡先交換とかしてたんだ……」
 一体いつの間に――はたしてそれはレミから言い出したのか、矢紗美から言い出したのかで意味合いが全く異なってくるのだが、月彦にはそれを訪ねる勇気が無かった。
「ま、まぁ……でもほら、良かったね。旅館についたばっかりの時はすっごい吹雪いてきてたからさ。もしかしたらスキー出来ないんじゃないかって思ったけど、大分治まってきたみたいだし」
 さりげなく窓の外に目をやると、レミももつられるように窓の外へと視線を向ける。まだ粉雪がぱらぱらと風にそよいではいるものの、スキーをやるにあたっての影響は皆無と言えるだろう。

 ……………………コロ……ヤ……ル。

「ん? レミちゃん、何か言った?」
「んーん? 何も言ってないよ?」
 月彦はラビの方へと目を向ける。ラビもほっぺをまん丸にしたまま月彦の方を見ていて――目が合うなり、顔を真っ赤にして窓の外へとそっぽを向いてしまった。
「……気のせいかな」
 振り返れば、矢紗美と雪乃もいつのまにかギスギスしたやりとりを止めてそれぞれに座席に憮然とした顔で鎮座している。或いは先ほどの呟きは雪乃の恨み言かもしれない。
(…………でも、先生が居る方ではなかったような……)
 強いて言うなら、ラビが目を向けていた方――矢紗美の座っている辺りからではなかったか。
(…………まさか、な)
 カッと頭に血を上らせた雪乃が手を出すことはあっても、その逆はないだろう――やはりただの空耳だ。
 月彦はそう結論づけ、“この件”について考えるのを止めた。


「はーい、それじゃー三人とも、まずはボーゲンから覚えてもらうわよ」
 ぱんぱんと雪乃が手を叩き――といってもスキー用の手袋をつけているから素手ほど音は響かないが――声を上げる。見渡す限り白銀のゲレンデには色とりどりのスキーウェアとその持ち主がひしめき合っている。盛況しているというよりは、混雑しているという表現の方が正しくすら思える初心者用エリアの一角で、月彦、ラビ、レミは雪乃の指導を受けていた。
「ちなみに、紺崎くんはボーゲン出来る?」
「えっと……八の字にしてゆっくり滑るやつですよね?」
「そうそう。出来るなら、ちょっと月島さん達にお手本見せてあげて」
「えええ!? お手本なら先生がやったほうが……」
「これも練習の一環よ。丁度そこに良い感じの坂があるから、とりあえず滑ってみて」
「わ、分かりました……」
 雪乃に言われるままに、ストックを支えにしながらえっちらほっちら小さな坂を上り、ぎこちないボーゲンでズズズと滑り降りる。
「うん! いい感じだったわよ。とまぁ、これがボーゲンなわけだけど、どう? 月島さん、レミちゃん。出来そう?」
「はいはーい! レミやってみたーい!」
 ぴょんと飛び跳ねそうな勢いで手を上げたのは、ピンク色のスキーウェアに身を包んだレミの方だ。サイズ違いの黄色いウェアに身を包んでいるのはラビで、実は二人のウェアは最終的にレンタルではなく買い取りとなる予定であることは、今のところ月彦と矢紗美しか知らない秘密だ。レミの物もラビの物も蛍光色などは一切使わず、その気になれば普段の外出着としても十分通用するデザインのものをあえて選んでいる辺り、やはり外出用の運動着すら不自由している月島姉妹を慮ってのことだろう。
(……試供品を特別にタダでもらえた――って、適当にごまかすって言ってたけど…………月島さんはともかく、レミちゃんは感づいちゃうんじゃないかな)
 月彦としては、あくまでレンタルしてもらえるように頼むつもりだっただけに、まさか矢紗美が買い取るとは思いも寄らなかったのだ。ちなみに当の本人はといえば、スキー場に到着して五人で昼食をとった後、ウェアと道具を借りるなり一人上級者用エリアの方へと行ってしまった。
(……ひょっとしたら、一緒に居たら先生と口げんかになっちゃうから気を利かせた――のかもしれないな)
 バスの時のように、二人の間でハラハラしなくて済むという意味では、矢紗美の気遣いがありがたかった。
「わっ、とと……きゃんっ!」
 突然の悲鳴に、月彦はハッと我に返る。見れば、先ほど自分がボーゲンで滑り降りた小さな坂でレミが思い切り尻餅をついたところだった。
「れ、レミちゃん、大丈夫!?」
「あいたたた…………だ、だいじょーぶ…………自分で立てる……」
「ちょっと体重を後ろにかけすぎちゃったわね。怖いのは分かるけど、体重は爪先にかけるようにしたほうがかえって安全よ、レミちゃん」
「はぁーい……」
 よろよろとストックを杖代わりにしながらレミが月彦の隣へと戻ってくる。
「ぶちょーさんがやったときはすごく簡単そうに見えたけど……」
「実際にやってみたら難しかった?」
 こくりと、レミが小さく頷く。
「さて、次は月島さ――……あれ、月島さんは?」
「あれ?」
「おねーちゃん!?」
 はたと。先ほどまでラビが居た場所に目を向ければ、そこにはラビが履いていたスキー板とストックだけがぽつねんと残されていた。
「まさか…………おねーちゃん、迷子に……」
 レミの呟きに、月彦は肝を冷やし、辺りを見回した。スキー場の広さはいつぞやの動物園の比ではない。こんなところでラビに迷子になられては探し出すのも――。
「あっ、居た居た。もぉ、月島さん、勝手に居なくなっちゃダメでしょ!」
 しかし、月彦の杞憂はあくまで杞憂のままに終わった。ラビは20メートルと離れていない場所で大きな雪玉を転がしているところを目聡く雪乃に見つけられ、殆ど首根っこを掴まれるように連行されてきた。
「おねーちゃん……」
 はぁ、と。レミが大きくため息をつく。一方月彦はといえば、やはり月島姉妹は生まれる順番を間違えていると思う反面、ひょっとして霧亜の目には自分もあのような姿に映っているのではないかと、思わず引きつった笑みを浮かべてしまう。
「はーい、それじゃあ月島さんもレミちゃんと同じようにボーゲンやってみて」
「ぼーげ、ん……?」
「こんな風にスキー板を八の字にして、あそこの坂を滑り降りるんだよ」
「う、ん! わかっ、た!」
 返事は気合い十分だった。が、ラビはなんとももたついた手つきでスキー板を装着し、ストックを手にえっちらほっちら坂の上へと移動する。
「……案外、俺たちの中で月島さんが一番滑れるかもしれないな」
「えっ……?」
 不意に漏らした呟きに、レミが鋭く反応した。
「どうしてそう思うの? ぶちょーさん」
「いや、ほら……月島さんって一見鈍くさそうっていうか……不器用そうだけど、逃げ足とかメチャクチャ早いし……走るのもジャンプとかもスゴいし、実は運動神経とかスゴいんじゃないかって――」
「わきゃっ! んぷっ!」
 月彦の言葉は、なんとも不自然な悲鳴によって中断された。ハッとして坂の方に視線を戻すと、一体どういう転び方をすればそんな姿勢になるんだと首を傾げたくなるようなポーズでラビが斜面の終わり際に落着していた。
「……なっ、ちょ……つ、月島さん!?」
 さながら、ヨガを極めた達人が自分の体の限界にチャレンジしたかのような。目を逸らさず見ていた筈の雪乃ですら、目を点にしたままあんぐりと口を開けていた。
「だっ――」
 しかし、さすがは教育者。雪乃の制止は決して長くはなかった。
「大丈夫!? 月島さん! 大変……骨折しちゃったかしら」
 骨折――その単語に、月彦もまた惚けていられなくなった。慌てて雪乃の後に続こうとして――自分がスキー板をつけたままであることを忘れて――危うく自分も転びそうになった所を、レミに辛くも支えられた。
「危ないよぶちょーさん!」
「あ、ありがとう、レミちゃん……でも、月島さんが……」
「あー……うん。大丈夫だよ、多分」
「いや、大丈夫って……」
 もし自分がラビと同じ姿勢を取ろうと思ったら、それこそ間接の2つや3つ外したくらいじゃとてもおいつかないだろうと――そんなことを考える月彦の前で、レミは小さくため息をつく。
「…………おねーちゃんって、極端なんだよね。ステータスが」
「ステータスが極端……?」
 ため息混じりに呟かれたレミの言葉に、思わず月彦は反応した。
「おねーちゃんって、何をやるにも0か100なの。めちゃくちゃ得意か、めちゃくちゃ苦手か。中間がないの」
 つまり、“滑る方の運動神経は0の方”なのだと、レミは言いたいのだろうか。
「えっ……ちょっ……つ、月島……さん? それ、平気……なの?」
 呆れすら混じったような雪乃の呟きに、今度は雪乃の方へと体を向ける。見れば、あれほどしっちゃかめっちゃかな姿勢で転がり落ちたというのに、ラビはもうけろりとした顔で立ち上がっていた。
「…………おねーちゃん、めちゃくちゃ体やらかいもん。だから怪我とかにはすっごい強いんだよね」
「……そっちは“100の方”なんだ……」
 ホッと、月彦が安堵したのもつかの間。耳が、風きり音のようなものを捉えたと思った時には――
「わぷっ」
「きゃっ」
 ズシャアアア――そんな凄まじい音を立てて、月彦もレミも局所的な吹雪に見舞われ、全身を雪まみれにされていた。
「こーらー! お姉ちゃん! 危ないじゃない!」
「おね…………や、矢紗美さんですか?」
 全身の雪を払いながら見てみれば、真紅のスキーウェアに身を包み今まさにゴーグルを外そうとしているのは紛れもなく矢紗美だった。その足にはスキー板ではなく、スノーボードが装着されている。
「ごめんごめん。本当は雪乃にかけるつもりだったんだけど、ちょっとスピード乗りすぎちゃってさー」
「すっっごぉい! 矢紗美おねーちゃんかっこいーーーー! 今のもっかいやって!」
 月彦同様雪まみれにされたというのに、レミは両目をキラキラさせながら「もう一回」とおねだりを繰り返す。
「あら、ホントに? じゃあもう一回、今度こそ雪乃にだけかかるように――」
「はいはい、いい年して子供みたいなことしてないで! お姉ちゃんは一人で上級コースでも熊の巣穴でも好きなところ行ってきて! 邪魔よ、邪魔!」
 しっ、しっ――汚い野良犬でも追い払うように雪乃が間に割って入ってくる。そのスキーウェアは姉のそれに対抗するように青を基調としていて、そんな二人を見ていると自然と“水と油”という単語が頭に浮かぶ。
「そーだ、ねえ雪乃。折角だし、久々にアレやらない?」
「アレ…………って、まさか――」
「リフトで行ける一番上の所からスタートして、ゴールはココ。負けた方は今夜の酒代持つってのでどーお?」
「ズルいわよ、お姉ちゃん! そんなの、一度滑ってるお姉ちゃんが圧倒的に有利じゃない!」
「あら、じゃああんたが同じように滑ってくるまで待って、条件同じにしてあげてもいいわよ?」
 そう言い、矢紗美は意味深な流し目を向けてくる。遅れて、月彦はその目が意図するところ――正しくは、雪乃がどう思うかまで計算されての流し目なのかを理解した。
「くっ…………いーわよ! 上等じゃない、ハンデありでやってやるわよ!」
「待ってください、先生! 何をするのか分かりませんけど……多分、競争するってことなんですよね? そんなことして、もし怪我でもしたら……」
「大丈夫、紺崎くん。ぜーーーったいお姉ちゃんには負けないんだから」
「いや、勝ち負けとかじゃなくってですね、危ないから止めた方がいいって――」
「安心して、紺崎クン。雪乃とはもう100回くらい“滑りっこ”やってるけど、私も雪乃も転んだことなんて一度もないから」
「いやでも、今日が最初の一回目にならないという保証は……」
「ねっ、ねっ、せんせーも矢紗美おねーちゃんみたいにズシャアって出来るの!? レミ見てみたーい!」
「ちょっ、レミちゃんまで……つ、月島さ――んも乗り気なのか……」
 両手で握り拳を作り、まるで雪乃を応援するように鼻息を荒くしているラビの姿を見るなり、月彦は反対している自分こそがマイノリティであることを知った。
 ぽむと、そんな月彦の肩に何者かの手が乗せられた。
「……先生?」
「大丈夫よ、紺崎くん。そもそも、スキーとスノーボードじゃ、スキーのほうが有利なんだから。絶対負けないわ」
 いやだから、負けるから止めてほしいのではなく、怪我をするかもしれないから止めてほしいんです――そう言ったところで、雪乃には通じないであろうことがなんとももどかしかった。
 そんな月彦の心配はつゆ知らず、雪乃はといえばちらちらとラビとレミの注意が矢紗美のほうに集中しているのを確認してから、すすすと耳元に唇を寄せてくる。
「勝ったら、ごほうびのキス、よろしくね。紺崎くん」
「えっ……ちょっ、せんせっっ…………待っ……」
 キャー!言っちゃった!――そんな心の叫びが聞こえてきそうなほどの――ストックを使った――猛ダッシュで、雪乃が遠ざかって行く。
「あらあら雪乃、やる気まんまんじゃない。じゃあ、私も行ってくるわね。一時間もしないうちに戻ってくると思うから。私が勝ったら、スキー場名物のゲレ食なんでも好きなのオゴっちゃう! 応援よろしくね!」
 遅れて、矢紗美がその後を追う。やがて二人の姿はゲレンデの人混みの中に紛れ、完全に見えなくなった。
「ね、ね、ぶちょーさん。どっちが勝つと思う?」
「やさみ、さん、速っ、かった! 雛森、せんせっ、もっ、速い?」
「……どう、かな」
 どちらにしろ、無事降りてきて欲しいと願うばかりの月彦だった。


 初戦を制したのは矢紗美だった。雪乃は負けじと二戦目を挑むがこれも負け、三戦目も負けた。いい年をした大人達がそうやって張り合っている間、月彦達もただぼけっと待ち続けるわけにもいかず、練習用の坂を使って独自に練習を重ねるうちに徐々にではあるが上達していった。

 ――約一名を除いて。

「大丈夫だよ、レミちゃん。先生も言ってたけど、体重が後ろにかかりすぎるとかえって危ないから」
「う、うん……わかってるけど……きゃあ!」
 すてーんと、レミが盛大に尻餅をつく。
「あいたたた…………」
「大丈夫? レミちゃん」
「うーっ……ダメだなぁ……どうしても及び腰になっちゃう」
 レミの手を引き、立たせてやる。
「ここから見てても、思いっきり腰が引けちゃってるからね……巧く直せればいいんだけど」
「……ごめんね、ぶちょーさん。私が巧く滑れないから……」
 ちらりと、レミが初心者エリアの外の方へと目を向け、月彦もそれに習う。遙か彼方から、黄色いウェアを来たラビが風を切りながら戻ってくるのが見えた。
 ずざざざざっっっ!――月彦とレミの目の前で、ラビがパラレルターンをかけるようにして止まる。さすがに二人を狙いこそしてないものの、その所作は既に初心者のそれとは思えないほどに上達していた。
「す……げ……」
 思わずあんぐりと口が開いてしまう。見れば、レミもまた呆気にとられていた。
「れ、レミ! 月彦っ、くん! スキー、おもしろい!」
 ラビはスキー板を履いたまま器用にぴょんぴょんと跳ね、鼻息を荒げながら再びリフト乗り場の方へと戻っていった。
「…………いや、仮にレミちゃんが俺と同じくらい滑れても、“アレ”についていくのは無理だったんじゃないかな」
「ううぅ……おねーちゃんよりは絶対滑れる方だと思ってたのに……」
 そう、確かにラビは最初こそ酷かった。しかし一度派手に転んで以降の成長がすさまじかったのだ。スキー板を八の字にしてゆっくり坂を下りるのが関の山の月彦などマッハで追い抜き、ほんの1,2時間のうちに中級コースを自由自在に滑り回るほどの腕前になったラビの方を褒めてやるべきだろう。
「……大丈夫だよ、レミちゃん。月島さんもちゃんと“お姉ちゃん”だったってことさ」
「…………?」
 まだ中学生のレミには、“お姉ちゃんが最強説”は受け入れがたくまた信じられないかもしれない。月彦はあえて説明はせず、意味深な微笑みを浮かべるに留めた。
「とりあえず、少し休憩いれようか。俺ちょっと飲み物でも買ってくるよ。何か飲みたいのある?」
「ありがと、ぶちょーさん……ええと……暖かいコーンポタージュがあったら…………出来れば、その……おねーちゃんの分も……」
「はは、りょーかい。じゃあ、とりあえず一端解散で。俺は飲み物買ったらここに戻ってくるから」
 スキー板を外し、売店の方へと歩き出すや、レミもまた板を外して別の売店の方へと一目散に駆けていった。
(……やっぱり我慢してたのか)
 トイレくらい、気軽に言ってくれればいいのにと思うのだが、そこはそこ。レミなりの気遣いか、理由があったのかもしれない。
(まあ、確かに……教えて貰ってる途中で“ちょっとトイレに……”ってのは言い出しにくいのかもしれないな)
 そんなことを考えながら売店の前へと移動し、コンポタが売ってる自販機を探していた時だった。
「ちょっと、そこのあんた」
 突然声をかけられ、月彦は振り返った。声をかけてきたのは、小柄な――そして間違い無く面識のない年老いた――恐らく70前後だろうか――男だった。
「よそから来た人だろ。ゲレンデは飲食物の持ち込みは禁止だから、飲むならここで飲んでから戻ってくんな」
「えっ……だって……ここで売ってるのに、持って行っちゃダメなんですか?」
「すまんが、そういう規則なんだ」
「そう、なんですか……わかりました」
 男自身、腑に落ちない規則であると自覚しているような口ぶりだった。毛糸の帽子を目深に被り、ねずみ色のジャンバーの襟元にはしっかりとマフラーが巻かれている。右手に竹箒を、左手にちりとりを持っている所をみれば、観光客などではなく間違い無くゲレンデ側の用務員か何かだろう。
(…………確かに、飲み終わった缶とかをその辺に捨てたりされたら、危ないどころの話じゃないか)
 仕方ない、一端戻ってレミとラビを連れてこよう――そう思って出しかけていた財布を終い、踵を返した時だった。
「あっ」
 という声が、再び背後から聞こえた。
「……ほんと、すまねえな。上から注意しろってきつく言われてるんだ。気ぃ悪くしないでくれな」
「あっ……いえ、別にそんな……友達に飲み物買ってくるって言ってたんで、そういう規則なら友達をここに呼んでこようと思っただけですから」
 怒って帰ろうとしたわけではないと、月彦が微笑を返すや、男はホッとしたように笑みを零した。
「そうか……わかってもらえたなら良かった」
「確かにゲレンデ内でポイ捨てとかされたら危ないですしね。仕方ないと思います」
 男は同意するように、うんうんと何度も頷く。
「……お客さんの悪口は言いたかねぇが……みんな兄ちゃんみたいに考えてくれりゃあ、俺たちの仕事も楽なんだがなぁ」
 他の客はそんなにマナーが悪いのだろうか――訪ねてみようかと思ったが、男の“客の悪口は言いたくない”という言葉を尊重し、月彦はグッと言葉を飲み込んだ。
「兄ちゃん、いいことを教えておいてやる。今日はな、早めに切り上げて帰った方がいい」
 男はそう言い、天の機嫌でも伺うように、そっと上目遣いに空を見る。
「綾見岳の方からぬるい風が吹き始めた。…………野雪様の機嫌が悪い、今日は夕方から吹雪になるぞ」
「のゆきさま……?」
 あっ、いっけねぇ――そんな呟きが聞こえてきそうな具合に、男がぺしんと己の額を叩く。
「すまねえ、つい癖でな。…………野雪様ってのは、昔、ここら一体を治めてた大名の娘の名前だ。親の大名の名前よりも、娘の名前の方が有名ってんだから皮肉なもんだな」
 つっても、さすがによそから来た兄ちゃんは知らねぇか――男は独り言のように付け加えた。
「初耳です、けど……どんな人だったんですか?」
「興味あんなら聞かせてやるが……俺たち男にとっちゃあんま愉快な話じゃねえぞ?」
 男は半笑いを浮かべ、話を続ける。
「姉の紗雪姫、妹の野雪姫っていや、当時はそりゃあ評判の美人姉妹だったらしい。だが二人はとにかく仲が悪くてな。結局一人の男を取り合って、野雪様は男共々姉の紗雪姫を殺しちまった」
「お、男も……ですか」
「そりゃあ自分の夫が仲の悪い姉と通じてる現場を見ちまったら、男の方だけ見逃すってこたぁねぇだろうよ」
 当然のことだと言わんばかりの男の言葉に、月彦はぶるりと身震いする。
「伝承じゃ、野雪様は二人の死体を山の神に捧げて、自分は雪女になっちまったってことになってる。そして夜な夜な里に下りてきちゃ、不貞を働く男のアレを凍らしてもいじまうらしい。ガキの頃からそんな話ばかり聞かされて育つから、ここいらじゃまず浮気をする男なんか居ねぇ」
「それは……怖い、ですね。でも、ただの昔話なんですよね?」
 にぃと。男が意地の悪い笑みを浮かべる。
「何だ、兄ちゃんもしかしてやましい所でもあんのか?」
「いえ……そういうわけじゃ……ないですけど……」
 月彦は必死に平生を装った。その甲斐あってか、男もそれ以上追求はしてこなかった。程なく男も休憩時間が終わるからと自販機の前から去り、用が無くなった月彦もまたゲレンデに戻ることにした。
(…………落ち武者に、無気味な人形に、今度は雪女――か)
 ただの言い伝え――そうに決まっている。月彦は先ほど耳にした話を忘れるよう、必死になって頭の片隅へと追いやった。ましてや、雛森姉妹と自分の関係を昔話になぞらえるなど最も愚かしい行為だと。
 何度も、何度も。
 不安を塗りつぶすように念じながら、月彦は早足にレミとの待ち合わせ場所へ急ぐのだった。


 結果的に、男の予想は正しかったらしい。夕方になるや、目に見えて崩れ始めた天気に先駆けて、月彦一行は旅館へと戻ることが出来た。旅館に到着したときは数メートル先もろくに見えないほどの猛吹雪となっていて、ごうごうと唸る風の音が旅館の中に入って尚響いてくる程だった。
「すっごい風……紺崎くんの言う通り、早めに切り上げて正解だったわね」
 雪乃の呟きに、うんうんと月島姉妹が同意するように頷く。
「そうねぇ。……ナイター楽しみにしてたんだけどなぁ」
「そんなに滑りたいなら、お姉ちゃん一人だけ残っててもよかったのに」
「そうそう、雪乃。負けた方が酒代持つって約束、忘れてないわよね? あと特上の舟盛りもつけていいんだっけ?」
「な、何言ってるのよ! 特上のなんて一言も言ってなかったでしょ!?」
「言ったわよ? あんたが三回目に負けた時に」
「う……で、でも……アレは……!」
「あっ、そーだ。レミちゃん、月島さんも何か食べたいのがあったらジャンジャン注文しちゃっていいからね。雛森先生がぜーんぶ払ってくれるから遠慮なんかしちゃだめよ?」
「ちょっ……何でそこまで…………!」
「私がもう止めにしといたら?って言ってるのに、あくまであんたが食い下がるからでしょ? それで結局一回も勝てなかったんだから仕方ないわよねー?」
 ぐぬぬと、雪乃は拳を握りしめたまま唇を噛んでいる。月彦の目にも、もう一回もう一回と食い下がり続ける雪乃の姿が目に浮かぶようだった。
(………………先生は絶対ギャンブルとかやっちゃダメなタイプだよなぁ。教師だからとか、そういうんじゃなしに、性格的に……)
 或いは、相手が矢紗美だから――ということもあるのかもしれない。この相手にだけは絶対に負けたくないという相手だからこそ、勝利に固執してしまうという気持ちは、“同じような相手”を持つ月彦としては共感出来ることではあった。
「じゃ、とりあえず一端解散ってコトでいいかしら。夕飯は七時からだから、まだ一時間以上あるし、先に温泉入っちゃわない? ていうか私は一人でも入っちゃうけど」
「さんせー! スキー場すっごく寒かったからレミも温泉入りたーい!」
「温泉っ……入る、入り、たい! です!」
「そう、ですね。まだ夕飯まで時間あるなら、先に……」
 はいはいと挙手まじりにアピールする月島姉妹に倣って、月彦も同意する。
「……そうね。私も汗かいちゃったし、先にお風呂済ませたいわ」
「決まりね。んじゃ、一端部屋に戻りましょ」
 矢紗美が先頭切ってエレベーターの方へと歩き出し、雪乃がそれに続く。さらに月彦が続こうとして――はたと足を止めた。
「あれ……どうしたの? レミちゃん、月島さん」
「あぁ……うん。何でもないの。ぶちょーさん、先に戻ってて。私とおねーちゃんは階段から行くから」
「階段から……って、五階まで上がるんだよ? エレベーターなら、全員乗っても大丈夫なんだし、別に階段から行かなくても……」
「そうなんだけど…………んとね、おねーちゃんが……」
 ちらりと、レミは隣のラビの顔を盗み見てから、そっと耳打ちでもするように月彦の方へと背伸びをする。
「……おねーちゃんが、あの“人形が置いてある廊下”が怖いから、通りたくないって……」
「…………なるほど」
 月彦もまた、ちらりとラビの方を見る。きょとんと、三人の中で一人だけ事態を把握していないかのような無邪気な顔をしているが、月彦にもラビの気持ちが分かる気がした。
(確かに、あそこに飾ってある人形は気持ち悪かった。階段から行けば、あの廊下を通らずに部屋に戻れるのか)
 五階まで階段で上がるのはキツいが、あの人形達を視界に収めなくて済むのならば、それは安い労力のように思える。
「……わかった。それなら、俺も一緒に階段から行くよ」
「いいの? ぶちょーさん。別に無理して付き合わなくても……」
「俺もあの人形は気持ち悪いって思ってたからさ」
 出来ればあの廊下を通りたくないという思いはラビと同じ。少しの労力で通らなくてすむのならば、それに越したことはない。
(…………それにあの人形、本当に嫌な感じがするし、な)
 やれ化け猫のボスだの、化け狸の首領の娘だの、化け狐の姫様だの、その母親の野良狐だのと関わってきたからこそ分かる。“あれ”は“ヤバい物”だと。第六感を越えた第七感がそう訴えかけてくるのだ。
「……っと。先生達を待たせちゃうといけないから、そろそろ行こうか」
 “何か”が起きてしまった場合、この二人の姉妹を守るのは自分の役目だ――そんな責任感を胸に、月彦は先陣を切って階段を上がるのだった。



 結論から言えば、何の面白みも無い温泉だった。湯そのものやれ腰痛に効くだのリュウマチに効くだのと事細かに説明が書かれていたが、結局の所タイル張りの入浴場で浸かるそれはやはり“ただのお湯”以外の何物でもない。ならば露天風呂に浸かろうと思っても、猛吹雪の為露天風呂は使用禁止の札がかかっており、出入り口はしっかりと施錠されていた。
 事実、ガラス張りの大窓の向こうは凄まじい吹雪となっていて、時折殴りつけるように吹き付ける風がガラス戸をガタガタと揺らし、すきま風が吹き込むほどだ。甲高い風切り音はどこか女の悲鳴のようにも聞こえ、安っぽいアルミサッシが立てるガタガタ音は半狂乱になった鬼女がドアノブを握ったまま荒れ狂っている様すら想像させる。
 運がいいのか悪いのか、男湯の入浴客は月彦一人であり、それがまた一層風切り音を響かせ、漠然とした不安を掻き立てる。なんとなく長湯する気にはなれず、月彦は風呂場で行う作業を最小限に済ませ、足早に脱衣所へと戻った。戻った後で、せめてサウナくらいは使えばよかったかなと後悔したが、あのヒュウヒュウと甲高い音ばかりが響く浴場に戻る気がせず、結局浴衣に着替え茶羽織を羽織って脱衣所を後にした。
「あら」
 そして、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎなタイミングで、月彦は男湯、女湯の暖簾が掛かった分かれ道の前で、ばったりと。
 浴衣、茶羽織姿の矢紗美と遭遇した。
「もう出て来ちゃったの? 随分早いのね」
「矢紗美さんこそ。あんなに温泉楽しみにしてたのに」
「んー……別に楽しみってワケじゃあなかったんだけどね。………………ちょっと、場所変えよっか」
 矢紗美に誘われ、本館から入浴場へと続く渡り廊下の途中にある遊技場へと移動する。他の客の姿は無く、ぽつねんと置かれた卓球台とビリヤード台がどこか寂しそうに佇んでいた。
「あーっ、疲れたぁ」
 遊技場のソファにどっかりと矢紗美が腰を下ろす。小さなテーブルを挟んだ対面側に月彦もまた腰を落ち着ける。矢紗美はといえば、“面倒見のいい婦警のお姉さん役は今は休業”とばかりに両腕をソファの背もたれの裏側へと回し、足まで大きく開いている。
「雪乃ってば、ホント体力バカなんだから。5回も10回も付き合わされる方の身にもなれっての」
「それは……矢紗美さんが煽るからですよ」
「煽ってるつもりはないんだけど…………やっぱり煽ってるのかしら?」
「誰がどう見ても挑発してるようにしか見えなかったと思います」
「うーん、気をつけなきゃいけないって分かってはいるんだけど…………雪乃の顔見てるとむかっ腹が立つっていうか、つい憎まれ口が出ちゃうのよねぇ」
 いつもはそこまで酷くはないんだけど――と、矢紗美は首を傾げながら不思議そうに呟く。
「……仕事でストレスが溜まってるとか……ですか?」
「うーん……無くはない、けど……欲求不満なのかしら」
 ちらりと、一瞬。ほんの一瞬だけ鋭く睨まれる。うぐと呻き越えが出そうになった時にはもう、“面倒見の良い婦警のお姉さん”な笑顔に戻っていた。
「でも、ホントごめんね。私が雪乃煽っちゃったせいで、紺崎クン達ほったらかしになっちゃって。事故とか起きなくて良かったわ」
「一応俺たちもそこは気をつけてましたから。それに、俺たちは俺たちで楽しんでましたから、別に矢紗美さんが気兼ねする必要はないですよ」
「だといいんだけど…………あ、そうそう! リフトから見てたわよ! 月島さんスゴいじゃない! ビュンビュン滑って、ターンとかメチャクチャ上手だし、あれなら明日は上級者エリアで滑れるんじゃないかしら」
「月島さんも最初は全然だったんですよ。でも、みるみる上達して……あっという間に置いて行かれました」
「そこらへんは向き不向きっていうか、個人差もあるんだろうけど……ちなみにレミちゃんの方は……」
「レミちゃんは……滑るのは苦手みたいですね。どうしても腰が引けちゃうみたいで、尻餅ばかりついてました」
「そっかぁ……じゃあ、明日は私がレミちゃんにつきっきりで教えてあげようかしら」
「……いいんですか?」
「いいって、なにが?」
「いや……ほら、矢紗美さんって元々部外者――っていうとアレですけど……別に俺や月島さんやレミちゃんの面倒を見なきゃいけない立場ってワケじゃないじゃないですか」
「それを言うなら、雪乃だって紺崎クン達はともかく、レミちゃんの面倒まで見る必要はない、っていうことになるんじゃないかしら」
「で、でも先生は一応先生なワケで……関係が無くも無いっていうか……」
「わかった。紺崎クン、私がなんでレミちゃんたちの世話を焼きたがるのか、そこが納得いかないんだ。そうでしょ?」
「……まぁ、ありていに言えば、そうです。納得がいかないっていうか、疑問に思ってるだけですけど」
「…………紺崎クン相手だからもう、見栄とか建前とかなしにぶっちゃけちゃうわね。…………私ね、レミちゃんのことが可愛くて可愛くて堪らないの」
「……へ?」
「ほら、うち女ばかりの三人姉妹じゃない? で、下はあの憎たらしい雪乃と、雪乃に輪を掛けて可愛げの無い瑤子の二人なワケ。…………レミちゃんみたいな可愛い妹が居たらなぁ、ってずーーーーーーーーーーーーーーーっと思ってたの」
 あっ、コレ雪乃には内緒よ?――矢紗美はそう断りを入れ、さらに続ける。
「可愛くって、おまけに真面目で、いっつも一生懸命な感じがもう堪らないの! しかも金髪! 碧い目! もうね、フリルドレス着せてあげてぎゅーっって抱きしめて頬ずりしたいって思うくらい可愛くてたまんないの!」
「……えっと……レミちゃんが可愛いっていうのは同感ですけど……」
 そこまでかな?――そう首を傾げるのは、“憎たらしい妹”と“可愛げのない妹”を持ったことが無いが故かもしれない。
「神様って意地悪だなぁ、って思わされるわ。もしレミちゃんが私の妹として生まれてきてたら、それこそめいっぱい可愛がって、欲しい物なんて全部買ってあげて、綺麗な服を一杯着せてあげて、とことん甘えさせてあげるのに」
「…………仮に本当にレミちゃんが矢紗美さんの妹として生まれてても、そんな育て方されたら今のレミちゃんみたいには絶対ならないと思いますけど……」
「ま、そこはほら、仮の話だから。…………そういうわけだから、私はレミちゃんを応援してあげたいの。……言っちゃ何だけど、レミちゃん達ってあんまり裕福じゃないんでしょ?」
「ええ、まぁ……母親が居なくて、父親も画家で全国を放浪してるって聞いてます」
「そのお父さん、そのまま野垂れ死んでくれないかしら。そしたら私がレミちゃんを引き取ってあげるのに」
「矢紗美さん、それはさすがに……」
「うん、非常識だって分かってる。……だけど、そう思うくらいレミちゃんが可愛いの」
「……ちなみに、月島さんは“可愛くない”んですか?」
「月島さんも可愛いわよねえ。レミちゃんとは違う意味で、だけど」
 苦笑したかと思えば、突如表情を曇らせ、はぁーっ、と矢紗美は大きくため息をつく。
「月島さん……月島さんかぁ…………いい子なんだけど……ちょっと発育しすぎよね」
「は、発育……ですか?」
「うん……だってまだ高校生でしょ? ……今の時点で私、負けてるかもしんない」
 一体何が負けているのか――については、もはや察するしかなかった。
「色白で、足だってすっごく長くて……ハーフって感じよねえ。あっ、そうそう……おっぱいもすっごいわよ? 月島さん」
 一番気になってる所でしょ?とでも言わんばかりの矢紗美に、月彦は苦い笑顔しか返せない。
「そりゃあ、さすがに雪乃には敵わないけど……でも五年後はどうかしら。……紺崎クン、いまのうちに月島さんに乗り換えちゃうのもアリなんじゃない?」
「はは……さすがにそれは……」
「てゆーかさぁ……お風呂もさぁ……ホントはもうちょっとゆっくり入ってるつもりだったんだけどさー…………やっぱダメ。雪乃と一緒だと、どうしてもコンプレックス感じちゃう」
 ため息混じりに、矢紗美はやれやれとばかりに首を振る。
「それは……考えすぎですよ。矢紗美さんだって十分過ぎるくらいスタイルいいじゃないですか」
「フォローありがと。……でも、妹に負けて、しかも今日は高校生の月島さんにも負けた後じゃ、あんまり効果ないみたい」
「そんなことないですよ。矢紗美さんだって、ほんと十分過ぎるくらい魅力的だと思います」
 確かに単純に身長やスリーサイズだけで計るなら勝ち目はないかもしれない。しかし総合的な魅力で考えた場合、二人に対して決して劣っているわけではない。それだけは間違い無い――のだが、悲しいかな。矢紗美にそうであると信じさせるだけの説得力を、己の言葉に持たせる術が思いつかない。
「雪乃もさー、紺崎クンとセックスするようになってからますますスタイル良くなったんじゃない? セックスすると女性ホルモンどばどば出て、スタイル良くなるって本当だったのかしら…………あの体、女の私ですらヤバいって思うもん。ましてや男の子ならさー…………そりゃあ、紺崎クンも雪乃から離れらんないワケよねえ」
「の、ノーコメントでお願いします……」
「アレがさー、赤の他人とかなら別になんとも思わなかったと思うのよね。あっそ、ふーん、親に感謝しなさいよ?ってなくらいでさ。でも、同じ親から生まれて、なんでここまで差つけらんなきゃいけないのよって思っちゃうわけ。努力でなんとかなるようなことでもないし、正直やってらんないわ」
「でも、価値観って絶対的なものじゃないですから。背が高い女性が苦手って男も当然居るでしょうし、先生よりも矢紗美さんの方が、っていう人、絶対少なくはないと思いますよ」
「……そう言う紺崎クン自身が雪乃の体にゾッコンなんだもん。説得力無いなぁ」
「うっ……すみません……」
 矢紗美はふふと笑って、開いていた足を閉じソファに凭れるように斜めに座り直す。
「ごめんね、紺崎クン。こんな愚痴なんて聞かされたって、どう返していいかわかんないよね」
「いえ……そんなことは……俺に話すことで矢紗美さんが楽になるなら、いくらでも聞かせて下さい」
「ホントに? じゃあ、このまま二人でこっそり抜け出して、一晩中聞いてくれる?」
「さ、さすがに一晩中は……ていうか、抜け出すっていうのもダメですよ、さすがに」
「分かってる。ちょっと言ってみただけ」
 冗談っぽく言って、そのまま矢紗美は黙り込んでしまった。
(…………何か、変だな。今日の矢紗美さん……)
 らしくない――そう思う。愚痴ったり、弱音ともとれる言葉を吐くなど、矢紗美らしくないと。或いはそれだけ“女湯での光景”が衝撃的だったということなのだろうか。
「…………やっぱり疲れてるのかしら。なんか色々どうでもよくなってきちゃった。もういっそ、紺崎クンとのこと全部雪乃にバラしちゃおっかなぁ」
「んなっ……や、矢紗美さん! 急になんてこと言い出すんですか! それだけは洒落にならないですって!」
「だって、結局紺崎クンは雪乃と別れる気ないんでしょ? この先ずーっと、雪乃に負けたって十字架背負って生きていくくらいなら、もういっそ何もかも終わりに――……」
「だ、ダメですって! そんな短絡的な……矢紗美さんらしくないですよ! 一体どうしちゃったんですか!」
「……ねえ、紺崎クン」
 じぃと、矢紗美の猫のような目にじぃと見つめられ、月彦は体の動きを止めた。
「さっきの話、やっぱり考え直してくれない?」
「さ、さっきの話……?」
「愚痴は聞いてくれなくていいからさ。代わりに、今から二人で抜け出して、ラブホ行かない?」
「はぁ!?」
「なんか、すっごくエッチしたいなぁ……って、そんな気分なの。いつもの性欲全開みたいなんじゃなくってさ、甘ぁい甘ぁーいヤツ」
「だっ………………ダメですよ! ダメ、っていうか無理ですそんなの! 外は猛吹雪ですし、第一俺と矢紗美さんが二人して姿を消したりしたら、先生がどう思うかなんて明らかじゃないですか!」
「いいじゃない。別に。バレても」
 ふっと。どこか壊れた笑みを一瞬だけ浮かべて、矢紗美はひょいとテーブルを乗り越えると隣に腰を下ろし、そのまましなだれかかってくる。
「ちょっ……や、矢紗美さん!?」
「言っとくけど、こんなチャンス滅多にないよ? 私がこんなに弱気になって、男に優しく抱かれたいって思うことなんて、ひょっとしたら金輪際無いかもしれないんだから」
「……そういうコト、自分で言っちゃいますか」
「自分でも珍しいって思ってるもの。今抱かれたらヤバいなぁっ、って。紺崎クンの太くて硬ぁい麻薬チンポでゆっくり突かれながら優しく抱きしめられて、キスなんかされたら、絶対オチちゃう。もう目がハートになって、紺崎クンのためなら何でもする女になっちゃう」
「…………うぐ……た、確かに、俺としても弱気な矢紗美さんはちょっと興味あるというか…………矢紗美さんの気晴らしに付き合いたいという気持ちもやぶさかではないというか――」
「こらーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 遊技場の壁が震えるほどの大音量が響き渡ったのはその時だった。
「何やってるの! ほらっ、離れて!」
「せ、先生!?」
「あーあ。いいトコだったのに、うるさいのが来ちゃった」
 矢紗美はため息混じりにソファから腰を上げ、威嚇する肉食獣のようにがるると唸る雪乃の真正面に立つ。
「いいカンしてるじゃない、雪乃。あと五分遅かったら紺崎クン食べちゃってたわよ?」
 ぺろりと。挑発するように矢紗美が舌を見せる。ギリギリと軋むような音が聞こえるのは、雪乃が歯ぎしりをしている為だ。
「お姉ちゃん、いい加減にしないと温厚な私でもさすがに怒るわよ? お姉ちゃんがどこの誰とくっつこうが私の知ったことじゃないけど、紺崎くんにだけは手を出さないで。わかった?」
「やんっ。そんな怖い顔で睨まないでよ。…………大丈夫、次からは絶対雪乃にはバレないように誘うから、安心して」
「誘うなっ、って、言ってるの!」
 ドンッ! ドンッ!
 肺腑にまで響く、本館まで聞こえたのではという程に凄まじい地団駄だった。しかし矢紗美はといえば、先ほどまでの弱気顔も何処へやら。余裕の笑みすら見せて雪乃の脇を通り抜け、鼻歌交じりにそのまま本館の方へと歩いて行った。
「…………紺崎くんも! 本当に…………ほんとーーーーーーに気をつけてよね! お姉ちゃんには絶対近づいちゃダメって、何度も何度も何度も何度も言ってるのに、どうして分かってくれないのかしら!?」
「す、すみません…………その、一人で退屈だったから、つい……」
「………………ホントに気をつけてよ? バスの時だって、あっさりお姉ちゃんの隣に座っちゃうし……紺崎くんちょっと不用心すぎよ。お姉ちゃんのことは人の皮を被った虎か何かだと思って、半径二メートル以内には絶対に近づかないようにしてね。わかった?」
「二メートルはさすがに勘弁してください。この後のごはんも一緒に食べられなくなっちゃいますから」
「…………確かに二メートルは言い過ぎだったけど……でも、それくらい気をつけてって言いたいの。紺崎くんのことは信じてるし、お姉ちゃんに誘われたってそう簡単に靡いたりはしないって分かってるけど……それでも不安なの」
「………………すみません、確かに先生が言った通り、不用意に矢紗美さんに近づき過ぎてたかもしれません」
 確かに雪乃の立場に立ってみれば、神経質になるのも当然かもしれない。月彦は素直に配慮の足り無さを謝罪した。
「…………我が儘言ってごめんね。お詫びに……ってワケじゃないけど、今度紺崎くんの我が儘を代わりに聞いてあげる」
 若干機嫌を持ち直したのか、雪乃は漸くに笑顔を零した。
「ちなみに、エッチなお願い限定だからね」
「そこは普通……“エッチなのはダメよ?”って言うところなんじゃ……」
 教師という立場上、嘘でもそう言うべきなのではという月彦の抗議の視線すらも、雪乃は――恥じてはいるのか、赤面はしつつも――却下した。
「こ、紺崎くんだって……エッチなご褒美の方がやる気出るでしょ!? だからそれでいいの! …………いーい、約束よ? お姉ちゃんには迂闊に近づかない、体に触らせない。極力口も聞いちゃダメ。それが守れたら、ご褒美に紺崎くんがシたいコト、なんでもさせてあげる」
「何でも、ですか」
 思わず問い返した月彦の言葉に、雪乃は恥じらいながらも頷き返す。現役女教師の、その恥じらいの表情に思わずビビンと下半身が反応してしまいそうになり、月彦は慌てて足を組み直すフリをして勃起を隠さなければならなかった。
「…………えっと。とにかく、そういうコトだから。…………私は部屋に戻るけど……」
 ちらりと、雪乃の目が「一緒に部屋まで行く?」と語っていたが、月彦は小さく首を振った。今はまだ、立つわけにはいかないのだ。
「すみません、部屋までの帰り道が自信ないから、一緒に帰って欲しいってレミちゃんに頼まれてるんです」
「そ、そう……そういうことなら、しょうがないわね」
 雪乃はどこかばつが悪そうに、いそいそと本館へと戻っていく。帰り道が分からない云々のくだりは嘘だったが、どうやら巧く信じてもらえたらしい。
(…………何でも、か)
 度重なるセックスによって女性ホルモンが分泌され、前にもまして“たまらない体つき”になってしまっている雪乃にどんなお願いを聞いてもらおうか――ラビとレミが上がってくるまでに下半身をニュートラルに戻さなければならないというのに、いつまでも淫らな妄想から抜け出すことが出来ない月彦だった。


「おーいしー! このお刺身すっごく美味しいよ、矢紗美おねーさん!」
「確かに、この白っぽいやつなんてすごくコリコリしてて美味しいですね」
「そりゃあフグチリだもの、美味しくなかったら詐欺よ。ねー雪乃?」
「………………てゆーか、お姉ちゃんこの舟盛り何!? こんなおっきいやつメニューのどこにも載ってないんだけど!」
「さー? 私は電話で”お金はいくらかかってもいいから一番豪華なヤツでお願い”って言っただけだし」
「何よそれ! 確かに夕飯の分は私が持つって話になってたけど、一番豪華なのでいいなんて言ってないんだけど!?」
「なーにケチ臭いこと言ってんのよ。ほーら、いいからあんたも飲みなさいって」
「わっ……私は、今日は飲まないって言ってるでしょ!? これでも一応、みんなの引率者としての責任があるんだから!」
「あらそーぉ? じゃ、このお酒みーんな私が一人で飲んじゃおっ」
 矢紗美はテーブルの上に並べられた――少なく見積もっても二十本以上はある――酒瓶を抱きしめるように両手で囲い込む。二人で飲むには――仮に五人全員が成人していたとしても多すぎるのではないだろうか――あまりに多すぎる酒の量に、運び込む従業員達ですら眉をひそめていたのが月彦には印象深かった。
「んくんくっ……っぷはーーーーっ! 日本酒もいいけど、温泉の後はやっぱりビールよねぇ。よく冷えてて美味しいし、こんなのいっくらでも入っちゃう」
 まるで雪乃に見せつけるように、矢紗美はごくごくと大きく喉を鳴らして瞬く間にグラスを空にしてしまう。
『ごくっ……』――そんな光景に雪乃が生唾を飲み、そしてハッと正気に返るやぶんぶんと首を振った。
「と、とにかくいらないって言ったら要らないの! だいたい私が酔いつぶれちゃったら、誰が紺崎くん達をお姉ちゃんの魔手から守るっていうの!?」
「別にそんなの守らなくったっていいじゃない。ほらほら、雪乃も大好きでしょ? お風呂上がりのビール♪」
「あう、ぐ……い、いらないって言ってるでしょ!」
 雪乃はぷいと体ごとそっぽを向けるや、お茶をがぶがぶ飲みながら刺身へと箸を伸ばす。そんな雪乃の隣へと、矢紗美が這うように移動する。
「ほーら、雪乃。我慢は体に毒よ?」
 矢紗美は雪乃の目の前で新たにビール瓶を開け、空のグラスにとぷんとぷんと黄金色の液体を注ぎ込む。白い泡が今にもこぼれ落ちそうなそれを雪乃の眼前へと突きつけ、軽く左右に振ると、連動するように雪乃の目がそれを追う。
「だーいじょうぶだって。ビールなんてジュースと一緒よ。一杯や二杯飲んだところで酔っ払うわけないじゃない」
「で、でも……」
 でも、と言いつつ雪乃は既に両手で矢紗美からグラスを受け取ってしまっている。月彦はもう、“この後の展開”に見切りをつけ、そっと視線を月島姉妹の方へと戻した。
「月島さん、茶碗蒸し美味しい?」
「うん! こ、れ、すごく! 美味しい!」
 ラビは茶碗蒸しが大好物ということで、それならばと他の四人の分の茶碗蒸しがすべてラビへと回されたのだった。さすがに5人前は多すぎるのではないかという月彦の心配をよそに、ラビは既に三つの茶碗を空にしており、四つ目も殆ど食べ終わりつつあった。
「そっか、良かった。あっ、こっちの山菜の天ぷらもさっき食べてみたらすごく美味しかったよ」
「ぶちょーさんぶちょーさん! レミね、こんなに美味しいお刺身食べたの初めて!」
「いっぱいあるし、じゃんじゃん食べちゃっていいと思うよ。………………先生達はお刺身よりお酒のほうがいいみたいだし」
「つ、つきひこ、くん! こ、これ! ご飯、も、美味しい!」
「ああ、俺もさっき食べてみたよ。薄味だけど、具がいっぱいで美味しいよね、その炊き込みご飯」
 事実、料理の味に関していえば、旅館の外観からは想像も出来ないほどに美味だった。あれが美味しいこれが美味しいとはしゃぐ月島姉妹と共に、月彦も箸を進めては舌鼓を打ち続ける。

 しかし、そんな“平和な夕食”も長くは続かなかった。

「レーミちゃんっ。あーんもー可愛いー! お持ち帰りしちゃおっかなー?」
「あ、あのっ……や、矢紗美おねーちゃっ……苦しっっ…………ひゃあんっ!」
 どうやら本当に“お気に入り”らしいレミをぎゅうぎゅう抱きしめながら頬ずりをする矢紗美と、そんな矢紗美から逃げるわけもいかず困り顔でされるがままのレミ。
「あっ、レミちゃん耳弱いんだ? えーい、舐めちゃえ」
「だ、だめっ、耳はダメっっひゃああん!」
 なんとか逃げようとするレミを、酔っ払ったタコのような動きでしっかりと捕獲し、尚も悪戯を続ける矢紗美。そんなレミを助けたいのは山々だったが、それが出来ない理由が月彦の側にもあったりする。
「こーら! どこ見てるの! ちゃんと先生の方を向きなさい!」
「は、はい!」
 そう、月彦は月彦で、これまた完全に酔っ払った雪乃に絡まれているのだった。いきなり「最近の生活態度が目に余る」とかいう理由で正座を強要され、舌足らずの言葉でのお説教を受ける羽目になっていた。
「いーい? 紺崎くんはねえ、男の子なんだから、もっと女の子にぃ、興味持たなきゃダメなの! わーった?」
「いや……十二分に興味はある方だと思うんですけど……」
「口答えしないの! だいたいねぇ、紺崎くんは鈍感過ぎるの! この間香水変えた時だって気づいてくれなかったし、もっとねえ、物事を注意深く見る癖をつけなさい!」
「はい……すみません……」
「すみませんじゃなーい! 男の子なら簡単に謝っちゃダメ!」
「そんな理不尽な……」
 月彦はちらりと横目でラビの方へと目をやる。ラビはラビで、先ほど矢紗美に酒を勧められ、軽くひと舐めするやバタンキューと寝込んでしまっていた。ある意味理想的な、最も被害の少ない退場の仕方をしたラビに、月彦は羨望を禁じ得ない。
「ちょっと、紺崎くん! どうしてそこで月島さんの方を見るのかしら!?」
「あっ、いや……月島さん大丈夫かな、って……」
「嘘ばっかり。月島さんのおっぱいが見えそうだから気になって仕方ないだけのくせに」
 ジト目で睨み付けながら、雪乃はグラスに日本酒を注ぎ込むや一息に煽る。
「ま、待ってください! 別にそんなやましい理由じゃ――」
 言われて、月彦は気づく。確かにばたんきゅーしたままくてーんと大の字に寝そべっているラビの胸元は若干はだけてしまっている。
「何よもう! 紺崎くんってば、おっぱいが大きければ相手は誰でもいいっていうの!?」
「ちょっ、先生落ち着いてください! れ、レミちゃんも居るんですから……」
 どうやらいつになく酔っ払ってしまっているらしい雪乃が何を口走るか分からず、月彦は大慌てで雪乃を宥めながらレミの様子を伺う。――が、レミはレミで矢紗美にペッティング寸前の“かわいがり”を受けており、周りを気にする余裕が全くない様だった。
「だいたいねぇ、この旅行だってお姉ちゃんが邪魔しなかったら――」
 そしてどうやら“お説教”に飽きたらしい雪乃はテーブルの方へと向き直り、一人で愚痴りながらちびちびと飲み始めてしまう。ここで下手に逃げようとすれば待ってましたとばかりに“お説教”が再開する気がして、月彦は雪乃の独り言めいた愚痴にいちいちもっともらしく同意したり頷いたりしながら、“機”を待った。
「あっ、空になっちゃいましたね。次は俺に注がせて下さい」
 そして雪乃が手にしていた酒瓶が空になるや、ひっそりと混じっていた芋焼酎をさりげなくグラスに注ぎ、雪乃に勧めた。既に結構な酩酊状態になっていた雪乃はそれを一息のに煽るや、五分と経たずにぐらぐらと頭を揺らしてそのまま突っ伏すように寝てしまった。
「……良し! あとは――………………」
 レミの方を見る。矢紗美に密着されたまま髪をとかされ、困り顔のままリボンまでつけられているレミ目は「ぶちょーさん助けて!」と語っていた。
「……ちょっと、矢紗美さん。レミちゃん困ってますよ」
「なぁーに? じゃあ、今度は紺崎クンが相手してくれるの?」
「いや、俺もあまり相手は……」
 矢紗美の相手が嫌というより、“酔っ払いの相手”が嫌なのだが、酔っ払い相手にそんな理屈が通じるわけもない。
「あっ、そうそう。そーいえば! 紺崎クン知ってた?」
「何をですか?」
「なんかね、今夜ここら辺一体午前1時から3時まで停電するらしいわよ」
「そう、なんですか。でもその時間なら多分寝てますからあまり関係ないんじゃ……」
 強いて言うなら、夜中に暖房が止まって寒い思いをするくらいか。
「で、その関係で、スキー場のリフトとかも午後11時から午前七時までは一切動かないんだって」
「……へぇー…………」
 その情報を聞いて一体どうすればいいのだろうか。矢紗美の方も特に考えはないようで、レミを抱いたままグラスに口をつけては何がおかしいのかクスクス笑い続けている。
「と、とにかく……お酒を飲むのはいいですけど、周りに迷惑はかけないようにしましょう。矢紗美さんなら分かってくれますよね?」
 さあ離れて離れてと、レミの腕を引いて半ば強引に矢紗美の腕の中から救出する。ここでムキになられたらレミの救出は困難を極めただろうが、意外にも矢紗美はあっさりとレミを手放した。
 ひょっとしたら、見た目と振る舞いほどには酔っ払っていないのかもしれない。
「あっ、雪乃が寝てるーっ! イタズラしーちゃおっ」
 或いは、あっさりと手放したのは“他の玩具”を見つけたからか。いそいそとバッグを漁り始める矢紗美と雪乃を残して、月彦はそっと矢紗美の側から離れる。
「よし、レミちゃんいまのうちに月島さんを連れて脱出しよう」
「う、うん!」
 レミと二人、泥酔――という程飲んではいないはずだが――状態のラビの肩を支えるようにして、507号室を後にした。



 

 506号室に戻ると、和室に一組だけ布団が敷かれていた。恐らく、二人以上の客が泊まる時はこうやってその分布団を足して対応するということなのだろう。酩酊状態のラビを先にベッドへと寝かせ、そっと寝室へと通じる襖を閉じる。
「じゃあ、俺が布団を使うから、レミちゃんと月島さんがベッド使うといいよ」
 これなら、男女で部屋も区切れるし――間にあるのが襖のみというのが心許ないが――万々歳だと提案すると、レミはなんとも浮かない顔をしていた。
「レミちゃん?」
 否、浮かないというよりは思い悩んでいるといった様子だ。レミはひとしきり唸った後、ぽむと手を叩いて笑顔を零した。
「ぶちょーさん、やっぱりレミがお布団使ってもいいかな?」
「えっ……いや、でも……」
「その方が慣れてるし、それにほら、このお布団ちょっとぶちょーさんには小さいんじゃないかな?」
「…………言われてみれば……」
 確かに、大人用とは言いがたいサイズの布団であるように感じる。肩まですっぽりと被れば、或いは爪先が出てしまうかもしれない。
「で、でも……レミちゃん……それだと俺と月島さんが同じ部屋で寝ることになっちゃうし、色々マズイと思うんだけど……」
「…………? どーして?」
 何が拙いのか全く分からないとばかりに、レミは無邪気に目を丸くする。
「いや、だってほら……俺は男で、月島さんは女なわけだし……」
「ぶちょーさんが、おねーちゃんを襲っちゃうかもしれないから、ってコト?」
「ま、まぁ……そういう可能性が0ではないということだね」
 ふぅんと、レミは人差し指を唇に当てたまま、少しだけ考えるような素振りをした後。
 にたりと。ジト目つきの小悪魔のような笑みを浮かべた。
「………………レミね、ぶちょーさんが相手なら、おねーちゃんも嫌がらないんじゃないかなーって思うなぁ」
「いや、待ってレミちゃん。嫌がるとか嫌がらないとか、そういう問題じゃなくて……」
「それにね、ぶちょーさん。レミ、この前見ちゃったんだ」
 ちらりと。先ほどラビを寝かせた寝室のほうへと視線を泳がせ、レミが続ける。
「…………おねーちゃんが、ぶちょーさんの名前呟きながら、一人でシちゃってるトコロ」
「れ、レミちゃん! そういう嘘は…………う、嘘……だよね?」
「……? どーして嘘だと思うの? おねーちゃん、ぶちょーさんのコト本当にスキなんだよ?」
「い、いや……だとしても…………れ、レミちゃん! この話はもう止めよう!」
「ねえ、ぶちょーさん。考えてみて? おねーちゃん、どんな妄想しながら一人でシてたんだと思う? おねーちゃん内気だから、自分から誘うなんてこと絶対出来ないだろうし、きっとぶちょーさんに無理矢理押し倒されるシチュエーションだったんじゃないかなぁ?」
「レミちゃん! いい加減にしないと怒るよ!?」
「だいじょーぶだよ、ぶちょーさん。もし“そういうコト”になっても、レミは邪魔したりなんかしないし、雛森せんせーたちにも黙ってるから。ね、ぶちょーさん、自分に正直になっていいんだよ?」
「れーみーちゃん!?」
 本当に怒るぞ、と月彦は怒気を露わにする。レミもこれ以上はまずいと思ったのか、ぺろりと舌を出してぴょんと後退った。
「んもう、ぶちょーさんってカタいんだから。…………あっ、そーだ!」 
 ぽむと、またしてもレミが手を叩く。このレミの“ぽんっ”が、だんだん厄介事の予兆のように月彦には思えてきた。
「ぶちょーさん、まだ寝ちゃったりしないよね? だったらレミとお茶しない?」
「お茶……?」
「レミね、いいもの持ってきたの!」
 レミは私物のリュックの中から茶巾袋のようなものを出し、さらにその中から小瓶を出してテーブルの上へと置いた。ガラス製の小瓶の中にはなにやら粗挽きされた深緑色の葉っぱのようなものが入っていた。
「レミちゃん、これは……?」
「これをね、こうして……」
 レミは急須の蓋を開け、瓶の中に入っていた粉を全て振り入れる。さらに電気ポットからお湯を注ぎ込むと、忽ち濃厚なハーブの香りが立ち登り、月彦の鼻先を擽った。
「この匂い……ミント……じゃない、バジルでもない……何だろう、どこかで嗅いだことあると思うんだけど……」
 うーんうーんと記憶を辿っていると、いつの間にか急須に注がれていたお茶がはいっ、と差し出された。
「レミ特製ハーブ茶だよ。寝る前に飲むとすっごくリラックスできて、朝までぐっすりなんだから」
「へえ……リラックス効果があるなら、確かに寝る前に飲むのに丁度良いかもしれないね」
 急須に口をつける。ずずずと口に含むと、口の中から鼻にかけてハッカのような強い香りが突き抜け、思わず噎せそうになる。が、そこを何とか我慢し、ゆっくりと味わいながら飲み込む。
「……ふう。これ、けっこうクセが強いね。なんか逆に目が冴えちゃいそうだよ」
「ちょっと濃すぎちゃったかな。ごめんね、ぶちょーさん」
「まぁ、でもその分味が濃くってこれはこれで…………あれ、レミちゃんは飲まないの?」
「あ、うん……」
 レミは一瞬視線を泳がせ、ばつが悪そうに笑った。
「レミね、寝る前には水分取らないことにしてるの」
 夜中にトイレに行きたくなっちゃうから、とレミは小声で付け加えた。そういえば前回の合宿の時も、夜中にトイレに行っていたなと月彦は思いだした。
「そういうことなら仕方ないね。……美味しいな、このお茶」
 クセが強く、様々なハーブの香りが入り交じってるせいで鼻がバカになりそうだが、気がつくと1杯分飲み干してしまっていた。ぽかぽかと全身が温まるような感覚があるのも、恐らくハーブの効能だろう。
「…………ぶちょーさん、おかわり、いる?」
「もらおうかな」
 俺も寝た後にトイレに起きる羽目になりそうだけど――苦笑しながら、月彦は二杯目のお茶に口をつけるのだった。



 
 やや遅めの“お茶”が終わるなり、レミは「今日は疲れちゃったから」とあっさりと布団に入ってしまった。寝室ではなく和室の方に敷かれた布団にレミが入ってしまった為、一人起きたままテレビを見るというわけにもいかず、やむなく月彦の方もベッドに入ることにした。
 ――が。

(………………眠れない)
 灯りを消して布団に入り、体を横たえて三十分ほどは経っただろうか。眠気に襲われるどころか時間と共にますます目が冴えてくるような気さえする。
(おかしいな……リラックスしてすぐ眠れるお茶じゃなかったのか)
 いくらなんでも布団に入るには早すぎる時間だっただろうか。月彦は体を起こし、枕元に備え付けられている時計で時刻を確認する。
(……まだ九時前なのか)
 体感時間とのずれに少しばかり驚く。月彦の感覚では、てっきり十一時くらいにはなっている筈だったのだ。
(…………確かに、いくらなんでも布団に入るには早すぎる時間だけど…………)
 それでも、レミ同様慣れないスキーのせいで肉体的には疲れているはずだ。眠気に襲われてもおかしくないはずであるのに、目の方はギンギンに冴えてしまっている。そればかりか――。
(…………ヤバいな。なんか、すっげぇムラムラしてきた)
 先ほどからうずうずと、下半身が疼き出している。もしここが自室であれば、有無を言わさず真央を押し倒しているところだが、さすがに旅先ではそんな節操の無い真似は出来ない。
 悶々としながら布団を被り、なんとか気分を落ち着けようと試みる――が、どういうわけか時間がたてばたつほどに体が熱く血が滾り、下半身の疼きが次第に抑えがたいものになる。
(ヤバいぞ、これ……一体なんでこんな……)
 気を抜けば忽ちギン立ちしてしまいそうになる股間をなんとか制御しながら、月彦は掛け布団を撥ね除け、ベッドから出る。出た後で、はて自分は何故ベッドから出たのだろうかと遅まきながらに首を傾げ、傾げた首についている目の先ですやすやと気持ちよさそうに寝ているラビの姿に気づくなり、思わずごくりと喉が鳴った。
『おねーちゃん、ぶちょーさん相手だったら嫌がらないと思うんだけどなぁ?』
 刹那、まるで悪魔の囁きのように、レミの言葉が脳内に反響する。布団がやや暑苦しいのか、ラビの寝相はお世辞にも良いとは言いがたく、斜めにずれた掛け布団のせいで右足は太ももの辺りから露わになっており、さらにその胸元も半分近くが浴衣からはみ出している。
(…………こうして見ると、月島さんって……めちゃくちゃヤラしい体つきしてるな)
 普段が普段だけに、あまり“女”として意識することが少なく気がつかなかった。が、改めて見れば、同級生とは思えないほどにむちっとした肉付きに思わず喉を鳴らしてしまう。
(まるで真央みたいな……いやいや、真央のほうがエロいのは間違い無いけど……いやでも月島さんも負けては――)
 気がつけば、まるで品定めでもするように具に観察していた。金髪で、色白で、しかも“いつもの髪型”ではなく、普通のロングヘアのラビの姿はこれはこれで新鮮だった。
(……月島さん、エルフのコスプレとかしたらすっげぇ似合いそうだな。金髪色白で、足も長いし……)
 ただ、エルフというほど細身ではないのがネックではあるが、そこに文句を言う輩は少ないのではないか――チュニックを着て弓矢を装備したラビの姿を夢想し、エルフというよりはエロフだな等と妄想していた矢先。
「ぅぅん……」
 ラビが寝言を言い、もぞりと寝返りを打つ。仰向けから、横に。たわわな胸元が両腕の間でむぎうと圧迫されている様子が浴衣の合間から苦しげに露わになっている。大変だ、すぐに何とかしなければ――咄嗟に手を伸ばしてしまいそうになって、慌てて月彦は伸ばした右手を左手で掴んで止めた。
「…………っぶねぇ…………何やろうとしたんだ、俺……」
 目の前に寝ているのは、留守中に勝手に部屋に忍び込んで昼寝をしている性悪狐でも、実は狸寝入りをしていて、父親に襲われたくてわざと煽るような真似をするのが大好きな愛娘でもない。
 ただの同級生にして部活仲間の月島ラビだ。勝手に胸に触るなどという痴漢行為が許されるわけがない。
『おねーちゃん、ぶちょーさん相手なら嫌がらないと思うんだけどなぁ?』
 なぁ……? なぁ……? なぁ……?
 頭の中で、レミの言葉が何度も反響する。ごくりと生唾を飲み込みながら、ラビの寝姿を見下ろす。気がつくと、はぁはぁと息まで荒い。股間が疼き、既に下着の中で痛い程に膨れあがっている。
(……っっ…………月島、さん…………)
 獲物として、これ以上ないという程にラビが眩しく見える。柔らかそうな胸元も、ほどよく肉のついた太もも、唇も、腕も、指先も、何もかもが美味しそうに見えて堪らない。
(い、や……ダメだ……そんなこと…………でも…………!)
 いっそ、隣の部屋に行って雪乃か矢紗美と――そんな考えも無くはなかった。むしろそうするのが一番懸命な判断ではないかとすら思える。
 しかし。
(うぅ…………月島さんの、おっぱい…………めちゃくちゃ美味しそうだ……)
 未知のおっぱいに対するたぐいまれな探求心が、眼前で美味しそうに実っている二つの塊をスルーすることを許さない。ダメだ、ダメだと自分をいさめながらも、それでも右手を伸ばさずにはいられず、あとほんの僅かで指先が触れる――そんな時だった。

 プルルルル――突如として鳴り響いた耳を劈く電子音に、月彦はハッと我に返った。
「で、電話……? っと、何処だ……!?」
 音を頼りに、電話機を捜す。寝室ではなく、隣の居間、その床の間の棚の上で着信ランプを点滅させながら鳴り響くそれへと小走りに近づき、急いで受話器を手に取った。
「もしもし?」
『お休み中の所申し訳ございません。コンザキキリア様から、コンザキツキヒコ様宛にお電話がきておりますが、お繋ぎしてもよろしいでしょうか?』
 うん?――何とも事務的な女性の声に、一瞬月彦の理解が遅れた。
(えーと……今かけてきたのは、多分旅館の人で、かけてきた理由は……姉ちゃんから電話がかかってきた……から?)
 そこまで理解するや、慌てて月彦は承諾の旨を伝えた。あまりに慌て過ぎて自分が「繋いで下さい」と言ったのか「よろしいです」と言ったのかすら分からなかった。
 程なく保留音のような音が聞こえ、ぶつりと何かが切り替わる音がした。受話器の向こうから流れてくる無音の波の中に、月彦は確かに姉の気配を感じ、たちまち全身が緊張に包まれるのを感じた。
『………………月彦?』
 それは耳を澄ましていなければ聞き取れないほどの、小さな声だった。
「う、うん……俺だよ、姉ちゃん。どうして、ここにいるって――」
 分かったの――言葉が、途中で掠れる。口の中がカラカラに乾いてしまっていた。月彦は一端口を閉じ、犬歯を舐めて唾液の分泌を促した。
『今日、母さんから聞いたわ。宿の番号も、あんたが泊まりがけでスキーに行ったってことも』
「う………………ご、ごめん……」
 特に責めているような口調ではなかったが、月彦は反射的に謝ってしまった。謝った後で、はてと思う。
(……あれ、そういや俺……泊まる旅館の連絡先とかって、母さんに教えたっけか……)
 そもそも、月彦自身が雪乃から聞かされていないのだ。よって葛葉にも伝えられる筈はないのだが、それを姉に尋ねてもきっと答えようがないだろう。
『…………別に、あんたの遊び先にまで口を出す気はないけど』
 ハッと。思案の海を航海していた月彦は姉の言葉に現実へと引き戻される。
『母さんが随分心配してたみたいだから……』
「えっ……」
“足下に気をつけなさい”って伝えそびれたって。そんなの、自分で電話して伝えればいいのに』
「足下に……?」
 月彦は反射的に足下へと視線を落とす。当然のことながら、そこには畳しか見えない。
『あ、ありがとう……姉ちゃん。足下、だね。気をつけるよ……』
 葛葉が一体どういうつもりで霧亜に伝言を頼むような真似をしたのかはわからない。わからないが、月彦には容易に想像できる気がした。霧亜の病室へと見舞いに行き、これ見よがしに『困ったわぁ……』と繰り返す母親の姿が。
(きっと、姉ちゃんが根負けして「わかった。電話して伝えておくから」って言うまで、何度も何度も繰り返したんだろうな……)
 そうでなければ、姉がわざわざ電話などしてくるわけがない。月彦は身の程を知っているのだ。
『………………………………。』
 会話が途切れる。霧亜としては、もはや用は済んだということなのだろうか。特に何も話がないのなら、このまま切る――そんな気配が受話器から漏れる微かな雑音を通じて伝わってくるようだった。
『友達と――』
 が、予想は外れた。てっきり、このまま切られると思っていた月彦は、姉からの切り出しに心底驚いた。
『一緒の、スキー旅行って聞いたけど、ちゃんと滑り方とか教えてくれる人は居るの?』
「ええと……うん。一緒に来てる“友達”が凄く巧くて……教えて貰ってる」
『………そう。………とにかく、怪我にだけは気をつけなさい』
「も、もちろん気をつけてるよ! スキーが危ないスポーツだってことは、よく分かってる、から……」
 語尾にいくほど小声になりながら、今の一言は余計だったかもしれないと、月彦は激しく後悔した。が、後の祭りだった。
『…………………………。』
 気分を害してしまったのか、再び流れる沈黙。ただし、息苦しさに関しては先ほどの比ではなかった。余計な一言で姉を傷つけ、或いは怒らせたかもしれない――胃も杯も搾られるような息苦しさを感じるも、間違ってもこちらから通話を切るわけにはいかないから、月彦はただただ耐えた。
『……そういえば、都が』
 たっぷり三分ほどの沈黙の後、再び霧亜の声が聞こえ始めた。
『最近、あんたが病室に来ないって怒っていたわ』
「えっ……みゃーこさんが!?」
 言われてみれば、最近都とは顔を合わせていない気がする。それは当然、病室でも顔を合わせていないということだ。都にしてみれば、自分よりも肉親の紺崎月彦の方が見舞いの頻度が少ないというのは許しがたいことなのかもしれない。
「ご、ごめん……姉ちゃん……みゃーこさんに会ったら謝っとくよ」
 三度、沈黙。しかし今度は長くはなかった。一分ほどの無音の後、ぷつりと通話が切られる音と共に不通音が鳴り響く。
 月彦は全身を虚脱させながら、そっと受話器を置いた。
「ふぁぁぁぁ…………び、びっくりしたぁぁ…………」
 緊張が一気に解け、その場にへたり込む。或いは、どこか外国の首相から唐突に直通電話を受けてもここまでの緊張はしないのではないかという程に、全身に異様なまでの疲れを感じていた。
「でも……良かった……姉ちゃん、怒って電話をかけてきたわけじゃなかったのか……」
 てっきり怒られるものだとばかり身構えていた月彦としては――その点に関しては――些か拍子抜けする思いだった。
(いや……ていうかもう……“怒るほどの気力”が無いってだけなんじゃないのか……)
 姉の言葉を一字一句思い出し、その語気にまったく力が無かったことに気づく。そう、まるで死期を悟った病人が掠れ声で遺言を呟いているような――そんな声だった。
(…………って、バカ! 何考えてんだ。縁起でもない……)
 こつん、と自分の頬に軽くパンチを当てて、月彦はいそいそとベッドへと戻る。姉との会話のおかげか、狂おしいまでのムラムラも跡形も無く吹き飛び、今ならばいい感じに眠れそうだった。
(…………さっきは、本当に危なかった…………姉ちゃんからの電話が無かったら……)
 とんでもない間違いをしでかしていたかもしれない。やっぱり姉ちゃんは頼りになる――そんなほっこりした気持ちと共に、月彦の意識は深い眠りの淵へと転がり落ちていった。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――深夜。

 

 

 

 

 

 

 

「……ちょーさん、ぶちょーさん、起きて」
「んぁ……?」
 ゆらゆらと体を揺さぶる手によって、月彦は目を覚ました。
「レミちゃん……?」
「なんか変な音がするの」
 暗闇の中、うっすらと見えるレミの不安そうな顔に気づいた瞬間だった。


 ドンッ!


 壁に、何かがぶつけられるような音だった。レミが小さく悲鳴を上げ、しがみついてくる。
「な、何だ……?」
「ぶちょーさん、どうしよ……せんせー達に電話したほうがいいかな?」
 しがみついてくる手から、レミが震えているのが伝わってくる。とにもかくにも、レミを落ち着かせなければと、月彦は笑顔を零した。
「大丈夫だよ、レミちゃん。きっと隣でまだ飲み続けてて、酔った矢紗美さんとかが――」


 ドンッ!


 ひぁっ、と声を上げて、レミがベッドの中まで潜り込んでくる。
「こ、こら……レミちゃん……どうせなら月島さんの方に――……」
 と、視線を向けると、謎の音もなんのそのすやすやと眠り続けるラビの健やかな寝顔が見てとれる。レミが怖がりなのか、ラビが無神経なのか、恐がりだけど眠りが深いだけなのかは分からないが、あえて起こす必要もないだろうと、月彦は震えるレミを置いてベッドから出る。


 ドンッ!


 またしても音。最初は壁かと思ったが、どうも違うらしい。
(…………ドアの方から聞こえる?)
 そう、壁ではなく、入り口のドアの方から聞こえてきているのだ。ならば安心――というわけにはいかない。むしろある意味では、事態は深刻化したと言わざるを得ない。
(…………まさか、落ち武者…………なわけない、よな)
 折れた矢の突き刺さった、ぼろぼろの甲冑を着た落ち武者が開けろ入れろとドアを殴打している様を想像し、背筋が震える。矢紗美は“5階”に落ち武者が現れるわけないと鼻で笑っていたが、相手がこの世ならざる者であればそもそも何階かとか関係ないのではないだろうか。


 ドンッ!


 またしても、音。やはりドアを叩く音で間違いはなさそうだ。レミにも聞こえていることから、幻聴ではないことは間違い無い。もちろん夢の中であるという疑いは捨てきれないが――念のためほほを抓って――全てが現実であるという前提の元、月彦はどうすべきかを思案する。
(…………今、一番ヤバいことってのは、何だ?)
 それはもちろん、ドアの向こうにいるのが本物の落ち武者の亡霊であり、不用意にドアを開けた瞬間ばっさりと斬り殺されることだ。しかしそんなことはあるだろうか。そもそも武装した落ち武者が殺害を目的にやってきたのであればドアなど容易く斬り破って来るのではないか。
(そもそも、ドア越しにやってくるってのも変だよな。それこそ、部屋の中で実体化とかして襲えばいいだけの話だ)
 それとも、落ち武者には落ち武者の流儀というか縛りのようなものがあり、必ずドアを開けて入らなければいけないのだろうか。やはり、ドアの向こうに居るのが落ち武者だという説には無理がある――ように思える。だとすれば他に何が考えられるか。


 ドンッ!


 矢紗美は言っていた。落ち武者の話などはただの噂で、客引きのために旅館側があえて漏らしているだけではないかと。だとすればこれ事態旅館側の仕込みである可能性もあるのではないか。
(……或いは、案外酔っ払った矢紗美さんとかが……)
 怖がらせようと、落ち武者のフリをしているのではないか。どちらにせよ、恐るるには値しない。
(それに、落ち武者に気をつけろだなんて、母さんは言ってなかった)
 気をつけなければいけないのは足下であって、落ち武者ではない。つまりこの状況は昼下がりのコーヒーブレイクとなんら変わらない平穏なものということだ。
「レミちゃん、レミちゃん。ちょっと来て」
「えっ……や、やだよ……ぶちょーさん」
「大丈夫だから、ほら」
 なんとかレミを説得し、傍らへと呼ぶ。

 

 ドンッ!!


「ひぃあっ!」
 ドアを叩かれた瞬間、レミが悲鳴を上げて飛び上がり、再度ベッドに潜り込もうとする――のを、腕を掴んで止める。
「大丈夫だから。これは十中八九誰かのイタズラだ。今から俺がドアを開けて犯人を捕まえるから、レミちゃんも手伝ってくれ」
「だ、ダメだよぶちょーさん! ドアを開けて、もし本当にオバケが居たら……」
「お化けなんて絶対居ないよ。第一、“そういうやつら”が本当に来るなら、ドアを叩いたりせずに直接襲いかかってくるはずだ」
「や、やだ……ぶちょーさん怖いこと言わないで!」
「大丈夫だから。何も怖くないって証拠を見せてあげるよ」
 イヤイヤをしながら耳を塞ぐレミにを落ち着かせてから、月彦はドアの間近まで近づき、しばらく待つ。


 ドンッ!


 ドアの向こうで一体何がぶつかっているのかは分からない。覗き窓でもあればよかったのだが、ドアにはそれらしいものはついていない。やむなく月彦はドアノブを押さえ、“次”に備える。
 ドンッ――再び“何か”がぶつかり、その衝撃をドアノブで感じた瞬間、月彦は勢いよくドアを開ける。
「誰だ!」
 同時に、恫喝。恐らくはドアの向こうで“イタズラ”を行っているであろう犯人に対して向けたものであり、そこに込められた怒気は半ば以上本物だった。
 そう、月彦の予想ではドアの向こうでは恫喝に驚いた矢紗美の姿か、慌てて逃げる従業員の後ろ姿のどちらかがある筈だった。しかし実際にはそのどちらも無く、月彦が目にしたのは廊下一面に敷き詰められた絨毯の上に転がった一体の人形だった。
「えっ…………」
「な、何……? 人形……?」
 暗くてよく見えないのか、すぐ側まで近寄ってきたレミが眉を寄せるようにして眼を凝らす。――“人形”がもぞりと起き上がったのはその時だ。固まる月彦、レミの二人をあざ笑うかのように。“人形”がまるで生き物のように蠢き、立ち上がる。己の背丈の五分の一にも満たない“それ”と目が合った瞬間、
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
「ぴぃやーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
 月彦も、レミも。あらん限りの声で叫んでいた。


 



 落ち武者、無気味な人形、雪女――不吉な話を幾度となく耳にしつつも、それが危機の前兆であるとは考えてはいなかった。嫌な予感はするが、そんなもの実際には何の害もないだろうと。どこか人ごとのように考えていた。
 月彦とレミの悲鳴それ自体がトリガーであったかのように、人形は瞬時に腰を屈めるや跳躍し、まるで飛びつくように両手を広げて飛びかかってくる。月彦は慌ててドアを閉めようとしたが間に合わず、人形の片腕がドアの隙間に挟まり、完全に閉じることが出来なかった。
「うわっ! うわっ! うわっ!」
 半ばパニックになりながらも、月彦はなんとかドアを閉じようと押し続ける。が、人形の腕は思いの外頑丈であり、挟んだ腕を力任せに切断してドアを閉じるという月彦の目論見は失敗に終わった。それどころか、勢いをつけようと一度ドアを引いた隙に今度は頭をねじ込まれ、月彦は半狂乱になってドアを閉めようと力を込める。
 ――が。
(こ、これ…………廊下にあった人形じゃないぞ……)
 ドアの隙間に頭と片腕をねじ込んでいる人形を見て、月彦はハッとする。あの無気味な人形達があまりにインパクトが強く、ドアの外に転がっていた人形もてっきり同じものだとばかり思っていた。しかしこうして見れば、明らかにデザインが違うことがわかる。髪は茶色の毛糸で、目はガラス玉。頭部そのものは木製だが、まるで化粧のように白や赤の塗料で模様が書き込まれた顔は怖気しか感じない。何より異様なのはその口だ。耳の辺りまで裂けた大きな口にずらりと並ぶのはサメを彷彿とさせる尖った歯。暗がりにも関わらずギラギラと冷たい輝きを放つそれを誇示するように、ガチガチと人形はひっきりなしに歯を鳴らし続けている。
(あんなのに噛まれたら、手首の半分くらい簡単に持っていかれちまうぞ)
 先ほどまで聞こえていた何かがぶつかっているような音は恐らく――否、間違い無くこの人形がドアを破ろうと体当たりをしている音だったのだ。何故自分は誰かのイタズラと決めつけ、不用意にドアを開けてしまったのか。隣の部屋には矢紗美も雪乃も居るのだから、まずは電話で相談するということだって出来た筈ではないか――。
(そ、そうだ……矢紗美さんなら!)
 焼酎でつぶれてしまった雪乃は怪しいが、矢紗美ならば電話で起こせるかもしれない。
「れ、レミちゃん! 電話だ! 矢紗美さん達を起こして、呼んで!」
 月彦は声を張り上げた――が、肝心のレミの返事が無い。
「レミちゃん!?」
 見れば、レミは踏込の辺りに座り込み、ぐったりと壁にもたれるように目を閉じていた。……どうやらあまりの恐怖に失神してしまったらしい。
「ま、マジか…………レミちゃん、起きてくれ! つ、月島さんでもいい! 起きてくれ!」
 月彦はさらに声を張り上げる。が、レミも、ラビが起きてくる気配もない。
 幸い、人形は力はさほど強くはないようだった。しかし部屋の中に入ろうという意思は限りなく貪欲で、ドアの隙間にぐりぐりと体をねじ込むようにして少しずつではあるが確実に侵入しつつあった。
「ヤバい……な、なんとかしないと……」
 もしや――月彦の脳裏に、一瞬の電光のように煌めいたのは母親からの伝言だった。足下に気をつけなさいというのは、もしやこの人形のことを指していたのではないか。
(ンなの、分かるか!)
 脳内で月彦は毒づく。確かに足下には違いなかろうが、まさか人形が襲ってくるという意味とは思わないではないか。せめて「夜中にドアを叩かれたら要注意」と言ってくれていたら、不用意にドアを開けたりはしなかったのに。
(それとも……“何処で襲ってくるか”は分からなかったから、足下に注意って言い方しか出来なかったのか……?)
 そこまで考えて、月彦は首を振る。自分の考えのばかばかしさに気がついたのだ。葛葉は恐らく、スキー場周辺は雪や氷まみれだから、滑って転ばないように注意しろという意味で言ったに違いないのだ。自分の不注意不用意を母親のせいにするなと、月彦は自戒の意味も兼ねて唇を噛み締める。
「って、そんなこと考えてる場合でもないか……マジでどうすりゃいいんだ」
 人形は、確実に侵入しつつある。月彦はなんとか人形を部屋の中に入れまいと――噛まれるリスクを覚悟の上で――その頭を踏みつけるようにして蹴りつける。が、靴すら履いていない素足で恐らく木で出来ているらしい人形の頭を蹴りつけても痛いばかりで、与えたダメージはひいき目に見ても皆無だった。
『コ……』
 それでもやらないよりはマシとばかりに蹴り続けていると、唐突に人形が“声”を発した。
『コ……コ、コボボボボ』
「っ……なっ……こいつ、喋れるのか!?」
『コボ、ジデ、ヤル』
「なっ…………っ……!」
 人形は頭をぐるぐると回転させ、歯をガチガチ鳴らしながら『コボジデヤル』を繰り返す。もはや人形は胴体まで体を割り込ませており、頭同様木で作られているらしい両手で――どうやら指先までしっかり作り込まれているらしい――がりがりとドアを引っ掻くように藻掻くその様は、獰猛な肉食の虫を彷彿とさせる。
『コ、コココ……コボ、ジデヤル…………コボボボ!』
「なんだよそれ、“殺してやる”って言いたいのか? 人形に怨まれる覚えなんかねーぞ!」
 襲うなら、せめて理由くらいは知りたいと思うも、意思の疎通が出来る相手とも思えない。
(しかもこいつ……さっきから俺をガン見してないか)
 ただ単純に部屋に入りたいだけではなく、紺崎月彦が部屋の中に居るから入ろうとしている――人形の挙動がそうとしか思えないのだ。ガラス玉で出来ている目からはおよそなんの感情も伝わってこないというのに、その目が自分の像に焦点を結んでいることだけははっきりと分かるからだ。
「っ……くそっ……ヤバい……マジでどうすりゃ…………何か、武器になりそうなモノなんて…………」
 自分が持って来た物、室内にある物を思い出すも、到底思い当たるものがない。
(……和室に敷いてある布団でくるんでなんとか動きを封じるってのも、厳しいか)
 厄介なのは、人形のあの歯だ。綿入りの布団など軽く噛み破られてしまうであろうことは想像に難くない。
 思案している間にも人形はぐいぐいと体を割り込ませ、もう今にも隙間から抜けだそうとしていた。
 やむなく月彦はドアから手を離し、後方へと飛び下がる。自分を挟みこんでいた力が無くなり、人形もつんのめるようにバランスを崩しながらも室内へと転がり込み、そしてゆっくりと立ち上がる。
 月彦は改めて人形の全容を見た。それはまさしく呪いの人形と呼ぶのに相応しい様相だった。毛糸の髪に、異様な化粧を施された顔。サメのように鋭い歯に、胴体部をすっぽりと覆う蓑で出来た服。この人形に比べれば、あれほど無気味だと感じた“廊下の人形”達でさえ子猫のように愛くるしいとすら思えてくる。
『…………ダイスキ』
 呪いの人形は月彦の方に両手を伸ばしたまま、かちゃん、かちゃんと木製の間接を鳴らしながら歩き出す。
『ダイスキ…………ダイスキ…………コボジデヤル』
「な、何だよ……意味わかんねえ……く、来るな……!」
 じりじりと後退り、居間のテーブルに危うく転びそうになりながらも必死に考える。人形から目を逸らすわけにはいかない。目を逸らしたが最後、たちまち飛びかかられてあの鋭い歯で首を掻ききられるのは目に見えている。
(電話は……かける暇がない。大声で助けを――いや、さっきの声で気がつかないなら、これ以上声を上げても聞こえないだろう)
 不幸中の幸いは、人形には脇で失神しているレミを襲う意思はないらしいということだ。でなければ、侵入を許した次の瞬間にはレミの体は血の華を咲かせていたことだろう。
(となれば……なんとかこいつをかわして外に逃げられれば……)
 その際、人形を部屋に残すことが出来れば、とりあえずは安全ではないか――しかし、ターゲットを見失った途端「じゃあ、他の人間でもいいや」とばかりに無防備なレミ、ラビに襲いかからないとも限らない。
「くそ…………ダメだ。レミちゃん、月島さんでもいい! 助けを呼んでくれ!」
 これだけ叫んでいるのだから、どちらかが起きてもよさそうなものなのに。なんとも歯がゆいが、起きないものは仕方がない
「って、うわぁっ!」
 寝室のラビの方を気に掛けた瞬間、まるで人間の視線が逸れたことが感知できるかのようなタイミングで、呪いの人形が跳躍し飛びかかってくる。月彦は即座に手を振って叩き落とす――が。
「痛っ…………くそっ……迂闊に触れねぇ……」
 人形の鋭い歯に掠ってしまったらしく、腕に焼けるような痛みを感じた。一方人形はといえば、畳の上に転がった後、何事も無かったかのように起き上がり、再び月彦の方へと向き直る。
「く、そ……――っ!」
 人形が再び飛びかかってくる。今度は手を出さず、転がるようにして避ける。人形が板の間の木柱に衝突し、派手な音を鳴らす――が、特にダメージはないらしい。再び立ち上がり、無感情の目で月彦の方を見据えてくる。
『……コボジデヤル』
 ガチガチと、威嚇するように歯を鳴らし、人形が一際低く構え、跳躍してくる。首に噛みつくこと以外何も考えていないかのような突撃をなんとかかわすもバランスを崩し、月彦は畳の上に尻餅をつくようにして転がった。
 すぐさま立ち上がろうと畳に手を突いた刹那。首元に狙いを定めた人形が飛びかかってくる。
「やべっ――」
 ダメだ、避けきれない――月彦が半ば死を覚悟した刹那、唐突に人形の動きが空中で止まった。
「えっ……」
 それはさながら、見えない蜘蛛の巣にでも引っかかっているような不可解な現象だった。何もない空中で人形はじたばたと藻掻き、やがてその人形をわしっ、と。白い手が掴んだ。
「つ…………きしま、さん?」
 一体いつのまに起きたのか、およそ普段のラビとは似ても似つかない――幽鬼のような顔をしたラビは右手と左手でそれぞれ人形の胴と頭を掴むや。
「……うるひゃい!」
 ぶちんと、人形の首を引きちぎってしまった。途端、じたばたと藻掻いていた人形の手足がだらりと垂れ下がり、ぴくりとも動かなくなった。
「んなっ…………」
 呆気にとられる月彦の目の前で、ラビはカラカラとガラス戸を開けるや「うるひゃいっ」と舌足らずな叫び声と共に人形の残骸を放り投げる。そして大きく欠伸をするや、開けたガラス戸も閉めずにふらふらとベッドに潜ってしまった。
「……………………。」
 月彦は言うべき言葉を見いだせず、しんと静まりかえった室内で茫然自失とし続けた。くしゅん、とくしゃみが出てようやくガラス戸を閉めることを思いつき、さらに玄関のところで失神しているレミを布団へと寝かせた。
(…………とりあえず、俺も寝よう)
 全身に感じる、異様なまでの疲れと眠気。月彦もまたベッドへと潜り込んだ。

 その後は、一度もドアを叩かれることはなく、朝まではあっという間だった。



 
 

 翌朝、月彦一行のテンションはまさしく五者五様だった。美味しい物をお腹いっぱい食べ、いち早く就寝したラビが最も元気が良く、時点が矢紗美。これまたさほど深酒もせず寝たおかげか体調はすこぶる良さそうであり、二人とも用意された朝食をむしゃむしゃと食べている。一方月彦はといえば、昨夜の不可解な事件を引きずっており、お世辞にも元気とは言いがたかった。矢紗美や雪乃に相談しようにも、唯一証人となってくれそうなレミが頑ななまでに「何も覚えてない」と言い張っており、到底真面目に取り合ってもらえなそうなのが悲しかった。
(…………いや、本当に夢だったんじゃないか)
 月彦はちらりと、箸を持つ右手へと視線を落とす。昨夜、人形を叩き落とす際に傷を負った筈だった。しかしそこには傷痕も出血の後すらない。
(それに、月島さんがあっさり人形を片付けちゃったっていうのも……)
 考えれば考えるほどに、夢を見ていたとしか思えなくなる。せめて人形の残骸でも残っていれば違ったのだろうが、朝から室内を調べた限りでは人形が襲ってきた痕跡は何も見つけることが出来なかった。
(でも、夢だったって考えると……今度はレミちゃんのテンションの低さが気になる)
 あれが全て紺崎月彦が見ていた夢であり、レミはただの登場人物に過ぎなかったのだとすれば、朝からやたらと物音に怯えるような節があるレミの様子も気に掛かる。或いはレミはレミで違う悪夢に魘された結果なのかもしれないが、どっちにしろレミに尋ねても「何も覚えてない」としか答えてくれないのがもどかしかった。
 念のためラビにも人形のことを聞いてはみたが、答えはレミと変わらなかった。つまり、人形の襲撃を示す証拠は月彦の記憶だけであり、となればあの非現実はただの夢だったと考えるしかないのではないか――。
 そんな思案が、うーんうーんとベッドの方から聞こえる雪乃の唸り声によって中断された。
「バッカねえ、折角避けといてあげたのに、あんたが間違って焼酎なんて飲んじゃうからよ」
 矢紗美のため息混じりの言葉に、どきりと胸が跳ねる。雪乃が焼酎が苦手で口にするやすぐに寝入ってしまうというのは知っていたが、まさか具合まで悪くしてしまうとは思わなかった。さすがに不憫になり、月彦は朝食の手を止め、ベッドの側へと歩み寄る。
「先生、苦しいんですか?」
「紺崎くん……?」
 瞼を開いた雪乃の目はどこかとろんとしていた。ひょっとしたら微熱でもあるのかもしれない。
「苦しいっていうか……ちょっと二日酔い気味で……あとは筋肉痛が……」
「えっと……とりあえず水でも持って来ましょうか?」
 二日酔いのことはよくわからないが、水を飲めば多少は楽になるという話は聞いたことがある。が、雪乃は力なく首を振った。
「ありがとう、紺崎くん。でも今は大丈夫…………もう少し横になってれば治ると思うから」
「そ、そうですか…………そうだ、先生。ちょっと顔を拭いたほうがいいんじゃないですか?」
 顔?――雪乃が不思議そうに首を傾げる。起きてからまだ一度も鏡を見ていない様子の雪乃は知らないだろうが、実はその顔には醜悪なペインティングが施されていたりする。さながら歌舞伎役者の隈取りのようにされた雪乃の姿は見るに忍びなく、月彦はさりげなくおしぼりを差し出し、拭き取るように促した。
「あーーーーーーっ! 何よこれ! お姉ちゃんの仕業でしょ!?」
「今頃気づいたの? もう落としても大丈夫よ。ちゃーんと写メで記念撮影してあるから」
「なんでこんな子供みたいな真似…………あいたたた……」
「だ、大丈夫ですか!?」
「ちょ、ちょっと腰も痛めちゃってるみたい…………」
 立ち上がろうとした矢先、雪乃は悲痛な声を上げて再びベッドに横になる。
「なっさけないわねー。朝ご飯食べたら今日もがっつり滑りに行く予定だったのに、その様子じゃあ雪乃は留守番ね」
 矢紗美の言葉に、月彦は反射的に窓の外へと目をやった。どうやら吹雪は一晩で止んだらしく、外には綺麗な青空が広がっていた。
(今日もがっつり滑る――ということは……)
 今夜もここに泊まることになるということだ。……そこまで考えるなり、ゾクリとしたものが背筋を走る。
(…………いや、昨夜の“アレ”は夢だ。大丈夫……)
 そう、既に九分九厘あれは夢だったと納得済みだ――が、残りの一厘はまだひょっとしたらという疑念が残っている。そしてその“ひょっとしたら”が現実となった場合、今度こそ命は無いかもしれないのだ。
(…………襲われるにしても、せめて理由が分かれば、な)
 やれ道のお地蔵さんを倒してしまっただの、守り神が祭られてる祭壇を壊してしまっただのといった“原因”があるのなら、対処のしようもあるというものだ。いきなり寝込みを襲われ、しかもわけもわからないまま撃退では、安心して良いのかどうかも分からない。
「…………あの、矢紗美さん……ちょっと話があるんですけど……」
「ん? なぁーに? 二人きりじゃないと出来ない話?」
 矢紗美の声は不必要なまでに大きかった。わざと雪乃の耳に届くように言ったのは明らかで、その証拠に雪乃は首だけを月彦の方へと向け、威嚇するように睨み付けてきていた。
「……そういうわけじゃ、ないんですけど………………今日は滑るの止めて、このまま帰りませんか?」
「……どうして?」
 よほど意外な申し出だったのか、矢紗美が箸で卵焼きを持ち上げたまま目を丸くする。
「どうして……って言われると困るんですけど……すごく嫌な予感がするんです」
「まさかとは思うけど、落ち武者に襲われる気がするーとかじゃないわよね?」
「いえ……落ち武者はどうでもいい……ってわけじゃないんですけど……」
 ちらりとレミの方に視線を送る。援護射撃を頼むという意思表示だったが、レミはばつが悪そうに視線を逸らし、背まで向けてしまった。
「…………すみません、やっぱり何でもないです」
 さすがに“嫌な予感がするから”で旅行を中断するというのは無茶であると、月彦は具申を取り下げた。箸の進まない食事を続けながら、月彦はふと考えた。
(…………ひょっとして、今……俺は最大の間違いを犯したんじゃないのか)
 或いは、これが後々の惨劇を回避できた最後の機会となるのではないか――胸騒ぎを覚えつつも、ただただ己の予感が現実化しないことを祈る月彦だった。



「……本当に留守番でいいの?」
「はい。さすがにあの状態の先生を一人残していくのは……誰かが見てたほうがいいと思います」
 月彦はちらりと、寝室の方へと目をやる。相変わらず具合が悪いのか、雪乃は布団をかぶったまま気怠そうに丸まっている。
「…………ふぅーん」
 矢紗美はベッドで丸くなっている雪乃と、月彦との顔を交互に見、なにやら意味深な笑みを浮かべる。
「あの……言っときますけど、別に裏とかそういうのは無いですから」
 具合が悪い雪乃を看病するという体裁で、二人きりでイチャつくつもりに違いないという目を向けてくる矢紗美に、月彦は珍しく真面目な顔で否定し、さらに小声で付け加えた。
「…………実は、昨夜先生に焼酎飲ませちゃったの、俺なんです」
「紺崎クンが?」
「酔っぱらって月島さんたちの前でとんでもないことを言い出す前に早く寝かせてしまおうと思って……まさか、あんなに具合が悪くなっちゃうなんて……」
 だから責任を取らなければならないと、暗に訴える。漸く納得がいったのか、矢紗美が肩を落としながらため息をついた。
「……ま、そーゆー事ならしょうがないか。レミちゃん達の面倒は私が責任もって見てあげるから、紺崎クンは雪乃のバカの世話をお願いね」
「我が儘言ってすみません」
「いいのよ、別に。……結局紺崎クンにとって、雪乃が一番大事ってことなんでしょ?」
「えっ……あのっ、ちょっ……」
 引き留めようと伸ばした手の何倍もの早さで矢紗美が踵を返し、そのまま早足に行ってしまう。
(……怒らせちゃったのかな)
 矢紗美の前で雪乃を大事にするような言動はタブーだと分かっていても、今回ばかりはしょうがないと月彦は思う。
「……先生、何か欲しいものがあったら遠慮無く言ってくださいね?」
 寝室に戻り、声をかけると雪乃は重い体を引きずるように寝返りを打ち、月彦の方へと顔を向けた。
「……紺崎くん、今すぐお姉ちゃんを追いかけて」
「へ……?」
 まさかの言葉に、月彦は耳を疑った。
「追いかけて、見つからないように見送ってきて。ちゃんとバスに乗る所まで確認して」
「どうし――」
「お願い、紺崎くん」
 半病人の雪乃にお願いをされては断れないと、月彦は渋々部屋を出、ロビーへと降りる。途中、“例の人形が飾られてる廊下”を通ったが、昨夜の――夢ということになったが――インパクトがあまりに強すぎた為か、昨日はあれほど無気味に見えた西洋人形達がなんとも可愛らしい愛玩人形にしか見えなかった。
「えーと……矢紗美さん達は……あっ」
 タイミングがいいのか悪いのか。丁度入り口前のロータリーに停車した送迎バスに矢紗美達が乗り込んでいくのを確認し、月彦はやれやれとばかりに踵を返す。エレベーターで五階まで戻り、事の次第を雪乃に報告した途端。
「よっっし! 作戦成功!」
 快哉と共に掛け布団を撥ね除け、軽やかにベッドから降り立った。
「せ、先生……? 具合が悪かったんじゃ……」
「そんなの、演技に決まってるじゃない。具合悪いフリしてればスキーには付き合わされないだろうし――」
 ふふふと、微笑混じりに雪乃が目を細める。
「……きっと、紺崎くんなら看病に残ってくれるに違いないって、信じてたからこその作戦よ?」
「演技……だったんですか」
 だとしたら、なかなかの演技力だと言わざるをえない。少なくとも月彦は完全に信じ込まされていたのだから。
「紺崎くんにだけは作戦を教えといてもよかったんだけど、そうするとお姉ちゃんに感づかれそうだったしさ。結局紺崎くんまで騙すような形になっちゃったけど……結果オーライでしょ?」
 結果オーライ……なのだろうか。胸中に残るモヤッとしたものに、月彦は手放しでは喜べなかった。
「……ねえ」
 ハッと気がついたときには、首の後ろにまで雪乃の両手が絡みついていた。
「お姉ちゃん達が戻ってくるまでの間、紺崎くんは何かしたいことある?」
「え、と……急に言われても……」
「いきなり、エッチなことしちゃう?」
 それでも構わないとばかりに雪乃は妖艶に笑み、そして焦らすように首の後ろを指でなぞってくる。くねくねと腰の辺りをくねらせながら、密着するでもなくしかし離れるでもない位置取りで、熱の籠もった視線を向けてくる。
「う……で、でも……途中でいきなり矢紗美さんたちが帰ってきたりしたらヤバいんじゃ……」
「そうねぇ、確かに紺崎くんが言う通り、この部屋でシちゃうのは色々リスキーだと思うわ。…………なんならもう、今から二人で別の旅館に泊まりにいっちゃおっか」
「えええ!? さ、さすがにそれはマズイんじゃ……」
 出来る出来ないではなく、人としてどうなのだろうか。そんなバックレをして、後日ラビやレミ、そして矢紗美にどんな顔をして会えばいいのか――。
「冗談――でもないんだけど、そうよねぇ。確かにそれは“無い”わよね。……………………じゃあさ」
 何か思いついたのか、雪乃が飛びつくように身を寄せてきてごにょごにょと耳打ちをしてくる。
「…………そんな場所があるんですか?」
「下調べに抜かりはないわ。……それにこれなら二人で居なくなってても不自然じゃないし、最悪戻ってくるのが遅くなっても言い訳もしやすいでしょ?」
 それに、と。雪乃は一気に距離を詰め、しかも足まで絡めながら密着してくる。
「……折角の紺崎くんとの温泉旅行なんだもの。“温泉に一緒に入った”っていう思い出は絶対に作っておきたいの」
「……ははっ……温泉に入るだけ……じゃ、すまない予感がします」
 すり、すりと太ももで股間をなぞるように擦りあげられながら、月彦は上ずった声で辛うじて答えた。
「ダメよ、紺崎くん。あくまで一緒に温泉に入るのが目的なんだから。………………ちゃんと我慢しなさい」
 でも、どうしても我慢出来なくなったらすぐに先生に言うのよ?――まるで、耳を舐めるような囁きを残して、雪乃はついと離れてしまった。
「さあ、準備してすぐ出発しましょ」
「は、はい!」
 自分でも驚く程に“良い返事”をして、大急ぎで着替えをしに506号室へと戻る。グラマー女教師の色香に完全にのぼせ上がった月彦の頭にはもう、呪いの人形の件など微塵も残ってはいなかった。



 


 

 どうやら昨夜の吹雪は風は強かったが雪の方はたいした事はなかったらしい。少なくとも駐車場の車がどれがどれやら分からないほどに雪が積もっている――ということはなかった。早く早くと急かされながら雪乃の車へと乗り込み、山道を走ること二十分弱、完全に周囲の樹木と同化しているかのような色合いの看板を目印に横道へと入ると、平地に砂利を敷いただけの小さな駐車場が見えてきた。他の車は一台も無く、雪乃は駐車場の隅へと停車し「さっ、着いたわよ」と着替えを手にいそいそと降りてしまった。
「先生……もしかして、宿を変えるんですか?」
 砂利を敷いただけの駐車場から続く、これまた斜面に丸太を埋め込んだだけの階段の先に見えるのは、駐車場のサイズに見合ったサイズの古びた旅館だった。
「そうしたいのは山々だけど、さすがに、ね。それに最初に言ったでしょ? 温泉に入りに行くって」
 雪乃はそう言い、駐車場の片隅にある看板を指さした。
「昨日さりげなく旅館の人に聞いてみたのよ。“この辺で静かで人気が無くて混浴の露天風呂ありませんかー”って。そしたらここがオススメだって教えてもらったの」
 雪乃が指さした看板には“野雪の湯”と、回文のようで回文ではない文言が書かれていた。野雪というのは確か、姉と姉と通じた婚約者を刺し殺して雪女になってしまった人物だった筈だが、雪乃は知っているのだろうか……。
「建物は旅館っぽく見えるけど、どっちかっていうと銭湯に近いのよ。一応宿泊も出来るらしいけど、ご飯とか一切なしの素泊まりしか出来ないみたい」
 言われて、納得する。確かに温泉だからといって、必ずしも宿泊もしなければならない場所ばかりではないだろう。逆を言えば、“客を取られる心配”が無いからこそ、旅館の人も勧めてくれたのかもしれない。
「実際来てみて紺崎くんも分かったでしょ? 入り口は分かりにくいし、駐車場にも車なんて一台も駐まってなかったし、何より混浴なら、万が一他の客に紺崎くんと一緒に入ってる所を見られても大丈夫だし」
「……できればそんな事態は避けたいですけど…………」
「もちろん私だって同じ気持ちよ? そうなったらそうなったでさっさと出るしかないわね。……でも、多分大丈夫だと思うわよ」
「そう、でしょうか」
「んもぅ、紺崎くんってばホント心配性なんだから」
 先生の“大丈夫”には根拠が無いことが多いから不安なんです、と口にしかけて、月彦は黙った。ここでどれほど不安要素をあげたところで雪乃は決して回れ右などしないだろうからだ。
「…………わかりました。先生がそう言うなら、俺も覚悟を決めます」
「別に覚悟を決めるほどの事はないと思うけど……まぁいいわ。とにかく行きましょ」
 ぎゅっ。
 さりげなく手を握られ、月彦は思わず雪乃の顔を見てしまった。雪乃も月彦の視線に気がつき、気がついた後で、ぼっ……と顔を一気に赤くした。
「な、何よ! 二人きりなんだから、手くらい繋いだっていいでしょ!?」
「べ、別に悪いって言ってるわけじゃ……ただちょっと驚いちゃって……」
「あーもう! いいから行くわよ!? 紺崎くんのペースに合わせてたら風邪ひいちゃう!」
 真っ赤に染まった顔をこれ以上見られたくないとばかりに背を向けて――でも握った手を離すのは嫌らしく、痛いほどに握りしめられたままで――月彦は雪乃に引っ張られる形で丸太の階段を上がるのだった。



「はぁぁ〜…………いい湯ねえ、紺崎くん」
「そうですね。ちょっと熱すぎるくらいですけど、外気が冷たいからそれで丁度いいっていうか……」
 それとなく、周りを見回す。もうもうと立ちこめる湯気。はらはらと舞う粉雪。木の枝や大岩の上に積もったままの雪も、全てが風情がある。
「やっぱり、冬は温泉よねえ。ホント、もっと早くに来るんだったわ」
「はは……そうですね」
 確かに雪乃の言う通り、“冬の温泉”は最高の観光地の一つだと頷かざるを得ない。
(…………先生には言えないけど、今年に入ってからだけでも何度か温泉には入ってるんだよな……)
 先生には言えないけど、と再度念じるように胸の内で呟く。体の力を抜き、背後の岩へともたれ掛かる。
「でも、大丈夫なんですかね……」
「大丈夫って?」
「いやほら、人目とか……」
 月彦は周囲の竹垣へと目を向け、最後に脱衣所の方へと視線を向ける。湯気のせいで相変わらず視界は良くないが、今のところ他の客が入ってくる気配はない。
「大丈夫よ。お姉ちゃん達がスキーしに行ったのは確認済みだし、駐車場だって私たちの車しか駐まってなかったでしょ?」
 だから、もうちょっとくっつこ?――そう言うかのように、雪乃がぴったりと肩を合わせてくる。
「せ、先生……その、あんまりくっつかれると……」
「くっつかれると?」
 雪乃の方をわざわざ見なくても、笑いを噛み殺しているのが分かるような、そんな声。
月彦も、そしてもちろん雪乃も全裸であり、それでいてどこかの自宅備え付けの温泉のように濁り湯というわけでもないから、うっかり視線を向けてしまえばそれだけで――。
「紺崎くんが見たいなら、好きなだけ見てもいいのよ?」
「そりゃ……み、見てもいいなら……俺だって見たい、ですけど……」
 ぐぎぎと。意思に反して勝手に雪乃の裸を視界に捉えようとする眼球を封じるように、月彦は頑ななまでにそっぽを向き続ける。
(み、見ちゃったら我慢できなくなりそうだから、見れないんですよ!)
 と、口に出して言えたらどんなに良いか。もっとも、それで雪乃が離れてくれるのだったら言う価値もあるのだが、月彦にはまったく逆の未来しか想像できないのだった。
「ひょっとして……“見ちゃったら我慢できなくなりそうだから”ってコトかしら?」
「!」
 心を読まれたような一言に、思わず雪乃の方を向こうとするよりも先に、むにゅうっ、と。背中に柔らかい塊が押しつけられる。
「嬉しい!」
 さらに、雪乃の両手が回され、そのまま抱きしめられる。
「ちょっ……せ、先生!?」
「紺崎くんに“そういう対象”として見られるの、すっごく嬉しい。それだけでドキドキしちゃう」
 右肩のすぐ後ろに、雪乃の口がある。声は微かに震え、どこか甘えるような響きがある。
「ねえ、ほら……ドキドキしてるの、分かる?」
 ぎゅううっ、と雪乃がさらにおっぱいを押し当ててくる。
「す、すみません……さすがに、ちょっと……」
 おっぱいという脂肪の壁に阻まれて伝わりません――そんな言葉が、生唾と共に嚥下される。
「もうっ! そこは嘘でも“分かる”って言うところでしょ?」
 雪乃が抱擁をとき、僅かに体を離す。しかし今度は月彦の腕を掴み、えいやとばかりにその手のひらを自分の左胸へと押し当てる。
「せ、先生……うぁ……」
「どう? さすがにこれなら分かるでしょ?」
 もちろん、背中だろうが手のひらだろうが結果は変わらない。そこにはただただたわわなおっぱいの感触があるだけだ。
「あんっ」
 くすぐったそうな、それでいてなんとも甘ったるい声。ちゃぷんと水面を波立たせながら、雪乃は大げさに身じろぎをし、鼻にかかった声を上げ続ける。そこで初めて、月彦はただおっぱいに宛がっているだけだった筈の手が、もみゅもみゅと力任せに捏ね始めているという事実に気がついた。
「ンぅ……どう? 紺崎くん」
「え……っと……はい、すごく、伝わってきます」
「そうじゃなくて」
 苦笑。舌なめずり。目が、艶めかしく踊る雪乃の唇へと吸い寄せられる。
「エッチしたくなってきた? っていう意味で訊いたんだけど?」
「んなっ……わ、分からないですよそんなの! “どう?”だけでそこまで察するなんて……」
 今の今まで“ドキドキが伝わるかどうか”の話だったではないかと憤慨しながらも、月彦は雪乃のおっぱいを揉む手を止められない。
「そういうの、今はいいから。……ンッ…………ねえ、どうなの?」
「…………俺よりも、先生の方こそどうなんですか? 随分息が荒くなってきてるみたいですけど」
 事実、息を弾ませながら色っぽく喘ぎ続ける雪乃の姿に、月彦の方もいっぱいいっぱいだったりする。だからこその強がりなのだが、もちろん揉む手は止まらない。
「ンっ……んっ……いいから、訊かれたことに早く……あんっ…………こ、答えるまで、おっぱいはおあずけ!」
「ああぁ!」
 手首を掴まれ、強引におっぱいから引きはがされる。月彦は思わず、母牛から引き離される子牛のような悲鳴を漏らしてしまう。
「ほら、何か言うことは?」
「…………おっぱいに触らせてくれたら考えます」
「もぉ! 本気で怒るわよ!?」
 ざばぁと、雪乃は突如立ち上がるや、月彦の両足を跨ぐようにして座り込んでしまう。
「ちょっ……先生!?」
 がっしりと、雪乃の両足で腰を固定され、そのまま腰を落とされてはもはや逃げることも立ち上がることも出来ない。それでいて、目の前には水滴を滴らせる、たわわな巨乳が――
「ほら、紺崎くん?」
 ずいと、雪乃はさらに前屈みになろうとして――“何か”に気づいたようにハッと身を竦めた。
「ま、マズイですって、先生! そんな所に密着されたら――」
 うっかり“入ってしまう”かもしれない。何故ならもう、水面から先端が覗いてしまうのではないかと危惧してしまう程に、ガッチガチのギンギンなのだから。
「ふぅん……平気そうな顔してたクセに。紺崎くんってばポーカーフェイスが上手なのね」
 ニヤけ顔を噛み殺したような、ジト目。
「……別に平気そうな顔はしてなかったと思いますけど――はう!?」
 湯の中で、唐突に剛直が雪乃に握られる。
「ねえ……コレ、挿れたいんでしょ?」
「ちょ、ちょっ……先生、そんなに強く握らないでくださっっ……くぁ……」
 雪乃の左手は竿に、右手は先端を押さえつけるような形で、ぐいぐいと体重をかけられる。さらに、根元近くには“雪乃”の感触が――
「いいのよ? 紺崎くんがシたいなら。…………だけどその前に、ね?」
 ここまで来れば、さすがに月彦にも分かる。雪乃は、紺崎月彦の口から、直に自分を求める言葉を聞きたくて堪らないのだ。
「ねえ、もぉいいでしょ? いい加減にしないとココ抓っちゃうんだから。…………紺崎くん、お願い……焦らさないでェ……」
「……たい、です」
「なぁに? 聞こえない。ちゃんとほら、聞こえるように言って」
「せ、先生とシたい! 先生と、エッチ……したい、です!」
「…………! ……ンッッ………………!」
 ゾクゾクゾクッ――!
 密着している月彦にも、その“ゾクゾク”が伝わってくるかのようだった。雪乃は肩を抱きながら仰け反り、身震いする。そして大きく天を仰いだまま「はぁぁ……」と色っぽくため息をつく。
「エッチ……したい……私も、紺崎くん、と……」
 そしてとろんと蕩けた目で月彦を見下ろしながら。どこか譫言の様に呟く。呟きながら、雪乃は自ら腰を上げ――
「ンぁっ……!」
 既にトロトロになってしまっている秘裂の入り口へと剛直の先端を宛がい、
「ハァ……ハァ……ハァ…………ンッ………………ンンンっ…………!」
「うっ……おぁ…………せ、先生のナカ…………っっくぁぁぁ…………!」
 一気に腰を落とした瞬間、月彦もまた思わず声を上げてしまう。温泉で暖められたせいなのか、はたまた雪乃自身の興奮によるものか。いつになく膣内の温度は高く、まるで歓迎するように肉襞に絡みつかれ、月彦は早くも射精を堪える準備をしなければならなかった。
「ああぁ……! いいぃ……! すっっっっっっっごく良いっ……紺崎くんの……気持ちいい…………!」
「せ、先生の、ナカ、も……すごく、うねってて……熱く、て…………」
 はぁはぁと息を荒げながら、月彦は思わず両手で雪乃の尻を掴み、肉付きを愉しむように捏ね始めていた。雪乃もまたそんな愛撫にくすぐったそうに声を上げながら、少しずつ腰を前後させ始める――。
「あんっ、あんっ……シたかった……ずっと、紺崎くんとエッチしたかったのぉ…………あっ、あっ、あっ……!」
「っ……さ、散々俺に“エッチしたい”って言わせようとしてたくせに……せ、先生の方が…………ぅっ……」
「だってっ……ずっと、我慢っ…………あんっ! あんっ……紺崎くん……好きっ……好きよ……好き……好き……!」
 腰をくねらせながら、雪乃が被さるように密着してきて、そのままキスの雨を降らされる。
「好き……好き……好きっ……あんっ! 好きっ……好きっ……!」
「せっ、先生……ちょっ……激しっ……それに、声も……!」
 ざっぷざっぷと水面を波立たせながら声を荒げる雪乃に気圧されながらも、腰が振られる度に与えられる快楽の凄まじさに、月彦は苦言以上の抵抗が出来ない。
「アァァ!……良いっ…………コレっ……すっごく良いのぉ…………あぁんっ………あんっ、あんっ………ダメっ……ずっと我慢してたから……感じ過ぎちゃうっ! いっ……イッちゃう…………イクッ……イクッ……!」
 雪乃が一際高い声を上げ始めた――その時だった。
「おーーーーーーーい! ゆっきのー! 居るんでしょーーーーーー!?」
 突然、ガラガラと脱衣所の戸が開く音と共に響いたその声に、雪乃も、そして月彦も同時に反応した。
「おっ、お姉ちゃん!?」
「矢紗美さん!?」
 瞬時に、月彦は辺りを見回す。露天風呂はそれなりに広く、ところどころに大岩が据えられ、幸い身を隠す場所には困らない。
 ――が。
(矢紗美さんも車で来たとすれば、駐車場に先生の車があるのは見てるはず。つまり、二人とも見つからないと――)
 見つかるまで捜そうとするだろう。となればここは――
「せ、先生……とりあえず俺は隠れて機を見て逃げますから、先生は矢紗美さんの注意を引いててください!」
 冷静に考えれば、既に関係を知っている矢紗美に見つかったところでさして困ることもないはずなのだが――せいぜい人目を忍んでつがっていたところをからかわれるくらいで――冷静ではない月彦は、とにかく身を隠さなければという固定観念に囚われていた。
「せ、先生!?」
「んっ……わかってるのよ? わかってるけど……あンっ……」
 離れなければいけないのは分かっている。頭では分かっているのに、セックスを止められない――躊躇いがちに腰を使う雪乃に早くどいてくれと急かすも、一向に退く気配がない。
「あっ、やん!」
 やむなく、月彦は雪乃の尻を掴み、強引に体を持ち上げて剛直を引き抜く。未練がましい声を上げる雪乃に背を向け、ざっぶざっぶと湯をかき分け、大岩の影へと身を隠す。
「あっ、居た居た。……あれ、紺崎クンは? てっきり一緒だと思ったのに」
 すぐ側で聞こえた矢紗美の声に、間一髪のタイミングであったことを知った。
「あれ、おーい! 雪乃ってば、ボーッとしちゃってどうしたの?」
「………………お姉ちゃん…………スキーにいったんじゃなかったの?」
 それはもう、岩の影までおどろおどろしさが伝わってくるような恨みがましい声だった。
「んー、その予定だったんだけど、具合の悪いあんた残して私達だけ楽しんじゃうのもアレだなーって思ってさ。月島さんはずっとあんたのこと心配してるし、レミちゃんもスキーはあんまり乗り気じゃないみたいだし、だったら別に無理に滑らなくてもいいかな、って。そのままバスで戻ってきちゃったのよね」
 反対に矢紗美の方はといえば、うきうきと躍る心を抑えているような口調だった。さも、“あんたの浅い考えなんかお見通し”と言わんばかりのその口調から察するに、どうやら矢紗美は最初から全てを見抜いていたらしい。
「で、でもどうして私がここに来てるって――」
「あ、それねー。旅館の人に教えてもらったの。なんか混浴の露天風呂捜してたって聞いたから、場所を教えて貰って急いでおいかけて来ちゃった♪」
「な…………なんで追いかけてくるのよ!」
「だってぇ、あんたたち二人きりだとナニするか分からないんだもの。公共の場で淫らな行為に耽らないように姉としてしっかり見張ってなきゃいけないと思って」
「み、淫らって…………」
「なぁーに? まさか本当に紺崎クンと本番セックスしてたワケじゃないんでしょ? さすがのあんたでもそのくらいの良識はあるってお姉ちゃんは信じてるんだけど?」
「あ、あああたりまえじゃない! するわけないじゃない! そんなの!」
「そうよね、よかったぁ。実の妹がそんな恥知らずのド変態だなんてことになったらさすがの私でもドン引きだもの」
 うんうんと湯煙の向こうで矢紗美が頷く。一方雪乃は完全に肩を縮こまらせてしまっているようだ。
「で、紺崎クンはどこかしら? 一緒に来たんでしょ?」
「…………来たけど、一緒に入るのは恥ずかしいって、すぐに出ちゃったわ」
 もちろん本当は岩陰に身を潜めているのだが、雪乃としてもさすがに「実は本番の真っ最中だった」とは言えないだろう。
「ふぅーん? じゃあ行き違いになっちゃったのかしら」
 雪乃の言い分を信じたのか、それとも嘘だと見抜きつつも出方を窺っているだけなのか。ちゃぷんと、水音と共に矢紗美が腰を落ち着ける気配がした。
 脱出するなら、今だ!――その隙をつき、月彦はそっと大岩の影から潜水し、大きく迂回するようにして脱衣所の方へと向かう。
(混浴だけど……脱衣所は男女別だったから、服は見つかってないはずだ)
 月彦は水音を立てないようにそっと顔を出し、もうもうと立ちこめる湯煙で雪乃も矢紗美の姿も見る事ができないことを確認してから、湯から上がった。
 滑らないように気をつけながらも早足に脱衣所へと向かい、あとほんの数歩で“男性用”の脱衣所へと駆け込めるというところで、突然。
「えっ」
「あっ」
「ひっ!?」
 “女性用”の脱衣所の引き戸がぐわらと開いた瞬間、三人分の驚きの声が重なり。
「ぴゃああああああああああああああああああああああああ!?」
「びゃーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 さらに“二人分の悲鳴”が、それに続いた。


 考えてみれば――否、もはや考えるまでもなく。矢紗美が来たのだから、当然レミもラビも来て叱るべきだと判断するべきではなかったか。
 脱衣所前でモロに全裸を――しかも半勃ち姿――を見られた月彦がショックなら、同級生の男子の全裸をカウンター気味に視界に焼き付けてしまったラビも、そして当然のことながらレミにとってもショックだったことだろう。
「……やっぱり嘘だったのね」
 ふふんと、矢紗美は鼻で笑いながら指を組み、大きく伸びをする。目をこらせば湯煙の向こうに胸の頂が見えそうで、うっかり凝視しそうになって――その隣で湯に浸かっている雪乃の威圧するような目線に慌てて顔ごとそっぽを向く。
「………………。」
「………………。」
 が、そうしてそっぽを向いた先は先でレミラビの金髪姉妹が身を寄せ合っており、二人とも月彦と目が合うやまるで怯えるようにびくりと身を竦めてしまった。
 そう、一体全体何がどうなってこうなったのか。月彦は美人姉妹×2に半円を描くように取り囲まれるような状況で露天風呂に浸かっているのだった。
(……なんだこの生き地獄……いや、天国なのか……でもどっちかといえば……)
 地獄の方が近いような気はする。そもそも矢紗美がいけないのだ。レミとラビの悲鳴をききつけた矢紗美は月彦の姿を見るなり怒るでも笑うでもなく「折角だから、みんなで一緒に楽しめばいいじゃない」と、けろりとした顔で言い出したのだ。
 もちろん、反対者も居た。引率者として看過できないと雪乃が声を張り上げようとした矢先、
「じゃあ雪乃はどうして紺崎クンと一緒に温泉に入ってたのかしら?」
 今度は矢紗美の一言に完全に押し黙ってしまった。姉にバラされたら都合がわるいことてんこ盛りの雪乃としては、たとえ反対でもそれ以上は何も言えなかったのだろう。そして雪乃が矢紗美に説得されてしまった以上、引率される側のレミもラビも口出しができようはずも無く、結果なし崩し的に“みんなで露天風呂”となってしまったのだった。
(…………てゆーか、やっぱりヤバいよな。月島さん達には一応説明しといたほうがいいんじゃ……)
 すでに雪乃との関係を知っている矢紗美はいいとして、問題はレミとラビだ。具合が悪かったはずの雪乃と、その看病をするために残った紺崎月彦が、何故か混浴の温泉で発見される。いくらなんでも怪しすぎる行動ではないか。一体どう説明すれば「やましい関係ではない」と納得してもらえるだろうか。
「…………えーと、はは……まいったね、月島さん。レミちゃんも……嫌なら先に出てもいいと思うよ」
 笑顔を浮かべ、さりげなく二人に話しかける。幸い、ラビの方はやや困惑気味ながらも微笑みを返してくれたが、レミの方は逆に眉をひそめてラビを盾にするように隠れてしまった。
「なんか先生がどうしても行きたい温泉があるって言い出してさ。俺は寝てた方がいいって反対したんだけど、温泉に入ったほうが具合も良くなるって、無理矢理付き合わされちゃって…………ま、まさか混浴だったなんて思わなくてさ…………ははっ…………ほら、脱衣所は男女別だったから、全然気づかなくって」
 ちゃんと聞いてもらえてるのだろうか。今この時ばかりは、笑顔のままうんうんと頷いてくれるラビが天使のように輝いて見えた。
(でも……)
 反面、妹のレミの方はまるで強姦魔でも見るような目を止めてくれないのが悲しかった。やはり、女子中学生にとって異性の裸というのはインパクトが強すぎたということなのだろうか。
(……いや、インパクト云々でいったら、俺の方も大概なんだけどな)
 月彦の方も当然、レミとラビの裸を間近で見てしまった。ただ、完全に全裸を晒してしまった月彦に対して、ラビもレミも体にタオルは巻いていた為惜しくも――もとい、ここは紳士として幸いにもと言うべきか。二人の全裸を見てしまうという事態だけは避けることが出来た。
 ただ、月彦にとって唯一の誤算はレミの方は今尚警戒を解いていないのか体にタオルを巻いたまま入浴しているのに対し、ラビのほうはマナー良くタオルを湯に浸けないように入浴していることだった。もうもうと立ちこめる湯煙と、手や足で隠せる部位にも限度があり、月彦はもう先ほどから揺らめく水面の向こうにちらちらと見える胸の頂やら眩しいほどに白い太ももやらが気になって気になって仕方がなかった。
(……確かに、矢紗美さんが絶賛してただけのことはある)
 ほどよく肉のついたラビの白く美しい肢体に、ごくりと、思わず生唾を飲んでしまう。見てはいけない、見てはいけないと思ってはいても視線が吸い寄せられ、少しでも気を抜けばたちまち下半身がイキりそうになって月彦は慌てて両手で押さえ込み、強引に閉じた太ももの下へとねじ込まなければならなかった。
「やだ……紺崎クンってば、月島さんの方ばっかり見てる」
 ぽつりと漏らされた矢紗美の呟きに、月彦は飛び上がらんばかりに心臓を跳ねさせた。
「そ、そんなことは……」
 否定しながら、視線をラビから外し、矢紗美の方へと向ける。が、他の三人とは違いまるで隠そうとしない矢紗美の上半身をモロに見てしまい、あわわと慌てて明後日の方向を向かねばならなかった。
「あら、別に見てもいいのに」
 微笑混じりの矢紗美の言葉に、んなっ、と絶句したのは雪乃だった。
「い、いいわけないでしょ! てゆーかこんなの絶対ダメなんだから!」
「別に五人で乱交しようってワケじゃないんだし、普通に仲良くお風呂に入るだけの何がダメだっていうの?」
「ら、らんこ…………っっ……! お、おねーちゃん!?」
「ああもう、うるさいから文句があるなら雪乃だけさっさと上がっちゃえばいいじゃない」
「冗談じゃないわ、こんな場所に紺崎くんを…………――と、月島さん達を残していったら、お姉ちゃんに何されるかわかったものじゃないもの」
「邪推が過ぎるわ。紺崎クンはともかくとして、月島さん達に私が何かするワケないじゃない」
「ともかくとして、じゃないわよ! いいから少しは隠してよ! 紺崎くんが困ってるじゃない!」
「別に何も困ってないわよねー? 見たいなら見ていいって言ってるんだし」
「いや……その……俺に振らないで下さい」
 先生の目が怖いですから――と、月彦は視線を逸らす。
「と、とにかく目に毒なのよ! いいから隠して!」
「隠すから余計にヤラしく見えるってのもあるんじゃないかしら? それにぃ、目に毒っていうなら」
 びっ、と。矢紗美が雪乃を指さす。
「あんたの体が、一番目に毒じゃないの?」
「な……なんで、私が……」
 矢紗美の指摘に途端に顔を赤くし、雪乃は肩を抱くようにして身を縮まらせる。
「私なんかよりよっぽど胸もあるし、お尻も太もももむちっとしてて、こんなの男子高校生には堪んないんじゃないかしら?」
「なっ、何よそれ! 私が太ってるって言いたいの!?」
「………………まっ、私より体重があるのは間違いないわよね」
 鼻で笑って、矢紗美は唐突に腰を上げる。視界の端でやりとりをする二人を捉えていた月彦は、慌てて顔を背けた。
「ふぅ……ちょっとお湯の温度が熱すぎるわね。のぼせちゃいそう」
「ちょっ……何やってるのよ! のぼせそうなら上がればいいじゃない!」
 さすがに直視はできない。できないが、視界の端で辛うじて捉えた様子だと、矢紗美は水面から顔を覗かせている小さな岩に腰掛けるようにして、膝から上を晒しているらしい。辛うじて腰から足の付け根にかけてタオルで隠されてはいるが、上半身は完全に無防備になっていた。
(う、わ……矢紗美さん……色っぽ過ぎるだろ……)
 目に内蔵されたオートフォーカスが勝手に水滴に濡れたおっぱいを捉えようとするのを、首に血管を浮かせながらなんとか制御する。それでも桜色に火照った肌と立ちこめる湯気、そしてはらはらと舞い落ちる粉雪によって彩られた矢紗美の肢体が視界の端に映ることは止められず、思わず見惚れてしまいそうになる。
「紺崎クン、そんなに無理矢理そっぽ向かなくてもいいのに。首痛めちゃうわよ?」
 むしろ、完全に背を向けてしまったほうが体勢的には楽かもしれない。が、少しでも足を動かそうものなら、エネルギー充填120%状態の砲身がさながら急速浮上する潜水艦のように湯飛沫と共に水面から顔を出してしまいそうで、動くに動けないのだった。
「いーい? ここは混浴の温泉で、男女が一緒に入ることが世間一般的にも認められてる場所なんだから。そんな場所でやれ裸を見ちゃいけないだのなんだのって言う方が間違ってると思わない?」
 確かに、と。決して疚しい気持ちからではなく、常識的に判断して月彦は矢紗美の意見に賛成だった。
「むしろあんたが騒ぐせいで、紺崎クンも月島さん達も変に意識しちゃうんじゃないかしら。肩肘張らないで、もっとリラックスしなきゃ……折角の温泉が台無しよ?」
 返す言葉がないのか、ぐううと雪乃が唸る。そして雪乃が反対しないのならと、月彦の首の角度も徐々に正面へと戻っていく。既に視界には矢紗美の裸を捉えていたが、なるほど。矢紗美の言葉通り、ここはそういう場所なのだと思えば裸を変に意識することもない。
(……リラックスして……純粋に温泉を楽しみたい……けど)
 小岩に腰掛け、足の付け根にタオルをのっけただけの姿で。上半身をやや後ろに倒し、両手を岩について体の火照りを冷ましている矢紗美の姿は、やはり美しさよりも性的な魅力が際立っているように思える。矢紗美自身、月彦の視線を感じることで興奮を覚えているのか、やや顎を引き、誘うような笑みにぺろりと舌まで覗かせている。さも「シたくなったらいつでもどうぞ?」と言わんばかりの艶笑に、月彦はますます両の太ももに力を込めねばならなくなる。
 ざばぁと、突然雪乃が立ち上がったのはその時だ。
「た……たしかに、ちょっとお湯の温度が熱すぎるみたいね」
 小岩に腰掛けている矢紗美に対抗でもするかのように、雪乃は雪乃で背後の大岩に凭れるようにして裸を晒す。だが、矢紗美ほど吹っ切れているわけではないらしく、申し訳程度にタオルで前を隠している。
(せ、先生まで……そんなところで張り合わなくても……)
 矢紗美の裸に見とれている――雪乃の目にはそう映ったのかもしれない。実際見とれていたのだから弁解のしようもないのだが、だからといって自分の方を見させようというのはおかしいのではないか。
(てゆーか……裸のヤバさでいったら、やっぱり先生の方が……)
 セクシーダイナマイトという言葉を最初に生み出したのが誰かは分からないが、その人物が雪乃を見ればきっと同じ言葉を叫ぶことだろう。思わずむしゃぶりつきたくなる体の見本のようなそれのおかげで、どれだけの数の男子生徒が眠れぬ夜を過ごしていることか。
(あぁぁ……つ、続きが……さっきの続きが……したい…………!)
 ぎちぎちと、“閉じた太ももの下”で剛直が軋みを上げる。破城鎚で叩かれ続けている城門を必死に押さえている兵士のような気持ちになりながらも、月彦は雪乃の体から目を離すことが出来ない。
「わ、わ……すごぉい…………二人とも、スタイルいいなぁ……」
 そんな呟きを漏らしたのはレミだ。同性のレミの口からですら羨望の呟きが漏れる裸を二人分、同時に視界に収められるこの状況はやはり天国なのだろうか。
「ふふ、ありがとう、レミちゃん。でも、月島さんもかなりイイ線いってると思うわよ?」
「ちょ、矢紗美さんいい加減にしてください! もう、これ以上は……!」
 この上さらにラビまで参戦されては堪らないと、月彦は泣きそうな声で懇願した。
 が。
「あら、いいの? 紺崎クンは見たくないのかしら?」
 月島さんのハダカ――矢紗美の声が、これ以上ないほどに淫猥な響きとして頭蓋骨の内側で反響する。
(そんなの……)
 見たくないわけがない。健全な男子なら当たり前のことだ。しかしそれを認めてしまったら社会的に終わるから、仕方なしに見たくないという態度を取らざるを得ないだけだ。
 そんなことは矢紗美も百も承知だろうに、その上で嬲りにくるのだから堪らない。イエスと答えてもノーと答えても必ず後悔することになる問いに、月彦はただただ歯を食いしばることしか出来ない。
「くす……ねえ、紺崎クン。一つ聞いてもいーい?」
 よほど矢紗美の嗜虐心を擽るような顔をしていたのだろうか。声を聞いているだけでゾクゾクする程の快感に身震いしているのが伝わってくる。
「よ、よくないです……」
 絶対にろくでもない問いが来ると確信して、月彦は首を振った。――にも関わらず、矢紗美は嬉々とした声で、詰みの一手を放った。
「ぶっちゃけ、この四人の中で誰が一番紺崎クンのタイプ?」



 雛森家長女、雛森矢紗美。職業は婦警。優しく頼り甲斐もあり、まさしく理想の“お姉さん”――であったら、どんなに良かったことか。その内実はドSであり、男など自分の快楽を満たす為の道具くらいにしか思っておらず、特に“反抗的な男”が苦しむ様を見るのが何よりの楽しみという、歪んだ性根の持ち主だ。
(こんな血も涙もない質問をしながら、どうしてそんなに愉しそうな顔が出来るんだ……!)
 引きつった顔で自分を睨み付ける月彦の姿がよほど“ツボった”のか、矢紗美は喘ぐような吐息を漏らして徐に足を組む。表面上は平生を装ってはいるがその実、興奮の極みであることはしっとりと濡れた目が物語っていた。
「ほらほら、別に誰と結婚するか選べって言ってるんじゃないんだし、気軽に答えてくれればいいのよ?」
「き、気軽に……ですか」
「そ。……気軽に、本音で答えてね」
 本音で、の部分をことさら強調するように、矢紗美は強く語気を込めて言う。
(ちょっ……本音で答えろなんて言われたら……)
 余計に答えにくくなるではないか。しかも矢紗美はほんわかと笑っているように見えてその実、目は本気の目だ。あからさまに冗談やはぐらかしは許さないと言う目で見据えられ、月彦は猛禽類に狙いを定められた齧歯類のような気分だった。
(で、でも……だからって……)
 真面目に答えるとなると、これまた難題が目白押しだ。そもそもこの状況では誰だと答えても必ず残った三人から冷やかされるのは確定ではないか。
(……しかも本音を言えだなんてハードルを上げられたら……)
 たとえふさけて答えたとしても、それは“本音”であると周知される。今更ながらに、月彦は自分がとんでもない窮地に立たされて入ることを知った。
(仮に……矢紗美さんだと答えたとする……)
 もちろん矢紗美は額面通りには受け取らないだろう。ニヤつきながらへぇーだのふぅーん?だの言いながら、これ見よがしに“大人な対応”をする様子が容易に想像出来る。ある意味一番無難な選択肢かもしれないが、一見安全地帯に見える場所こそ、その下にはとんでもない地雷が埋まっているものだ。そう、矢紗美を選んだ場合――もちろんそれが冗談だとしても――その後、雪乃へのフォローに多大な労力が必要になるのは間違いない。
(…………あの場はああ言うのが一番無難だった、って言っても……先生は聞く耳持たない。絶対に)
 その様子が、実際に見てきたように鮮明に想像出来るのが悲しかった。雛森雪乃という女性の大人気の無さと、こと姉絡みとなると異常なまでに目くじらを立てる性格を鑑みれば、想像と寸分違わぬ未来になるのは間違い無い。
 ならば、雪乃を選べばどうか。これまた、ここぞとばかりに矢紗美が冷やかしてくるに違いない。雪乃に比べれば幾分大人な矢紗美だが、相手が雪乃というのがくせ者だ。この姉妹の互いに対する対抗心の凄まじさは些か常軌を逸している。下手をすれば「ねぇ、月島さん、レミちゃん。この二人ちょっと怪しすぎない?」なんて際ど過ぎる煽り文句すら言いだしかねない。
(かといって――)
 レミを選べばどうか。これは本気っぽく答えても冗談だと受け取ってもらえる可能性は無くもない。が、ガチだと思われた場合の危なさは他の選択肢とは比べものにならない。最悪、手が後ろに回ることすら在りうる。
 最後に残るはラビという選択だが、同級生を選ぶというのはそれだけでリスキーだ。一番“本気の答え”であると取られかねないと同時に、今度のラビとのやりとりに拭いがたい気まずさを残す結果にも繋がりそうだ。レミも今まで以上にラビとくっつけようと画策してくるに違いない。雪乃も当然いい顔はしないだろうし、矢紗美がどう反応するかもまるで読めない。
(ダメだ……どう答えても悲惨な未来しか見えない…………一体どうすれば……)
 月彦はもう、祈るような目で雪乃を見た。矢紗美のむちゃくちゃな質問を覆せるのは雪乃だけだ。一言「お姉ちゃん、ふざけるのもいい加減にして! 紺崎くんも相手しなくていいからね?」とさえ言ってくれたら、それだけで救われるのだ。
(…………先生!)
 しかし、そんな救いの手はさしのべられないという事を、どこかソワソワした様子の雪乃を見た瞬間に思い知る。
(……俺には分かる。あれは自分だって言って欲しいけど、さすがにこの場で言うのはまずいってわかってるけど、それでも言って欲しいって顔だ)
 無茶ぶりを要求する姉が姉なら、妹の方も大概だ。どの選択肢を選んでも不幸になるのなら、せめてこの無茶ぶり姉妹が一番喜ばない選択肢を選ぶべきではないか。
「……難しい、質問……ですけど……どうしても一人選べっていうなら」
「いうなら?」
「いうなら?」
 意外にも雪乃とレミの声がハモった。気がつかなかったが、レミもまた答えに興味津々らしい。
(……うっ……やっぱり月島さんって言うのはレミちゃんを焚きつけちゃうんじゃないか)
 やはりここはロリコンの汚名を承知でレミだと答えるべきなのだろうか。まさか矢紗美もレミ本人の前で「レミちゃんを選ぶのはおかしい。真面目に答えてない」とは言わないだろう。レミならば後々雪乃にも「あの場はああ言うのが一番無難だと思った」と言いやすい。
(うん、ここはレミちゃんしかない。レミちゃんで行こう)
 脳内議決が終わり、いざ口を開こうとした時だった。見えない悪魔が意図的に吹かせたとしか思えないようなタイミングで風が吹き、視界を埋め尽くしていた湯煙を幾分か吹き飛ばし、月彦の目は良好な視界の中で、たゆゆんと湯に浮かぶ二つの塊をしっかりとロックオンした。
「……月島さんのおっぱいです」
「は?」
「へ?」
「はぁ?」
 三人分の疑問符が重なり、遅れて月彦も「へ?」と固まった。
「あれ、ええと……今俺、なんて言いました?」
 自分では、レミだと答えたつもりだった。しかし実際口にした言葉はまったく違うものだったような気がする。――否、“気がする”どころの話ではなかった。遅れてラビが反応し、はわわはわわと狼狽えた後、耳の辺りまで湯に潜ってしまった。
「いや、ちょっと待ってください。今の無しで! わ、忘れてください!」
 だんだんと自分の発言内容を思い出すにつれ、顔が熱くなるのを感じる。慌てて否定するも、もはや後の祭りだった。
「へぇ……“月島さん”じゃなくって、“月島さんのおっぱい”なんだ?」
 ジト目+軽蔑の声でそう呟いたのは矢紗美だ。
「ぶちょーさん…………おねーちゃんでいいの?」
 レミはといえば、まるで幸せの青い鳥を見つけた少女のように目をきらきらさせている。
「紺崎くん……………………」
 雪乃に至っては、ゴゴゴと岩っぽい字体の活字に囲まれたまま絶句している始末。
「……………………。」
 そして選ばれしおっぱいことラビは顔の半分まで湯に潜ったままぶくぶくと泡を出している。そんなラビの後ろにレミが忍び寄り、同じ様にしゃがみ込んだ。
「……おねーちゃん、ぶちょーさんにお礼しなきゃ」
 レミの手がちょちょんと、湯の中でラビの背中をつつくか撫でるかした瞬間、「ひゃあんっ」と悲鳴を上げ水柱を立てながら仰け反り立つ。ぱるるんと水滴をはじき飛ばしながら揺れる二つの塊を、月彦の両目がハイスピードカメラ並の精度で追った。
(おお……っ……)
 揺れる巨乳のあまりの美しさに魂を奪われ、図らずも脱力してしまった――刹那。今度は月彦の眼前で凄まじい水しぶきが上がった。ばっしゃあんと凄まじい勢いで水面から顔を覗かせたそれは辺り一体に悲鳴を轟かせ、月彦はまた一つ人生においての生き恥エピソードを増やしたのだった。



 温泉の後は、矢紗美がスマホで調べたというオススメの定食屋で昼食となった。矢紗美は激辛キムチ煮込みうどんを注文し、レミは月見そばと洋なしシャーベット。ラビは野菜天そばとデザートに黒ごま豆乳アイスをそれぞれ注文し、皆おいしいおいしいと舌鼓を打ちながら箸を進めていた。
 一方月彦はといえば、自分が何を注文したのかすらもわからない程に茫然自失としながら、気がつくとただ腹だけが満たされているといったある種の小規模な時間跳躍を体験していた。
「ふふ。別にそんなに気にすることないのに。ねーレミちゃん」
「えっ…………う、うん……ぶちょーさん、元気だして!」
「…………ありがとう、レミちゃん。矢紗美さん」
 にこっ。
 月彦は精一杯の笑顔を浮かべるが、果たしてきちんと笑顔になっていたのかどうかは定かでは無かった。場のメンバーで唯一ラビだけが、どうして月彦がヘコんでいるのか分からないとばかりにスプーンをくわえたまま小首を傾げていた。
(…………まぁ、月島さんは真正面で一番水しぶきかかってたから、見えなかった――のだと思いたい)
 矢紗美や雪乃相手は今更だが、レミにはモロに見られてしまったかもしれない。それさえなければ、これほどまでには落ち込まなかったのだが。
「あっ、あの!」
 ぴょんと。ラビが席から腰を浮かしながら唐突に挙手する。
「はい、月島さん」
「あいっ、あいす、くりいむ! おかわり、しても、いいですか!」
「もちろん。レミちゃんもどう?」
「えっと……私は、いいかな。お姉ちゃんも……」
 めっ、と。レミが視線で制そうとするが、ラビは気がついていないのかアイスのために気づかないフリをしているのか、辿々しい声で店員を呼ぶやすぐさま黒ごま豆乳アイスを注文した。
「あっ、やっぱり私も同じの貰おうかしら。紺崎クンは?」
「そう、ですね。折角ですから、いただきます」
「じゃ、じゃあ……………………私も……」
 控えめに挙手をするレミに苦笑し、矢紗美が改めて全員分の黒ごま豆乳アイスを注文する。
「今ね、このお店を紹介してるブログみてたら手作りの黒ごま豆乳アイスは絶品だって書いてあったの。たくさんあるデザートの中から一番美味しいのをピンポイントで選ぶなんて、月島さんいいカンしてるじゃない」
「………えへへ」
 ラビは照れるように頬を赤らめ、そして代弁を頼むようにレミへと耳打ちをする。
「えーと……お姉ちゃんが言うには、お店の奥の方から黒ごまの美味しそうな匂いがしてた、だそーです」
「なるほどねぇ、私には分からないけど…………きっと月島さんは嗅覚が敏感なのね」
「…………おねーちゃん、食べ物が絡むと感覚が研ぎ澄まされるから…………」
 敏感なのは鼻だけではないと、レミはどこか呆れるように呟いた。
 程なく四人分の黒ごま豆乳アイスが運ばれてきて、早速とばかりに月彦もスプーンを突き刺し、黒ごまが練り込まれたバニラアイスを舌の上へと転がしてみる。
「んっ……これ、本当に美味しいですね。市販のアイスとは比べものにならないくらいまろやかっていうか……」
「ホントだー! これすっごくおいしーね、矢紗美おねーさん!」
「確かにこれはちょっとクセになっちゃう味かも……。お土産用とかがあるなら持って帰りたくなっちゃうわね」
 矢紗美も、そしてレミも絶賛しながら瞬く間にアイスを平らげてしまった。月彦もアイスの美味さと場の雰囲気に看過され、どうにかこうにか元気を取り戻しつつあった。
「……雪乃も来ればよかったのに」
 が、矢紗美の一言でまたしてもずぅーんと、大きく肩を落とした。
「…………雛森せんせー、どうして一人で帰っちゃったの?」
「えーと……帰ったんじゃなくって、何か“買い物に行く”って言ってたけど……」
 不安そうなレミの言葉に、矢紗美が珍しく困り顔で対応する。そう、月彦も確かに聞いた。買うものがある――そう言い残して、雪乃は一人車で去ってしまったのだ。
「大丈夫よ、きっと夜までには戻ってくるわ」
 レミを元気づけるように矢紗美は微笑む――が、それも怪しいと月彦は見ていた。まだギン勃ちの股間をレミ達に見られてしまったショックに半ば放心状態だった時、それでも雪乃を一人だけ行かせてしまうことに危機感を抱き、同乗を申し出たがつれなく断られてしまったのだ。
『紺崎くんは月島さんのおっぱいが一番好きなんでしょ?』
 去り際に、笑顔で――しかしほとんど吐き捨てるように言って――雪乃はそのまま運転席のドアを乱暴に閉めて走り去って行ったのだ。どう考えても機嫌がいい筈がなく、それだけにわざわざ旅館まで戻ってくる可能性は決して高くはないように思えるのだった。



 ――が、予想に反して雪乃は戻って来た。
 夜の帳と共に、しかも上機嫌で。
「思ったより時間かかっちゃったわ。やっぱり軽はダメね」
 午後の観光&ドライブを終え、さらに風呂を終え、今から夕飯という所に突然戻って来た雪乃に月彦も、ラビも、レミも、そして矢紗美も面食らっていた。
「あんた……一体どこ行ってたのよ」
「どこって……ちゃんと買い物に行くって言ったじゃない」
 ふっふっふ――雪乃は不適な笑みを浮かべるや、左手に提げていた紙袋から一本のボトルを取り出した。
「あんた……それ……」
「えっ、何……お酒?」
「“これ”が売ってる店が見つからなくてさー。結局麓を通り越して隣町まで行っちゃった」
「……お酒、ですよね。それ……」
 何か特別なんですか?――聞くが早いか、ぐりんと雪乃が月彦の方へと向き直った。
「これはね、クリュグよ!」
「くりゅぐ?」
「キノコの?」
「レミちゃんが言いたいのはひょっとしてトリュフかしら。そうじゃなくて、クリュグっていうのは――」
「とんでもなく高いお酒よ。……それ一本で多分、5万くらいはするんじゃない」
「「「5万円!?」」」
「愉しかった温泉旅行も今夜で終わりでしょ? ぱーっと飲んで騒ぐには旅館で出してもらえるお酒だけじゃ物足りないと思って買ってきてあげたのよ。……お姉ちゃんの為に」
 最後の“お姉ちゃんの為に”の一言に怨念めいたものすら感じて、月彦は思わず後退った。
「っと、みんなもうお風呂済ませちゃったのね。私も急いで入ってくるから、ご飯とか先に食べちゃっててもいいわよ? お姉ちゃんもコレ飲みたかったら、先に開けちゃって全然OKだからね?」
 どん、と雪乃は大げさな音を立ててテーブルの上にクリュグのボトルを置き、鼻歌交じりに部屋から出て行ってしまう。
「5万円かぁ……」
 その呟きには、一体どんな感慨が含まれているのか。テーブルの側にかがみ込み、うっとりとボトルを見つめるレミとそれに倣ってボトルを見つめるラビの二人を尻目に、月彦はそっと矢紗美に耳打ちした。
「矢紗美さん、このお酒……何かあるんですか?」
 先ほどの雪乃の態度はどうにも妙だった。酒好きの矢紗美の前にこれ見よがしに高価な酒をちらつかせ、挙げ句飲みたければ勝手に飲んでいいなどと言い放つのは、よほどの理由があるに違いない。
「そうねぇ……一言で言えば」
「言えば?」
「唯一、苦手なお酒なの。雪乃にとっての焼酎みたいなものね」
 自嘲気味に呟きながら、矢紗美は備え付きの固定電話の側へと膝を折る。
「面白いじゃない。あっちがそうくるならこっちだって」
 絶対に先にツブしてやる――気炎を立ち上らせながら、早口に夕飯用の酒の追加注文をする矢紗美の後ろ姿に、月彦はもう声をかける気も無くし、大きくため息をついて天を仰いだ。


 


 夕飯に出たサザエの壺焼きは絶品だった。生牡蠣も、ホタテのバター焼きもほっぺたが落ちそうなくらいに美味かった。
「つき、ひこくん! これっ、もらっても、いいのかな!?」
「あぁ……うん、多分、いいんじゃないかな」
 ふすふすと鼻息荒く貝殻を握りしめているラビに、月彦は疲れ気味の笑顔で答えた。
「持って帰るならちゃんと洗ってからじゃないとダメだよ、おねーちゃん」
「う、ん! ちゃんと、洗う!」
「あっ、ちょ……月島さん、別に今すぐじゃなくても……」
 止める間もなくラビは両手でサザエの殻を抱え込み、洗面台の方へと行ってしまう。とはいえ、追いかけて無理矢理止めるほどのことでもないかなと、月彦はやや無気力に食事を再開させた。
「うーん……ご飯は美味しいんだけど……どうして“海の幸”ばかりなんだろう」
 首を傾げる。旅館が海沿いにあるとか、近くに有名な漁港があるとかならともかく、山の中の旅館なのにやれ貝だの刺身だのばかり出るというのも変ではないか。
「待てよ……そういえば……」
 いつだったか、雪乃の機嫌を治す為に矢紗美に協力を仰ぎ、その時に勧められた料理が海鮮グラタンではなかったか。また、矢紗美とデートをした際に食べたものも牡蠣ラーメン――。
(…………ひょっとして、先生だけじゃなく二人とも海鮮料理が大好きなのかな?)
 料理が偏っているのは旅館側の意向ではなく、そういう注文をしたからなのかもしれない。疑問の答えに満足して、月彦は改めて真ガレイのフリッターへとかぶりつく。表面はかりっと香ばしく揚がり、ほどよく効いた塩味も相まってまさしく絶品だった。
「ぶちょーさん、これ背びれのところがカリッカリですっごく美味しいよ!」
「ほんとだ、レミちゃんさすが、目の付け所が違うね」
 レミと二人、美味しい美味しいと口々に零しながら料理を食べ続ける。そう、今夜はたくさん食べなければならないのだ。何故なら三人で五人分の料理を食べなければならないのだから。
「ふ、ふ、ふ……どーしたの、お姉ちゃん。今度はお姉ちゃんがクリュグを飲む番よ?」
「う、うるさい、わね……いわれなくったって…………んくっ……」
 矢紗美はシングルのショットグラスに注がれた粟立つ液体を見つめ、ふう、ふうと冬のプールにでも飛び込もうとしているかのように肩で息をした後、一息にグラスを煽る。
「ふはぁぁぁっ……」
 ぐらりと頭を揺らしながら、ターンと小気味の良い音を立てて矢紗美がグラスを置く。
「ほらぁ。次はあんたよ、雪乃」
「ちょっと待って。まだ“口直し”を飲んでないから」
「1杯だけよ。おつまみもレモンかライムかどちらか片方、一口だけ。そういうルールでしょ」
「分かってるってば」
 雪乃はぐいとジョッキの生ビールを呷り、ふうと一息つく。そして徐にライムを囓って、矢紗美の手によって焼酎がなみなみと注がれたぐい飲み(容量はショットグラスと同じになるように合わせてある)を手に取る。
「ううぅ……」
 が、やはり苦手意識が先立つのか、呻くばかりでなかなか口元へは運べない。
「ほらほら、一口で飲めなかったらあんたの負けよ?」
「分かってるって言ってるでしょ!? ふーっ……ふーっ…………んぐっ……!」
 雪乃が目を瞑り、一息に飲んで――ターン!とぐい飲みを置く。
「ほらぁっ、次はお姉ちゃんよ!」
「くっ…………もうライムが無くなりそうじゃない。雪乃、早めに追加注文しときなさいよね。生憎、私はまだまだ余裕よ?」
「そのわりには随分顔色が悪いわよ? なんか体もゆらゆらしてるし、そろそろ限界なんじゃないの?」
「ゆらゆらして見えるのは自分が揺れてるからでしょ?」
 バチバチと火花を火花を散らしながら睨み合う二人の様子に、月彦はただただ呆れるばかりだった。
(…………酒を口直しにしながら酒を飲んでるのか)
 他の酒を間に挟みながら苦手な酒を飲みあい、先につぶれたほうが負け――どうせ酒を飲むなら楽しく飲めばいいのに、何故勝負事にしてしまうのか。そもそもそれはテキーラを飲む時のやり方ではないのか。はたして焼酎とライムは合うのか、クリュグも然り。
 酒の味が分からないお年頃の月彦としては二人の行為は愚行以外の何物にも見えず、ましてや雪乃のように自腹で五万円も払ってまで勝負を挑もうとするなど正気の沙汰とは思えなかった。
「…………レミちゃん、月島さんが戻ったら、隣の部屋に非難しようか」
 二人の戦いはまだまだ決着がつきそうにない。“この先”は子供が――少なくとも未成年が見てよいものではない。いい年した大人の女性同士のドロッドロの意地の張り合いなど、レミやラビの今後の人生に悪影響しか及ぼさないだろう。
 そう、二人の様子からは決着はまだまだ先――そう月彦は判断したのだが。
「あれぇー? 残ッ念! ゆっきのー? どうやらあたしの勝ちみたいねぇ?」
 空になったクリュグのボトルを逆さにして振りながら、矢紗美がにんまりと笑う。どうやら二人のルールでは、相手側に飲ませる酒は自分で用意しなければいけないことになっているらしい。雪乃が苦手な焼酎は――焼酎の種類を問わないのであれば――旅館側に言えば用意してもらえるのだろうが、クリュグは無理――でなければ、雪乃もわざわざ自分で買いに走ったりはしなかったことだろう――となれば、必然的に雪乃の不戦敗になってしまう。
 かに思われた。
「……………………。」
 雪乃はぐらりと体を揺らしながら立ち上がると、先ほど部屋の隅に置いた紙袋を手に勝負の場へと戻って来た。そして紙袋の中からさらに二本のクリュグのボトルを取りだし、両手で矢紗美の眼前へと叩きつけるように置いた。
「…………誰の勝ちだって?」
「あ、あんた……そこまでやる?」
 さすがの矢紗美も絶句し、開いた口がふさがらないらしい。月彦も、思わずレミと顔を見合わせた。
「ぶちょーさん……あれ、一本五万円……なんだよね?」
「矢紗美さんは……そう言ってたけど……」
 三本で15万円。いくら雪乃が真っ当に働く社会人とはいえ、決して安い金額ではない筈だ。
(……先生、そこまで…………)
 キレていたのか。二人きりの時間を邪魔した姉を潰すためにそこまで。
(…………ヤバい……なんか、呆れを通り越して……ちょっと先生のこと見直しそうだ)
 そう思いかけて、慌てて首を振る。雪乃のあまりの迫力に思わず騙されそうになったが、やってることはただの散財だ。良識のある社会人ならば慎まなければならない類いの行為だ。
「…………だめだ、レミちゃん。今すぐ月島さんを連れて非難しよう」
 この場に居たら絶対ろくでもないことに巻き込まれる――これまでの様々な経験から月彦は判断し、大急ぎで夕飯を済ませた後そっと席を立った。


 意外とラビと都は趣味が合うかも知れない――506号室へと持ち帰ったサザエの殻やら牡蠣の殻やらを手にとっては蛍光灯の光の下へとかざし、にっこにこのラビの様子を見ているとそんなことを思う。
「ねえねえ、ぶちょーさん。ひょっとしてせんせー達って…………あんまり仲良くないのかな……?」
「どうかな……」
 それは月彦としても計りかねている所ではあった。確かに一見仲が悪そうに見えるし、二人の内どちらに訪ねても仲が良いとは言わないだろう。だが、そもそも本当に仲が悪ければこうして一緒に旅行をしたり、同じ部屋に泊まったり、さらには一緒に酒を飲んだりはしないのではないだろうか。
「喧嘩するほど仲が良い…………っていうことなのかもしれない」
 レミの問いに対しての答えというよりは、ただの呟きに近かったがなるほどとばかりにレミは頷いていた。
「そーだ! ぶちょーさん、もう一つ聞いてもいい?」
「うん?」
「おねーちゃんのおっぱいが好きって、あれ本当?」
「えーと……」
 月彦は答えに窮した。正直、昼間の温泉の件には触れて欲しくなかった。
「ごめん、レミちゃん。あれは、その……冗談だったんだ。あんまりウケなかったみたいだけど……ははは…………」
「ええぇー」
 レミが不満そうに、ぶうと唇を尖らせる。
「ていうか、矢紗美さんが酷すぎるよ。あの状況で誰が一番好みのタイプか答えろーなんて、無茶ぶりにも程がある。どう答えても絶対からかわれるってわかりきってるじゃないか」
「じゃあじゃあ、レミにだけ本当の答え教えて! 絶対、ぜーーーったい誰にも言わないから」
「いや、それ絶対言いふらす人の常套句だから……」
 むぅーとレミがつまらなそうに唸る。
「じゃあ、雛森せんせーと、矢紗美おねーさんの二人なら、どっちがタイプ?」
「ええぇ!? せ、先生と矢紗美さんのどっちかって……そんなの……」
「二人とも、スタイルすっごく良かったよね。レミ見とれちゃったもん」
 確かに――そう頷きそうになる。眼を瞑れば、小岩に腰掛けて火照った肌を冷ましている矢紗美と、恥じらいながらも大岩にもたれ掛かり、控えめに裸を晒す雪乃の姿が浮かび上がる程に焼き付いている。
「でもね、おねーちゃんも負けてないと思うの! ぶちょーさんが”ぼん、きゅっ、ぼん”が好きなら、まだ望みはあるの!」
「ぼんきゅっぼんって……」
 つまり、矢紗美ではなく雪乃を選ぶようなら、ラビを気に入るかもしれないということだろうか。
「おねーちゃん、ちょっと来て」
 ちょちょいと、レミは手招きをし、ラビを呼ぶ。そして耳打ちをするや――
「ふぇぇええ!?」
 ラビがそんな驚きの声を上げて顔を真っ赤にしてしまった。
「れ、レミちゃん……一体何を言ったの?」
「んとね、ぶちょーさんがおねーちゃんのおっぱいを気に入るかどうか、味見させてあげてって」
「んなっ……ちょ、レミちゃん!」
「おねーちゃん、いいよね? ぶちょーさんのコト好きなら、おっぱい触られるくらい平気でしょ?」
「ぁぅぐ………………」
 ラビは顔を真っ赤にしたまま両手を胸元を隠すように交差させ、レミと月彦の顔を交互に見る。それは控えめにイヤイヤをしているようにも見え、少なくとも“同意”ではないということはいやでも分かる。
「だ、大丈夫だよ月島さん。レミちゃんも、いい加減にしないと月島さんが嫌がってるから」
 悪ふざけも大概にしろ、と眉をつり上げ、窘める。
「…………おねーちゃん、本当に嫌なの?」
 が、レミは尚も諦めないのか、ラビの後ろに回るや両手でラビの肩を持ち、ぼそぼそと何かを囁きかける。やがてラビは頷き、観念するように眼を閉じると胸元を隠していた両手を下げてしまった。
「ぶちょーさん、おねーちゃんOKだって!」
「お、おっけーじゃなくって……OK出されても触らないから! レミちゃん、良い機会だからはっきりと言っておくけど、俺は――」
「俺は……?」
 ラビと付き合う気はない――そう言いかけて、言葉を飲み込む。いくら何でも本人を前にしてそれは言ってはいけないのではないだろうか。不安げに上目遣いで見てくるラビの気持ちを考えると、尚更そう思ってしまうのだった。
「お、俺は……」
 代わりの言葉が見つからず、月彦は必死に頭を回転させる。何か、何かないか――巧く誤魔化し、この場を丸く収めるような、そんな魔法の言葉は。
 考えに考え抜き、頭がショートする寸前まで熟慮を重ねた結果。
「おっぱいは、触っても良いって言われた時に触るものじゃなくて、触りたいと思った時に無理矢理にでも触るものだと思ってるんだ!」
 口から出たのは、もはや世迷い言としか言いようのない失言だった。ラビはきょとんと首を傾げ、レミもまた言葉の意味が分からないとばかりに大きな?マークを出している。
「えと……つまり、今は別に触りたくないから……触らないわけで……」
 か細い声で己の発言を修正するも、ただただ痛々しさばかりが増すのが自分でも分かる。
「ホントに? ホントに触りたくないの? ぶちょーさん」
 触りたくないわけがない――そう声を張り上げたいのをグッと堪えて、月彦は大きく頷いた。
(本当は触りたい。触りたくないなんて言う奴が居たらそいつは大嘘つきか同性愛者のどちらかだ)
 男というものは朝起きたらまず最初におっぱいのことを考え始め、朝食を食べながらおっぱいのことを考え、通学或いは通勤の最中におっぱいのことを考え、学校或いは職場ではなんとかして周囲の女性のおっぱいを合法的に触れないかと頭を悩ませ、昼食時にはおっぱいについての考察を深め、午後はおっぱいのことを考えながら悶々と過ごし、夕飯時にはおっぱいについての自分の行動の反省点などを洗い出し、寝る前にはおっぱいのさらなる良さを見つけるべく文献を漁り、そして就寝中はおっぱいの夢を見る――そういう生き物なのだ。
 そんなにまでおっぱいに飢えた生き物に対してレミが行っていることは罪深いことこの上ない。敬虔な信徒に酒や女を薦めるが如き行い――まさしく悪魔の所業だ。
「ふゃっ……ぁやんっ!」
 突然耳を劈いた不可思議な悲鳴に、俯いてぐぬぬと唇を噛んでいた月彦は思わずラビの方へと顔を上げた。
「ほらほらー、すっごく柔らかくてきもちいーよ? ぶちょーさん」
「な、な、なんてことを……」
 背後に回っているレミが、浴衣の上からラビの胸元を鷲づかみにし、もっぎゅもっぎゅとこね回しているのだ。
(あぁ……ダメだ、全然なってない。第一そんな揉み方をしたら月島さんが痛がるじゃないか!)
 この後に及んで真っ先に“揉み方のダメ出し”をしてしまうのが紺崎月彦という男だった。
「ぁやっ……んゃあっ……!」
 ラビもさっさと逃げれば良いのに、レミにされるがままに揉まれている。一応抵抗はしようとしているのか、レミの手を掴もうとしてはビクンと体を大きく反らし、指先を引きつらせながら喘いでいる。月彦が見るところレミの揉み方が熟練しているということは無く、単純にラビは胸が弱いか、はたまた極めて感じやすいかのどちらかのようだった。
(……レミちゃんがやってアレなら、俺なら………………)
 たちまちラビを快楽の渦の中に沈め、何でも言うことを聞く状態にすることすら可能なのではないか――ごくりと、思わず生唾を飲み込み、ハッと正気に戻っては慌てて首を振る。
「こーらー! レミちゃん! いい加減にしないと本当に怒るよ!?」
 ばんばんとテーブルを叩き、怒気を発するやさすがにレミは手を引き、ぴょんと跳ぶようにラビから離れた。レミが離れるや、ラビは大慌てで逃げるように和室から飛び出していってしまった。
「えへへ、だってぶちょーさんとおねーちゃん見てると焦れったいんだもの。ホントはぶちょーさんもおねーちゃんのコト好きなんでしょ? レミには分かってるんだから」
「……レミちゃん、本当に……」
 軽く目眩を感じながらも、月彦は不思議な既視感に襲われていた。レミとのやりとりが昨日今日始まったものではなく、太古の昔より延々と続いているように感じられたからだ。
(……むしろなんか、月島さんよりもレミちゃんの方を……)
 無理矢理押し倒し、力ずくで犯してやりたい衝動にかられるのも、これが初めてではないような気さえする。小悪魔気取りの微笑を恐怖の色に歪め、ごめんなさいごめんなさいと謝罪させながら、容赦なく突きまくってやりたい――と。
(…………いや、さすがに実行はしないけれども)
 むしろ、自分の中にそういった一面が眠っていたことに驚く。気を取り直すように、月彦はテーブルの片隅に揃えられている“お茶セット”を手に電気ポッドの方へと手を伸ばす。
「あっ、ぶちょーさんお茶する? じゃあじゃあ、レミがお茶淹れてあげる!」
 レミが嬉々として声を上げた。
「レミちゃんがお茶って……ひょっとして昨日の?……………………そういえばレミちゃん、今度は俺から一つ聞きたいんだけど」
「なーに? ぶちょーさん」
「昨日レミちゃんが作ってくれたハーブ茶なんだけど…………あれって確か“すごくリラックスできて、寝る前に飲むには最適のお茶”だったよね?」
「うん」
「…………本当に?」
「え……ど、どーして疑うの?」
「いや、だって……」
 月彦は思い出す。昨夜途中で目が覚めたの、あのムラムラとした感覚。さすがに真央の薬には遠く及ばないまでも、下半身がイキって寝付くことが出来ないというあの状態は、何の理由も無しには考えられない。
(そういえば……確か前にも……)
 そう、あのハーブの香りは前にもどこかで嗅いだことがあった。思い出すのに苦労はしたが、ラビとのデートもどきの時にレミが持たせたというクッキーからも、同じ匂いがしていた。
 そしてその後、無性にムラムラして――結果、雪乃を求めてしまったことまで。
「レミ、嘘なんかついてないよ? これは本当に体にも良くて、しかも美味しいお茶なんだから」
 レミはそう言い、昨夜同様に急須に茶葉を入れて湯を注ぎこむ。ツンと、ミントのようで明らかに違う、独特の香りが部屋中に広がり、レミは湯飲みへと茶を注いではいと差し出してくる。
 月彦は受け取り、ジッと湯飲みを見つめた後。
「ちょっと、レミちゃんが飲んでみてくれない?」
 えっ、と。レミが不自然に体を硬直させた。
「ど、どーして?」
「どうしてもなにも……“変なもの”が入ってないなら、レミちゃんも一緒に飲もうよ」
「も、もちろん変なものなんて入ってないよ? だけど……寝る前にお茶なんか飲んじゃったら……おトイレ行きたくなっちゃう、から……」
「大丈夫だって。まだ八時ちょっと過ぎだし、レミちゃんもさすがにこんな時間には寝ないだろ? 昨日と違ってスキーで疲れてるわけでもないんだしさ」
 月彦は一端湯飲みを置くと、別の湯飲みへと茶を注ぎ、はいとレミの前へと差し出す。
「まさか、自分は飲めないものを俺に飲ませようとしたわけじゃないよね、レミちゃん?」
「そんな、コト…………」
「じゃあ、ほら」
 埒があかないとばかりに、月彦はわざわざレミの側まで行き、直に手に急須を握らせる。
「違うなら飲まなきゃ」
「ううううう……」
 にっこりと、笑顔で威圧する。性的悪戯をされたラビの分も返す為にも、ここはきちんとレミに灸を据えねばならないからだ。
 やがて意を決したようにレミが湯飲みに口をつけ、ずずずと啜り出す。くすりと笑みを漏らし、月彦は優しくレミの髪を撫でた。
「ちゃんと全部飲みきるまで見張ってるからね、レミちゃん」
 だんだんと、レミに対しては容赦が無くなりつつある月彦だった。



「そういえば、月島さんどこ行っちゃったのかな。外には出てない筈だけど……」
 まったりテレビを見ながら、はてと月彦は首を傾げる。先ほどレミに胸を揉まれて逃げ出してから、そろそろ三十分は経つはずだ。部屋のドアが締まる音は聞こえなかったから多分バスルームの方に入っていったのだろうが、シャワーを浴びるつもりならば着替えも持っていく筈だ。
(てことはトイレなのかな…………にしても長いよな)
 とはいえ、女子のトイレの時間を気にするというのも失礼な気がする。月彦は再度視線をテレビの方へと戻した。
「レミちゃんはどう思う?」
「………………え?」
 座布団二つ分ほどの距離を空けて同じようにテレビを見ていたレミの反応はやや遅かった。それだけテレビに集中していたということなのだろうか。
「な、何? ぶちょーさん……ちょっと、聞いてなかった……」
「月島さん何処行っちゃったのかなって。多分トイレかシャワーだと思うんだけど」
「あ、うん…………どっちかな…………レミ、ちょっとわからない…………」
「大丈夫? レミちゃん。なんか具合悪そうだけど」
「だ、大丈夫だよ? 別に、ふつう……」
「そうかな。なんか熱でもあるみたいだけど」
 心なしか顔も赤く、呼吸も荒いように見える。
「熱、なんて……ただ、ちょっとお茶飲みすぎちゃったかも」
「あれ、でも俺と同じ1杯しか飲んでないよね?」
「ぁぅ…………ぶ、ぶちょーさんは……平気、なの?」
「平気……って、まるで平気なのがおかしいみたいな訊き方だね」
 惚けた声で返すと、レミは慌てたように声を上ずらせた。
「そ、そういう意味じゃなくって……トイレ行きたくなったりしないの? っていう意味で……」
「ああ、そっか。俺は大丈夫だけど、もし月島さんがトイレに籠もっちゃってたらレミちゃんが大変だね」
 というより、ユニットバスだからどちらにしてもトイレは使えないということになってしまう。
「まあでも、大丈夫だよ。廊下に出れば共用のトイレがあった筈だし」
「そ、そうだよね……どうしても我慢できなくなったら…………」
 既に我慢の限界に達しつつあるのか、レミはどこか虚ろな眼のままもじもじと太ももを擦り合わせている。
「ああでも、そっか。外のトイレは使えないかもしれないな……」
「えっ……ど、どーして?」
「いや、レミちゃんもよく思い出してみて。共用のトイレがある場所って、ほら……“あの場所”の先じゃなかった?」
「あっ……」
「あぁ、でもあの人形が怖いって言ってたのは確か月島さんだっけか。じゃあ大丈夫だね」
「ぁぅ………………そ、そーだ! せんせー達の部屋のおトイレを使わせてもらえばいいんじゃないかな!」
「うーん……それは止めておいたほうがいいんじゃないかな。特にレミちゃんは……」
「えっ……どーして……?」
「いや、だって多分まだ二人とも飲み続けてて今頃べろんべろんになっちゃってるだろうし…………そんなところにレミちゃんがのこのこ行ったら絶対絡まれて玩具にされるよ。特に矢紗美さんに……」
 昨夜のことを思い出したのか、レミが俄に青ざめる。
「ど、どうしよ……ぶちょーさん……レミ、ホントにトイレに行きたくなってきちゃったんだけど……」
「まあ、さっき言った通り共用の方を使っちゃえばいいよ。レミちゃんなら一人で行けるよね」
「で、でも……もし……」
「もし?」
「ぅぅ……ぶ、ぶちょーさん……一緒に来てくれない、かな」
「行きたいのは山々だけど、この番組だけは毎週欠かさずみてるんだ。終わってからなら行ってあげられるけど」
「そんな……あとどれくらいで終わるの?」
「あと40分くらいかな」
「そ、そんなに待てないよぉ…………」
「ああそうそう、レミちゃん。これは昨日、スキー場で働いてる男の人から聞いた話なんだけど」
「や、やだ……聞きたくない……」
「まだ何も言ってないのに……。………………この旅館にはね、落ち武者だけじゃなくて色々出るらしいよ」
「やだやだやだ! ぶちょーさん止めて!」
 レミが喚き、両手で耳を塞ぐ。が、月彦は構わずに声のボリュームを上げて続ける。
「中でも俺が一番怖かったのは……“呪いの人形”の話かな。真夜中、嘘つきの悪い子が居る部屋に訪ねて来て、ドン! ……ドン!ってドアに体当たりしてくるんだって」
「わーーーーっ! わーーーーーっ!」
 レミはよほど聞きたくないのか、耳を塞いだまま大声を張り上げ続ける。
「あんまり怖くって、昨夜は実際に人形が来る夢を見ちゃったくらいだよ。すっごいリアルな夢で、朝、先生達と話するまでホントにあったことだって勘違いしてたくらいだ。………………でも、もしあれが夢じゃなかったら、きっと今夜も……」
「わーーーーーーーっ! わーーーーーっ!!」
「ただ、もし人形に襲われても、私は嘘をついてましたって正直に謝れば人形は帰ってくれるらしいけど…………もし正直に言わなかったら――」
「やーーーーーめーーーーーてーーーーーーー!」
 半狂乱になってレミが叫んだ瞬間だった。まるでその叫び声に呼ばれたかのように、ラビが和室へと戻ってきた。
「あっ、月島さん、どこ行ってたの? いつまでも戻ってこないから心配してたよ」
「……ぁ………………そ、の…………」
 もじもじと、ラビは顔を赤らめたまま口をもごもごさせる。あっ、と。月彦は察した。
「ご、ごめん……とにかく、無事戻ってきてくれて良かった」
 ひょっとしたら、慣れぬごちそうに腹痛でも我慢していたのかもしれない。それで長いことトイレから出られなかったのだとしたら、あまり触れて欲しくは無いだろう。ましてや、異性には……。
「おトイレ空いたの!?」
 そんな月彦とラビの間を、レミが駆け抜け、バスルームへと飛び込んでいってしまう。
「…………ずいぶん我慢してたみたい」
 苦笑混じりに言うと、ラビも愛想笑いを返してきた。なにやら疲れているのか、随分眠そうに見える。
「俺はちょっと席を外すから、もし眠かったら先に寝ちゃってていいよ。…………ああ、急須の中に残ってるお茶は絶対飲まないほうがいいよ」
 立ち上がり、バスルームへと通じるドアの前に立つ。
「レミちゃん? ちょっと月島さんと外を散歩してくるから、留守番よろしくね」
 そしてドア越しに、小声で言う。
「ぶちょーさん!? やだやだ、レミも行くから待って!」
「ごめん、レミちゃん。月島さんが二人だけで行きたいって言うから…………なるべくすぐ帰ってくるから、それまではそこから出ない方がいいかもしれない。…………“人形”が来るかもしれないから」
 ひぃと、今度はドア越しにでもレミが悲鳴を上げるのが分かった。
(思った通りだ。恐がりなのは月島さんじゃなくてレミちゃんの方だ)
 中学一年生にしてはマセていて、家事も達者だがまだまだ子供だなとほくそ笑みつつも、だからといって“まだ子供だから”で済ませる気は毛頭なかった。
(変なハーブ要りの茶をこっそり人に飲ませようとするような子には、おしおきをしないとな)
 本来なら、体で思い知らせるべきなのかもしれないが――恐ろしいことに、月彦はそれがスタンダードな方法の一つであると思っている――さすがにそこまでの罪でもない。なによりレミはまだ中学生だ。軽く怖がらせるくらいで良いだろう。
 月彦はわざと大きな音を立てて部屋のドアを開閉させる。もちろん実際に外に出たわけではないが、少なくともこれで外に出て行ったと思わせることは出来た筈だ。
 あとはひたすら息を潜める。幸いラビも大人しくしてくれているようだ。ここで下手に声でもかけられたら台無しだったが、どうやら天は味方してくれているらしい。
(さてと……まずは……)
 バスルームへの入り口の脇に設置されている照明のスイッチを切る。忽ち中から悲鳴が上がった。
「やっ、な、何!? 停電!?」
 続けて、月彦は拳を握り、大きくドンッ、とドアを叩く。
「ぴゃああああああああああああああああっ!!!!」
 ドア越しに響くレミの悲鳴に思わず口元がニヤけそうになる。順調に怖がってくれているようだ――が、まだまだ序の口だ。
「う、嘘……でしょ? ぶちょーさんだよね? イタズラなら止めて! 怖いから本当に止めて!」
 もちろん月彦は返事をしたりなどしない。黙ったまま、しばらく真を開けて――

 ドンッ!!

「ひぃあっ!? 止めて止めて止めてぶちょーさん助けておねーちゃん助けて! 怖い怖い怖い助けて助けて助けてぇええ!」

 ドンッ!!

「ごめんなさいごめんなさい! レミ、嘘ついてました! ぶちょーさんにあげたのは本当はエッチな気分になっちゃうお茶ですごめんなさい! レミはもう良い子になります嘘ついたりなんかしません! お願いだから帰って下さいお願いしますお願いしますお願いします!!」

 無闇矢鱈に怖がらず、冷静に考えればそもそもいきなりバスルームのドアの前に人形が現れる筈はないと気づきそうなものだが、怖いからこそそこまで気が回らないのかもしれない。
(……まぁ、これだけ怖がらせれば、少しは骨身に染みただろう)
 しかし念には念を入れて、ダメ押しをしておくか――月彦はドアを叩くのを止め、たっぷり五分ほど間を開ける。恐らく今頃、レミがホッと安堵をしているであろう頃合いを見計らって、そっとドアノブを握り。

 ガチャガチャガチャガチャッ!!!!

「ぴゃあああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 ドアノブを激しく捻るや、レミの凄まじい悲鳴が轟いた。続いて、なにやら暴れ回っているような音がどたばたと続き、やがて静かになった。
 さらにしばらく間を空け、月彦は部屋の入り口のドアをこれまた大きく音を立てて開閉させる。
「ただいまー、っと。レミちゃん、大丈夫だった?」
 しれっとした声で言うも、返事はない。仕方なくドアを開けようとしても、バスルームの鍵はかかったままだった。
「あれ、レミちゃん? おーい」
 声をかけ、ノックしてみるも、やはり返事はない。どうやらあまりの恐怖にバスルームの中で気絶してしまったらしい。
(ちょっと、怖がらせ過ぎたか……)
 最後のはダメ押しではなくただの蛇足だったかもしれない。反省し、心の中でレミに謝りながら、月彦は和室へと戻る。
「…………やれやれ」
 やはり、疲れていたのだろう。和室にテーブルに突っ伏しながら――そして涎をテーブルの上に広げながら――すやすやと眠るラビの口元を拭き、体を抱え上げ、ベッドへと寝かせる。
 そして改めてバスルームの前に立ち、レミに声をかける――が、やはり返事が無い。
「困ったな……このまま放っておくのはさすがにマズいか……」
 月彦は考え、ここはやはり“大人の意見”を仰ぐべきだと判断した。
(…………まだ話が通じる状態ならいいんだけど……)
 この事態を招いてしまったのは自分だ。責任はとらなければならない。
 月彦は覚悟を決め、507号室を訪ねた……。



 


 ドアをノックする手前で、一端深呼吸をする。これから相手をするのは、恐らくは深刻な状態の酔っ払いだ。しかも下手をすると二人同時に相手をすることになるかもしれない。
 覚悟を決める必要があった。
(…………そもそも、話が通じる状態なんだろうか)
 その前にドアは開けてもらえるのだろうか。506号室の鍵は持っているが、507号室の鍵は矢紗美か雪乃のどちらかが持ちっぱなしだ。最悪、二人とも部屋で酔いつぶれていた場合は部屋の中に入ること自体不可能だ。
「……仕方ない。せめてどっちかが正気でありますように」
 祈るような気持ちで、ドアをノックする。
「先生、矢紗美さん。起きてたら開けて下さい」
 しばらく待ち、再度ノックする。やはり、酔いつぶれてしまったのか――諦めて部屋に戻ろうかと踵を返した時、背後のドア越しにどたんばたんと何かがのたうつような音が聞こえた。
「……今の音は――」
 再びドアの方へと向き直るのと、開いたドアの隙間から、寸分の狂いも無くのど元を狙う毒蛇のような動きで伸びてきた腕が、胸ぐらを掴むのは同時だった。
「うわっ」
 恐ろしい力で月彦はそのまま、ドアの隙間から引っ張り込まれる。たちまち、むせかえるような凄まじい酒臭さが鼻を突く。
「痛ちち…………せ、先生……ですか?」
 室内の灯りが丁度逆光となり、表情までは分からない。ただ、その双眸だけがぎらぎらと光を放っている。
「えっ、ちょっ……」
 人の形をした影に茶羽織の襟を掴まれ、和室の方へと引きずられる。ずりずりと月彦が引きずられた後だけが、散乱している酒瓶が退けられ、道が出来ていくことにゾッと肝を冷やす。
 月彦はテーブルの側まで引きずられ、漸くに開放された。転がるようにして向き直ると、手には酒瓶を握りしめたままテーブルに伏している矢紗美の姿と、そのテーブルの上に行儀悪くも腰掛け、日本酒を瓶のまま豪快に煽る雪乃の姿があった。
「ちょっ……せ、先生……?」
 ダンッ!
 声をかけようと手を伸ばしかけた月彦は、テーブルに叩きつけるように置かれた酒瓶に威圧されて思わず引っ込んだ。
「……今までどこにいってたの? まさか、また月しマさんとイチャイチャしてたわけじゃ、ない、わよね?」
「どこって……隣の部屋、ですけど……そ、それにイチャイチャしてたって何ですか! また、って言われるのも心外なんですけど!」
「こんざキくん!」
 部屋の壁を震わせるような大声だった。月彦は開きかけた口を思わず閉じる。
「紺ざきくんってば……どうしてソうなの?」
「そうなの?って言われても……」
「いつもいつも……私がふ安になるようなことばかりして……そんナに気がひきたいのかしら?」
 やはり相当酒が回っているのか、雪乃の呂律はかなり怪しい。が、どうやら機嫌が悪いらしいということは、嫌でも分かる。
「わたしはねぇ、怒ってるのよ!」
 だんっ!
 残り1/3ほどになった日本酒が、テーブルに叩きつけられた衝撃でちゃぷんと揺れる。
「え……と……ひ、昼間の温泉でのことですよね? す、すみませんでした……」
「……ちゃんとわかってルのかしらぁ?」
 疑いの目で見下ろしながら、雪乃はさらに酒瓶を煽り、ぐびぐびと飲み干してく。
「も、もちろんです! その……月島さんのおっぱいって答えちゃったのは、ええと……説明がむずかし――」
「ちがーーーーーーーーーう!」
 声を張り上げながら、まるでだだっ子のように雪乃が手足をばたつかせる。
「そっちは、いいの! 紺ざきくんだもの……こんざきくんはもう、そっちはしょうがないって、わかってるからいいの!」
「ええぇ……」
 一体何がしょうがないと思われてるのか、甚だ気になるが、今の雪乃に問いただしても恐らくまともな答えは返ってこないだろう。
「…………おねえちゃんのハダカ! ジロジロ見てたでしょ!」
「あっ……そ、れ、は――」
 確かに、見ていた。
「あんなに、穴があきそうなくらい、じぃぃーーーって! どうせ綺麗だなーとか、美人だなーとか思いながらうっとりしてたんでしょ!」
「うぅぅ……」
 そんなことはない――とは言えず、月彦は反論が出来ない。きぃぃーと、雪乃がさらに金切り声を上げる。
「わたしが! ほかの男の子のハダカをじろじろ見てたら! こんざきくんだってイヤでしょ!? どーしてそれが分からないの!?」
「す……すみません! 先生が怒るのも当然です!」
 月彦はもう平謝りに謝り、畳に手をついて謝罪する。
「…………こんざきくんも…………お姉ちゃんがいいの?」
 が、唐突に雪乃の語気が変わった。荒ぶる戦国武将のようだったそれが突如、半泣きの少女のそれに。
「えっ……あの、先生?」
 顔を上げると、雪乃は酒瓶を握りしめたまま涙をにじませていた。あわわ、あわわと慌てて月彦は膝立ちになり、雪乃に駆け寄った。
「ちょっ……先生どうしたんですか! いきなり泣かないで下さい!」
「何よ! 紺崎くんなんて嫌いよ! そんなにお姉ちゃんが好きならお姉ちゃんと付き合えばいいじゃない! そんで散々弄ばれて捨てられちゃえばいいんだわ!」
「ちょっ、瓶を振り回すのは危ないですから、とにかくそれを置いてください!」
 だだっ子のように暴れては、一升瓶から酒をまき散らす雪乃をなんとか宥め、その手から酒瓶を取り上げる。
「わらしらってねぇ…………好きで……お姉ちゃんより大きくなったわけじゃ……ないんらから……」
「分かってます、俺はちゃんと分かってますから……」
「わらしだって……ホントならフリルのついたワンピースとか……そゆの……着たりしたかったんらから! 可愛い服とか、全部諦めなきゃいけなかったんだから! お姉ちゃんは似合うからいいなぁ、って、ずっと羨ましかったんだから!」
「そ、そうなんですね……でも、先生はそういうのが似合わなくても全然――」
「何よ、何よっ! こんざきくんだって、お姉ちゃんみたいな小柄な女の方が好きなんでしょ! だからあんなにジロジロ見てたんでしょ! 私のことデカい女だって思ってるんでしょ!」
「ちょ、痛っ……せんせっ、結構痛いからマジで勘弁してください! いたたたた……」
 少女――或いは小柄な女性であれば“ぽかぽか”で済むだだっ子パンチが、雪乃の場合は“ドカドカ”とちょっとしたラッシュ並の威力があり、月彦は必死になって両手で防御しなければならなかった。
「た、確かに先生は……その、なんていうか……平均より大きめというか……身長もありますし、た、体重もあるかもしれませんけど……で、でも……別にそれで落ち込む理由はないというか……む、むしろ羨ましいって思う人の方が多いはずですよ!」
 ちらりと、脇で酔いつぶれている矢紗美へと視線を向ける。そう、他ならぬ矢紗美がそのうちの一人だ。
「それに、確かに先生の言うとおり矢紗美さんの裸に見とれちゃいましたけど……でもそれは矢紗美さんだからっていうよりも、綺麗な女の人の裸なら誰でも見ちゃうっていう部分が……ええと、男の悲しい性っていうか――」
 “ドカドカ”が不意に止まる。はてなと思い、月彦が防御姿勢を解いた――瞬間。
「うわっ、っととっと!」
 テーブルに座っていた雪乃の体が、ふらりふらりと左右に揺れたかと思えば唐突に倒れ込んできて、月彦は慌てて支えなければならなかった。
「せ、先生!? 大丈夫ですか!?」
 ひょっとしたら、泥酔状態にもかかわらず激しく動いてしまったせいで一気に限界を超えてしまったのかもしれない。
(救急車……呼んだ方がいいのかな……)
 酒を飲み過ぎた場合、一体どうなるのが深刻な症状なのかが分からない。ただの深酒ならば何の心配もいらないのかもしれないが、今夜に限っては矢紗美も雪乃もお互い自分が苦手な酒での深酒という些か特殊な条件での酩酊だ。或いは万が一ということがあるかもしれない。
「…………らめ……」
 迷う月彦の背中に、ひしっ……と雪乃の手がしがみついてきたのはその時だ。
「お姉ちゃんには……ぜったい……わたさないんらから……」
 むにゃむにゃと寝言を呟く雪乃に、月彦は小さくため息をつく。
(…………とりあえず、安静に寝かせておけば大丈夫そうだな)
 雪乃の体を抱えあげ、寝室へと運び、掛け布団をかける。
「矢紗美さんも……このままじゃ風邪引いちまう」
 テーブルの上には、クリュグの空き瓶が二つに殆ど空になりかけている瓶が一つ。矢紗美達が途中でルールの変更をしていないのだとすれば、“口直しの1杯”を飲もうとコップを握りしめたところで力尽きてしまったのだろう。
「…………てことは、先生も同じだけ焼酎を飲んだってことか。…………二人ともどんだけ意地っ張りなんだ」
 普通ならコップ1杯分飲んだだけで容易くダウンしてしまう焼酎を、矢紗美に負けたくないという意思の力――精神力のみで、ボトル三本分凌いだということだ。それほどまでに凄まじい対抗意識を燃やしている相手に自分の男が取られそうになるというのは、確かに感情が爆発するに足る案件なのかもしれない。
(…………先生のこと、性格がちょっとアレだって、思ってたけど……)
 雪乃から浴びせられる“熱量”の凄まじさは、正直疎ましいと感じていた。が、次第にそれが嫌ではないかもしれないと感じ始めている自分に、月彦は驚きを隠せなかった。
(…………ヤバいな。先生の強引なところ……ちょっと好きになりはじめてるかもしれない)
 雪乃と同じように矢紗美の体をベッドに横たえながらも、意識のほうは背後の雪乃の方へと向かい続けている。そう、雪乃のことが気になって気になって仕方ないのだ。矢紗美の体に布団を掛け終え、灯りも消し、後はもう部屋から出るだけという状況であるのに、雪乃の側を離れられない。
「ううん……」
 寝苦しかったのか、雪乃が大きく寝返りを打ち、掛け布団がめくれる。が、めくれたのは足側だけであり、浴衣の裾から右足の臑の先だけが見えている。いっそラビの時のように、胸の谷間でも見えてくれていれば“言い訳”にもなったのに――漠然と、そんなことを思う。
(いや、待て……何を考えてるんだ、俺……)
 全身がざわつく。うずうずと、抑えがたいものが体の奥底から沸々とわき上がり、血が熱く滾るのを感じる。
 すやすやと心地良さそうに眠る雪乃の寝顔を見ているだけで、むらむらとしたものがこみ上げ、何度も、何度も生唾を飲んでしまう。
「……あの、先生」
 とうとう我慢出来ず、月彦は枕元に膝をつき、声に出してしまった。
「確か……“我慢出来なくなったら、いつでも先生に言いなさい”って、言いましたよね?」
 小声で、囁く様に続ける。もちろん雪乃からの返事はない。
「………………すみません、俺……我慢出来なくなっちゃったみたいです」
 少しもすまなそうではない声で言いながら、月彦はゆっくりと――ベッドの上へと上がった。


 ひょっとしたら、レミが淹れた“エッチな気分になるお茶”というのは、それなりに効果のあるものだったのかもしれない。或いは、昼間の件が実は結構なショックで、心の防波堤が既にボロボロになっていたのかもしれない。さらに言うならば、温泉で全裸の美女達に囲まれ、しゃぶりつきたくてもしゃぶりついてはいけないという状況に置かれ続けたストレスが、知らず知らずのうちに溜まっていたのかもしれない。
(こんなこと……絶対、ヤバいのに……)
 ベッドへと上がり、掛け布団をはぎ取りながらも、月彦は正気を保ってはいた。いたが、それは自分の行為を止めるほどの力を有さず、さながらテレビ画面の向こうで行われているえげつない行為をただ見守るしかない、いち視聴者のような立ち位置でしかなかった。
「…………ゴクッ」
 生唾を飲む音が、骨すらも震わせる。酩酊し、四肢を力なく投げ出して眠る雛森雪乃のなんと美味そうなことか。腕のように肥大した剛直を今すぐにでもねじ込みたいのを堪えて、まずはとばかりに胸元へと手を伸ばす。浴衣を左右に割り開くと、初めて見るデザインの黒のブラジャーが露わになった。
(…………ひょっとして、“旅行用”に新しく買った奴かな)
 雪乃の下着を目にすることは何度かあったが、そのどれよりも高そうに見える。あえてセオリーを無視し、浴衣用和ブラではなく扇情的なブラを選んだのはやはり、ベッドインの機会があるかもしれないと備えてのことだったのかもしれない。
(……或いは、先生的にはもっと早い段階で矢紗美さんを潰して、“二人きり”になるつもりだったのかもしれないな)
 しかし結果的にほとんど“相打ち”となってしまい、想いは遂げられなかった。となれば、こうして雪乃を襲うことに対する良心の呵責も幾分は和らぐというものだった。
(……まぁ、本当は下着ナシのほうがいいんだけど)
 やわらかそうな巨乳を包み込むブラに、そっと頬ずりをする。新品の下着の匂いと、ボディソープの匂い。残念ながら期待したような体臭を嗅ぎ取ることは出来なかったが、落胆はしなかった。そんなもの、後からいくらでも嗅ぐことが出来るからだ。
「先生、脱がせますよ?」
 むしろここで雪乃が返事をしたら飛び上がって驚くところだ。月彦は雪乃の背側に手を回し、ブラのホックを外す。
(ヤバい……なんか、すっげぇ興奮する……)
 思わず一瞬だけ、隣で寝ている矢紗美の方へと目を向けてしまう。或いは矢紗美なら、いつのまにか起きていてニヤニヤしながら見物しているのではという危惧は、現実にはならなかった。
 再び視線を雪乃の方へと戻し、ホックの外れたブラを上方へと押し上げる。ただそれだけの作業に、ゾクゾクするほどの興奮を覚える。
(寝込みを襲ってるからなのか? それとも、矢紗美さんが隣に居るからなのか……?)
 或いはその両方か。雪乃の同意をとったわけではないというのも、背徳感を増す結果に繋がっているかもしれない。
 とにもかくにも、いつになく抑えがたい興奮と共に、月彦はますます鼻息を荒くし、目の前にまろびでた巨乳へと手を這わせ、やんわりと揉み始める。
(あぁぁ……コレだ……コレを、ずっと触りたかった……!)
 昼の温泉での事からずっと。それこそ頭にこびりついて離れなかったと言っていい。レミに、ラビのおっぱいを味見してもいいと言われた時もヤバかった。我ながらよく我慢出来たものだと感心する。並の自制心しか持っていない男であれば、きっと耐えられなかったに違いない。
「ぁ……ンン……」
 くすぐったいのか、雪乃が鼻に掛かった声を上げ、月彦は思わず揉む手を止めてしまう。ひょっとして、起こしてしまったのか――雪乃の様子を具に観察するが、どうもその気配はない。
「………………っ……」
 ゾクゾクとした興奮に、思わず体が震える。相手の同意なしに服を脱がせ、おっぱいを揉みまくっているというだけでここまでのスリルと興奮が味わえるものなのか。強姦魔が何故犯行を繰り返してしまうのか――その気持ちが少しだけ分かったような気さえする。
(先生なら……きっと、目を覚ましても怒ったりはしない――と、思う、けど……)
 どうせなら、雪乃を起こさずにどこまで出来るかを試してみたいと、そんな考えが沸く。
(そうだな、まずは――)
 先ほどよりも強く、揉む。んん、と雪乃が鼻にかかった声を上げるが、構わずに揉み続ける。
「ぁ、ん……ぅん……」
 最初の頃に比べて、大分性感帯が開発されたらしい雪乃の体は、やはり胸元の感じ方も良くなっているのだろう。優しく捏ねるように揉み続けていると、次第に色めいた吐息を上げる回数が多くなる。月彦はさらに舌を這わせ、れろり、れろりと舐めてはむしゃぶりつき、堅くしこった先端を軽く噛んだりと、“ギリギリのスリル”を楽しんだ。
「先生、ここまでされても起きないなんて、ちょっと問題ですよ?」
 相手が俺じゃなかったらどうするんですか?――そんな軽口を思い浮かべながら、今度は一瞬、ほんの一瞬だけ唇を重ねる。なんとなく、呼吸を阻害するのはそれだけで意識を覚醒させてしまうような気がしたからだ。
「…………先生、キス……好きでしたよね?」
 だが、次第に唇を触れさせるだけでは我慢できなくなる。ふっくらとした――美味そうな唇へとむしゃぶりつき、強引に舌を差し込んで絡め合う。
「んぁっ……んぅっ……んんぅっ……」
 息苦しさによる反射か、雪乃がもぞりと寝返りを打つようにして首を逸らそうとする。それを無理矢理押さえつけ、キスを続行する。
(はぁっ……はぁっ……先生っ……先生っ…………!)
 雪乃の体にのしかかるように押さえつけ、太ももに剛直を擦りつけるようにしながらのキス。舌先に微かに感じるアルコール分すら、極上のメスの唾液の甘さのエッセンスにしか感じず、月彦は夢中になって雪乃の唇を吸い続けた。
「はぁっ……はぁっ…………はぁっ…………!」
 興奮極まって、キスだけではもの足りずにれろり、れろりと雪乃の顔にまで舌を這わせる。微かに感じる苦味は何らかの化粧品によるものか、それすらも構わず夢中になって雪乃の顔を舐め回し、そのまま顎、喉へと舌を這わせていく。浴衣を肩口から脱がしながら再び胸の辺りを舐め、舐めながら両手で左右から顔を挟み混むように圧迫し、頬で乳肉の柔らかさを堪能する。
 まさに意識が無い相手だからこそできる、やりたい放題祭りだった。
(……ヤバい、……そろそろもう、我慢が……)
 痛みを感じるほどにイキっている下半身をどうにも堪えかね、月彦はへその辺りまで舐めたところで再び雪乃の寝顔の前へと戻って来た。
「先生……挿れてもいいですか?」
 小声で囁く。もちろん返事はない。
「ダメって言わなきゃ、挿れちゃいますけど、いいんですか?」
 挿れるのはコレだぞ、と言わんばかりに、剛直を太ももにすり当てる。意識の無い雪乃が返事など出来るはずもなく、勝手に了解をとったことにした月彦は体を起こし、雪乃の下半身へと手を這わせる。
(ああぁ……下着を脱がせるってのが、また……)
 効率だけを考えるなら、無理に脱がせずに横にずらしてしまったほうが遙かに楽であるのに、あえて脱がせるのは当然そこに興奮とスリルがあるからだ。黒のブラと合わせたようなレースの黒ショーツをゆっくりと脱がせ、臑の辺りまできたところで片足だけ抜き、そのまま足を開かせる。
「ゴクッ……」
 足を開かせ、そのまま挿れる――筈だった。しかし鼻先を擽る濃厚な“女の匂い”に、思わず喉が鳴る。それは強烈な喉の渇きを呼び起こし、次の瞬間には雪乃の股ぐらに食らいついていた。
「はぁはぁはぁっ……ぁむっ、ちゅっ……じゅるるっっじゅるっ……!」
 指で秘裂を割り開き、夢中になって蜜を啜る。かつてこれほどに――女の蜜で――喉を潤したいと思ったことは無かった。闇の中、微かな月明かりを受けてテラテラと光沢を放つピンク色の粘膜に舌を這わせては、わき出る蜜を音を立てて啜る。
「………………アッ!」
 さすがに刺激が強いのか、雪乃が体を跳ねさせながら声を上げた。起きてしまったのかもしれない――が、止めるわけにはいかないとばかりに、月彦は蜜を啜り続ける。
「アッ! アッ! アッ……!」
 雪乃がさらに声を上げ、苦しいほどに太ももで挟んでくる。が、声にも太ももの動きにも意思の存在は感じられず、ただの反射どまりであるということに月彦は気づいていた。
「じゅるっ……じゅるるうっ……ちゅっ、ちゅっ……ちゅっ……んんっ……じゅるるるるるるっ……!」
 可愛らしく勃起したクリトリスへとキスをしてやると、たちまち呆れるほどに愛液が溢れ出し、月彦は口の周りをべとべとにしながらはしたなくすすり上げる。ひょっとしたら啜る音のせいで矢紗美の方が先に目を覚ましてしまうのではないかとハラハラしながられろ、れろと慈しむように舐め続けていると。
「んんっ……ぇ…………な、何……!? だ、誰!?」
 唐突に、怯えるような声と共に雪乃が体を起こした。
「……さすがに起きちゃいましたか」
 悪びれもせず――否、若干は悪びれた顔で――月彦が股ぐらから顔を上げると、たちまち雪乃の顔はホッと安堵に緩んだ。
「なんだ……紺崎くん………………って、一体何を――」
 が、安堵もつかの間。忽ち声を張り上げようとする雪乃の口を手で押さえ、そのまま肩を押すようにして押し倒す。
「しーっ……静かにしてください。隣で矢紗美さんが寝てるんですから」
 雪乃が、口元を抑えられたまま目を見開いた。
「だから静かに、バレないようにシましょう」
「ま、待って……紺崎くん……何が起きてるのか、全然分からないんだけど……」
 どうやら事情を察したらしい雪乃の声は、耳を済ましていなければ聞き取れないほどに小さかった。
「すみません。その……どうしても我慢できなくなっちゃって……先生を襲ってた所だったんです」
 なっ――と、雪乃が絶句する。
「こ、こんざきくん…………なに、言って…………」
 あわわ、あわわと狼狽する雪乃の顔が可愛くて堪らず、月彦は衝動的にキスをする。
「…………だって、先生言ってたじゃないですか。“どうしても我慢出来なくなったら先生に言いなさい”って。だから言ったんです。そしたら、ダメだって言われなかったから……」
「あっ……当たり前でしょ! そんな、寝てる時に返事なんて出来るわけ…………」
「でも、先生としたくて…………どうしても我慢できなかったんです」
 わざと苦しげな声で言うと、またしても雪乃が口元を引きつらせた。しかしそれは、にやけそうになる顔を強引に止めようとしたが故の“ひきつり”だった。
「ま、待って……ダメ……そんなこと、言われたら…………」
「言われたら?」
「だめっ……そんなに顔を近づけないで……! お、起き抜けで……混乱してるの…………そんな……し、したいだなんて……いきなり、言われても…………」
「我慢出来なくなったら言えって言ったのは先生じゃないですか。それなのにダメなんですか?」
「だ、だって……」
 雪乃の目が、一瞬左の方へと動く。矢紗美の寝姿を確認したらしい。
「せめて、場所を変えましょ? ここじゃ、いつお姉ちゃんが起きるか――……って、紺崎くん!?」
 戸惑う雪乃の眼前で月彦は下着を脱ぎ捨て、いきりたつ下半身を見せつける。
「先生……俺、先生としたくてしたくて、もうこんなになっちゃってるんですけど…………それでもダメなんですか?」
 雪乃が目を点にしながらも、それでもごくりと生唾を飲み込むのを、月彦は見逃さなかった。
「す……………………するのがダメって言ってるわけじゃないのよ? ただ、ここじゃ……」
「俺はもう、今すぐしたいんです。ダメですか?」
「やっ……だ、ダメッ……言わないで! 紺崎くんにそんな風に言われたら…………私っっ…………」
 雪乃は肩を抱き、目に見えて呼吸を荒くしながら身悶えする。月彦はさらに、肩を抱く雪乃の手首を掴み、強引にベッドへと押しつけながら、その耳元へと唇を寄せる。
「今すぐ、先生とシたいんです」
「やっ…………ンッ……!!」
 びくんっ――雪乃は背を逸らしながら、大きく体を揺らす。“先生とシたい”――その言葉が、雪乃にとって“言われたい言葉”のかなり上位にくる言葉であるということは先刻承知だ。
「ほら、先生?」
 自分で足を開いてください――優しく囁くと、雪乃は観念するようにゆっくりと足を開いた。
「こんなの……絶対、だ、ダメ…………なのにぃ…………」
 そんな自分を恥じているのか、僅かな月明かりでも分かるほどに雪乃は顔を真っ赤にしていた。
「……我が儘を聞いてくれてありがとうございます、先生。……お礼に、いっぱい気持ちよくしてあげますね」
 それが、月彦なりの、女性に対する最上級の“お礼”なのだった。


 雪乃には、それこそ数え切れない程の不満があった。その大半は紺崎月彦に関することであり、そしてさらにそのうちの大半は今回の温泉旅行で解消される筈だった。
 ――そう、憎き姉の横槍さえ入らなければ。
(何……何なの、これ……ゆ、夢……なの?)
 暗闇の中で月彦の体重を感じながら、雪乃は尚も混乱の最中にあった。姉の妨害に翻弄されながらもどうにかこうにか二人きりの時間を捻出し、イチャつこうとした矢先、またしても矢紗美に邪魔された。或いはその時既にもう“切れ”ていたのかもしれない。
 もちろん月彦が矢紗美の裸をガン見していたことや、ラビのおっぱいが好きだと言ったことについても許せなかったが、それよりなにより姉に対する怒りが勝った。この女が居るかぎり、月彦といちゃつく事など絶対に不可能なのだと。
 だから、潰した。散財をしてまで勝負を持ちかけ、何度も意識不明になりかけながらも意地で勝った――が、そこで雪乃の記憶は途切れた。折角邪魔者は潰したというのに、“その後”へと繋げることが出来なかったのだ。
 そしてハッと気がつけば寝室のベッドに寝かされていて、しかも月彦に夜這いをかけられていた。そのこと自体は良い――というより、むしろ幾度となく夢想した“夢のシチュ”の一つが叶ったと小躍りの一つもしたい気分だった。
 そう、隣で……姉が寝てさえいなければ。
「やっ……ま、待って……紺崎くっっ…………ンンッ……!!」
 “これ”はヤバい――己の敏感な場所へと押し当てられる、堅く滾った肉槍の感触に、雪乃は直感的にそう判断し、両手で自分の口元を覆った。
「ンンッ…………ンンン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!」
 挿入に、容赦など無かった。鉄のように堅い肉柱が深々と差し込まれ、強引に穴の形が変えられる。敏感な粘膜が強烈に擦りあげられ、雪乃は視界に火花を散らしながら、大きく腰を跳ねさせた。
(やっ……い、イクっ……!)
 電撃のような快楽に、足が跳ね上がり、不自然な形で引きつり、痙攣するように震える。鉄のように固い“月彦の形”を確かめるように締め付け、味わうように肉襞を蠢かす。
「ンンンッ……ンッ……ンンン〜〜〜〜〜ッ!!! っっ〜〜〜〜!!!」
「うっ……おっ!? せ、先生!?」
 月彦が驚くように声を上げるが、雪乃の耳には届かなかった。全身を迸る、電流のような快感。月彦に夜這いをかけられるというシチュエーションであることに加えて、何度も何度も、執拗なまでに“シたい”と囁かれたことによる興奮が、これ以上無いほどに体を敏感にしてしまっていたのだ。
(だ、ダメっ…………また、イくっ…………!)
 挿入されただけでイき、それでも尚快感が治まらず、二度、三度と体を跳ねさせながら、雪乃はイく。
「ーーーーーッ……ンンッ!! ンンッ!!!」
 危うく出てしまいそうになる声を必死に押し殺しながら、雪乃は右手で口元を押さえ、左手はシーツをかきむしるようにして握りしめる。
(ぁ……ぁ……紺崎くん、のっ…………固いぃぃ……あぁぁ……!!)
 ぎゅぬ、ぎゅぬぬと激しく締め付ける度に、その固さにますます興奮が高まる。男性の陰茎が固くなっているということはすなわち、それだけ興奮しているということだ。“それ”が、雪乃には嬉しく、自身の興奮にも繋がるのだった。
「〜〜〜〜〜〜っっっ…………はぁはぁはぁっっ…………はぁはぁっ……はぁっ…………!!」
 イきながらたっぷり一分半は呼吸を止める羽目になっただろうか。漸くにして快感のうねりが去り、雪乃は荒々しく呼吸を再開させる。
(………………い、挿れられた、だけ……なのに…………)
 恥ずかしさのあまり、まともに月彦の顔を見ることが出来ない。いくら興奮の極みにあったとはいえ、昼に中途半端な交わりをしたせいで、ずっと体が疼きっぱなしだったとはいえ、いくらなんでも挿れられただけで、それも三回もイくなどもはや年上の威厳などあったものではない。
「…………先生、今の、一回だけじゃないですよね?」
 笑みを噛み殺したような月彦の声に、雪乃はさらに顔が熱くなるのを感じた。
「スゴいですね。…………ひょっとして、先生も昼からずっと続きがシたくて堪らなかったんですか?」
 月彦の言葉に、雪乃は思わず心を躍らせる。
(今、“も”って言ったわよね? 先生“も”って! じゃあ、紺崎くんも……)
 羞恥に顔を赤く染めながらも、それでもついにやけてしまいそうになるのを、辛くも引き締める。
「そ、そんなの……当たり前、じゃない…………あんな、中途半端なのじゃ……」
「そうですね。俺も……ずっと先生としたくて………………頭がどうにかなりそうでした」
 その割には、お姉ちゃんの裸に見とれてたわよね?――そう口にしそうになって、飲み込む。不平不満は後回しだ。今はただ、この夢のような時間に酔いしれていたかった。
(そうよ……“お説教”は後回し。とにかく、紺崎くんが折角迫ってくれたんだから……)
 正直な所、“昼間の月彦の態度と行動”については、雪乃はかなりの不満と怒りを募らせていた。それを月彦にぶつけなかったのは、姉に対するそれの方が遙かに大きく、また急務であっただけであり、そちらが片付けばまずは月彦に説教の一つもかましてやらなければと思っていた所だったのだ。
 が、そんな不満はこの夢のような状況で一気に吹き飛んでしまった。そしてこのチャンスを失うことを、雪乃は何よりも恐れた。出来れば事を始める前に姉の息の根を止めるか、目を覚ましても身動き一つ出来ないようにがんじがらめにしておきたかったが今となってはそれも難しい。
「……じゃあ、先生。そろそろ動きますよ?」
「う、うん……あ、あんまり激しくはしないでね? 声……抑えられなくなっちゃうから…………ンンッ……!」
 月彦が、ゆっくりと腰を使い始める。セックスの中で、雪乃が大好きな瞬間の一つだった。
(ぁっ、ぁっ、ぁっ…………き、気持ちいい…………ああぁ……!!)
 今日は、声を出すことが出来ない。代わりにと言わんばかりに、雪乃はぎゅっと唇を閉じたまま、“心の中”で喘ぐ。
(紺崎くん、の……堅くてぇ……か、形がはっきり分かっちゃう…………あぁぁ!)
 声を出したい。自分がどれだけ感じているのかを、月彦にも伝えたい――そんなもどかしさと切なさに身もだえする。姉さえ居なければと、矢紗美に対する憎しみをさらに倍増させながらも、雪乃は必死に声を押し殺す。
「……いいですよ、先生。そうやって必死に声を我慢してる先生も、すごくそそります」
 ちゅっ、と頬に優しいキス。こういうとき、喘ぎを漏らさない男はズルいと雪乃は思う。尤も、女ほど頻繁に声を出さないだけで、男も喘ぐことがあるということは経験から知ってはいるのだが。
「っっ……ぁ……はァァ……やっ、ちょ…………ダメッ…………ぅン!」
 単純な前後運動であったのが、ぐりん、ぐりんと抉るような動きに代わり、雪乃は腰を跳ねさせながら慌てて口元を抑えねばならなかった。
(ダメッ……ダメッ……ダメッ…………こ、これ……ダメッ……感じ過ぎちゃう……!)
 口元を抑えながら、雪乃は必死に目で訴えるが、通じているのか居ないのか。月彦はむしろ瞳の中に愉悦の光すら滲ませながらその両手を雪乃の胸元へと這わせ、腰の動きと連動させるように揉み始める。
(ダメッ……ダメッ……ダメッ……!)
 雪乃はイヤイヤをするように首を振るが、月彦は胸を弄る手を止めない。心なしか息も荒くなっているようだった。
「あぁ……先生の中、凄く熱くてトロットロで最高です。それに加えて胸も……こんなの、反則ですよ」
 胸を触り始めるなりあからさまにハァハァと息を荒くしている月彦の興奮っぷりから、その言葉が嘘でも偽りでもないと伝わってくる。乳肉を捏ねるように揉む絶妙な力加減よりも、堅くしこった先端を摘むように刺激されての快感よりも、我を忘れるほどに息を荒くしている月彦の様子こそが、雪乃にさらなる興奮を覚えさせる。
(紺崎くん……こんなに夢中になって…………そんなに我慢させちゃってたの?)
 触りたくなったらいつでもいいのよ?――そう言ってはいるが、やはり時と場所は選ぶ必要がある。紺崎月彦がどれほどおっぱいに執着する男であるかは雪乃は重々承知しているつもりだった――が、ひょっとしたらその認識すらも甘かったのではないか。
(私が、触らせてさげなかったから……)
 だから、矢紗美の裸やラビの裸にあれほどまでに目移りさせてしまったのではないかとすら、雪乃は考え始めていた。だとすれば、途端に申し訳なく思えてくる。月彦の恋人としての義務を果たせなかった結果の目移りであれば、月彦を責めるのは筋違いであるからだ。
「……んっ……紺崎、くん……好きなだけ触って、いいのよ? これは……あなたの、あなただけの……おっぱい……なんだから」
「先生……」
「そ、その代わり……私以外の裸に見とれたりなんかしたら……承知しないんだから…………」
 ましてや、下半身を勃起させるなど論外だと――さすがにそこまでは言えず、雪乃は顔を逸らしながら唇を尖らせる。故に、雪乃は見逃した。私以外の裸に見とれたら承知しないと言われた時の、月彦の何とも困った風な苦い笑みを。
「先生、もし俺が――」
「紺崎くんが……?」
「………………すみません、やっぱり何でもないです」
 月彦が首を振り、抽送が再会される。再度口を開きかけていた雪乃は、慌てて口を閉じ、右手で押さえなければならなかった。
「ンッ……ンンッ……ンンッ!!」
 先ほどまでとは打って変わった、激しい抽送だった。雪乃は知っている。これは、月彦が達する前兆の動きであると。
(だ、ダメ……そんなに、激しくされたら……!)
 ギッシギッシと軋みを上げるベッドの音に、雪乃は思わず隣のベッドで寝ている姉のほうへと視線を向ける。先ほどまでの衣擦れの音とはわけが違う。さすがにこんな音を響かせては、起こしてしまうのではないか――。
(ダメッ……紺崎くんに激しくしないでって、言わなきゃ…………い、言わなっっっッッッ〜〜〜〜ッ!!!!)
 しかし、そんな理性の声すらも、怒涛のように押し寄せる快楽によって押し流されてしまう。固くそそり立つ剛直で何度も何度も子宮口を小突かれるうちに、次第に“音”のことなど気にする余裕がなくなっていく。
(あッ……! あっ、あっ、あっアっ……! いいっ……いいっ……き、気持ちイイ……!)
 突かれる度に、快感が累積していく。何度も、何度も小刻みに達しながら、それでも雪乃は敏感に感じ取っていた。月彦の息使い、剛直の動きから、“限界”がそう遠くはないであろうことを
(ぁ……く、来るっ…………“アレ”が…………)
 ゾクッ――全身の体温が2,3度は下がったのではないかというほどの、強烈な悪寒にも似た快感に、雪乃は思わず身震いをする。子宮口を激しく突き上げられ、その都度白目を向きそうなほどの快楽に翻弄されながらも、それほどの快感すらもオードブルと化してしまう“アレ”を心待ちにしてしまう。
 慣れてはいけない、決して慣れてはいけないし、教育者として戒めねばならないことであるのに、そんな良識、常識すらも津波の前の小石のように容易く押し流してしまう程の、あの圧倒的な快楽。
 アレが、もうすぐ味わえる――。
(声……絶対、抑えなきゃ…………抑え、なきゃ…………)
 ふうふうと指の合間から荒々しい息を吐きながら、雪乃はただただそれのみを念じる。
(やっ……だめっ、ダメッ……ダメッ……これ、絶対スゴいの来る…………来るっ…………ダメッ、ダメッ、ダメッ、ダメっ……!)
 口元を抑えたまま、雪乃はかぶりを振る。涙目で必死に月彦に訴えかけるが、もちろんそんな事で射精への誘惑の虜となってしまっているケダモノが止まるはずもない。
「だ、ダメッ…………声、出ちゃう……!」
 雪乃は掠れ声で漏らし、月彦に制止を懇願する――が、それでも止めてもらえない。ならばと、雪乃が枕を掴んで自らの顔に被せ、噛みつくようにして歯を食いしばった――その瞬間だった。
「っっっ…………ンンンッッーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!!!!!」
 一際深く挿れられた剛直の先端から、凄まじい勢いで撃ち出される熱い塊。濃厚克つ生命力に満ちた白濁汁が自らの体内へと注入されるのを感じながら、雪乃もまたイく。
(やっっ……あ、熱い、の……いっぱい…………だ、だめ…………あぁぁぁぁぁッ……!!)
 それだけ月彦も興奮していたということなのだろうか。いつになく大量に注ぎ込まれる精液に、雪乃は目眩すら感じる。自分は、こんなにも月彦に想われている――それを、具体的に“量”で示されているかのようだった。
(連休中は、紺崎くんといっぱいエッチしても大丈夫なように、って……ちゃんとピル飲んでたけど……でも――)
 こんなに注ぎ込まれて、果たして本当に大丈夫なのだろうか――そんな不安すら感じる程の量。しかしそれ以上に感じる幸福感に、雪乃はうっとりと脱力し、次第に収まっていく絶頂の余韻に酔いしれる。
「っっ……はぁぁ……先生?」
 月彦の手でマクラを退けられ、そのまま唇を重ねられる。両手が背中へと回されると同時に、雪乃もまた月彦の背へと手をまわし、抱きしめ合う。
「ンッ……ンッ……んふっ……んんっ……」
 唇を重ね、舌を絡めあいながら、雪乃は胸の内側にじんわりと温かいものが満ちていくのを感じていた。まるで激しい絶頂を重ねた雪乃の体をいたわるように、ゆっくりと前後される剛直の動きに、雪乃は自分が心底愛されていることを確信する。
(あぁ……紺崎くん……私も好きよ……大好き……!)
 愛しげに月彦の背中を撫でまわしながら、雪乃もまた想いを伝えるように舌を絡め、萎え知らずの剛直を意図的に締めつける。
(紺崎くんに言ってやりたいことが……いっぱいあった、のに……)
 それこそ、今回の旅行に関することだけで軽く100は数えられた不満が、胸の内側から沸々と沸き起こる愛しさによって悉く氷塊していく。今ならば、あれほど憎々しかった姉の所業すら許せそうなほどに、雪乃は満ち足りていた。
(……そうだ、お姉ちゃん!)
 ハッと、雪乃は姉の存在を思い出し、肝を冷やす。恐る恐る横目で姉のベッドのほうを見る――が、幸いまだ起きてはいないようで、矢紗美の姿勢は先ほどまでと全く変わっていなかった。
「……先生、あの……もう一回、いいですか?」
 たった今出したばかりだというのに、もう我慢できないとばかりの月彦の声に、雪乃は慌てて視線を月彦の方へと戻す。
「ま、待って……紺崎くん……こんなこと続けてたら、絶対お姉ちゃん起きちゃうから……」
「大丈夫ですよ。静かに、こっそりすれば」
「こ、こっそりって……さ、さっきもあんなにギシギシって……や、だめ……!」
 胸元をこね回そうとする月彦の手を、慌てて掴んで静止させる。“この段階”で止めないと、快感に流されて抵抗すらできなくなることを知っているからだ。
「わかりました。じゃあ、ベッドの外でヤれば、問題ないですよね?」
「それなら……」
 雪乃は頷く。月彦が場所を変えてくれるのなら、何の問題もない。
(私だって……本当はもっと、もっと紺崎くんとシたいんだから……)
 本当なら――自分の気持ちに素直になってよいのなら――それこそ「ねえ、エッチしよ?」と自ら月彦を押し倒し、服を脱がせてしまいたいくらいシたくてシたくて堪らなかったのだ。しかしそれは教育者として――なにより人として――どうなのかと。頭の中にある常識、良識が邪魔をして実行には移せなかった。
「あっ……」
 ぬろりと、剛直が引き抜かれる。それだけで雪乃は、大事な体の一部を失ってしまったかのような喪失感に襲われる。同時に感じる、耐え難いほどの“焦れ”。先ほどまで剛直と接していた部分が熱を帯び、痒みにも似た疼きを訴えてくる。
「ほら、先生?」
 月彦に手をとられ、ベッドから降りる雪乃の両目はもう、隆々とそそり立つ剛直に釘付けになっていた。



「ま、待って……紺崎くん! 場所を変えるんじゃなかったの!?」
「俺はベッドから降りましょうって言ったんですよ。ほら、先生?」
 月彦に促される形で、雪乃は半ば強引に寝室の壁に手を突かされる。それが意味するところなどわかりきっているのに、それでも雪乃は抵抗出来なかった。
「……俺、先生とこうして立ったままするの好きなんです。……凄く興奮します」
 ゾゾゾゾゾッ――月彦の言葉に、背筋が震えるほどに興奮する。教師として――否、良識ある大人として、叱りつけてでも止めさせなければならないのに。
「だ、だめ……おねがい、紺崎くん……止めて……」
 そんな言葉だけの拒絶をしながらも、雪乃は壁に手をつき、尻を差し出すように月彦の方へと向ける。先ほどたっぷりと中に出された精液が太ももを伝っていく感触に、思わず内股になりかけたところを――
「先生。挿れますよ?」
 そんな言葉とともに、剛直が突き入れられる。
「ハッ……ンッ……!」
 思わず声が出そうになってしまい、慌てて右手で口元を覆う。さらに二度、三度と突き上げられ、雪乃はバランスを思うようにとれず、やむなく右手で口元を覆ったまま左手は壁に腕ごと当てる形でかろうじて姿勢を保つ。
「あぁ……先生、すごくいい、です」
 嘆息交じりのような月彦の呟きが、そのまま本音であることが、腰帯の辺りを掴む手の力強さと、容赦なく突き上げてくる剛直の固さと反り具合からはっきりと分かる。
(や、やだ……これ、さっきより……)
 雪乃が肝を冷やしたのは“音”だ。確かにベッドを出たことで、ギシギシとベッドが軋む音からは開放された。が、代わりにびたんびたんと月彦の腰と尻肉がぶつかる音がこれでもかと寝室内に響き渡っているのだ。
(お、お姉ちゃん……起きてない、よね?)
 ハラハラしながら、雪乃は右側――矢紗美が寝ているベッドの方へと視線を向ける。こんなところを姉に見られでもした日には一生からかわれ続けるであろうことは想像に難くない。雪乃は何よりも、それを恐れた。
「……先生、そんなに矢紗美さんが気になりますか?」
 突然動きが止まり、被さるように抱きしめられる。
「あ……あたり、前……じゃない。もし、お姉ちゃんが起きちゃったら……」
「確かに……“後ろから”は俺も大好きですけど、さすがに音が響きすぎるかもしれませんね」
 ホッと安堵すると同時に、雪乃は言い知れぬ不安も感じていた。それは過去の経験から導き出された言わば条件反射のようなものだった。
「……それじゃあ、先生。こうしましょうか?」
「えっ……ちょ、や、やだっ……何す――」
 言うが早いか剛直を引き抜かれ、体の向きを変えられる。月彦と正面向かう形にされるや、片足を抱えあげられるようにして――
「や、ンッ……ンンンッ!!!」
 そのまま壁に背中を押しあてられる形で、挿入される。
「どう、ですか? これなら、さっきより、音も気にならないんじゃないですか?」
「そ、そうだけど……で、でも……これっっ……ンンッ!!!」
 “そう”じゃなくて、場所を変えてくれればいいのにという不満の声がたちまち喘ぎに変じかけて、雪乃は慌てて口元を覆った。
(あっ、あっ、あっ……だ、だめェェ……そんなふうに、突かれたら……!)
 抵抗できなくなっちゃう――ずん、ずんと子宮口を突き上げられながら、雪乃はのけぞるようにして後頭部を壁に押し当て、次第に快楽の虜となる。
「……異存はない、ということで……それじゃあ――」
 一瞬、月彦が意地の悪い笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。
「えっ」
 突然左足から地面の感覚が消え、ふわりと体が宙に浮いた――否、両足が、膝裏から抱えあげられたのだ。
「やっ……えっ、えぇ!? んっ……ンンッッ!!!!!」
 途端、ゾクゾクと悪寒にも似た快楽が背筋を走り抜け、雪乃は思わず声を上げてしまいそうになる。慌てて手で口元を抑えようとした矢先、今度は月彦が後ずさりをするように壁から離れてしまい、支えを失った雪乃は慌てて両手で月彦の首に掴まらなければならなかった。
「こ、紺崎くん!? ちょっ、これ……あぶないから!」
「先生がしっかり掴まってくれてたら大丈夫ですよ」
「で、でもぉ……あンっ!」
 ずんっ――軽く体を揺さぶられ、思わず甘い声を出してしまい、雪乃はハッと矢紗美の方を見る。
「くす、先生、ホント“これ”好きですよね。いきなり反応が変わりますもん」
「な、何言っっ…………だ、だめっ……こ、声っ、出ちゃう、からぁ……!」
 月彦の言う通りだった。幼いころから体重、体格にコンプレックスを感じてきた――その体を軽々と持ち上げる男の腕力に、雪乃は――自覚はなくとも、無意識のうちに――激しい興奮を覚えていた。
「っぉ……先生の、ナカ……すごく、うねってて……くぁぁ……」
 知らず知らずのうちに、両手で月彦に掴まったまま自ら腰をくねらせていた。
「い、いや……おねがい、止め、てェ……これっ……感じ過ぎちゃう……ぜったい、スゴい声でちゃう、からぁ……!」
 はぁはぁと、息が荒くなっているのが、自分でも分かる。尋常ではないほどに体が熱く火照り、天井知らずに感度が上がっていく。
「っ……ダメですよ、先生。すぐそばで矢紗美さんが寝てるんですから……ちゃんと我慢してくださいね………………くっ……ぅ……」
 精一杯平生を装い、冷静な口調にしようとしているものの、声が上ずるのが抑えられない――そんな月彦の声が、さらに雪乃を興奮させる。そう、“冷静にふるまえないくらい、感じている”のだと、いやでも伝わるからだ。
「はぁはぁ……が、がまん、なんて……あんっ! で、できる、わけ……あぁん! やっ……ほ、ホントに抑えられない、からぁ……紺崎、くぅん……おねがい……おねがい、だから……」
 言葉とは裏腹に、雪乃はこうして抱えあげられて突き上かれる快楽の虜となっていた。何度も、何度も恨めしい目つきで姉の方を見ながら、それでも喘ぐ声を止められない。
「だめっ、だめっ……ちょっ……ほんとにだめぇぇ! あっ、あっ、ぁっ……あっ! あっ! あっ! う、うそっ……こんなっ…………こんなっ、にっ……あっ、あっ……き、気持ちいい……あぁぁっ! あぁぁっ!」
「くすっ……先生、すごく可愛い顔になっちゃってますよ。そんなに気持ちいいんですか?」
「いいっ……いいのぉ……! はぁはぁ……すっごくイイ…………! はぁはぁ……気持ちいい……気持ちいい……キモチイイ……!」
 声を抑えなければいけない――それはわかっているのに、抑えられない。快楽にゆるみきった顔を月彦に見られたくないと思っていても、うっとりとした目で見上げずにはいられない。
「アッ! ああぁぁァッ!! あああアッ! やぁぁっ……だ、めぇっ……お姉ちゃん起きちゃうぅぅ……だめっ、だめっ……もっ、突かないでぇえ……!」
「あれ、止めていいんですか?」
 ぴたりと、月彦の動きが止まる。――やいなや、雪乃は半狂乱になって暴れた。
「だめっ、だめっ……止めないでぇ! キモチイイの、もっといっぱいシてぇ!」
 くすりと、月彦が笑みを一つ。そして雪乃の体を再び壁に押し付けるようにして――。
「あっっアーーーーーーッ! あァァーーーーーーーーッ!!! あああァーーーーーーーッ!!!!!」
 一度動きと止められ、焦らされたことが“反動”を生んだのか、先ほどまでとは比較にならない快楽の波に、雪乃は髪を振り乱し、狂ったように声を上げる。
「はぁっ……はぁっ……先生っ……そんなに、良いんですか? うれしい、です……俺もっっ…………!」
 ずんっ、ずんっ、ずんっ……ズンッ!!!
 壁に体を押し当てられ、一際深くまで剛直を挿入されて。
「ひンッ…………んっ、んんんんんんッ!!!!!!」
 月彦がキスをしてくればければ、それこそ旅館中に聞こえるほどの声で叫んでいたかもしれなかった。びゅぐり、びゅぐりと注ぎ込まれる、熱くねっとりと濃い精液の奔流に身震いしながら、雪乃は両手でしがみつくようにして月彦を抱きしめ続けた。



 どうやら、雪乃の中で何かがふっきれてしまったか、あるいは何かの一線を越えてしまったらしい。
「あっ、あっ、あっ……あぁぁ〜〜〜〜っ!!!」
 ベッドに腰かけている月彦に跨る形で自らグイグイと腰を振りながら、雪乃が鼻にかかった声を上げ、のけぞるようにしてイく。その姿はもはや一糸纏わぬ全裸であり、月彦共々矢紗美が目を覚まそうものならどうにも言い訳のしようのない状況だった。
 が、もはや雪乃の頭の中からは姉の存在は弾き出されてしまっているらしい――そうとしか思えないほどの、乱れっぷりだった。
「ンぁぁ……気持ちいい……気持ちいいの、止まらないのぉ……止めたくないのぉ……!」
 もはや雪乃は快楽のみを追い求めるケダモノと化してしまっていた。いくら雪乃のツボを突くとはいえ、立って雪乃を抱えたままのセックスはさすがに体力の消耗が激しく、小一時間ほど攻めた後ベッドへと腰を下ろした途端、今度は月彦が“食われる側”となった結果だった。
「あぁぁぁ……気持ちいい……! コレぇっ……コレ、すっごくいいのぉ!」
 甘えるように月彦の首に手をひっかけたまま、雪乃が腰をくねらせる。純朴な男子生徒が見たら思わず鼻血を吹きそうなほどにエロい女教師の腰つきに、月彦も歯を食いしばって絶頂を堪えなければならなかった。
(先生……よっぽど”溜まってた”んだな……)
 性欲だけではなく、鬱憤も。そうでなければ、いくらなんでもここまで乱れたりはしないだろう。
「あぁぁぁぁ! い、イくっ……イクっ!!! ああああーーーーーーーッ!!!!!!」
 雪乃が激しく腰を振りながらイき、体を震わせる。そのままはぁはぁと呼吸を整えるが、十秒と経たずに再び腰を振り始める。
「あっ……あっ……あっ……!」
 片手を月彦の肩へと引っかけたまま軽くのけぞり、雪乃は腰を使い続ける。
「あぁっ! あぁっ! あぁっ!」
 ぐっちゃにちゃと卑猥な音を寝室中に響かせながら。
「あぁぁ! あぁぁ! あーーーーーーっ! あーーーーーーっ!!」
 ぎりぎりと肩に爪を立てながら、雪乃が大きくのけぞり、イく。ぎゅぬ、ぎゅぬと激しく締め付けられるのを月彦は歯を食いしばって耐え、イき終わるやすぐさま雪乃が使い始める為気を抜く暇も無い。
「はーーーーっ…………はーーーーーっ…………はーーーーーーっ…………」
 ぐっちゃぐっちゅと卑猥な音を立てながら、雪乃が腰を使い続ける。そうして腰を動かしている間中、月彦はガン見と言っても差し支えないほどに、雪乃の視線を感じていた。
(う、わ……先生が……なんかすっごい見てくる…………)
 さながら、“私は今、紺崎くんとセックスしてるんだ”と自分自身に言い聞かせているかのような、すさまじい熱視線に、思わず月彦の方が顔を赤らめてしまいそうになる。
「んんっ……んっ……あっ……あぁあっ…………はぁはぁはぁ………………こん、ざきくん……あぁぁっ!!」
 “見るだけ”では満足できなくなったとばかりに――実際には、がっつり生セックスもしてるのだが――雪乃がすさまじい力で抱きついてくる。そのままほとんど雪乃に押し倒されるような形で、月彦は仰向けに寝かされ、
「紺崎くんっ……キスしよ? ねっ……キス、しよ?」
 返事をする間もなく、唇を奪われる。ねっとりとした紅色の舌が触手のように口の中へと侵入してきて、月彦は気圧されながらも自ら舌を絡めていく。
 そうしている間にも雪乃は腰を使い続け、五分、十分とキスを続けながら二度三度と立て続けに達しては喉奥で咽ぶように声を上げた。
「はぁっ……はぁっ……好きよ、紺崎くん……好き……好き……」
 唇を離した途端、今度は顔中にキスの雨が降ってくる。時折愛しげに髪を撫でられながらのキスの雨に、月彦はくすぐったくも抵抗する気も起きず、されるがままになる。
「好きっ……好きっ……好きっ……」
 だんだん、キスをされてるんだか顔を舐められてるんだかわからなくなる。雪乃も特に考えがあってのことではなく、興奮しすぎて“そうせずにはいられない”というだけなのだろう。
「ァはぁぁ……いいっ……いいっ! あぁぁぁぁあっ! イクッ……イクッ……イク……ッ!!」
 ほとんど密着したままぐりぐりと腰だけをくねらせながら、またしても雪乃が達する。
「あああああァァァァ………………!!!!」
 雪乃の手が這ってきたと思った時には、両手の手のひらを合わせる形でしっかりと指を絡め握りしめられていた。みしみしと骨が軋むほどの強い力に、雪乃の激しい情欲がそのまま伝わってくるかのようだった。
「はぁっ……はぁっ…………紺崎くんっ…………紺崎くんっ……!」
 膝をついた状態から、中腰へ。両手を握り合ったまま、雪乃が腰を――というよりも尻を浮かし、激しく叩きつけてくる。
「くぉっ……せ、先生っ……ちょっ……」
 激しすぎ――という言葉は、うわずった喘ぎへと変わった。それを聞いた雪乃が愉悦の笑みを浮かべたように見えたのは気のせいだろうか。
(て、手が外れないし……ちょっ、これ……逃げられないぞ……!)
 そういう形の金具で固定されているかのように、両腕がびくともしない。ベッドが激しく軋むほどの勢いで腰を叩きつけられ、わずかにあった余裕すらも消し飛ばされる。
「あんっ、あんっ、紺崎くんっ……あぁん! あぁぁっ…………あぁぁぁぁっ!!」
「せ、先生っっ…………!」
 射精――というよりは、搾精。月彦は腰を浮かせるようにして、雪乃の中へと撃ち放つ。
「あああぁぁあっ! あっ……熱い、のっ、出てっ…………あーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 射精を受けてケダモノのように雪乃は吠える。
「あっ、あっ、あっ…………もっと…………もっと、欲しい…………もっと、もっとぉ……!」
「せ、先生っ……ちょっ……そんな、すぐには……くぁぁ………………」
 腕をふりほどくことも出来ず、さらに二度、三度と。
 月彦は搾精されつづけるのだった。


 



  ……。
 …………。
 ………………。
 雪乃に上をとられたまま、二時間以上もの間一方的に攻められ続けた。それだけ長い間リードを許したのは、もちろん雪乃にならそうされてもいいと思ったからに他ならない。
「はーーーーっ………………はーーーーーっ………………はーーーっ…………ァ……ッ…………」
 さすがに疲労困憊したのか。雪乃は汗だくのまま力なく被さり、ぜえぜえと息を整えている。ずいぶん“溜まってた”みたいですね――そんな声をかけるべきか悩み、結局月彦は無言のまま雪乃の背へと手を回し、抱きしめるだけにとどめた。
「んぅ……」
 抱きしめられたことが嬉しかったのか、腕の中で雪乃がわずかに身じろぎし、鼻にかかった声を上げる。そのまま、互いの汗が混じり合うのを待つように無言で体を抱き合う。
「紺崎くぅん……」
 甘えるような声と共に雪乃が身を起こし、そのままキスをねだってくる。月彦も応じ、ちゅく、ちゅくと啄むようなキスを楽しんだ。
「ぁ、んっ……ふふっ、私の中、紺崎くんのでイッパイになっちゃった」
 そしてキスを終えるや、雪乃はどこか照れるように微笑んだ。
「スキンもつけてないのに、こんなに出しちゃダメでしょ?」
 めっ、とでも言うかのように、雪乃がこつんと額をぶつけてくる。
「そんなに私のこと、妊娠させたいの?」
「す、すみません……」
「だーめ、許さない」
 といいつつ、雪乃はキスを求めてくる。
「ちゅっ……んっ……もうっ……ほんと、悪い子なんだから…………ちゅっ……ちゅっ……」
 叱りたいのかキスをしたいのか判断のつかない雪乃の行動に、月彦は困惑気味に苦笑する。
「まだこんなに堅くして……そんなに“先生”としたかったの?」
「え、っと……はい……」
 恐縮気味に、月彦は頷く。
「先生としたくてしたくて……我慢出来ずに夜這いしちゃうくらい、したかったんです」
「ぁ…………っ……そ、そう……で、でも……ダメよ? 私と、紺崎くんは……その、一応……教師と生徒、なんだから……」
 先生としたくて我慢できなかった――やはりその言葉は、雪乃のツボを突くのだろう。あからさまに挙動不審になりながらも必死に“冷静な大人”を振る舞おうとする雪乃がもう、可愛く見えて仕方ない。
(こんだけがっつりヤった後で、“一応教師と生徒なんだからダメでしょ?”もないもんだ……)
 しかも、最初はともかく途中からは完全に雪乃の方が主導だっただけに、説得力など微塵も感じられなかった。
「紺崎くんの気持ちは嬉しいけど……だけど、その……ええと……」
「先生?」
「と、とにかく! 教師として、生徒の紺崎くんとは……その、なんていうか……だ、ダメなの!」
 一体全体何を言い出すのだろう――月彦は俄に首をかしげた。
(……いったい突然何を言うかと思えば……)
 どうやら雪乃にはなにか思惑があるらしい。それは解る。が、その意図するところが読めない。
「ぅぅ……だから、私は教師で、紺崎くんは生徒でしょ?」
「はい」
「なのに、紺崎くんは私とえっちなことしたいって思ってて、私も出来れば紺崎くんの気持ちには応えてあげたいって思ってるけど……でも、立場上それも出来なくって……」
 雪乃の顔が、みるみるうちに真っ赤に変わり、同時に声が聞き取れないほどに小さくなる。そんな雪乃の姿を見て、月彦は記憶の中に思い当たるものがあった。
(何だろう……この感じ……覚えがあるぞ……)
 そう、“これ”はまさしく、傑作ジョークのつもりで言ったものの相手に巧く伝わらず、赤面しながらここが笑うポイントだったんだと泣く泣く説明をせざるをえない“あの感じ”にそっくりなのだ。
 つまり。
(先生……ひょっとして――)
 突然強調され始めた“教師と生徒”という関係。
 立場上容認はできないけど、出来るだけ応えたいという意思表示。
(…………俺が、“そういうの”が好きだろうと思って――)
 “上”でたっぷりと楽しませてもらったから、今度は自分がサービスをしたい――そういうことだったのかと、ようやくにして月彦は合点がいった。
(先生……)
 きゅんと、胸の奥がうずく。
 もちろんそれは雪乃の勝手な思い込みで、実のところ紺崎月彦にはそういう“教師と生徒の禁断の関係”というようなシチュエーションに興奮するような性癖はない。無いが、そう思い込んでいる雪乃がわざわざ演出をしてくれようとしているということ自体が、胸の奥がうずくような感動を呼ぶ。
「きゃっ!?」
 突然雪乃が驚くような声を上げ、体を震わせる。
「えっ……えっ!? う、うそ……やだ……紺崎くん!?」
 下半身に血が集まるのを感じる。立て続けの射精にいささか硬度を失いつつあった剛直がギンギンにそそり立ち、さらに体積までもが二割ほど増す。どうやら雪乃は“それ”に戸惑っているようだった。
「……つまり、先生はこう言いたいわけですか? 俺と先生はあくまで生徒と教師だから……“こういうの”も今日これっきりにしたい、と」
「そ――……れは……ええと…………どうしてもダメっていうワケじゃ……」
 そこでダメだと言い切れないのが雪乃らしいと、月彦は思う。微笑を一つこぼして、月彦は雪乃の虚を突くように寝返りを打ち、“上と下”を入れ替える。
「あっ……こんざき、くん……?」
「そんなの、絶対嫌です。先生とこれきりなんて、耐えられません」
「ぁ……」
 今度は雪乃が瞳を潤ませながら、ぶるりと体を震わせる。
「今だって、先生としたくてしたくて堪らないのを毎日必死に我慢してるのに……これ以上我慢しろだなんて言うんですか?」
「ぁぅ……で、でも……こ、紺崎くんは生徒だし……そ、それに未成年、でしょ? こんなコト……しちゃ、ダメ、なの…………」
 はぁはぁ、ふぅふぅ。
 動いているわけでもないのに、雪乃は妙に息が荒い。
「……解りました。先生がどうしてもダメだって言うなら――」
「い、言うなら?」
 雪乃が、期待に濡れた目で見上げてくる。
「嫌がる先生を無理矢理抱いて、俺のモノにします」
「………………っ………………〜〜〜〜〜〜っっっ…………!!」
 たちまち雪乃は不自然に口元をこわばらせ、何かを堪えるように身じろぎをする。今だと言わんばかりに、月彦はゆっくりと抽送を開始する。
「やっ……だ、だめ…………今、は…………」
「ダメです、聞きません。…………無理矢理にでも先生を俺のモノにするって言ったじゃないですか」
「っっ……やっ…………!」
 先ほどまでの肉と肉を叩きつけ合うような激しいセックスではない。じっとりと熱を帯び、トロトロにほぐれた粘膜を優しく擦り上げるような、そんな動き。
「あぁぁっぁぁぁあっ……や、ぁ……だめっ……あぁぁっ……ゾクゾクって、くるっ……う!」
 雪乃がベッドシーツをかきむしり、握りしめながら身もだえする。その反応を見るに、明らかに先ほどまでの――鬱憤晴らしのように激しく腰を振っていた時の数倍は感じているようだった。
「あぁぁっ! あぁぁっ! だめっ、だめっ、だめっ……あぁっぁぁああっ……うそっ、うそ、うそうそこんなっっ……あぁああああァァァッ!!!!!
「う、わ……先生……ちょっ……っ……」
 唐突に雪乃が腰を持ち上げるようにしてイき、月彦は慌てて歯を食いしばって耐えねばならなかった。
「……そんなに“イイ”んですか?」
 脂汗を滲ませながらも平生を装い、抽送を再開する。
「あああァァ! あぁっ……ああーーーーーッ!!!」
 喘ぎながら、雪乃は目尻に涙を滲ませ、何度も頷く。
(…………先生、ホント好きなんだな…………“したい”って迫られるの)
 こんなに喜んでくれるのなら男冥利に尽きるというものだ。時折雪乃に“息継ぎ”をさせる意味もかねて腰の動きを緩め、たわわな胸元をもみくちゃにしながら、月彦もまた徐々に高みへと上っていく。
「先生、気持ちよすぎて……もう出ちゃいそうなんですけど」
 雪乃に被さるようにして突きながら、その耳元に囁く。
「このまま中で……いいですか?」
「っっ…………だ、だめっ……ナカ、はぁ…………!」
 何がダメなものか――思わず吹き出しそうになるような茶番だった。しかしこれも大事な手順の一つなのだ。
「お願いします、先生………………先生のナカで、イきたいんです」
 ぐりぐりと先端で子宮口をえぐるように刺激しながら、さらに囁きかける。剛直を締め付ける肉襞越しですら、雪乃がすさまじい興奮と快感に全身を震わせているのが伝わってくる。
「だ、だめっ……だめ、なのぉ……はぁはぁ…………だめっ、ナカはだめ…………絶対だめ…………」
 ぎゅっ。イヤイヤと首をふりながらも、雪乃は月彦の手をしっかりと握りしめてくる。月彦も握り返しながら――さらに腰を使う。
「先生のナカで出したいんです。いいって言ってください」
 さあ言え、中出しを受け入れろと言わんばかりに子宮口を突き、ぐりぐりと先端で擦り上げる。
「だ、だめっっ……………………やっ、ンッ…………〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!!」
 トドメのキス。ちゅくちゅくと雪乃の唾液をすすり上げながら舌を絡め合い、絡めながら腰を使う。
「ンぁぁぁっ……ぁぁぁっぁふっ……ぁふぅっ…………ぁふっ……んふぁっ……ぷぁっ…………ンンンッ!!!」
 キスの最中、何度も、何度も雪乃がイくのを剛直で感じる。その数が十を超えたところで、月彦はゆっくりと雪乃の唇から舌を引き抜いた。
「先生……いいですか?」
 もう、雪乃はダメとは言わなかった。潤んだ目で月彦を見上げながらうなずき、その両手を甘えるように月彦の首へとひっかけてくる。
「……じゃあ――」
 いきます――そう心の中でつぶやき、月彦はスパートをかける。単純に腰の動きを早めるだけではない。雪乃の弱い場所を擦り上げるように突きながら。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……!」
 はぁはぁと大きく息を弾ませ、胸元をたゆんたゆんと揺らしながら、雪乃が喘ぐ。
「あぁっ、あぁっ、あぁぁっ、あぁぁぁっ、あぁぁあああッ!!!!!」
 くいくいと、雪乃が自ら腰を使ってくるのがまたいじらしい。月彦を見上げるその目も、まるで何かのタイミングを計っているかのように真剣そのものだ。
(……あぁぁ……イくのを必死に我慢してる先生の顔……最高にエロいな……)
 雪乃の表情の中で、あるいは一番好きかもしれない。同時に、最も興奮をかきたてられる表情でもあった。
「先生っ……先生っ……先生っ……!」
 興奮が極みへと達し、月彦は夢中になって雪乃を求めた。猛りきった剛直の先端を子宮口へとぴったりと宛がい、そのまま――。
「先生っ、先生っ…………うぅぅッ………………!!」
「あぁぁああっ……! あっっ………………ーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!」
 射精と同時に、月彦は雪乃の体を力一杯抱きしめる。びゅぐり、びゅぐりと剛直が脈打ち、あまりの快楽に思わず声が出そうになる。
「ぁ、ぁっ、ぁっ……紺崎くんの、せーし…………出て、るぅ…………あんっ……」
 ぎゅうううっ――雪乃を抱きしめていた筈が、気がつくと抱きしめられていたのは自分の方だった――そう錯覚してしまいそうなほどに、力強い抱擁だった。
「あんっ……あんっ…………ま、まだ……出て……んぅっ…………だ、だめ……も……パンク、しちゃう…………」
 そう言いながらも、雪乃は離してくれる気は微塵もないようだった。月彦は仕方なく、動ける範囲で“マーキング”を行う。
「ぁっ、やんっ……だ、だめぇっ……まだ、動かないでぇ……!」
 余韻を楽しみたいということなのか、雪乃が動くなとばかりにさらに両手に力を込めてくる。
 ――が。
「…………すみません、先生…………その、まだ……全然足りなくって」
「え……? た、足りない…………って?」
「まだまだ、ヤり足りないんです」
 えっ――という顔のまま、雪乃が固まる。
「出したばっかりなのに、すっごいムラムラしてきて……もっと、もっと先生が欲しいってなっちゃってるんです」
 グググと、剛直をみなぎらせ、雪乃の中で反り返らせる。ひっ、と。雪乃がおびえるような声を上げた。
「そん、な……だって、さっき……あんなにいっぱい――」
「俺をこんなに興奮させたのは先生なんですから…………ちゃんと先生が責任をとってくださいね?」
「やっ……ま、待っっ…………あァァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 ………………。
 …………。
 ……。

 


「先生、やっぱりちょっと狭くないですか?」
「確かに狭いけど……でもしょうがないじゃない」
 ひょっとしたら一人で入っても窮屈ではないかという程に狭いユニットバスの中で、月彦は雪乃と密着し抱き合ったまま苦笑する。
「こうでもしないと、紺崎くんと一緒にお風呂入れないんだから」
「いや、まぁ……それはそうなんですけど……」
 一通り満足するまでヤった後、雪乃がこぼしたのだ。最後は一緒にゆっくりと風呂に入りたい――と。
「……でも、確かに紺崎くんの言う通り、これはちょっと狭すぎるわね。………………次は絶対家族風呂つきの宿にしなきゃ」
 次――雪乃のつぶやきに、月彦は執念めいたものを感じて背筋を寒くする。確かに何かと矢紗美に邪魔をされ、雪乃としては不満にまみれた旅行であったろうが、“それ”は先ほどの“アレ”で鬱憤を晴らしたのではなかったのか。
「あっ、違うのよ? 紺崎くんとのセックスが不満だったとかじゃなくって…………む、むしろ……その……すごく、良かったんだけど……」
 どうやら考えが顔に出てしまっていたらしい。慌てて雪乃がフォローを入れてくる。
「ええと、だからその……もっと、イチャイチャしたかったなぁ……って…………紺崎くんの為にいろいろ準備してたのに、お姉ちゃんのせいで台無しになっちゃったし」
「準備……って、何の準備ですか?」
「えっと……だから…………き、着替えとか、持って来てたの。…………紺崎くんが好きだって言ってくれた…………その、スーツ、とか」
「そうだったんですか……すみません、俺、全然気づかなくって」
 確かに、スーツ姿の雪乃にムラムラする――そんな話をしたことはあった。だからといって、旅行先にわざわざ着替えのスーツを持ってくる雪乃のことがいじらしくて堪らない。
(そこでメイド服だとかチャイナドレスだとかを選ばずに、律儀にスーツ持ってくるのが良くも悪くも先生だよなぁ……)
 こういうのは好き?――ではなく。これが好きって言ってくれたよね?――そう行動するのが、雪乃と矢紗美の違いであるとも言える。どちらが正解という話ではない、単純に、純粋にその心遣いが嬉しいと感じる。
(てことは……俺も――)
 してもらってばかりというのは何とも心苦しい。雪乃がそこまで心を砕いてくれているのならば、同様に雪乃を楽しませてお返しをしてやらねばならないのではないか。
(先生が喜びそうなこと――)
 それはやはり、“イチャイチャ”だろう。普段ならば少なからずめんどくさいと感じてしまうそれすらも、今この時に至っては雪乃の為ならばという気にさせられる。
「えっ……きゃんっ」
 雪乃の背へと回していた手を背骨に沿って這わせ、後頭部へと回す。そのまま優しくなで回しながら、頬へキス。啄むように音を立てながら耳へと。
「やだっ……ちょっ、くすぐった――……ンっ……」
 思わず笑い声を漏らしながら身じろぎをする雪乃の耳をさらに舐め、同時に首、肩、脇のあたりをくすぐるように触る。きゃあきゃあと声を上げながら雪乃が激しく体をくねらせ、もう怒ったわよとばかりに今度は雪乃の方からくすぐられる。
 狭い湯船の中で二人、ほとんど悲鳴のような笑い声を上げながら上になったり下になったり。腹筋がつりそうになるほどにくすぐりあった後はもう湯船のお湯がほとんど流れ出してしまっていて、ぜえぜえと呼吸を整えながら再度湯を貯めていると。
「紺崎くん、ほら」
 と、雪乃に手首を掴まれ、胸元へと誘われる。
「今日はまだあんまり触ってないでしょ?」
 そんなことはない――などとは、紺崎月彦という男はけっして口にしない。両手のひらでしっかりと包み込むように優しく揉み、捏ねる。
「あンっ……んっ……んっ……」
 雪乃の息使いが変わる。
「んっ……んんっ…………ぁふっ……んっ……」
 胸を揉まれながら、雪乃が徐々に身を起こす。大きく肩をゆらして息をしながら、うっとりと濡れた目で見下ろしてくる。
「ぁんっ……んっ……」
 雪乃の熱っぽい視線に晒されながら、月彦はさらにもっぎゅもっぎゅとこね回す。
「んぁっ……ちゃ、……ちゃんと、覚えるのよ?」
「覚える……?」
 雪乃の手が、再び月彦の手首を掴む。そして、自らの胸に押しつけるように力を込めてくる。
「“これ”が、紺崎くんの為のおっぱいなんだから。……おっぱいに触りたくなったら、私の――……せ、“先生のおっぱい”を触りなさい」
 何故そこでわざわざ“先生の”と言い直したのかと首をひねりかけて、おそらく雪乃の中では“その方が効果が高い”と判断されたのだと納得する。
「…………二度と、お姉ちゃんや月島さんのおっぱいに見とれたりなんかしちゃダメだからね?」
「す、すみません……」
「あンっ……もうっ、謝るときも揉みっぱなしだなんて…………でも、そんな紺崎くんも好きよ?」
 苦笑、そしてキス。
 雪乃の求めるままにキス以上愛撫未満なイチャイチャに興じる月彦だった。



 とろける程に甘い、桃源郷のようなひとときは時の流れを忘れさせる。が、いつまでも忘れたままでいられないのが人の世の世知辛さ。
「…………あの、先生……そろそろ出ないとまずいんじゃ……」
 そう考え始めてから小一時間の間、月彦は我慢した。この甘く楽しい時間を確実に終わらせることになる一言に遠慮し、できれば雪乃の方から切り出してはくれないかと期待して待ち続けた。
 が、肝心の雪乃の方にはそのそぶりが全く無く、それこそ自宅デートとでも勘違いしているかのようにすら見え、やむなく切り出したのだった。
「あっ……」
 と、頬を赤らめ、緩みきったデレ顔になっていた雪乃がたちまち青ざめ、凍り付いた。
「こ、紺崎くん……今、何時か解る!?」
「いえ…………多分六時過ぎか七時くらいじゃないかと……」
 浴室内には時計が無い為、体内時計で判断するしかないが、おそらく八時は過ぎていないだろう。
「…………お姉ちゃん、起きてるかしら」
「どう、でしょうか」
「ていうか、私……隣でお姉ちゃんが寝てるのに……あんな………………っっっ……」
「あぁ、スゴかったですね。矢紗美さんが起きちゃうんじゃないかって、俺の方がヒヤヒヤし――」
「紺崎くんのせいでしょ! ばかぁ!」
 キィィン――耳元で怒鳴りつけられ、月彦はしばしの間聴力を失った。
「あぁぁ……もしお姉ちゃんに聞かれてたら…………」
「で――でも、矢紗美さん酔いつぶれてたんですよね?」
 月彦が思い出したのは、矢紗美と初めて関係を持つことになった夜のことだ。今回の矢紗美同様、苦手な酒を口にして眠り込んだ雪乃は朝までぐっすり。それこそ“その間に起きたコト”については何も知らなかった。
 故に、矢紗美も同じではないかと、月彦は判断したのだが。
「多分大丈夫だと思うけど…………」
「それに、矢紗美さんは俺と先生の関係を知ってるわけですし……もし起きてたとしても……」
「嫌ッ、そんなの絶対にイヤ! もしお姉ちゃんに聞かれてたりしたら、もう死ぬしか…………」
「お、大げさですって! そんな………………まぁ、確かに、昨夜の先生の乱れ方はちょっと凄かったですけど」
 ああああぁ……――雪乃が、湯気が出そうなほどに顔を真っ赤にする。
「だって、だってだってだって…………ずっと、紺崎くんとしたくて……したくてしたくて爆発しちゃいそうだった時に、夜這いなんかされたから……あぁぁぁぁぁぁぁ……」
「わ、わ……ちょっ、先生! 泣くことないじゃないですか! 大丈夫ですって!」
 どうやら雪乃にとって、矢紗美に“乱れた自分を見られる(聞かれる)”というのは死を覚悟せざるをえないほどの恥辱であるらしい。自分が考えていたよりも遙かに事態を重く考える雪乃に、月彦は慌てて雪乃をなだめにかかる。
「ううぅ……とにかく、私が先に出て、お姉ちゃんの様子を見てくるから……紺崎くんはちょっと待ってて。もしお姉ちゃんがもう起きてたら私が巧く注意をそらすから、その隙に紺崎くんは隣の部屋に戻って」
「わ、わかりました……」
 とはいえ、月彦は雪乃ほど事態を重くは考えていなかった。雪乃に比べてなんだかんだで大人な矢紗美であれば、仮に昨夜目を覚ましていたとしても空気を読んで目が覚めていないフリくらいはしてくれるだろうからだ。
(……前の時と違って、矢紗美さんの目の前で先生としたいって帰ったわけじゃないし……)
 最悪、次に矢紗美と二人きりになった時に詰られるくらいだろうと。雪乃が体にバスタオルを巻いて浴室を出て行った後、若干広くなった湯船で大分水位の下がった湯に体を埋めながら、月彦は疲れ切った体を休めていた。
 矢先、その脳裏に電光のように金色の人影がほとばしった。
「あっ……そうだ! レミちゃんが……!!」
 今の今まですっかり失念していたレミのことを思い出すなり、月彦は立ち上がり、大急ぎで浴室から飛び出した。
 ――が。
「えっ」
 ごろんっ。浴室から飛び出すなり、足の裏で何かが動いた思った時には、ぐらりと視界が回転していた。床に転がっていた酒瓶を踏んでしまったのだと知った時はもう後の祭り。
 どんがらがっしゃーんと全裸のまま散乱した酒瓶に埋もれながら、月彦は今更ながらに母の忠告を思い出すのだった。


 右肩脱臼、右手首捻挫。全治2週間。
 それが母、葛葉の忠告を守らなかった結果――代償というべきか――だった。
「ごめんね、紺崎くん。先に出た私がちゃんと足下を片付けてたら……」
「いえ、酒瓶がそこら中に転がってたのは俺も知ってましたし、そもそも慌てて飛び出さなきゃ転ぶことも無かったわけで……完全に自業自得です」
 さらに言うなら、転んでも右手に全体重がかかるような着地の仕方さえしなければ負傷することも無かったのだ。
 誰のせいでもない、完全に自業自得だった。
「そういえば、先生の方は大丈夫だったんですか?」
「あ、うん……お姉ちゃんはまだ寝てたみたいだったけど……」
 悲鳴を聞いて駆けつけた雪乃に近場の――といっても、車で三十分近くかかったが――救急病院へと連れてきてもらったのだ。自分の痛みよりも、すっかり色を無くした雪乃が事故を起こす方が心配でしきりに大丈夫だと言い続けていたがその実、脂汗が滲むのを止められなかった。
(なんか……スピードメーターが法定速度の二倍以上の数字をさしてたように見えたんだけど……多分、痛みで意識が朦朧としてたからそう見えたんだろう……)
 三角巾で釣った右手へと視線を落とす。ちなみに治療費は雪乃が出した。自分で払えると言ったら、思わず後ずさりするほどの剣幕で怒鳴りつけられた為、好意に甘えざるを得なかったのだ。
「あの……これ本当に俺の不注意が原因ですから、あんまり気に病まないで下さいね?」 
「……そういうわけにはいかないわ。私が旅行に誘ったんだもの……それに教師として生徒を無事帰宅させる義務もあるんだから」
「修学旅行とか、学校の行事ならそうなんでしょうけど……今回のは完全にただの旅行ですし……本当に俺の不注意が原因ですから」
「でも……」
「医者にも二週間もあれば治るって言われましたし、本当に気にしないで下さい。先生がそうやって落ち込んでる方が、俺は自分の痛みよりも辛いですから」
 雪乃に気に病んで欲しくない――というのも、無論ある。あるが、それよりなにより月彦は“ご両親に謝罪”という展開を最も恐れた。
「紺崎くん……」
 が、雪乃はといえば月彦の言葉に感じ入るようにじーんと目尻に涙まで浮かべている。そんなつもりはなかったのだが、結果的に雪乃を騙したような形になってしまい、月彦は二重の申し訳なさにまともに雪乃の方を見ることが出来なかった。
「あっ」
 むーっ、むーっとうなるような音が聞こえたと思った時には、雪乃が路肩に車を停めていた。
「お姉ちゃんからだわ」
 どうやらスマホの着信だったらしい。「さっき治療中にメールだけはしといたの」と短く言って、雪乃はスマホを耳に当てる。
「もしもし? うん、今戻ってるところ。多分二十分くらいで――……うん、うん。わかったわ。じゃあ、紺崎くんと何か食べてから戻るから……うん、わかってるわよ。お姉ちゃんこそ……じゃあもう切るわよ?」
 雪乃が通話を切る。ほっとため息をついたように見えたのは、気のせいだろうか。
「お姉ちゃんたちもう朝ご飯済ませちゃったんだって。だから私たちも途中で何か食べてから戻りましょ」
「あの、矢紗美さんから、だったんですよね? 月島さんたちのことで何か言ってませんでした?」
「特に何も言ってなかったと思うけど…………どうかしたの?」
「ええと……実は――」
 月彦はしぶしぶ、昨夜の出来事を話した。トイレの中にいるレミを怖がらせ、おそらく失神させてしまったこと。その件について相談するために雪乃たちの部屋を訪ねたことを。
「ふぅん……じゃあ、紺崎くんは初めから夜這いのつもりで来たんじゃなかったのね」
「それは……はい。酔いつぶれてる先生と矢紗美さんをベッドに運んでたら……その……ムラムラと……」
 むむむと、雪乃がたちまち表情を曇らせる。どうやら最初から夜這いのつもりではなく、偶発的な夜這いだったというのが不満らしい。
「…………そういうことなら、私はレミちゃんに感謝しないといけないのかしら」
「そ――う……なるんでしょうか?」
「だって、レミちゃんが失神しなかったら、紺崎くんは私の部屋に来なかったわけでしょ?」
「それは……ちょっと、わからないですけど…………ええと、やっぱり先生としたくて我慢できなくなって、夜中にこっそり部屋を抜け出した可能性もありますし……」
「…………まぁ、いいわ。紺崎くんがセックスしたいって思って、月島さんでもレミちゃんでも、お姉ちゃんでもなく。ちゃんと私のところに来てくれたんだから、細かいところは全部目をつむってあげる」
 だけどね、紺崎くん?――車を発進させながら、雪乃は横目で月彦を見ながら、続ける。
「……今度は、最初から夜這いをするつもりで、私の部屋を訪ねて来てくれてもいいんだからね? …………合い鍵を渡してある意味、解るでしょ?」
「は、はい……」
 どうやら雪乃は夜這いがよほど嬉しかったらしい――機会があれば実践してみようと、月彦は腕の痛みも忘れて妄想を膨らませるのだった。


 朝食はハンバーガーで簡単に済ませ――箸やスプーンを使わない食事が良いと、雪乃にリクエストした――旅館に戻ると、すでに矢紗美とラミ、レミの三人が駐車場で待っていた。
「おかえりなさい、二人とも。朝のドライブは楽しかった?」
 にっこり。
 いつになく満面の笑みの矢紗美に迎えられ、月彦も、そして雪乃もうっ、と身構える。
「ちょっと早いけど、チェックアウトは済ませといたわ。二人の荷物はそこね」
「あ――ありがとうございます、矢紗美さん。……月島さん、レミちゃんも……よかった、無事だったんだね?」
「無事……?」
 レミがきょとんとしたように呆け、あっ、とばかりに顔を赤らめた。
「思い出した! 昨日のアレ、ぶちょーさんが悪戯してたんでしょ! レミ気づいたんだから!」
「ご、ごめん……レミちゃんがあんまり怖がるから、つい調子にのっちゃって……ん? 月島さん?」
 なにやら言いたいことがあるらしいラビに耳を貸すと、ごにょごにょと“昨夜の顛末”が耳打ちされる。
「なになに……いきなりレミちゃんが布団に潜り込んできて……怖くて一人じゃ寝られないから一緒に――?」
「こらーーーーーー! おねーちゃん! ぶちょーさんにはヒミツにしてって言ったでしょ!」
 きゃっ、と。ラビが大げさな声を上げて逃げ、ぷんすかと顔を赤くしたレミがそれを追いかけていく。やれやれ本当に仲が良い姉妹だとほっこりしている月彦の足下に、不審な影が差したのはそのときだ。
「紺崎クン。手、大丈夫?」
「……ええ、ちょっと痛みますけど、痛み止めももらいましたし、動かさなければそんなには……」
「そう。まあ、でも別にいいわよね、それくらい。…………昨夜はずいぶんお楽しみだったみたいだし」
 んな、と。絶句したのは月彦だけではなかった。
「お、おね……お姉ちゃん……もしかして…………起きてた、の?」
 あわわ、あわわと。見ていて気の毒なほどに雪乃は顔色を無くしていた。ふっ、と。そんな妹を矢紗美は鼻で笑い飛ばす。
「あーのーねえ、二人とも。ヤるなとは言わないけど、せめて後始末くらいきちんとしてくれない?」
「うっ……」
「朝起きたら隣のベッドがしっちゃかめっちゃかになってるし、部屋中に転がってる酒瓶の臭いでもごまかしが効かないくらい“残り香”は凄いし。一体誰が、このクソ寒い中窓を全開にして換気しながら掃除したと思ってるのかしら?」
「そ、それは……紺崎くんが怪我しちゃったから……慌ててて……」
「月島さん達も紺崎クンが居ないって大騒ぎだったし、誤魔化すの大変だったんだから。………………ま、でもその代わり会計は全部あんたのカードで済ませてもらったから。別にいいわよね? 多分月末、ちょっと引くくらいの金額引き落とされると思うけど。楽しんだんだからいいわよね?」
「な……ちょ、ちょっと待ってよ! 私、クリュグの代金も払わなきゃいけないのに…………そもそも、どうしてお姉ちゃんが私のカードを……」
「昨日の夜、あんたがトイレ行ってる隙に抜いといた」
 ぴ、と指に挟んだカードを見せびらかす矢紗美。シャケ取りをするクマのような手つきで、雪乃が奪い返す。
「ゆ、油断も隙もないんだから……てゆーか、前に悪用された後、暗証番号も変えたのに……どうして」
「ダメじゃない雪乃。パスワードとかそういうのは生年月日使っちゃダメだって、常識でしょ?」
 かああ、と顔を真っ赤にする雪乃。矢紗美はニヤニヤと口の端をつり上げ、どこかの性悪狐のように意地の悪い笑みを浮かべる。
「あ、ちなみに紺崎クンの誕生日は月島さんが知ってたわ」
「へ……? お、俺のっ!? なんで月島さんが……」
「さぁ? なんか占いに必要だからとか言ってたみたいだけど」
 そういえば、ラビは占いが趣味だと聞いた気がする。
「前のが自分の誕生日だったから、今度は紺崎クンのじゃないかしらって思ったらホントにそうなんだもの。ほんっと雪乃ってば解りやすい性格してるわよね」
「ぐぅぅ……と、とにかく半分はお姉ちゃんが払ってよ! そういう約束――」
「あっ、そーそー。そういえば雪乃、後片付けしてて使用済みのスキンが一つも見当たらなかったんだけど、出す時はどう処理したの? まさか全部“口に出して”じゃないわよね? それともひょっとして何もつけずに――」
 ぽん、と。白々しく手を打つ矢紗美に、雪乃はたちまち悲鳴を上げた。
「いーーーーーーーーーーーーやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー! 聞きたくない聞きたくない聞きたくない!」
 雪乃は両手で耳をふさぎ、わぁわぁと大声を上げながら矢紗美に背を向けてしまう。
顔は熟したリンゴのように真っ赤で、目尻にはあふれんばかりの涙が溜まっている。これではカードの無断使用についての追求など不可能だろう。
(……こんだけ恥ずかしがってくれるんだから、矢紗美さんもからかってて楽しいだろうなぁ……)
 矢紗美の隣でヤろうなどと言い出した手前、雪乃に対して申し訳ないと思う反面、顔を真っ赤にしてイヤイヤをする雪乃を可愛いとも思ってしまう。
「ま、まぁ……矢紗美さん。先生もちゃんと解ってると思いますからその辺で……」
「あら、紺崎クン。ねえ、折角だから一つだけ聞かせて? セックス、気持ちよかった?」
 さりげなく助け船を出した矢先、矢紗美はくるりと月彦の方へと向き直る。満面の笑顔のまま。
「えと……は、はは……そういうのは、あんまり人に言うことじゃないっていうか……」
「ふぅん、言葉を濁すってことは正直イマイチだったんだ?」
 わざと雪乃の耳にも届くように、矢紗美が声を強めて言った為、月彦はそれ以上の声で否定しなければならなかった。
「そ、そんなことないですって! ……も、もちろん……き、気持ちよかったですよ……」
 ぐぅぅと、今度は月彦が赤面する版だった。
「ていうか矢紗美さん! この話題ヤバすぎますって! もし月島さん達に聞かれたら――」
「大丈夫じゃない? だって、ほら」
 ぴっ、と矢紗美が駐車場の片隅を指さす。
「…………わぁ」
 指さされた先を見るなり、ついそんな声が漏れてしまう。駐車場の隅に寄せられた雪を使い、夢中になって雪だるまを作る月島姉妹の姿に月彦は思わずほっこりと笑顔を漏らす。
(さっきまで追いかけっこしてたのに……)
 この仲の良さを雛森姉妹も見習ってはくれないものか。つい、ため息混じりにそんなことを考える月彦の足下に、ずずいと矢紗美の影が差す。
「ほらほら、紺崎クン。ついでに教えて? 昨夜は何回くらいシたの? 後片付けをした身として言わせてもらうけど、一回や二回じゃああはならないと思うのよねぇ?」
「ちょ、ちょっともう……矢紗美さん、勘弁してください!」
 ニヤニヤ顔で詰め寄ってくる矢紗美から逃げるように後退りながら、月彦はちらりと助けを求めるように雪乃の方に視線を向ける。が、雪乃はといえば鬼気迫る表情で一心不乱に自分のスマホを操作しており、月彦と矢紗美のやりとりすらも耳には届いていないようだった。
「せ、先生……? 何を……」
 矢紗美に背を向けるようにして、そっとスマホの画面をのぞき込む。なにやら見覚えのある検索サイトのテキストボックスに“頭を殴る”、“記憶が消える”といった単語が打ち込まれているのを見るなり、月彦はたちまち肝を冷やした。
「せ、先生! ダメですって! 気を確かに!」
「……大丈夫、紺崎くん。私は正気よ」
「それは正気じゃない人が言う台詞です! とにかく落ち着いてください!」
 そういえば初日にも似たようなやりとりをしたことを、月彦は思い出した。
「ほら、先生、深呼吸しましょう。大丈夫、人の噂も七十五日って言いますから……」
 恥ずかしいのは俺も一緒ですからと、雪乃に共感を抱かせることで全身にみなぎっている殺意を萎えさせていく。
「先生、こう考えましょう。シたことはばれちゃいましたけど、直に見られたり聞かれたりするのに比べたらまだマシじゃないですか」
「…………確かに、そうね」
 うんと雪乃が頷く。
「紺崎くんの言う通りだわ。お姉ちゃんにシてる所見られたりするのに比べたらまだ――」
『ダメェーオネエチャンオキチャウー』
 そんな人を小馬鹿にしたような“声”が聞こえた瞬間、ぴたりと雪乃の動きが止まった。
「あら珍しい。後輩からメールだわ」
 すっとぼけたような矢紗美の声に続いて、さらに。
『ダメェーオネエチャンオキチャウー』
 間違い無く矢紗美のスマホから発せられたその“声”に、月彦は色を無くし青ざめる。目の前の雪乃などは赤面を通り越し、見た事も無い顔色と表情になってしまっていた。
「あれ、どうしたの? 二人とも変な顔しちゃって。特に雪乃、なんか顔がおもしろい色になってるわよ? 大丈夫?」
「お、お、お……おね、おおおねねねねねえちゃ…………い、いまの……なに?」
「何って……新しいメール着信音だけど」
 矢紗美がスマホをいじると、再度『ダメェーオネエチャンオキチャウー』と人を小馬鹿にしたような声が聞こえ、同時に雪乃が頭を抱えてかぶりを降りながら雄叫びを上げる。
「せ、先生!? …………や、矢紗美さん、まさか……」
「えっ、まさか二人とも……起きないと思ってた? すぐ隣であんなギシギシアンアンやっといて、ケダモノみたいな声あげまくって、私が起きないと本気で思ってた?」
「い、いやっ……うそ……嘘よっ、そんな…………」
「私もまさかいきなり隣で始められるとは思わなかったからさー。何にも準備が無くって、スマホで録るくらいしか出来なくって。……ほら、動画撮影もしようとしたんだけど、こっちは真っ黒」
「なっ、録っ…………け、消してよ!」
 電光石火。雪乃のシャケ取りパンチを、矢紗美が軽やかにバックステップでかわす。
『ダメェーオネエチャンオキチャウー』
 そして挑発するように、スマホをぽちる。たちまち、雪乃が恐竜のような叫び声を上げた。
「ふふっ……てゆーかさ、薄々そうなんじゃないかなぁとは思ってたけど、あんた達ってやっぱりベッドの中でも“先生”と“紺崎くん”なのね。ヤることはがっつりヤってるくせに、変なところで奥手っていうか、ウブなセックスを聞かされてこっちが赤面しちゃったわよ」
「なっ、なっ、なっなっ……ふぐっ、うううううう!!!」
 何か反論をしたいのだろうが、言葉が出ない――矢紗美を指さし、涙目になりながらうなり声しか出せない雪乃を助けてやりたいが、月彦にも矢紗美に抗う術が見つからない。
「おまけにアレでしょ? なんだっけ、”私たちは教師と生徒なんだから……”だっけ? 笑いを堪えるのが大変だったんだから」
「っっっ――――っ……!!」
「ねえ雪乃、あんたってそういう“禁断の関係”みたいなのが好きなわけ? それとも紺崎クンのリクエスト? どっちでもいいけどさぁ、次からはそういうのは周りに誰も居ないところでこっそりやってくんない?」
「あぐぁ、ぐ、う、う、う、う……あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっッッ!!!!!!!!!!」
 それはもう、断末魔と言っても差し支えない雄叫びだった。セックスの内容をがっつり姉に聞かれた上、あげくダメ出しまでされるという羞恥が許容量を振り切り、炉心融解を起こしてしまったのだ。
「もーほんと、“私はつい最近まで処女でした”って丸出しの恥ずかしいセックスを聞かされて――」
 それは明らかな油断だった。自我崩壊しかねない羞恥の渦の中で身もだえすることしか出来ない妹を愉悦の笑みで見下ろしながら、よりいたぶるにはどうすればいいかということしか考えていなかった矢紗美の、明らかな油断だった。
 そう、今更雪乃からの反撃があるとは毛ほども思っていなかったのだろう。瞬きの一瞬のうちに雪乃は矢紗美との距離を詰めるや、先ほど失敗したシャケ取りパンチで――正確には拳は握っていないからパンチではないのだが――その手に握られていたスマホの強奪に成功する。
「あっ、こら! 返――」
 矢紗美が言い終わる間もなく、雪乃は足下にスマホを叩きつける。
「あーーーーーーーーーーーッ! ちょっ、雪乃あんたなにす」
 アスファルトの上へと叩きつけられたスマホがバウンドし、再び着地するよりも早く、雪乃の足が踏みつける。
 何度も。
 何度も何度も何度も。
「だめっ、だめっ待って、それ先週買い換えたばかり……」
 悲痛な矢紗美の声などまるで無視して、羞恥の大魔神と化した雪乃はさんざんに踏みつけた後、ぼろぼろになったスマホを拾い上げるやそのまま力任せにぐしゃりと握りつぶしてしまった。
「あーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 一体全体どれほどの握力があればそんなことが出来るのか。火事場で三階のベランダから飛んだ三歳児を母親が両手で無事に受け止めたという話を、月彦は不意に思い出していた。
 そう、“これ”は雪乃にとっての火事場なのだ。そうでなければ、いくら雪乃の体格とはいえ女の力で携帯を握りつぶすなんてことは――。
「ふーーーーっ! ふーーーーーっ! ふーーーーーっ………………う、あ、あ、…………あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 雪乃は粉々になったスマホの残骸をさらに入念に踏みつぶした後、幼児が泣くような声を上げて自分の荷物を拾い上げ車へと乗り込むやすさまじい勢いで走り去ってしまった。
 遅れて、へなへなと魂のささえを失ったかのように矢紗美がその場にへたりこむ。見れば、雪だるまを作っていた月島姉妹も何事かと、手を止めたまま目を丸くしていた。
(…………もし、先生に矢紗美さんとのことがバレたら……)
 粉々になった矢紗美のスマホの残骸に、自分の未来を重ねて肝を冷やす月彦だった。


「…………それじゃあ出発するけど、みんな忘れ物とかは無いわね?」
「大丈夫です」
「はーい、レミ大丈夫でーす」
「だ、大丈夫、です!」
「りょーかい。シートベルトはちゃんと締めててね」
 慌てて後部座席のレミとラビがシートベルトをつけ始める。苦笑して、矢紗美がアクセルを踏み込み、車はゆっくりと駐車場を後にする。
 ほとんど逃げるように雪乃が車で走り去った後、小一時間ほどは待った。が、どうやら戻ってくる気配がないということで、スマホを破壊されて若干テンションの下がった矢紗美に先導される形で帰途につくことになったわけだが。
(…………先生、大丈夫かな。事故とか起こしてなきゃいいけど)
 止めるべきだったのかもしれないが、さすがに右手がこの状態では難しかった。否、仮に両手が万全の状態であったとしても、あのラッセル車のようにパワフルな雪乃の暴走を止められるとは思えなかった。
「ねえねえぶちょーさん、その手どうしたの?」
「あぁ、これは……ちょっと転んで……」
「折れてはないんでしょ?」
「はい。手首の捻挫と、あと肩の脱臼ですから、まあ安静にしてれば大丈夫です」
「うわぁ……脱臼ってめちゃくちゃ痛いんでしょ? レミなったことないけど、すっごく痛いって聞いた事ある!」
「そうだね、なった時も痛かったけど病院で外れた骨をはめてもらうときが死ぬかと思うくらい痛かったよ」
「わぁぁ…………あれ、でもぶちょーさん、昨日の夜までは手怪我してなかったよね?」
 ぎくり。
 レミの鋭い指摘に、月彦は俄に口元を引きつらせる。ちらりと横目で見れば、矢紗美はすでにニヤニヤと笑みを浮かべていた。
(や、矢紗美さん……誤魔化してくれたんじゃ……)
 おそらく何らかの言い訳はしてくれているのだろうが、矢紗美がなんと言ったかが解らない為、下手に弁解をするわけにはいかない。
「あ、あれ……? 矢紗美さんが事情を説明してくれたんじゃ……」
 ちらりと横目で矢紗美に助けを求める――が、矢紗美は口元にかすかに笑みを浮かべたまま黙ってフロントガラスの先を見つめている。どうやら助け船を出す気はないらしい。
「ぶちょーさんが手怪我して、雛森せんせーと一緒に病院に行ったって話は聞いたけど……」
「そ、そうだったんだ……。これは、ええと……昨日の夜、レミちゃんがトイレで失神しちゃった後、先生に相談しにいったら酔っ払った先生に絡まれちゃって――」
「そのまま朝までエッチしちゃったのよねー?」
「な、なななななななにを言うんですか矢紗美さん! レミちゃん達が本気にしたらどうするんですか! 冗談でも止めてください! だ、だいたい部屋には矢紗美さんも居たんですし、そんなこと出来るわけないじゃないですか!」
「えー? でも私は酔いつぶれてたしぃー?」
「ちょっ、矢紗美さん! ほんと、お願いですから!」
 きわどい冗談は止めてくれと、月彦は必死に目配せをする。
「と、とにかくそんなこんなで朝方やっと先生が寝てくれて、やっと部屋に戻れると思って立ち上がったところでうっかり酒瓶を踏んじゃって……」
「きっと天罰ね」
 ぼそりと、月彦にだけ聞こえる声で、矢紗美がつぶやく。その一言が、おそらくは矢紗美の思惑以上に、針のように心臓へと突き刺さった。
「と、ところで……レミちゃん達は旅行どうだった?」
「うん! レミはね、すっごく楽しかったよ! 温泉旅行なんて初めてだったもん! ね、おねーちゃん」
 レミにふられて、ラビがうんうんとうなずき返す。
「スキー、もっと……したかった……」
 そしてぽつりと、残念そうに呟く。
「月島さん、一日ですっごい滑れるようになってたしね。…………二日目もスキーが出来れば良かったんだけど」
 はて、やはりアレは自分と雪乃が潰したということになるのだろうか――しかし全会一致でスキーより温泉がいいとなって追ってきたのではなかったか。
(いや待てよ、ひょっとしていつもの――)
 ラビの意見をレミがねじ伏せ、無理矢理賛同という形にしたのではないか。“怖い人形の件”しかり、レミにはそういうところがあるということを知った今となっては、そういうこともあり得ると思える。
「レミちゃん達さえよかったら、時々なら私が連れて行ってあげる。……次からは雪乃は誘わなくていいかもしれないわね」
「矢紗美さん、それはちょっと先生に悪いんじゃ……」
「あら、そう? 今回の旅行だって、あの子が一人和を乱さなければもっと楽しい旅行になったと思わない?」
「それは……」
 月彦は振り返る。確かに雪乃一人が常に和を乱していたように思える。
(でもそれは……先生はもともとデートのつもりで来たから仕方ないんじゃ……)
 悪いのではなく矢紗美の誘い方だったのではないか――最初はむしろ最良の一手だと思えた矢紗美の手管が、今となっては悪手に感じられるのは何故なのだろうか。
「ねえねえ、ぶちょーさん」
 ちょいちょいと、左肩の辺りをレミがつついてくる。声を抑えているということは、一応内緒の話ということなのだろう。
「ひょっとして……雛森せんせーと矢紗美おねーさんって、仲悪いのかな?」
「いや、そんなことはないと思うけど…………ただ――」
 何だろう。雛森姉妹は仲が良いのかという質問に、すっきりとした答えを返すことが出来ない。一緒に旅行に出かけたり、同じ部屋に泊まったり、一緒に酒を飲んだりするのだから、仲が悪いわけがない――そう思っていた。
 しかし、悪いわけではないということがイコール仲が良いとはならないのではないか。
「ただ、なんていうか……張り合っちゃうみたいだね。それで時々喧嘩みたいになっちゃうこともあるみたいで……でも、別に本気で喧嘩してるわけじゃないから、そこは怖がらなくていいと思うよ」
 ほっと、レミが安堵の息をつく。
「レミ……」
 そんなレミの肩を、今度はラビがつつく。
「うん? おねーちゃんどうしたの?」
 そして耳を貸す。うんうんと頷いて
「あー! そーだ、矢紗美おねーさん!」
「なぁに? レミちゃん」
「私とおねーちゃん、スキーウェア返してないの! これ早く返さないと罰金とかになっちゃったら……」
「ああ、それね。言ってなかったかしら? レミちゃんと月島さんのは持って帰っちゃって大丈夫なやつだって」
「「えええーー!?」」
 という声が、重なった。
「あそこの店長とは中学校からの知り合いなの。今度新しいデザインのウェアを一斉に仕入れるから、古いのはもう処分するんだって。普通は業者に引き取ってもらうらしいんだけど、まあ知り合いだし、二着くらいならあげる、ってさ」
「へえ……それって女性用のだけだったんですか?」
「そうなの。ごめんね、紺崎クン」
 もちろん月彦は矢紗美の言葉が嘘っぱちであることは知っている。が、ここはあえて矢紗美の嘘に合わせた。
「で、でも……こんな高そうな服……」
「まあまあ、レミちゃん。せっかくくれるっていうんだから、もらっておけばいいと思うよ。スキーにいかなくても、普通に普段着として使えそうなデザインだったし」
「ま、普段着に使うにはちょっと自己主張の強い色合いだけどね」
 矢紗美の苦笑に、月彦も苦笑いを重ねる。
「え……っと、ありがとう、矢紗美おねーさん。…………レミ、なんにも出来ないけど、お礼に今度、晩ご飯作らせてください!」
「あら、気にしなくていいのに。私は旅行に誘っただけなんだから」
「あっ、矢紗美さん。もしレミちゃんにごちそうになるなら、“お茶”には気をつけてくださいね?」
「ぶちょーさん! あ、あのお茶のことは……」
「なになに? レミちゃんのお茶を飲むと、どうかなっちゃうの?」
「ええ、実は俺もレミちゃんに騙されてとんでもない目に……」
「だめええええ! ぶちょーさん、矢紗美おねーさんには言わないで! 言っちゃだめーーーー!」
「ダメって言われるとなおさら聞きたくなっちゃうわ。紺崎クン、あとでこっそり教えてね?」
「だめ! 絶対だめ! あーーーっ、おねーちゃんそれお土産に買ってもらったやつだから、まだ食べちゃだめ!」
「あらあら、月島さんおなかすいちゃった? もうすぐお昼だし、途中でご飯にしよっか」
 ちらりと、矢紗美が月彦の三角巾へと視線を落とす。
「そうねえ、ラーメンなんてどうかしら?」



「じゃあ、この辺で降ろしちゃっていいのね?」
「はい! 矢紗美おねーさん、お世話になりました」
 車から降りたレミが、ぺこりと辞儀をする。
「ほら、おねーちゃんも」
「あり、がとう、ございました。ごはん、おいしかった、です!」
 ぺこりと、ラビも頭を下げる。
「あと、あと、スキー、と、温泉、も! また、行きたい、です!」
「こらっ、おねーちゃん!」
 ぽかりと、レミが軽くこづく。そんな二人のやりとりに矢紗美はほっこりとした笑顔を浮かべる。
「そうね。月島さんがレミちゃんの言う事をよく聞いてちゃんといい子にしてたら、ご褒美に連れて行ってあげようかしら?」
 ぱぁ、と笑顔を零して頷くラビを、めっ、とばかりにレミが小突く。やはり、どう見ても生まれてくる順番が逆だと、月彦は思わざるを得ない。
「じゃあね、レミちゃん、月島さん。……レミちゃんも、何かあったら携帯――……は今ちょっと壊れてるけど、すぐ買い直すから、そっちにすぐ連絡してね?」
 運転席の窓から軽く手を振り、ラビとレミが仲良く手を繋いで帰路につくのを見届けて、矢紗美がゆっくりと車を発進させる。運転席の窓を閉めると、どういうわけか開けていた時よりも車内の空気が冷え切ったようにすら感じた。
「さてと。じゃあ次は紺崎クンね。家の近くまででいいかしら?」
「は、はい……よろしくお願いします」
 いつになく神妙な態度になってしまうのは、矢紗美の機嫌があまりよろしくないと肌で感じているからだ。
「やだ、もー。そんなに怖がらないでしょ。いくら私だって、怪我してる紺崎クンを無理矢理お持ち帰りしたりなんかしないってば」
 照れ混じりにばしーんと右腕を叩かれ、思わず月彦は悲鳴を上げる。
「あっ、ごめんね。右手怪我してたんだっけ」
「い、いえ……大丈夫、です」
 はははと、脂汗混じりに笑顔を返す。
「本当に大丈夫? 親御さんにちゃんと説明とかしたほうがいいんじゃないかしら」
「い、いえ! 本当に大丈夫ですから!」
「それならいいんだけど…………まぁ、でも良かったわ。スキーして、温泉にも入って、あれだけがっつりとセックスまでしたんだもの。いい気晴らしになったでしょ?」
「え、えぇ……そうですね……ありがとうございます、矢紗美さん」
「あら、感謝するなら私じゃなくて雪乃でしょ? 私はほとんど何もしてないもの」
 私は何もしていない――矢紗美の言葉に、なにやら含みを感じる。が、月彦はあえて気づかなかったことにした。
「や、矢紗美さんも結構楽しめたんじゃないんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「そりゃあ、だって……先生をからかう矢紗美さん、すっごく楽しそうでしたから。…………それに――」
「それに?」
「先生が買って来たあのすごく高いお酒。…………実は矢紗美さん、苦手でもなんでもないんじゃないんですか?」
 矢紗美が、愉快そうに目を細める。
「そんなことないわよ? 一口飲んだだけで朝までぐっすり寝ちゃうくらい苦手なお酒なんだから」
「ぜ、全然眠ってなかったじゃないですか!」
 うふふと、矢紗美が声を上げて笑う。
「それに、きっちり三本飲みきってましたし、先生が勝手に勘違いしてるだけでむしろ本当は好きなお酒なんじゃ……」
「ご明察。紺崎クンの言う通り、クリュグは大好きよ? だけどお高いのが玉に瑕なのよねえ」
 やっぱり。月彦は小さくため息をつく。
「つまり“まんじゅうこわい”なわけですね?」
「ああやって適当に“勝ち”を譲ってあげれ雪乃が自分のお金でごちそうしてくれるんだもの。……あの子にはナイショよ?」
「さて、どうしましょうか……。黙ってるのはさすがに先生に悪い気がしますし……」
「別に言いたければ言ってもいいけど」
 矢紗美がつまらなそうに言う。
「だけど今回は正直痛み分けってところね。まさか携帯壊されるなんて……油断したわ」
「あれは……矢紗美さんが悪いと思いますけど……」
「あら、今日はいやに雪乃の肩を持つのね」
「そういうわけじゃ……」
 呟きながら、月彦は外の景色へと目をやる。時間的にはそろそろ自宅の側についてもよさそうなものだが、どう見ても自宅の側の景色ではない。が、矢紗美のマンションに近づいているというわけでもないようだった。
「……ダメね」
「えっ?」
「私、今すごくヤな感じになってる。自分で解るくらいだもの、紺崎クンも居心地悪いでしょ?」
 いえ、そんなことはと口にしかけて黙る。
「自分でもなんでこんなにイライラしてるのか解らないの。紺崎クンと雪乃を二人きりにしたらセックスしちゃうことなんて織り込み済みだし、むしろネタにしてからかってやろうくらいに思ってたのに」
 いざ、目の前で見せつけられると違った――ということなのだろうか。
「だけど……そうね。やっぱりちょっとだけ期待しちゃってたのかな。あの時、紺崎クンが酔いつぶれた雪乃をベッドに運んだ後、私の方に来てくれるんじゃないかな、って」
「それは――」
「うん、解ってる。雪乃とシてるときに私が起きちゃうのと、私とシてる時に雪乃が起きちゃうのとじゃ、リスクが全然違うもんね」
 うんうんと、月彦は同意する。
「でも、本当にそこまで考えた?」
「えっ……?」
「どっちとするか迷って、結果仕方なく雪乃を選んだの?」
 矢紗美の問いの意味するところを計りかね、月彦はしばし硬直する。
「たとえば、雪乃が絶対朝まで起きないって、そういう保証があったとしたら、紺崎クンは私を選んだ?」
「そ、れ、は――」
「考えなかったんでしょ? 私のことなんて最初から眼中になくって、とにかく雪乃とすることしか頭になかったんでしょ?」
 図星。何故そこまで見抜かれているのか――“それ”が顔に出てしまい、矢紗美がやっぱりという顔をする。
 カマをかけられたのだと気づいた時にはもう遅かった。
「………………私と雪乃って、そんなに差がある?」
 言葉に詰まっていると、矢紗美がふふんと自嘲気味に笑った。
「“一昨日”はそんなことないってすぐ言ってくれたのに。今は言ってくれないんだ?」「……すみません」
「ま、仕方ない……か」
 独り言のように呟いて、矢紗美が車を停める。
「はい、着いたわよ」
 話に夢中で気づかなかったが、どうやらいつのまにか家の前に到着していたらしい。
「……ありがとうございます。や、矢紗美さんも……気をつけて帰って下さいね」
 ついそんな言葉が出たのは、矢紗美の態度にどこか危ういものを感じたからだ。シートベルトを外し、荷物を降ろして再度、運転席側の矢紗美に声をかける。
「……えっと、その……さっきは答えに詰まっちゃいましたけど……矢紗美さんと先生に差があるなんて思ってないですから。ほ、本当ですから……」
「ありがと、紺崎クン。いろいろ愚痴ちゃってゴメンね。……てきとーにセフレの家にでも遊びに行って気張らししてくるから心配しないで」
「えっ……せ、セフレって……」
 ぶおんとエンジンの音を大きく響かせ、車が急発進する。
「矢紗美さん……」
 呆然と矢紗美の車が走り去った方角を見やる。ひょっとしたら、自分が思っていた以上に矢紗美は傷ついてたのではないか――ちくちくと痛む胸を左手でかきむしるように爪を立てていると。
「……………………。」
 一台の車が、実にトロトロとしたスピードで家の前へと到着し、そのまま停車した。
「……こ、こんにちわ、紺崎くん」
「先生……」
 つい、苦笑が漏れる。
「まさか、ずっと後ろをついてきてたんですか」
 全然気づかなかった。矢紗美は気づいていたのだろうか。
「…………だって、紺崎くんがお姉ちゃんにお持ち帰りされちゃうかもって思ったら、居ても立ってもいられなくって」
「仮にお持ち帰りされてもこの手じゃ先生が危惧してるようなことをするのは無理ですよ」
 苦笑が漏れる。――が、その実危機一髪だったのではないかと肝を冷やす。もし怪我が無かったとしたら、はたして本当に直帰していただろうかと。
「ねえ、紺崎くん。怪我のこと……やっぱりちゃんと親御さんに話した方がいいんじゃないかしら……一応、私が誘った旅行なんだし」
「えっ……だ、大丈夫ですって! それに親には友達と旅行って話してますから……」
「そうなんだ……それじゃあ、私が出て行ったらややこしいことになっちゃうか」
 どこか残念そうに雪乃は呟く。
「…………えっと……じゃあ、私は帰る――けど……」
 ちらりと、雪乃が上目遣いに意味深に視線を向けてくる。このまま家に来ないかという意味だと、すぐに解った。
「……そ、そうですね……先生も俺も昨日ほぼ徹夜ですから、しっかり休んだ方がいいと思います」
 さりげなく、左手で三角巾につつまれた右手を撫でる。さすがに今日はイチャイチャする余力はないと伝える為に。
「そう、ね。……じゃあ、また明日……学校で」
「はい。先生も気をつけて」
 手を振って別れる。雪乃の車が見えなくなるまで見送った後、月彦は静かに踵を返した。



 二日ぶりの我が家の玄関の前へと立ち、月彦は小さくため息をつく。
(………………ちょっと、母さんと顔合わせづらいな)
 足下に気をつけろと注意されたにもかかわらず――実際に電話で忠告してくれたのは霧亜だが――見事にすっころび、負傷までしてしまった息子を葛葉はどう思うだろうか。
(いっそ、スキーで転んだって言えばまだ面目が……いや、それはそれで姉弟そろってスキーで怪我したってことに……)
 やはりここは恥を覚悟で素直に言うしかないだろう。意を決して玄関のドアを開ける――
「ただい――ま?」
 が、どうやら葛葉は出かけているらしいということを、玄関の靴と人気の無さから察する。
「あれ、でも鍵は開いてたな…………真央がもう帰って来てるのかな?」
 いったんバッグを玄関に置き、靴を脱ぐ。二階へと上がろうとして、月彦は浴室の方から水音がすることに気づき、足を止める。
「なんだ、シャワー浴びてたのか」
 二日ぶりに顔を合わせるわけだし、ここは一つサプライズ代わりに浴室に飛び込んで一緒に浴びるのも悪く無い――そう思い勢いよく服を脱ごうとして、
「痛っでぇ!」
 たちまち走った右腕の激痛に、月彦は引きつった声を上げながらその場にうずくまる。
「そ、そうだった…………今は手が……」
 あまりの痛さに涙が出そうだった。さすがにこんな状態では風呂場で一緒にキャッキャウフフとはいかない。月彦は観念してトボトボとした足取りで二階へと上がる。ドアを開けると、真央のものらしいリュックサックがででんと部屋の中央に鎮座していた。
「なんだ、真央も帰ってきたばっかりなのか」
 外から帰ったらとりあえずシャワーというのも、きれい好きで大変良いことだと頷きながら、どっこらしょとばかりにベッドに腰掛ける。たちまち、くらくらと目眩にも似た眠気に襲われ、ふああと欠伸が出る。
(なんか……気が抜けたら一気に眠気が……)
 眠る前にせめて真央の顔を見たいと抗いつつも、うつらうつらと微睡む月彦の目が、はたと部屋の中央に置かれた荷物へと釘付けになる。
 閉じかけていたまぶたが止まり、そのままじぃぃとリュックサックを凝視する。赤い、なんの変哲も無いリュックサックだ。しかし何故か気になる。一体何が気になるのかと半分寝入りかけた頭で考え続け、サイドポケットからちらりと覗いている毛糸の束のせいだと気づく。
「………………。」
 体を起こし、左手でぐいとリュックを引き寄せ、留め金を外し、サイドポケットを開く。
「…………え?」
 まるで全身の血が凍り付いたかのように、月彦はすべての動きを止めた。毛糸の髪に、木製の頭部。ガラス玉の目に、耳まで裂けた口。
 それは紛れもない、“あの夜の人形”だった。



  なんとも波乱の多い連休だった。精神的な負荷はもとより、肉体的にも負傷する程に濃密な三日間だった。
 が、まだ“終わりじゃない”ということを、月彦はリュックのサイドポケットから覗いている人形に思い知らされた。
「こ、れ……間違い無い……あの人形、だ……」
 何故これが真央のリュックのポケットに入っているのか。寝ぼけた頭が一気に覚醒し、思考が高速回転する。てっきり夢なのだとばかり思っていた。現実だと思うにはあまりに恐ろしく――そして不可解なことが多すぎたからだ。
 じぃと、月彦は身構えながらしばし人形を観察する。どうやらあの時のように襲ってはこないらしい。頭半分ほど覗かせている人形には、およそ動く気配が無かった。
(考えろ……考えるんだ、俺。ここでミスると、多分取り返しがつかないぞ)
 まず第一に考えなければならないのは、ただの偶然という説だ。夢に登場した人形と全く同じデザインの人形をたまたま真央も持っていた――これならば、何の問題は無い。が、そんな偶然があってたまるかという思いが、その説を月彦に信じさせない。
 よって偶然では無いという前提で考える必要がある。となれば、あの人形襲撃はやはり現実の出来事であり、そして真央も無関係ではないということになる。
(いや、待てよ……こいつが帰ってくる途中の真央のリュックに潜り込んだってことも……)
 むしろそうであって欲しいとすら、月彦は思う。人形が自立行動し、命を狙ってくるなど恐ろしいことこの上ないが、その殺害計画に真央が一枚噛んでいるよりは遙かにマシだからだ。
 が、どれほど人形を観察しても全く動く気配はなかった。
(くそ……てことはやっぱり――)
 真央の仕業だったのか。だとしたら何故――考えて、月彦が思い出したのはクリスマスの夜のことだ。留守中に由梨子と逢い引きしているところを目撃した真央は一体何をしたか。
(まさか……小人に会いに行くっていうのは嘘で、実はこっそり後をつけてきてたんじゃ……)
 そして激昂し、人形を操って襲撃した――真央ならやりかねないと思う反面、今度は手段に疑問が残る。人形を使って襲うなどという回りくどさが、月彦の中にある真央のイメージにそぐわないのだ。
(そうだ……もし真央が本気で怒って、俺を殺そうとするなら……)
 そんな間接的な手段を用いず、自分の手でやるのではないか。握りしめた刃物越しに、罪深い父親の肉体を貫く感触を余さず感じる為に、苦痛に歪むその顔を間近で見つめる為に。それこそ、“最初の時”のような轍は踏まないだろう。いつも通りの笑顔で、いつも通りの愛くるしさで「父さま、お帰りなさい」と両手を広げて駆け寄ってきて、抱きつくなり背中に隠していた包丁でブスリと――。
「あっ、父さま!」
 ひぁ、と思わず変な悲鳴が漏れてしまったのは、想像の中で真央に深々と刃物を突き立てられた瞬間に声をかけられたからだ。
「お、おう……ただいま、真央。元気にしてたか?」
 体をひねり、部屋の入り口へと視線を向ける。青のタンクトップにショートデニム、首からタオルを提げた真央のなんと愛くるしいことか。
「うん! あれ、父さま……」
 真央の視線を感じ、ああと月彦はベッドから腰を上げ、真央の方へと向き直る。
「これか。ちょっと転んで脱臼しちまってな」
「あっ、じゃあお薬――」
「ま、待て! お、お薬はいい!」
 月彦は慌てて左手を前に出し、“待った”をかける。真央の薬ならば確かに怪我に効くだろうが、下半身にもてきめんに効くのだ。さすがに夜通し雪乃とヤってへとへとな上、怪我までしている状態でそんなリスクは犯したくなかった。
(なにより……)
 あまりに愛くるしい姿にうっかり忘れそうになったが、真央には父親殺害未遂の容疑がかかっている。うかうかと薬を口にするわけにはいかない。
「そんなことより真央、ほら……入り口で突っ立ってないで、中に入ったらどうだ?」
「あっ、うん……」
 じぃぃと、月彦は真央の動きを注意深く観察する。とくに先ほどからずっとドアの影に隠れていた真央の左手に武器が握られていないかどうかを。
「ま、真央……それは……?」
「これ? んとね、エトゥさんたちにお土産にもらったの。シャワーの後おやつにしようと思って……」
 と、真央は左手に握っていたりんごを恥ずかしそうに見せてくる。真っ赤に熟した、皮がはちきれんばかりに身の詰まってそうなりんごだった。
(おみやげをもらった……ということは、やっぱり本当に小人の里に遊びにいってたのか……?)
 しかし小人からお土産にりんごをもらうというのはおかしいのではないか。実はその辺の果物屋で買ったりんごに毒を注入して食べさせようという目論見では――。
「父さま……痛いの?」
「痛い? ……あぁ、まぁ痛いといえば痛いんだが……」
 ハッと気づいて、月彦は左手で眉間によった皺をもみほぐす。どうやらずいぶんと神経質な顔になっていたらしい。これではもし真央が無実だった場合、無用の心配をかけることになるではないか。
(いや、違うな。“もし”じゃない)
 そもそも、真央に殺されるのではないかと警戒すること自体が間違っているのだ。もしそこまで――本気で殺害を企てるほどに真央に憎まれたのなら、それは責任をとって大人しく殺されるべきではないか。
「…………そうだな。真央、ほら。こっちに来い」
 真央の手を引き、ベッドに並んで腰掛ける。いつもなら、このまま真央の体をまさぐりながら押し倒すところだが、さすがに腕の痛みがそんな流れを許さない。
「旅行、楽しかったか?」
 ぱぁぁと、たちまち真央が笑顔を滲ませた。
「うん! すっごく楽しかったよ!」
「へぇ、詳しく聞かせてくれないか?」
 うん、と真央は大きく頷き、“旅行の思い出”を語り出す。“行き”は特にトラブルもなくエトゥなる小人と合流できたこと。そのままポンコタンという小人の里へと案内され、熱烈な歓迎を受けたこと――。
「あのね、ポンコタンで食べさせてもらったお菓子がすっごく美味しかったの!」
 中でもとくに、小人が蜂蜜のパイと呼ぶお菓子が――真央にとってはクッキーくらいの大きさだったらしいが――美味しく、なんとかお土産にもらえないかと頼み込んだこと。しかし蜂蜜のパイは特別な製法で作る為、ポンコタンの中でしか味も形も保てないと言われ、泣く泣く諦めたこと。
「あとね、あとね、小人さん達ってすっごく音楽が好きで――」
 思い思いの楽器でオーケストラのように合奏をする小人達に合わせて歌を歌うのが楽しかったこと。歓迎のお礼に、ポンコタン内の“工事”を手伝ってあげるととても感謝されたこと――。
「なるほどなぁ。俺も一緒に行きたかったけど……人間が行くわけにはいかないみたいだからな。………………ところで真央、さっきから気になってたんだが」
 ひとしきり真央の話を聞いた後で、月彦はついとリュックの方を指さす。
「この中に入ってるのが、さっき話に出てた“たくさんのお土産”なのか?」
「うん」
「この人形も?」
 ぴっと、人形を指さした瞬間、真央がわずかに表情を曇らせるのを、月彦は見逃さなかった。
「えっと……そのお人形はね、“お守りに”ってエトゥさん達がくれたの」
「お守り?」
「ほら、エトゥさん達って、人間に見られたら死んじゃうでしょ? だから、もしポンコタンが人間に見つかりそうになった時は、人形を使って追い払うらしいの」
「ちょっと待て、真央。人形を使って追い払うってどういうことだ?」
「ええと……」
 真央が人形を取ろうと手を伸ばしかけて――やめる。
「ごめんなさい、父さま。実際に見せてあげられれば一番いいんだけど……また失敗しちゃうといけないから」
「失敗? どういうことだ?」
 言葉を濁す真央を、月彦は問い詰める。渋々、といった具合に、真央が“事情”を説明した。
「んとね、エトゥさん達は頭の中で念じただけでこの人形を動かすことが出来るの。それで、人間に見つかりそうになった時はおどかしたりして払うんだけど……」
「けど?」
「わ、私もやってみたいって……お願いして、人形動かしてみたの。そしたら……その、エトゥさん達みたいに巧く出来なくて……」
 暴走したあげく、勝手にポンコタンから飛び出していって、そのまま行方不明になってしまったのだと、真央はなんともばつが悪そうに言った。
「多分、エトゥさん達に比べて体が大きい分、念波も強くて、それで人形が暴走しちゃったんじゃないかって。エトゥさんは気にしないでって言ってくれたんだけど…………」
 暴走した人形の行方に心を痛めているのか、真央はしょんぼりと耳をしおれさせる。
「……なぁ、真央。一つだけ確認させてくれ。その暴走した人形が……その、たとえば誰か怪我させたりとか、最悪殺すようなこともあるのか?」
「ううん、それは大丈夫。あの人形はあくまで驚かせて、ポンコタンに近づけさせないための人形だから、絶対に怪我とかはさせられないの。噛みついたり、ひっかいたりとかはするけど、それも相手に引っかかれた、噛みつかれたって錯覚させるだけで、本当に怪我をするわけじゃないの」
「…………なる程、な」
 人形に受けたはずの傷がキレイさっぱり消えていたのはそういうことだったのか。納得と同時に、いくつかの疑問も沸く。
(あの夜襲ってきたのが、その暴走した人形ってのはほぼ間違い無いんだろうけど……)
 小人用に調整されていた人形が半妖の真央の強力な念波を受け止めきれずに暴走して脱走というのは、解らなくもない。さもありなんと思うだけだ。しかしその暴走した人形がよりにもよって自分の所に来たというのはどう判断すればいいのだろうか。
(……しかも、コロシテヤルって言ってたよな)
 それとも、脅し用の人形だからデフォルトで勝手にそう喋るような仕組みになっているのだろうか。
(……いや、待てよ。そういやダイスキとも言ってたような……)
 ならばやはり、真央の想い自体が人形に影響していると判断するべきか。だとしたら――。
「ねえねえ、父さま?」
「うん?」
「父さまのお話も聞かせて?」
「あぁ……そうだな。……何から話すか……」
 というより、何ならば話しても大丈夫だろうか。月彦はじっくりと吟味をしながら、薄氷を踏むような慎重さで旅行の思い出話を始める。
(…………あの出来事が、夢じゃなかったのだとしたら――)
 さらにもう一つ、不思議なことがある。人形をラビが捕まえる寸前、月彦は確かに見た。人形が、まるで空中で見えない糸かなにかにがんじがらめにされたように動きを一瞬止めたのを。
 そう、人形はラビに掴まれたから動きを止めたのではない。動きを止められた後にラビに掴まれたのだ。
(いや、あの時は俺もパニクってたからな……ただの勘違いだったのかもしれない)
 ふわあと、ぶりかえしてきた眠気に負けて、月彦は話も途中にこてんとベッドに横になってしまう。
「父さま? …………お昼寝するの?」
「あぁ……悪い、真央。実は昨日ほとんど寝てなくてな……話は起きてからでいいか?」
「うん……じゃあ、私も父さまと一緒にお昼寝、しちゃおっかな」
 掛け布団の下へと潜り込むや、真央もまた同様に潜り込んできて、ぴったりと寄り添ってくる。否、寄り添ってくるだけではない、両手でしがみつくようにして、ほとんど密着してくる。
 幾度となく真央と体を重ねてきた月彦にはもちろん、それが真央からの“エッチしたい”サインであるとすぐに解った。
「こ、こら……真央……俺は本当に昼寝をするつもりで……」
 数日とはいえ、離ればなれになっていたからだろうか。いつになく大胆に、積極的に仕掛けられ、月彦はたどたどしくも抵抗をする。が、下手に動けば右手に激痛が走るため、その動きはどうしても消極的にならざるを得ない。
 そんな月彦の無抵抗をいいことに、もぞもぞと真央の手が這い、ズボンの下へとしまわれていたシャツのスソを引っ張り出す。そのまま、シャツをめくりあげるようにして手を潜り込ませ、もどかしそうに腹部を、胸板の辺りを撫でつけてくる。
「父さま……」
 首筋に当たる吐息は早くも湿っぽく、荒々しい。ほんの数分前まで無邪気に「小人さんの里、すっごく楽しかったよ!」と語っていた唇とは思えないほどに、その息使いからは狂おしいまでの肉欲に対する飢えが伝わってくる。
「わかった、わかったから……せめて、一眠りさせてくれ、な? 怪我もあるし、今は本当に疲れて――……う、ぁ……」
 真央の手がベルトを外し、“その下”へと潜り込む。しなやかな指使いでやさしく扱きあげられ、疲労の極地にあるにも関わらずたちまち剛直がそそり立つ。
「じゃあ、父さまがお昼寝してる間……真央が口でシてあげるね?」
「ちょ、待て……真央、そんな状況で眠れるワケ……なっ…………う、ぁ…………」
 もぞもぞと真央が布団の中へと潜り込む。ほとんど抵抗する間もなく、剛直の先端に濡れた唇が触れたと思った次の瞬間には、ぬろりと生暖かい口内へと飲み込まれていた。
「ちょっ……真央…………すこしは言う事を…………く、ぁぁ…………」
 思わず背を反らしてしまうほどの、ねっとりとした舌使いに嘆息が漏れる。まったく、どこでこんな舌使いを覚えたんだと毒づきたくなるも、そもそも仕込んだのは自分だと思い出す。
「ぁっ…………ぁっ…………!」
 ちゅっ、ちゅっ、とキスをするように先端部に吸い付かれ、思わず声まで出てしまう。
「ま、真央っ……」
 もう一度咥えてくれ――そうジェスチャーするように、月彦は布団の中で真央の頭を撫でつける。が、月彦の力に反して真央は頑として口戯に応じず、代わりに掛け布団をまくるようにして、にょきりと上半身を露わにする。
「ん、はぁっ…………お布団の中にずっと潜ってたら、熱くなっちゃった……」
 そして、布団の中で脱いだらしいデニムパンツを、まるで挑発でもするように月彦の顔の上へと落としてくる。
「こらっ……真央、いい加減に――」
「いい加減に……?」
 オウム返しに呟く真央の声には、どこか嬉々とした響きが混じっていた。そう、まるで父親を怒らせ、焚きつけること自体を楽しんでいるかのように。
「ねえ、父さま……教えて? いい加減にしないと……どうする気なの?」
 再度、真央が被さるように、ぴったりと体を密着させてくる。曲げた左足は月彦の膝裏に引っかけるようにして絡め、露出している剛直に自らの秘部を下着越しにすりつけながら。
 まるで娼婦のような甘え声で、囁く。
「ぁ、んっ……ねえ、父さま……真央がこんなに“悪い子”になっちゃってるのに、お昼寝しちゃうの?」
 下着に滲んだ蜜を陰茎に塗り込むように腰をくねらせながら、じれったげに月彦の後ろ髪を撫でつけながら、耳たぶに歯まで立ててくる。
(……ダメだ。“これ”はもう、止まらない)
 月彦は観念した。それに人形の件が濡れ衣――ではない可能性も無くは無いが――と解れば、可愛い可愛い真央の為に人肌脱いでやりたいとも思う。
「………………ま〜〜〜お〜〜〜〜? そんなに“躾”をして欲しいのか?」
 “悪い子”ぶる真央の後ろ髪をむんずと左手で掴み、強引に引きはがす。髪を掴んでそんなことをされては相応に痛い筈であるのに――。
「あンっ…………とう、さまぁ……」
 ぶるりと身震いをしながら、うっとりと瞳を潤め、ハァハァと息を乱す愛娘の姿に思わず苦笑を漏らしそうになる。
「まったく……ひどいエロ顔だ。これはじっくりと躾をしてやる必要があるな」
 ぐいと真央を抱き寄せ、耳元でわざと冷酷な声で囁いてやると、たちまち真央が体を震わせる。
「……ぁっ……ンっ……!」
「なんだ、真央。“想像”だけでイッたのか? まったく、とんでもない“インラン”だな」
「やっ……ぅっ……ンッ……!」
「嫌、じゃないだろ。…………ほら、いつまで俺の上に乗ってる気だ。ベッドから降りろ」
 月彦はわざと乱暴に真央を突き飛ばす。真央もその辺は慣れたもので、色めいた悲鳴を上げながらも、おずおずとベッドから降りる。期待に濡れた愛娘の目に見守られながら、月彦はやれやれとばかりに体を起こし、ベッドの端へと腰掛ける。
「ほら、真央。俺の昼寝を邪魔するくらい“口”に欲しかったんだろ? まずはたっぷりとしゃぶってもらおうか。俺がいいと言うまで、な」

 ……そして、月彦はじっくりみっちり一晩かけて愛娘の躾を行い、結果二日連続徹夜という最悪のコンディションと、全治二週間から三週間にランクアップした右腕を抱えての登校を余儀なくされるのだった。


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