籠釣瓶 勘三郎の次郎左衛門 2010.2.20 W268 | ||||||||||||||||||||||||||
13日、歌舞伎座夜の部を見てきました。
籠釣瓶のあらすじはこちらです。 今月の夜の部の見ものはなんといっても勘三郎の次郎左衛門に玉三郎の八ツ橋、それに仁左衛門の栄之丞という顔ぶれの「籠釣瓶」。 三世河竹新七作「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)は1888年(明治21年)次郎左衛門を初代左團次、八ツ橋を五代目歌右衛門(当時福助)で初演。大正11年に初代吉右衛門が演じて空前の当たり役となって以来人気の演目となり、次郎左衛門は義兄からそれを引き継いだ先代勘三郎のあたり役でもありました。 見染の場の勘三郎は、いかにも田舎から出てきたばかりの実直な商人。治六の勘太郎は次郎左衛門より背を低くするためにか深く膝を曲げ続けているのが目につきましたが、主人を想う下男の人の良さが出ていました。 勘三郎は特に縁切りの場では台詞の間をゆっくりとって、肚の芝居を大切にしているように感じました。八ツ橋にくってかかる治六に「だまってろい、すっこんでろい」という台詞は切ない気持ちがにじみ出ていてとても良かったです。最後の「ことによったら」と復讐を予想させる台詞に、ことさら凄みをもたせることはありませんでした。 再び廓へ帰ってくる場面でも、勘三郎は顔も普通で吉右衛門のように目ばりをきつく入れるということもなく、八ツ橋に階段の様子を見にいかせた隙に素早く足袋を脱ぎ棄てるまで、全く殺意を表に出しません。いよいよとなるまで復讐の意思をおし隠し、恨みを一気に爆発させ、飛びかかるように八ツ橋を斬り捨てるというのが勘三郎のやり方で、同じ初代吉右衛門から継承しても役者によって違ってくるものだなぁと感じました。 玉三郎の八ツ橋は、見染の場の花魁道中で舞台の奥から姿を現すやいなや、さながら天女のような美しさで満場を魅了。次郎左衛門でなくても心を奪われるのは当然だと思わせました。当日の私の席からはかんじんの見返りの微笑みがちょうど見えなくて、残念無念。(-_-;) 筋書きにもありますが、この見返りの微笑みは、花魁が道中の時になじみの客への特別サービスとして行っていたもので、もともと次郎左衛門にむけてのものではなかったわけです。 この八ツ橋ですが、もとは侍の娘で間夫の栄之丞とは遊女になる前からの仲。もし栄之丞に縁切りを迫られなかったら、あのまま次郎左衛門に身請けされたのだろうかと考えると、それは分かりませんが、元使用人で今は親がわりの釣鐘権助が立花屋に借金を断られた腹いせに、間夫の栄之丞を焚きつけたせいで縁切りを迫られなければ、大勢の人の前で次郎左衛門に恥をかかせるような断り方はしなかったでしょう。 いよいよとならないと決断できない優柔不断な八ツ橋の心の弱さが見えてきます。縁切りの後で九重に「わちきはつくづく厭になりんした」という台詞も、そういう自分を嫌悪しているという風に聞こえました。 仁左衛門の繁山栄之丞は、湯屋から帰ってくる花道の出からすっきりとした二枚目。花魁に生活の面倒をみてもらっている間夫というにはちょっと立派すぎる感じもしましたが、八ツ橋が次郎左衛門に縁切りを言い渡す様子を、戸口から覗く姿が素敵にきまっていました。 立花屋主人の我當は店先の場で半分立ち膝という不自由な格好でしたが、その他は別に動きに支障はなく、存在の重みを感じさせました。おきつの秀太郎も廓の雰囲気を醸し出すことができる貴重な役者。次郎左衛門の商い仲間の市蔵と亀蔵は、八ツ橋に恥をかかされた次郎左衛門のみじめさを増幅する役目を充分に果たしていました。九重の魁春の落ち着いた優しさが印象的でした。 脇に至るまで役にかなった顔ぶれの「籠釣瓶」は大変見応えのある舞台で、十二分に楽しめました。 夜の部の最初は三津五郎の沢市、福助のお里で「壺坂霊験記」。 ある日お里は機嫌が良いとばかり思っていた沢市が「いっそ死にたい」と言うので、そのわけを尋ねる。すると沢市は「一緒になってから3年間毎日のようにお里が夜中にそっと家を抜け出すのは、もしや恋人でもいるのではないかと気に病んでいる」というのだ。沢市の思いもかけない疑いにお里は「あなたの目が治るようにと、壺坂の観音様に毎夜おまいりして願をかけてしていた」と答える。 それを聞いた沢市はお里を疑った自分を恥じるが、自分の目は治らないだろうとあきらめている様子。そこでお里は沢市を壺坂寺へと連れて行く。 お堂へついた沢市は「こんな自分がそばにいては、お里に迷惑をかけるばかりだから、いっそ死んでしまおう」とひそかに決意していて、お里に「これから3日間断食してお籠りするので家に帰って待っていてくれ」と言う。お里は沢市の信心深さに喜んで賛成するが、お堂の先は険しい崖だから、決してこの場を動かないようにと言い残して帰っていく。 残った沢市はこの世をはかなんで、念仏を唱えながら谷底へ身を投げる。そこへ夫の様子を心配したお里が戻ってくる。そして谷底の夫の遺体を見つけ嘆き悲しむが、盲目の夫が一人になっては不自由するだろうと夫の杖をもって身を投げる。 谷底に倒れている二人の前に、光に包まれた観世音菩薩が姿を現し「沢市の盲目は前世の業によるものだが、お里の貞節と信仰心の功徳によってその寿命を延ばしてやろう」と言って消える。 いつしか夜も明け、二人は息を吹き返す。自分は死んだとばかり思っていた沢市は、目が見えるようになっているうえ、そばに美しい女がいるのに驚く。声を聞いてこれが女房のお里と知った沢市はお里とともに観音様に深く感謝するのだった。― このお芝居は明治になって作られた人形浄瑠璃の一部で、実際に壺坂寺の観音様は眼病に霊験があるとされているそうです。(今回の上演は前に見たものよりかなり省略されていました。) 沢市の三津五郎は、糸にのった台詞も自然で沢市の揺れ動く心を見事に出していました。ただ最初のころ、あまり盲人という感じではなかったように思います。福助は有名ではあるけれども難しいこの義太夫狂言をきちんと演じていて好感がもてました。 ところでお里のくどき「三つ違いの兄さんと・・・」というのを聞いて、ある文章を思い出しました。 ―で、ぼくが聞いた母の子守歌というと、ねんねんころりおころりよ、なんてもんじゃない。ほら、母は義太夫の師匠だから、「三つ違いの兄さんと・・・」とか「そりゃ、聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」とか義太夫の文句ばっかりだった。ぼくはそれを聞くと機嫌よく、スヤスヤ寝こんだ、って言ってましたね。―関容子著「中村勘三郎 楽屋ばなし」より 先代勘三郎が何度も六代目歌右衛門と演じたというこのお芝居は、先代にとって特別親近感のあるものだったわけです。 その次が下駄のタップダンスが楽しい「高杯」。 高足売りは高下駄を高杯だと、言いくるめて騙し次郎冠者に売りつける。そこで次郎冠者は試しに高下駄に杯をのせて、ひょうたんに入れた酒を飲み始める。すっかり良い気分になった次郎冠者は寝入ってしまう。 そこへ次郎冠者を探しに来た大名は高杯を買ってこなかったばかりか、酒をすっかり飲んでしまい、高下駄を高杯だと言ってきかない次郎冠者に怒り、扇でたたく。すると次郎冠者は高下駄を踏みならして踊り始める。すると大名たちもつられて踊りだしてしまうのだった。 六代目菊五郎と七代目三津五郎によって昭和8年に初演されたこの踊りは、六代目の没後上演されていなかったのを先代勘三郎が昭和27年に復活。六代目は流行のタップダンスを取り入れましたが、先代勘三郎はこれをさらに発展させ、人気の狂言となったそうです。 当代勘三郎の踊りの技術の高さがいかんなく発揮され、当代の愛嬌のある持ち味がこれほどぴったりとはまる踊りもないかなと思いながら見ていました。彌十郎の大名、亀蔵の太郎冠者、それに橋之助の高足売りが賑やかな雰囲気を盛り上げていました。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||||||||||||||||
土曜日の夜の部とあって、たくさんの方が声を掛けていらっしゃいました。大向こうさんはお二人いらしていましたが、多い時には10人くらいかかった声がけっして散漫にばらけたりせず、ビシッとと掛かっていたのはとても気持ちが良かったです。 「高杯」で次郎冠者が下駄で踊るところではご年配の女の方から「まってました」と声が掛かりました。そして踊りが始まり、勘三郎さんが肩越しに客席の方を見ながら後に引いた足のつま先で「トーントン」と拍子をとるところで間髪を入れず「中村屋」と掛かったのがなかなか効果的で、他の人がだれも掛けないこの方だけの掛け所なのかなと思って聞いておりました。 「籠釣瓶」の幕切れでは「十八代!」「大当たり!」「中村屋!」と続けさまに声がかかり、おおかたの観客の気持ちを代弁してくれているようでした。 |
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2月歌舞伎座夜の部演目メモ | ||||||||||||||||||||||||||
夜の部 ●「壺坂霊験記」―三津五郎、福助、玉太郎 ●「高杯」―勘三郎、彌十郎、亀蔵、橋之助 ●「籠釣瓶花街酔醒」―勘三郎、玉三郎、仁左衛門、彌十郎、魁春、七之助、鶴松、市蔵、亀蔵、我當、秀太郎、勘太郎 |
壁紙:「まさん房」 ライン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」