「新皿屋舗月雨暈」 通し上演 2009.3.28 W239 |
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9日と19日に、国立劇場で行われている花形歌舞伎、通し狂言「新皿屋舗月雨暈」を見てきました。
「新皿屋舗月雨暈」(しんさらやしきつきのあまがさ)のあらすじ 懐から井戸の茶碗を取りだした典蔵は、猫に飛びつかれ茶碗を取り落とし割ってしまい、しかたなくそれを弁天堂の床下に隠す。そこへ姿の見えなくなった飼い猫をさがして、お蔦がやってくる。 強引に言いよる典蔵を、お蔦は「魚屋の娘であった自分を今の身分にとりたて大事にしてくださる殿さまを何があっても裏切ることはできない」と強く拒絶するが、当て身をくらわされて気を失う。お蔦の悲鳴を聞いてかけつけた紋三郎に助けられたお蔦は典蔵一味の企みを聞いてしまったことを打ち明けようとする。だがそうはさせまいと典蔵は灯籠の火を吹き消し、「不義者!」と叫んで二人に無実の罪をきせ、逃げようとするお蔦の帯を奪いとる。その様子を浦戸十左衛門が見ていた。 呆然として部屋に帰ったお蔦を召使のおなぎが出迎える。お蔦は自分は無実だが、典蔵に帯を奪われたからには不義の汚名をはらすことは難しく、しょせん自分の命は助からないだろうと言う。そこへ殿さまからの至急の呼び出しがある。 召し出されたお蔦は不義の疑いを否定するが、紋三郎が不義を認めたと言われてはもう何も言えなくなる。 主計之介は典蔵たちにどんどん酒を飲まされるうちに、茶屋女であったお蔦を見染め、周囲の反対にもめげず妾にして愛してきたのに面目をつぶされたと激しく怒りをつのらせ、典蔵にお蔦を折檻するようにと命じる。典蔵に残酷な折檻をうけてもお蔦は不義を認めようとはしないが、しびれをきらした典蔵にせきたてられた主計之介はたぶさをつかんで引きまわし、ついに庭の井戸にお蔦を切って捨てる。 無実を信じてくれると思っていた主計之介に裏切られ、無残に殺されたお蔦は亡霊となって井戸の上に浮かぶ。 三幕目 河竹黙阿弥作「新皿屋舗月雨暈」は、魚屋宗五郎の件はよく上演されるものの前半のお蔦殺しはほとんど上演されないため、今回はめったにみることができない通し上演。 通して見てみると、殿さまの磯部主計之介が宗五郎と同じく酒乱であることがこのお芝居の重要な点だということがわかります。後半の魚屋宗五郎だけ見ていた時は、町人だから侍に妹を殺されても、結局許すしかないのねと、いつもすっきりしない気分が残りました。 しかし「恋に身分の差はないと信じていたのに」と言っていた主計之介が、悪人たちにしたたか酒を飲まされてとうとう愛するお蔦を殺してしまう場面を見てみると、同じ酒乱という病気を持つ人間として宗五郎が主計之介を許す気持ちも理解できるように思いました。 主計之介の友右衛門は出てきたところが、すでに青白い炎にゆらめいているようだったのは秀逸。けれども9日に見た時は台詞につまって止まる場面が多く、大事なところが円滑に運ばなかったため、19日に改めて観劇しました。この日は無事にすんでお芝居の全体像がはっきりと浮かび上がってきたように思います。 お蔦と召使のおなぎの別れの場面は、「加賀美山旧錦絵」の尾上とお初の別れを思い出させます。魚屋の娘でもお最後まで誇りを失わなかったお蔦が信頼していた主計之介の手にかかって非業の最期をとげるくだりを演じた孝太郎は、ヒステリックな高い声を使いすぎるのは気になりましたが手堅く演じていました。 典蔵の亀蔵は、色と欲にまみれた極悪人に少し愛嬌を織り混ぜていたため、あまり憎めない敵役になっていました。おなぎを演じた梅枝は姿も台詞廻しも良く、宗五郎が酔っ払っていくのに周りの人々とともに巻き込まれていく様子が自然でした。 孝太郎は魚屋では宗五郎女房おはまを演じ、旗本の妾とは全く違う江戸の庶民の生活感が出ていたと思います。 宗五郎の松緑は、9日は前半が固いと思いましたが、19日にはずいぶん自分のものにしていると感じました。酒を飲み始めてからはだれることなく、酔っ払っていく様子には勢いがあって小気味良く、見得もきっぱりと極まって、最近荒事を骨太く演じている松緑らしいと思いました。 9日終演後のアフタートークで語ったところでは湯呑は父のものを、手ぬぐいと片口は祖父のものを使ったということ。代々の当たり芸だったためになかなか手のつけられない役だったそうですが、そうとうの覚悟と研究の成果が出た舞台だったと思います。 ところで酒を飲み始めると松緑の胸元から見える肌が紅潮してくるのが目をひきました。23日のアフタートークでその話題が出ましたが、たぶん飲む演技で息をつめるのでそのためではないかとのこと、文楽の太夫が聞かせどころで真っ赤になっていくのと同じだろうというご本人の回答でした。 十左衛門の彦三郎は、もったりとした重い口跡ながら、慈悲の心が感じられるご家老でした。亀寿は紋三郎の方は良かったですが、奴三吉は台詞を言い終わった後しばらくそのまま同じ方向を向いているのが、なんだか奇妙に感じました。敵役の吾太夫と宗五郎の父親を演じた橘三郎はぴったりと芝居の中にはまっていました。 全体的にスピード感があって、最後まで面白い「新皿屋舗月雨暈」通し上演で、井戸の茶碗が典蔵に割られ、お蔦が殺されて井戸に投げ込まれるという設定が、皿屋敷伝説を踏まえているのだと魚屋宗五郎だけでは分かりづらい本名題「新皿屋舗月雨暈」の意味もよく分かりました。 また国立劇場としては初めての企画、アフタートークもインタビューアーによって、引きだされる話ががらっと違っていて楽しめました。役者さんが素顔で語るお話は観客との距離を縮めるものと思うので、また別な機会にもぜひ実施してほしいものだと思います。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||||||||
9日は一般の方だけが数人で掛けていらっしゃいました。序幕「弁天堂の場」の幕切れで暗闘になり最後に家老浦戸十左衛門の彦三郎さんの「それではあれは・・・」で柝の頭になったとき「松嶋屋」とかかったのには???と思ってしまいました。ここは彦三郎に「音羽屋」が順当だろうと思います。 酒に酔った勢いで磯部の屋敷へ宗五郎が殴りこみに出かけるところでは、家を飛び出した段階で、すでに声がかかり、それからバラバラと掛かって花道七三の見得、二度めのツケではもうだれも掛ける方がいらっしゃらなかったのは、残念に感じました。ぐーっとためておいて、一挙に爆発させる役者さんの演技と、ちょうど反対でした。 見事なまでに酔っ払っていく松緑さんに「おじいさん、そっくり」と声が掛かっていました。(*^_^*) 19日には会の方もおふたり見えていて、威勢の良い声が聞こえていました。一般の方も数人声をかけられていました。 お蔦殺しでは岩上呂太夫、魚屋宗五郎では父・太兵衛を演じた橘三郎さんには「伊丹屋」、茶屋の娘を演じた嶋之丞さんには「桜㐂屋」と声が掛かっていましたが、自分だけの屋号というのはやはり良いものだなぁと思いました。 この日は上記の柝の頭でもほとんどの方が「音羽屋」と掛けていらしてほっとしました。 |
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3月国立劇場演目メモ | ||||||||||||||||||
「新皿屋舗月雨暈」 |
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