《3》

 

 

話したいことはたくさんあるのに、結局何も言えないまま、フランソワーズはイワンを抱いて

コズミ博士の屋敷から程近い海岸沿いへやってきた。

イワンもまた、口を閉ざしたままじっとフランソワーズの腕に抱かれている。    

 

二人は無言で、ただお互いのぬくもりを感じながら、少しずつ近くなる波の音を聴いていた。

 

 

 

 

 

「ほら、001・・・・お月さま。綺麗ね・・・・・。少し欠けてるけど、今日のお月さまはとても綺麗だわ。

気持ちいいでしょう・・・・?」

 

海を見下ろす小高い崖の上で、岩に腰掛けたフランソワーズはようやく腕の中の赤ん坊に

話しかけた。

口を開いてしまってから、こんな話をする前に彼には言わなければいけないことがあるのに・・・・と

自己嫌悪でためいきが出る。

 

が、イワンは一つ大きく息を吸い込むと、

「きれいだね・・・・」

気持ち良さそうにううん、と伸びをした。

 

 

 

 

精一杯顔を上げ月を眺めるイワンの左の頬を、フランソワーズは細い指でそっと撫でる。

彼女が、眠り続けていたイワンを連れてメンテナンスルームを出る頃には、とうにあのときの赤い

痕は消えていた。それでも、その柔らかな頬に自分が加えた仕打ちを思い、彼女は強い後悔の

念に苛まれて何度もそうせずにはいられなかった。

よくもあんなことが出来たものだと思う。この愛らしい小さな赤ん坊に。

でもあのときは――――

 

フランソワーズは今夜何度目かのためいきをついた。

―――やっぱり、言わなくちゃ。

 

「001・・・・私」

決心して口を開いたフランソワーズだったが、その続きはイワンの直接頭に響く声で遮られる。

「003、気にすることはないよ。もう痕も残ってないだろう?」

「001・・・! でも」

「あのお陰でボクも思いがけない力が出せたからね。自分でも驚いてるよ」

「001・・・・でも・・・でも、それだけじゃないの」

フランソワーズは苦しげに眉を寄せ、搾り出すように続けた。

「あのときのあなた・・・力を使い過ぎてすごく衰弱してたの。それはひどい状態で・・・・でも、私は、

そんなあなたを放っておいて・・・ずっと・・・ずっと、私・・・・・」

前よりも薄くなった肩が小さく震え、言葉が続かない。イワンはそんな彼女を見上げ、少しの間

黙って何かを考えているようだった。

 

「001・・・ごめんなさい・・・・」

 

ポタリ、と自分の胸に落ちた雫とともに囁かれた言葉に、イワンはほんの少し首を傾げて

「謝ることじゃないよ。あのときのボクの状態は急を要するものじゃなかった。彼らの方を優先させ

た君の判断は正しい。だからこそ彼らも助かったし、ボクもこうしてここにいる」

 

フランソワーズはハッとして涙の残る瞳を見開いた。

「・・・001?  知ってたの・・・・?」

「―――うん。さっき目が覚めてからね、いろいろと。だから・・・・」

安心させるように、フランソワーズの指をその小さな手で握る。

「ここ数日、君がずっとボクの面倒を見てくれたことも知ってる」

「001・・・・」

 

 

岩肌に打ち寄せる波の音が、夜の深まりとともに次第に低く優しく、二人に響く。

月は流れてくる雲に時折その姿を隠していたが、すぐにまた青白い光をあたりにそそぎ始める。

少し冷たくなってきた風から守るように、フランソワーズはイワンの手をショールの中に戻し、再び

その小さな身体を暖かくくるみこんだ。

 

 

 

 

「・・・・・もう、こんなふうに君が抱いてくれることはないと思った」

「・・・・・え?」

 

ポツリとイワンが洩らした呟きは、ちょうど大きく砕け散った波の音に消されてしまう。問い返した

フランソワーズに彼は、ううん、何でもないと応え、ごく軽い調子で続けた。

 

「―――今回はさすがにボクも堪えたな・・・・」

銀の髪の間からのぞく淡青色の大きな瞳。いつもは外見にそぐわない冷ややかな理性の光を放つ

その瞳が、今はどこか放心したような揺らぎを見せている。

フランソワーズはとまどいを覚えつつイワンを見つめた。

いつも迷いなど微塵も感じられない彼のどこか頼りなげな様子に、抱いている腕に我知らず力が

込もる。

 

 

「・・・・ボクは君たちのことなら何でも知っていると思っていた」

すべてわかっているつもりだった。

「でも・・・・」

イワンは彼らしくもなく、小さなためいきをつく。

「知っていたのは、ほんの一部分に過ぎなかったんだ」

 

自分の心の内さえも。

あのとき、それがわかった。

 

「001・・・・?」

心配そうな深い碧の瞳に映る自分を見て、イワンはゆっくりと目をつぶった。

静かに一定のリズムを刻む波の音と、暖かくて柔らかなフランワーズの腕の中。

何だかとても懐かしい。

 

失わなくて、本当に良かった。

君を、君たちを―――

 

 

 

009。

「死ね」というに等しい宣告をしたボク。

彼ならきっと奴らと互角に戦える。自らの命を投げ出して、何も言わず、見返りも求めず、たった

一人いってくれる。

ボクの決断は間違ってはいなかった。

彼は黙って頷いた。強い意志が現れた瞳に迷いはなく――――

だけど、ボクに飛ばされるその間際、彼の内から奔流のように溢れ出た想い。

 

―――ボクは、そのときまで知らなかった。恐らく彼も気づいていなかったんだろう。

・・・もちろん、君も。

 

泣かれることも責められることも覚悟していた。

けれど、まさか君があれほどまでの負の感情をボクに対して抱くなんて。

・・・情けないことにボクは、思いもしてなかったんだ。ほんの一瞬ではあったけれど、君から押し

寄せてきた凄まじいまでの怒りと憎しみ。―――――ショックだった。

そしてそんな風に感じた自分に困惑し、また動揺して――――

 

 

―――みんな。

あのときみんなからに向けられた感情に、ボクはただ耐えるしかなかった。

仲間の誰かを失うかもしれないという覚悟は、戦いの日々の中、多かれ少なかれずっとみんなの

頭にあったはずだった。

けれど、それが現実となったときの苦痛は、ボクが予想していたのよりはるかに大きくて。

 

挙句の果てに、彼だ。

制止も聞かず飛び立っていった002。間に合わないと、ボクの頭は告げていた。

魔神像の上昇スピード、到達予測点。002の上昇スピード、エネルギー残量、到達可能点。魔神

像に入った009の生存確率。―――二人の、帰還の可能性。

瞬時に弾き出されたその結果は、何度計算しても変わることはなく。

外れることの殆どない『勘』も、ボクが二人を再び捉えることは不可能だと―――――

 

 

―――それなのに彼は、ボクらの頭上に帰ってきた。魔神像を破壊し世界を救った仲間を連れて、

奇跡のように。

 

『奇跡』? 本当にそんなことが・・・・・・。

 

君を想う彼の心。

彼を想う君の心。

仲間を想うみんなの心。

 

そんなみんなを見て湧き上がった、ボクの真実(ほんとう)の気持ち。

 

誰かのことを強く願う、その心が奇跡を呼んだのか。

 

 

あのとき初めて知った。

強い想いは、不可能を可能にするのだと。

ヒトの心は、ボクなんかには到底掴みきれない。ましてや計算で計れるほど浅くはないのだと。

 

 

 

 

 

 

ふいに頭の上から流れてきた調に、イワンは物思いから引き戻された。

低く、優しく、囁くように紡がれる子守唄。

目を開けると、月明かりに仄白く浮かび上がるフランソワーズの細面が、まっすぐ自分に向けられて

いる。

 

「・・・・・大丈夫よ」

歌が途切れ、彼女は静かに微笑んだ。目覚めてから、初めて見る彼女の微笑み。

「みんな、わからないの。私なんて自分の本当の気持ちもわからないくらい。・・・・・すべてを知って

いるのは神様だけだわ」

碧の瞳が眩しそうに月を見上げる。

「それでも、少しでも知りたくて・・・・大切な人たちのことは特に。わかってあげたくて、でもわからな

くて、どうしようもなく切なくて―――」

―――あなたは、私たちよりもいろんなことを知っていると思うけど、でも・・・・・・。

 

フランソワーズは再びイワンに微笑んだ。

「わからないから、わかり合おうとする。人はみんなそうやって生きていくの。誤解したり、どうしても

理解出来なかったり、そんなことは当たり前だわ。。あなたはまだこんなに小さいんですもの。理解

しようなんて思わなくていい。もっと素直に、いろんなことをただ感じてくれればいいの・・・・・・」

 

 

ふいに彼女は頬を染めた。

「いやだ、ごめんなさい・・・! 私、何を言ってるのかしらね、偉そうに」

恥ずかしそうに目を伏せたフランソワーズに、イワンは小さく首を振った。

そしてそっと彼女の意識を探る。

すべてを知ることは叶わなくても、今彼女が自分に注いでいる想いは確かなもので―――――

 

 

イワンは無言で、彼女の柔らかな胸に頬を寄せた。

そんな彼を、彼女もやはり何も言わずに見つめ、やがてまた低く唄い始めた。海に映る月に溶け込

むような優しい子守唄。

 

その甘い声とゆるやかに身体を揺すられる心地よさに素直に身をゆだね、イワンは言った。

 

「ボク、君が好きだよ。君たちみんなが、とても好きだ・・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

それから彼らはまたしばらく海岸沿いをうろつき廻った。

フランソワーズは喋っていないときはずっと唄っていたし、イワンはこれまでにないくらいいろんな

ことを彼女に話した。今夜話したことは他のみんなには内緒だからね、と片目をつぶって念押しし

ながら。

 

やがて、イワンはふぅ、と小さく息を吐くと自分を抱くフランソワーズを見上げて

「さて、と。ボクちょっとお腹がすいちゃった。先にコズミ博士の家に戻ってるね」

「え?先にって・・・・一緒に行きましょう?」

怪訝そうな顔をしたフランソワーズに

「いいよ。もうちょっと外にいたい気分なんだろう?わかってるよ。 ボクなら大丈夫。まだ誰か起き

てるみたいだしね。寒くなってきたからこのショール置いてくね、じゃあ」

「ちょ・・・・001!」

引き止めるまもなく腕の中からパッと赤ん坊が消え、手にはワイン色のショールだけが残された。

 

 

「001ったら・・・・・」

フランソワーズは苦笑すると、ショールを広げ肩からはおった。抱いていた暖かな重みがなくなって

急に肌寒さを覚える。

胸元にショールを掻き寄せながら、彼女はそばにあった流木に腰を下ろし膝を抱えた。

 

心地よい気だるさが全身を包んでいる。

こんなに穏やかな気分は久しぶり・・・・・・・・・。

彼女はさっきまでのイワンとの会話をぼんやりと思い出しながら、また子守唄を口ずさんでいた。

 

話の殆どは他愛ないことばかりで、時折思い出したように話題に上る今度の戦闘やメンテナンス

ルームの二人のことについてもさほど深刻な色は帯びず、ごく軽い調子で彼らはおしゃべりを続けた。

耳の奥をくすぐるように響くイワンの笑い声にフランソワーズは軽い驚きを覚え、そして彼が言った

二つの言葉は彼女をとても喜ばせた。

 

 

『あのね、ボクのこと名前で呼んでいいよ。前はイヤだって言ったけど・・・やっぱり本当の名前で

呼んで欲しい。・・・・ね、フランソワーズ』

 

『君、編み物出来る・・・? それならこれと同じようなの、ボク欲しいな。でも色は青にしてね。コズミ

博士の子供って女の子だったんだろう? よく今まで取っておいたとは思うけど、でも色がね』

 

『あら、あなたにとっても似合うのに・・・・・ワイン色のショールも、このピンクの服も』

 

そう言った彼女に唇を尖らせ、自分が着せられていたピンクの乳児服を情けなそうに見下ろしたイ

ワンの顔を思い出して、フランソワーズはくすりと笑った。

が、その笑いが思いがけず大きくあたりに響いたのに驚いて肩をすくめると、また低い声で子守唄を

唄い始める。

 

フランス、イギリス、ドイツ・・・・・・結構な数の子守唄を彼女は知っていた。

そして――――

 

 

    ――――ねんねんころりよ  おころりよ・・・・・・・

 

 

唯一覚えた日本の子守唄は、ジョーが教えてくれた。

これしか知らないんだ、と少し恥ずかしそうに彼が教えてくれたその歌は、子供に唄ってやるには

随分物悲しい調を持っていたが、フランソワーズはこの歌がとても好きだった。

 

イワンにはそれこそ耳にタコが出来るほど唄ってやったし、それを聴くともなく聴かされたギルモアも

いつのまにかすっかり覚えて、イワンを抱いているときなどよく口ずさんでいる。

 

そして、彼らにも。

 

メンテナンスルームで二つ並べて置かれた治療台に横たわる二人の青年にも、彼女は繰り返し

この歌を唄った。

何本ものコードにつながれ、治療―――いや、必死の修復作業のかいあって、少しずつヒトらしい

外見を取り戻していく彼ら。

慌しく、神経を尖らせる作業がひと段落し、仕切りの向こうからは仮眠をとるギルモアとコズミの

低いいびきが聴こえてくる。そんなとき、彼女はそっと二人に子守唄を唄うのだ。

 

どうか彼らの眠りが安らかなものでありますように。そして、一日も早く、二人に目覚めのときが

訪れますように――――

 

 

     ――――坊やは良い子だ  ねんねしな・・・・・・・

 

 

あのときの不安な日々に比べたら、今のこの時間はなんて穏やかなんだろう。

フランソワーズは低く歌を口ずさみながら、眠り続ける彼を想う。

 

彼が目を覚ましたら、何て言おう。何を伝えよう。

もうじきのはず。あと3日? 5日・・・? 

早く目を覚まして―――ジョー。

 

 

 

 

 

ふいに彼女は、背後にかすかな足音を聞いた。

 

静かにゆっくりと・・・砂を踏む足音はまっすぐ彼女に向かってやってくる。

そして、その気配は彼女のよく知ったもの。

 

まさ・・か・・・・ううん、そんなはずはないわ・・・・! だって彼はまだ・・・・・・。

 

歌声はかすれ、震えを帯びる。

足音は秘めやかに、でも間違いなく彼女目指して近づいてくる。

高まっていく胸の音。

 

「・・・・・・・・・・・」

とうとう、歌は途切れた。

 

振り向くことも出来ず、フランソワーズはただ自分の身体を抱き締めて小さく震えていた。

そして、足音は彼女の背後で止まる。

 

 

「でんでん太鼓に笙の笛―――だよ」

 

 

もう一度聴きたいと、神に悪魔にあらゆるものに願ったその声が、確かに彼女の耳に響いた。

 

 

「忘れちゃった・・・・?」

 

 

息を呑み震えながらゆっくり振り返った彼女の目に、月の光をいっぱいに浴びて優しく微笑んでいる

栗色の髪の青年。

 

 

 

「――――ただいま、フランソワーズ」

 

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