春秋大和路 入江泰吉写真全集 第五巻、入江泰吉、序 今日出海、随筆 佐々木幸綱、白州正子、重森弘淹、集英社、1981

入江泰吉 萬葉の詩、入江泰吉・山根由美・清川妙、雄飛企画、1996


入江泰吉 萬葉の詩

図書館の美術の棚で『入江泰吉 日本の写真家 10』を見つけた。それで入江泰吉の名前を思い出して、写真集を追加して借りてきた。『日本の写真家』は、初期の白黒写真集。『萬葉の詩』は晩年の作品集。

入江の写真は古寺だけを写し撮っているのではない。古寺は、柿の木の遠くにあったり、しだれ桜の下にあったり、風景の一部に溶け込んでいる。空、自然、建築、地面の全景が見渡せるところに、彼の作品のもつ魅力の一つがあるように思われる。

何度も大和路を訪ねた者にとっては、まるで自分が見た風景がそうであったかのように、記憶を純化してくれる作用がある。

風景写真といっても、入江が撮る大和路に人影はない。それも、旅人の記憶を純化することを助けているかもしれない。白州正子が巻末に添えた随筆で書いている。

人間のまったくいない大和の山野に、どれほど多くの人間のドラマがかくされているか、歴史の悲劇がくり返されたか、入江さんの写真は、私たちに、そういうことを問いかけているように思う。

なるほど、そうかもしれない。でも私はそこまで深くは考えられない。感じたのはもっと単純なこと。人のいない風景が、なぜ親しげに感じるのか。それは、私が見た風景にも人がいなかったから


国宝級の伽藍に修学旅行生があふれかえっていても、そこから一本離れると、もう誰もいない路地がある。遠巻きに法起寺の三重塔を見ながら畦道を歩くと、車も人も見かけない瞬間がある。

近鉄の室生口大野駅から東海遊歩道を歩いたときは、盛夏にも関わらず誰にも会わなかった。浄瑠璃寺へ行くつもりでいたのが、勘違いをして、ずっと手前の浄瑠璃口というバス停で降りてしまい、とぼとぼと歩いていたときも、農家の軽トラックの乗せてもらうまで、誰もいない田舎道を一人で歩いていた。

吉野では、ケーブルカーにたくさんいた客が、駅を降りると散り散りになり、いつの間にか一人きりになっていた。ちょうどその夏には、連合赤軍が榛名山で行った集団リンチのルポルタージュを読んでいたために、恐ろしくなって人気のあるところまで走ったことを覚えている。

気をとりなおし、山奥の西行庵まで歩きつづけたら、また一人になって心細い思いをした。こんな寂しいところに一人で暮らした出家僧の気が知れなかった。

その後も、一人でいろいろなところへでかけたけれど、奈良の風景は、一人で見た、誰もいない風景として記憶に残っている。

吉野での体験は別として、一人でさみしいとは思わなかった。むしろ、一人でいる充足感があった。入江の写真を久しぶりに眺めてみて、人影のない風景に、物悲しさより完結した世界を感じる。


さくいん:入江泰吉奈良


碧岡烏兎