ナショナル・ヒストリーを超えて、小森陽一・高橋哲哉編、東京大学出版会、1998


ナショナル・ヒストリーを超えて

自由主義史観に対する批判もこれだけ並ぶと壮観というより、食傷気味。私は自由主義史観に与する者ではないし、むしろ小森・高橋らに賛同する立場で彼らの著書を読んできたつもりだが、この論文集では、どういうわけか知的好奇心が満たされない。読んでいるうちに論述の中へ入り込んでいくような感覚がわきおこらない。それどころか、少々うんざりした気持ちになってくる。

自由主義史観のメディアへの影響、ひいては一般人への心理的な影響も見過ごせないものがある。だからといって漫画家や評論家の言動を逐一批判することが、一流の研究者によって大学出版会の書籍を通じてしなければならない仕事だろうか。

川原で水遊びをしている人には土手から注意すればすむのに、わざわざ降りていって水をかけあっているように見える。論争はある意味では話題になっているだけに、「売れる」という意識が背景にあるのではないかと勘ぐりたくなる。

本編でないところで揚げ足をとるようで気が引けるが、巻末にある執筆者紹介部での小森陽一の発言、「少年の頃、中国や北朝鮮の抗日映画を繰り返し見たとき『日本人』である自分を消したいと思った。」は気になる。こういう言い方をするから「自虐的」と感情的な非難を浴びせられるのではないか。

「過去から現在にわたる日本政府の行為を批判するのは、私が日本国を愛するがゆえです」となぜきっぱりいえないのか。「愛する」と言うのが憚られるというのなら、「アジア諸国と友好関係を築き、発展していくために日本国政府が過去の清算をまず行うことを、有権者として要望する」と堂々とした態度をもつべきだろう。

合衆国の神学・政治哲学者、ラインホルド・ニーバーは、「アメリカの外交政策のすべてを帝国主義として拒否するアメリカ批判も、アメリカを一方的に正義の味方と見るアメリカ礼賛も」受け入れず、矛盾した合衆国の全体像をアイロニーという概念で把握し、積極的にその矛盾を受け入れようとした(鈴木有郷『ラインホルド・ニーバーとアメリカ』、新教出版社、1998)。彼がその境地に到達できたかはともかく、今の歴史認識問題にはそうした視点が必要なのではないだろうか。

自己の立場をきちんと定位せずに、それでいて日本国籍だけはもちつづけて日本国を批判するのならば、今は共闘しているように見える日本国籍をもたない在日外国人たちからは、「安全地帯から批判している」と批判され、いずれ袂を分かつことになるだろう。また日本国籍を取得した元外国人にも、あいまいな日本人観、日本文化観を背景にした議論は受け入れらなくなるに違いない。

まとめていうと、現在の歴史認識論争のあり方、とりわけ反・自由主義史観からの議論については、三つの不満がある。

第一に日本人=日本国籍を有する日本国民という原則を立てずにあいまいな日本人像を前提にしている点。網野善彦は「日本」という語は、日本国という政治的境界以外の何ものも示さないという立場から日本史を問い直した。これにならえば、日本人はあくまでも国籍を有した日本国民としてとらえることができる。

その視点に立って有権者、納税者の権利と責任から過去の行為を含めた政府への批判をすれば、国籍を持たないが居住している外国人、居住していない外国人などとは議論が自ずと変わってくるだろう。また、外国人から生まれながらも、さまざまな理由から現在は日本国民である人々とも日本史の意味、日本国を愛する意味について、積極的に議論できるのではないだろうか。

第二に、重箱の隅をつつくような瑣末な議論、あるいは「ああいえば、こういう」式の平行した議論。論争においては、相手の論理の陥穽や、事実誤認を指摘することは重要な戦術かもしれないが、かえって相手の論法にからめとられてしまう危険がある。自分の立場に自信があれば、わざわざ相手の立っている土俵へ出かけていく必要はないはず。第一点に戻れば、日本人とは誰かをあいまいなままにしていること自体、自称「日本人」である自由主義史観派の術中に落ちていると言わざるをえない。

さらに、相手側の一つ一つの発言、論理に直接、抗弁をする形で双方の主張が応酬され続けた結果、「どっちにつくのか」を迫るほど過熱した倫理主義あるいは決断主義。これはマルクス主義流入以後、日本での思想的な論争に必ずつきまとう悪弊だ。巨視的、重層的、多面的な議論がなされず、「お前はどっちにつくのか」にいつもなってしまう。とりわけ本来そうした硬直した論法を批判したいと願っているはずの反自由主義史観の立場からの議論が不毛な友敵概念の構図に陥っているのは、はっきりいって見苦しい。

これら三点を思い合わせるとき、本書よりも、おそらく本書の執筆者の先行研究に刺激された岡野八代『法の政治学』に、問題意識、主題、議論の展開、文体、いずれの点でも、悩みながらもアイロニーに立ち向かおうという強い意欲が感じられる。


碧岡烏兎