時代の流れと 記憶にのこるエピソード重視
江戸時代 1603~
江戸城本丸(跡) |
1603【家康】初代 征夷大将軍60歳
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」・・・豊臣家の力をゆっくり慎重に削いで行った。
1605【秀忠】2代 征夷大将軍26歳
徳川家康が自分の子に政権を継がせたことで、豊臣家(秀頼)に政権を戻す気がないことが世に知れる。[徳川家康]の家臣(かつて豊臣秀吉が[豊臣秀次]を粛清切腹させたことに失望して寝返った [藤堂高虎]と[池田輝政])に命じて、大阪城を包囲するように城を次々再建させ、[豊臣秀頼]には京都一円の寺社をかたっぱしから造営するよう言葉巧みにそそのかして大阪城の財産を消費させた。
1605~1616年まで二元政治で、ほぼ家康の政治。秀忠は東日本の大名の統率にあたった。
1606江戸城 本丸 完成。
1607駿府城(静岡市)完成。徳川家康は移り住むが、それまで通り政治には参加。「大御所政治」と言われる。
1611二条城会見
[徳川家康69歳]が朝廷の儀式のために上洛し、二条城に滞在する間に[豊臣秀頼17歳]を呼び寄せた。豊臣と徳川の不仲説を晴らして世間を安心させるためだったが、淀殿(秀吉の妻)は、豊臣秀吉の家臣だった徳川家康に呼び出させる格好になるのが屈辱だったので大反対。でも側近から今、逆らうのは得策ではないと説得され、警備を手厚くし緊張感を持って出席させた。この時、2人は和やかに二時間ほどの時をすごしたが、[豊臣秀頼]の立派に成人した姿を見た家康が、豊臣家をいよいよ滅ぼそうと決意したとも言われている。秀頼は身長180cmほどあったとか。
※二条城は1603年に徳川が上洛する(京都に行く)時に滞在するために建てられた。二条城は足利尊氏が二条(町の通りの数え)に屋敷を構えたことから二条城と呼ぶようになり、場所を変えても名称が親しまれて、織田信長や豊臣秀吉にも使われていた。
1614「方広寺鐘銘事件(京都)」
豊臣秀吉が建てた日本一の大仏が、彼の死後、地震で壊れてそのままになっていて、その再建を豊臣秀頼が行い、徳川家康も費用を負担したりして協力した(策略かも)。しかし、このお寺の鐘に書かれた文字の中に「国家安康」「君臣豊楽」という文字があり、豊臣と比べ、家康の文字が引き裂かれている、と徳川家康が激怒(策略かも)、豊臣家を滅ぼす引き金となった。この文字を考えた僧侶は、家康や豊臣の文字を散りばめて縁起よくしたつもりで悪意は無かったのだが、豊臣家の家臣でこの再建の責任者であった[片桐且元]のチェックミスともいえる。[徳川家康]はずっと豊臣を滅ぼす理由が欲しかったので、言いがかりをつける格好の機会になってしまった。豊臣家にピンチをもたらした[片桐且元]は、窮地に追いやられ豊臣家にいられなくなり、徳川側について大阪城の間取りなど極秘情報を漏らしたり、大阪夏の陣では[徳川家忠]の軍に参加するなど、裏切者のレッテルを張られた悪評価だが、このように豊臣家を内部分裂させるというのも[徳川家康]の策略だった説が強い。
1614「大阪 冬の陣」徳川家康20万人VS豊臣家10万人
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」のとおり時を待ち、なかなか信頼が揺るがない豊臣家をいよいよ追いつめる時がきた。3年前に豊臣系武将[加藤清正]49歳が死んだことで(家康による毒殺説アリ)脅威も小さくなっていた。※明治神宮(東京・渋谷)の「清正の井戸」はパワースポット☆
大阪夏の陣 |
[徳川秀忠]は総大将として出陣。関ケ原の戦いで遅れた失敗を挽回するぞと張り切り、今度は急ぎすぎて兵を疲れさせ、また家康に怒られながらも奮闘した。
[真田信繁(幸村)]は大阪城の川のない方角に真田丸という出っ張った城(出城)を作って敵を引き付けて抵抗するが、最先端の長距離砲に耐えられず、和睦。和睦の条件は大阪城の外堀と真田丸を壊すこと。それにより大阪城は戦闘能力を失う。
1615「大阪 夏の陣」豊臣家滅亡
豊臣家に勝つ見込みがないと去る者が出て、戦力は7万8000人に減少。[真田信繁(幸村)]は追いつめられ、最後の策として赤い装備の奇襲隊に加わり[徳川家康]を直接追いつめたが、数で有利だった徳川軍が勝利。[真田幸村]は死に、豊臣秀吉の子[豊臣秀頼]23歳とその母[淀殿]は無念の自刃。
1615「武家諸法度」諸大名の統制のための法。
1615「禁中並公家諸法度」天皇や公家を統制する法。江戸時代通して改正されなかった。
1616【家康】胃がんで死去73歳。
床で秀忠に「わしの命もあとわずか。この後、天下はどうなると思うか?」と尋ねた。「乱れます」と秀忠が答えると、それさえわかっていればよい、と安堵し亡くなったという。家康の死後、秀忠はリーダーシップを発揮。
1619堺の商人が江戸に回航するようになり1624ころ大阪で「菱垣廻船」問屋を開いた。
1630菱垣廻船の問屋の酒屋が新たに「樽廻船」にて輸送開始。こっちの方が人気だった。
1623【家光】3代征夷大将軍19歳→二元政治
江戸幕府のしくみ |
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将 軍 |
大老(臨時の職) |
《中央》 |
老中 |
大目付…大名の監視 |
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勘定奉行…財政 |
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町奉行…警察・裁判 |
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側用人 |
寺社奉公…自社の取締り |
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遠国奉行…地方都市の支配 |
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若年寄―目付 老中補佐 |
《地方》 |
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京都所司代…朝廷の監視 |
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大阪城代…西国大名の監視 |
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1624キリシタン弾圧政策
1624[智仁親王 ]1579-1629が「桂離宮」創設。桂宮家の別荘。庭園は回遊式の日本庭園。書院は書院造と数寄屋風。簡素で雅やか。
1627「紫衣事件」寺社勢力を処断し「武家政権」を確立。
1632【秀忠】胃がんで死去54歳
1633「栗山大膳事件(黒田騒動)」
*「目付」などを設置。
1635武家諸法度の改定で「参勤交代」しかしお金をかけすぎないように。
1636「日光東照宮を大改築」豪華な「桃山様式」は散財と非難されることも。
1602-1674 [狩野探幽]に家康の肖像を描かせる。幕府御用達の絵師。【元禄文化】
1637「島原の乱」
1642「寛永の大飢饉」5~10万人餓死
1638西日本の牛の大量死、
1640蝦夷駒ヶ岳(北海道)噴火、
1641夏の干ばつと秋の大雨。また武断政治による食糧不足。
1649「慶安御触書」農民にも衣食住の倹約を。
1651【家光】脳卒中で死去48歳
1651【家綱】4代征夷大将軍11歳
[補佐役:保科正之(※名君)が主導で武断政治から文治政治へ。
1653玉川上水の水路、8か月で完成。
1655「社倉制」創設。飢饉時の窮民の救済策・福祉政策に尽力。
※「朱子学」を藩学として推奨、他学問、陽明学、儒学などは弾圧した。
1657「明暦の大火」江戸の大半を消失。江戸城天守閣は再建せず、防火対策として両国橋や永代橋の架橋などにあてたが、それでも財政が圧迫された。
1661ころ90歳以上の老人に1日玄米5合を支給。年金制度の始まりと言われる。
1669[保科正之]隠居。
1672幕領である最上川の出羽の米を「北前船」で大阪に運ぶため江戸の商人[河村瑞賢]主導のもと山形県酒田港と大阪をつなぐ「西廻海運」完成。従来の大津内陸ルートより瀬戸内海ルートの方が、経費を大幅に節約できた。酒田港から直接江戸をつなぐ「東廻海運」より航路が安全だった。大阪と江戸は「菱垣廻船」「樽廻船」が往来し、大阪は「天下の台所」として栄えた。
1680【家綱】心臓発作で急死40歳
1680【綱吉】5代征夷大将軍34歳
政治に積極的で、家綱から文治政治を引き継ぐ。
1682[井原西鶴1642-1693]「好色一代男」浮世草子(小説)を出版。最初挿絵を本人が描いていたが、翌々年に[菱川師宣]に変えた江戸版も出版。【元禄文化三大作家】。井原西鶴は13歳で俳諧を目指し、34歳で妻を亡くすと1日1600句を独吟、1680年には1日4000句を独吟する矢数俳諧を得意とした。その後作家に転身。「好色一代男」が第一作目の浮世草子。しばらく好色物を書いた後、町人物、武家物、雑話物を書き、晩年1685年には人形浄瑠璃の執筆で「宇治加賀堟」と組み、「竹本義太夫」と組んだ「近松門左衛門」と競い演じる競演をし[近松門左衛門]とともに人形浄瑠璃作家の地位を高めた。
1683「倹約令」
1687年「生類憐みの令」捨て子禁止や罪人の処遇改善など人道的政策「犬公方」と呼ばれた。
1688長男徳松死去。七五三を徳松の健康祈願のために開始
1690「湯島聖堂」を建立。学問好き。
幕府の正式な学問:「朱子学」
1695東北の冷害から「元禄の大飢饉」死者5万人。
1695勘定奉行の[荻原秀重]貨幣改鋳
★元禄小判品位54.7%「大江戸リフレーション」
1707富士山宝永大噴火
1703[近松門左衛門1653-1725]人形浄瑠璃「曽根崎心中」が初上演。心中が流行りすぎ罰っせられるほどに。歌舞伎の脚本作家。
1702[松尾芭蕉1644-1694]「奥の細道」を刊行。弟子の[河合曾良]と江戸深川から出発し、武蔵(西東京)、奥州(東北)、北陸(日本海側)、美濃(岐阜県)、大垣まで旅をし「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」という序文により始まる紀行文。「古池や…」「閑さや…」【元禄文化三大作家】
[菱川師宣1618-1694]最初の浮世絵(肉質浮世絵)師。「見返り美人図」
[尾形光琳1658-1716]装飾画家。「紅白梅図屏風」「八橋蒔絵硯箱」
1709【綱吉】はしかで死去63歳
1709【家宣】6代征夷大将軍48歳
側用人:[間部詮房] 学者:[新井白石] 政治の中心人物
★【正徳の治】★
1709生類憐みの令を順次廃止。
1710従来の漢文の武家諸法度を国文に起草した武家諸法度「宝永令」発令。
1710★宝永小判品位84.3%
1711朝鮮通信使の接待を縮減。
1712【家綱】インフルエンザで死去
1712★宝永小判品位84.3%混乱を招き白石デフレ。
1713【家継】7代征夷大将軍4歳
幼年のため引き続き[新井白石][間部詮房]が政治。
1714★享保小判・正徳小判品位86.0%
1715「正徳新令(海舶互市新令)で長崎貿易を制限。金銀流出を止める。
1716【家継】早世。8歳
1716【吉宗】8代征夷大将軍32歳
時代劇「暴れん坊将軍」
★【享保の改革】★
1716[新井白石][間部詮房]をクビ「正徳の治」の法令を見直した。[新井白石]が嫌いだった説もある。
1717財政政策として「新田開発」大名から「上米(あげまい)」を徴収し収入の安定化。よって吉宗は「米将軍」とも呼ばれる。税率を四公六民から「五公五民」に引上げ。
1717飛鳥山や隅田川の桜の植樹、町整備。
1718「閑院宮家」4つ目の宮家を創設。[新井白石]の助言による。
1721「目安箱」設置。庶民の意見から「町火消し」や「小石川養成所」という無料診療所ができた。
1723「足高の制」側用人[大岡忠相(大岡越前とも呼ぶ)]を登用。家柄に関わらず能力や資質がある者を、不足した要職に登用し、退任すれば石高を戻すことで財政負担を軽減。
1728宋・元の中国画を愛好。[牧谿]の水墨画を鑑賞。キリスト教以外の洋書の輸入を解禁し蘭学を流行らせた。
1728ベトナムから象を輸入し長崎から江戸まで陸路で運ばせた。
1736[大岡忠相]による【元文の改鋳】が成功。物価や金銀相場が安定した。★元文小判品位65%
1742公正な裁判ができるよう刑の基準を明確にした「公事方御定書」仮完成。下巻は[大岡忠助]も関わった。
1745【吉宗】征夷大将軍辞任し、【家重】が9代将軍に就任するが、大御所として実権をにぎる。
1751脳卒中で死去68歳