大乙と意富比垝
[起]
「大乙」とは、史記などでいうところの殷王朝の初代、「湯王」のことである。
史記では、「天乙」、「成湯」などとも称されており、甲骨文において、「大乙」、あるいは「成」などと表記されている。
一方の「意富比垝」は、言わずと知れた稲荷山鉄剣銘の「意富比垝」である。
この両者に、直接的な接点は、ないわけであるが、それでも、その名前が文字に刻まれたタイミングなどを考えてみると、意外に似通った状況が浮かび上がってくるようにも思われる。
本稿では、その辺りのことを比較検討しながら、筆者の抱いた感想を手短にまとめてみることにしたい。
以下に述べることは、あくまでも筆者の印象・感覚であって、人によって、受け取り方は、さまざまであろう。
※ なお、史記>殷本紀 によって殷の王統を略記しておくと次のとおりである。
(殷契、母曰簡狄、有娀氏之女、為帝嚳次妃。)契─(子)昭明─(子)相土─(子)昌若─(子)曹圉─(子)冥─(子)振─(子)微─(子)報丁─(子)報乙─(子)報丙─(子)主壬─(子)主癸─(子)天乙「是為成湯」─(太子太丁未立而卒、立太丁之弟)外丙─(弟)中壬─(太丁之子)太甲「称太宗」─(子)沃丁─(弟)太庚─(子)小甲─(弟)雍己─(弟)太戊「称中宗」─(子)中丁─(弟)外壬─(弟)河亶甲─(子)祖乙─(子)祖辛─(弟)沃甲─(祖辛之子)祖丁─(沃甲之子)南庚─(祖丁之子)陽甲─(弟)盤庚─(弟)小辛─(弟)小乙─(子)武丁─(子)祖庚─(弟)祖甲「是為帝甲」─(子)廩辛─(弟)庚丁─(子)武乙─(子)太丁─(子)帝乙─(長子曰微子啓、啓母賤、不得嗣。少子辛、辛母正后、辛為嗣。)帝辛「天下謂之紂」─(子)武庚、禄父
[承]
殷王朝は、かつて、神話上の存在と考えられたこともあった。
しかるに、甲骨文字の存在が知られ、殷墟が発掘されるに及んで、実在の王朝として認められるに至ったことは、概説書等に広く解説されているとおりである。
ただし、殷墟は、殷王朝後期の遺跡であって、甲骨文字の使用も、その頃を遡るものではないらしい。
※ 最古の甲骨文は、王でいうと「武丁」の時代のものとされている。
殷王朝前期の都城としては、二里岡遺跡(鄭州商城)や偃師商城などが知られているものの、そこから文字資料が出土したという報告はなされていない。
※ ここで、念のため確認しておくと、湯王は、当然、殷王朝前期の王ということになる。
つまるところ、湯王の名前は、殷王朝後期の文字資料に、祖先の名前として見えているわけであり、決して同時代の資料に見えている名前ではないのである。
それゆえ、甲骨文が湯王の実在を証明することにはならないわけであるが、この点を捉えて、湯王を架空の人物とする論考は、皆無と言って良いのではないだろうか。
もちろん、史記などの「伝世文献」に記された湯王の個々のエピソードに関しては、否定的な見解が示されていることの方が多い。
さりながら、殷王朝の初代が湯王であったという点に関しては、史実として認められているように思われる。
甲骨文に書かれていることを尊重して、同時代資料ではなくても、肯定的に評価しているということであろうか。
より遠回りな判断の流れとしては、伝世文献の内容(武丁以降の王の実在など)が同時代資料の甲骨文によって裏付けられたため、伝世文献(特に系譜部分)の信頼度の底上げに繋がり、湯王の実在性に対する評価にもプラスの影響を与えたということになろう。
言わば、系譜伝承に「弱い類推」が適用されたというところであろうか。
[転]
このような東洋史の状況に対して、日本古代史の場合は、いかがなものであろうか。
殷の湯王と同じような立ち位置にある人物として、すぐに思い当たるのは、稲荷山鉄剣銘の「意富比垝」であろう。
この人物が記紀に見える大毘古(大彦)命であろうことは、大方の認めるところとなっている。
しかも、銘文と同時代の人物ではなく、「乎獲居臣」の七代前の祖先とされている。
先ほどの湯王の場合を想起させるに十分な状況であろう。
この「意富比垝」の実在性について、学界では、どのような議論がなされているのか。
ざっと見る限り、否定的な見解の方が多いと感じるのは、筆者だけではあるまい。→補注
否定論者の言う「伝承の存在と、人物の実在は、別々に考えなければならない」というのは、まさに、そのとおりであろう。
同時代資料とは言えないものを確実な証拠とするわけにもいくまい。
ただ、そのことが、即座に否定の根拠となるわけではなく、むしろ、実在の可能性を示唆していると考えた方が素直な解釈となるのではないだろうか。
東洋史の、殷の湯王に対する解釈などは、ごく自然なものであるように感じられる。
[結]
史実か否かを確定できない時に、「否」と答えるのは勇み足であって、あくまでも、「分からない」とするのが正解である。
ただ、「分からない」を連発するのも、木で鼻を括ったような話であって、興味を殺がれるという以前に、議論が成り立たなくなってしまう。
その時に、「期待値」を持ち出して物語るのは、決して不当なことではあるまい。
東洋史の概説書などで、湯王の実在が語られているとすれば、それは、「期待値」を述べていると解すべきであろう。
この点、日本古代史の場合は、正確性を標榜しながらも、それを「否」と結び付けている場合が多いように感じられる。
繰り返しになるが、正確を期すならば、「分からない」と言うべきなのである。
もちろん、否定的な「期待値」を述べることも許容される範囲内にある。
しかしながら、千数百年の時を経て出土した文字資料の内容をあっさりと否定してしまうのは、いかがなものであろうか。
どうしても違和感が残ってしまう。
なぜ、そこまでして否定するのか。
これが筆者の抱く感想である。
付記
ところで、殷の世系については、湯王以前の系譜も伝えられており、史記では、契から主癸に至る13代の名前が記録されている。
※ さらに言えば、契は帝嚳の子とされている。
この点、甲骨文においても「上甲(微)」から「示癸(主癸)」まで、6代の名前を確認することができる。
※ 括弧書きの「微」や「主癸」は、史記における表記である。
これら祖先の実在性については、学界でも、さまざまな意見が存在しているようである。
甲骨文に名前の見られない祖先を架上されたものと見做したり、さらには、湯王以前のすべての祖先を否定する論調も見られる。
湯王の実在に対しては、一様に肯定的な見解が示されていたことと比べると、明らかに様相が変化しているように思われる。
このことは、夏王朝の存在をどのように考えるのかという点とも、微妙に係わっているのであろう。
仮に、「上甲(微)」以降の祖先が実在していたとした場合、彼らは、どのような存在であったのか。
まさか、庶民とするわけにも行くまい。
かといって、王とするにしても、殷王朝の初代は、湯王で間違いなさそうである。
現状で、最も説明し易いのは、夏の諸侯であったという想定であろう。
湯王以前の祖先を認めた場合、どうしても夏王朝の存在が視野に入ってきてしまうように思われる。
実際、二里頭遺跡のように、殷の二里岡遺跡や偃師商城に先行すると考えられる都城の遺跡も確認されている。
夏王朝の実在を認めようとする論者は、決して少なくない。
ただし、夏王朝の歴代の王名を認めるか否かという点に関しては、明言を避けているように見える。
甲骨文に相当するような文字資料の存在に欠ける以上、殷王と同様の説明は難しいというところであろう。
それでも、筆者の目からすると、上述の「弱い類推」は、適用できるように思われる。
特に、湯王と戦って敗れたとされる桀王(夏王朝最後の王)の名前などは、完全に忘れ去られたとすることの方が不自然ではないだろうか。
※ ここで、史記>夏本紀 による夏王の系譜を略記しておくと次のとおりである。
(夏禹、名曰文命。禹之父曰鯀、鯀之父曰帝顓頊、顓頊之父曰昌意、昌意之父曰黄帝。)禹─(子)啓─(子)太康─(弟)中康─(子)相─(子)少康─(子)予─(子)槐─(子)芒─(子)泄─(子)不降─(弟)扃─(子)厪─(不降之子)孔甲─(子)皋─(子)發─(子)履癸「是為桀」
追記
少なくとも、殷以降の時代は、世襲制度の行われていた時代であったに違いない。
祖先の事績が子孫の地位・身分に決定的な影響を与えるのだとすれば、その事績と継承の次第は、最大限の努力を払って記憶されることとなろう。
王に限らず、有力者の系譜は、王朝の構成員の間で、広く共有されていたはずである。
平時においては、そのような共通の知識によって、地位・身分が決定されていたとも言い得る。
従って、その知識は、時代を越えて受け継がれていく性質のものであった。
※ 易姓革命による権力の組み換えがあったにしても、過去が消し去られることはなかったらしい。
後世、史記にまとめられた、夏・殷・周の記憶は、上記「共通知識」の最終形態とでも言うべきものであろう。
その前段には、五帝本紀のような儒教的神話も付け加わっており、「共通知識」の方にも、何がしかの着脱が想定されるが、原形を失うまでには至っていないと考えられる。
このような「神話」と「共通知識」のセットは、中国のみならず、日本においても見られるところである。
※ 古事記・日本書紀の物語るところについては、あらためて説明するまでもあるまい。
しかも、伝承された「共通知識」の内容が意外と“しっかり”としていることは、甲骨文字の発見によっても裏付けられたし、稲荷山鉄剣銘によっても確認されたと言って良いのではないだろうか。
補注
昭和53年、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣に銘文が刻まれていることが公表されると、学界でも、多くの議論が巻き起こった。
例えば、井上光貞は、『シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』(192-195頁)の中で、津田左右吉の学説(いわゆる「帝紀」と「旧辞」が六世紀中頃に成立したとする仮説)に賛意を示した上で、
崇神朝の四道将軍の話は、右にいう『旧辞』の一部であり、『旧辞』は六世紀の前半に、口伝の形態のものを『旧辞』という本に記録化されたのです。そうすると、その口伝は、なにがしかの史実にもとづくか、国家成立を説明するための単なるフィクションであるかどうかはしばらくおき、その口伝が、既に六世紀前半のなにがしか以前に成立し、朝廷の間に知られていたにちがいありません。
それではいつからか。問題の銘文の刻まれた辛亥年を、私は四七一年とするのですが、たとえば『旧辞』の兄弟の、『帝紀』については、その記憶が四世紀末、五世紀にさかのぼることについては、私は私なりに、以前に確認しております(「帝紀からみた葛城氏」一九五六年、『日本古代国家の研究』一九六五年所収)。そうすると、『旧辞』の四道将軍説話についてもまた、五世紀中葉の四七一年の前後の宮廷ですでに成立していた可能性は十分にあるといってよいでしょう。
と述べて、乎獲居臣が大彦命の名前を知っていたと推定し、さらに、
それでは銘文の作者が記紀伝説の大彦命を八代の第一の、「上祖」としているのはなぜか。論者は、大彦命が本当にかれらの祖先だったからそう記したというのでしょうが、私は、この血縁集団の人々が、その系譜を作るにあたって、その系譜の本源を、かれらのよく知っている四道将軍説話の中の、東海・北陸につかわされた大彦命という英雄に求めたのだ、こう考えるのが一番自然であるとおもいます。
※ 下線部分、原文では傍点を振って強調している。
という「私見」を披瀝している。
つまるところ、四道将軍の「口伝」が史実を伝えているのか否かについての判断を保留しながらも、五世紀中葉には、伝説として成立していたことを認め、その上で、「大彦命は実在したと短絡することに反対」であると表明している。
このような否定的な考え方は、今日に至るまで、斯界を広く覆っているように見える。
筆者などは、鉄剣銘の系譜を作られたものと考えることの方が「短絡」ではないかと思うのだが、いかがなものであろうか。
参考文献
『史記』(“漢籍電子文献資料庫”、台湾中央研究院公開電子テキスト)
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』(講談社学術文庫、2000年)
落合淳思『殷─中国史最古の王朝』(中公新書、2015年)
佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社新書、2018年)
岡村秀典『夏王朝─王権誕生の考古学』(講談社、2003年)
『シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』(新潮社、1979年)