姫神せんせいしょんの引き出し
1980年代のはじめ、シンセサイザーがこの世に現れて、音楽というものを変えていったのだが、その最初に見られた現象はYMOをはじめとした「テクノポップ」と呼ばれる機械音楽だった。
そんな中で、シンセサイザーという新しいものを使って、常識的な新しさではなく、日本というものに面と向かった音楽づくりをする「姫神せんせいしょん」というグループが現れた。ともすれば、宇宙とか外国とかにテーマが向かって行きやすい中、姫神せんせいしょんは当初から岩手県を中心とする東北地方にテーマを据えていた。和のリズムを奏で、和太鼓や尺八や三味線の(あるいはそれを模したような)音色を紡ぎ出して行った。
「姫神せんせいしょん」からリーダー星吉昭氏が独立して「姫神」という名前に変わったり、ボイスや歌に新しい展開を見出したり、一筋縄ではいかない「姫神せんせいしょん」の30年余りを振り返ってみたい。
赤文字の曲名は、私が個人的に気に入っている曲。
姫神せんせいしょん(1981)奥の細道
姫神せんせいしょんのファーストアルバムは、その名も「奥の細道」。ステージは最初から東北だった。
デビュー曲の「奥の細道」が岩手放送のラジオで繰り返し流されたとか、東北本線の主要駅で列車が着くたびに流れたとか、そういう伝説は、私は岩手県に住む前の話なので知りはしない。
ただ、このファーストアルバムは、今聴いても「姫神」がスタートから「ぶれていない」ことを誰もが確認することができる。ロックやフュージョンの雰囲気を漂わせながらも、後に「姫神笛」と誰かが呼び始めた透き通った笛のような音色が既に登場しているし、東北の自然を表した「ありそ(荒磯)」「やませ」やさりげなく岩手の地名を滑り込ませた「Gun-Do」(多分岩洞湖)や「紫野」(村崎野?)など、のびのびと東北を演奏しているのだ。
アルバムの中の一押しは「行秋」(ゆくあきと読む)。岩手の秋は物悲しい。すぐ近くに圧倒的な冬が待ち構えているからだ。そんな晩秋の風景を、キーボードのメロディから入り、空気を感じさせる鐘の音や風の音のような音とともに紡いでゆく。
姫神せんせいしょん(1982)遠野
姫神せんせいしょんのセカンドアルバムは「遠野物語」を主題にしたと思われる。アルバムジャケットは、続石の上に南部曲がり家が乗っかっているが、その背景には大地の果てにも見える底のない巨大な滝が描かれている。遠くには早池峰山も見える。明らかにここは遠野。いや遠野をモチーフにした不思議な世界だ。
祭りのリズムから始まる「春風祭」は、サビでは姫神ならではの節回しが現れている。清らかな自然を表す「水光る」「峠」、不気味な世界が広がる「サムト」「赤い櫛」。この「赤い櫛」は微妙に音を外し、ヴォコーダーを通して変な音色を生み出すなど、初期作品ならではの遊びというかチャレンジが見て取れる。「早池峰」では和太鼓のリズムが使われているし、ラストは佐藤将展作曲のリズミカルな「水車まわれ」で締めるなど、バンドとしての「姫神せんせいしょん」らしさも全開だ。
姫神せんせいしょん(1982)姫神
結果的に長くはなかった「姫神せんせいしょん」の中では最高傑作のアルバムだし、広い意味での「姫神」の長い歴史の中でも最高傑作の一つだと私は思う。
1曲目はこのアルバムジャケットをそのまま音楽にしたかのような、煌びやかな「舞鳥」。2曲目の「七時雨」は県北部にある山の名前だが、その名前からインスピレーションを受けたような、山に延々と時雨が降り続けるような3拍子の曲。
4曲目に「空の遠くの白い火」が来る。「空の遠くの白い火」は、私が姫神せんせいしょんを知るきっかけになった曲でもあるが、今でもこれが最も好きな曲であることに変わりはない。リメイクなどされなくて本当によかったと思う。まるで南米のケーナのような笛の音とギターのアルペジオ、遠い空間を感じる姫神笛が、美しいメロディを引き立てている。30年経った今も色あせないアレンジが素晴らしい。
6曲目の「えんぶり」は和太鼓と男たちの掛け声を前面に押し出し、シンセは後からついてくる。9曲目の「杜」は本当の笛で奏でているような印象的な1曲。清涼な湧き水が流れているような場面で、未だにテレビでも流れていたりする。そして最終曲「風光る」は、前アルバム同様、気分のいいリズムでアルバムを終わらせてくれる。
姫神せんせいしょん(1983)姫神伝説
「姫神せんせいしょん」4枚目にして最後のアルバム。前半はこれまでの流れを引き継ぐが、後半に行くにつれて、星吉昭氏による「姫神」というソロ・ユニットに向かってゆく雰囲気が感じられる。
オープニングは小気味良い曲で始まるという定番を踏襲し「鳥のごとく」。盛岡の街を俯瞰しているような気分が味わえる。
「遠い日・風はあおあお」「十三の砂山」はメロディが美しい。前作の「空の遠くの白い火」にも通じるメロディアスな曲は、姫神せんせいしょんの魅力の一つでもあった。「十三の砂山」は後にリメイクされるが、私はこの原曲のアレンジのほうが好きだ。サビのシンセのハーモニーが叙情的だ。
「桐の花むらさきに燃え」も同じシリーズで、多少テンポがいい曲だ、と思っていたら、星吉昭氏ではなく佐藤将展氏の作品であった。こういう曲想のままで、姫神せんせいしょんが続いていたらどうなったのだろう。そんな歴史のもしもは叶うはずはない。最終曲「雪女」のリズムの中で、姫神せんせいしょんは予告せず終わっていった。
姫神 With YAS-KAZ(1984)まほろば
1984年のアルバムは姫神せんせいしょんではなく姫神とパーカッション奏者YAS-KAZのユニットに変わった。そして、当時流行りつつあった環境音楽というような側面が非常に濃くなったように思った。5曲目の「まほろば」がやたらに長いから、全部で6曲しか入っていない。これまでの聴きやすい音楽から、高尚なものを求めすぎて、聴きづらくなったように思えた。
だから「星が降る」も「光の日々」も「草原情歌」もいい曲なんだが、耳に入ってこない。
これまでの姫神せんせいしょんはどうなっちゃうんだろう。こうなっちゃうんだろうか。そんな不安の始まりを予感させるアルバムなのだった。
姫神 With YAS-KAZ(1985)海道
NHKの「ぐるっと海道3万キロ」のオリジナルサウンドトラックとして作られた曲を集めたアルバムだそうだ。当時、その番組も見ていないし、FMなどでも聞けなかったので、1990年代に入ってからCDを購入して初めて聴いた。
なんか高尚などこかに向かって進んで行ってしまうのかと思っていた割に、姫神らしいシンセ笛のハーモニーが聴ける小気味良い作品が並んでいた。「海道を行く」「砂の鏡」「貝の光」などがそれだが、姫神せんせいしょん時代のような遊びやチャレンジはなく、決まった一定の方向に視点を定めてしまったように思えた。
もっとも、このアルバムによって姫神は、NHKの音楽を奏でることで、これまでの東北という枠から抜け出し、さらにそれは姫神自身をメジャー化させるきっかけになったのだと思う。喜多郎は知っていても姫神は知らないという人が、このアルバムを境に減っていったのだと思う。
姫神(1986)北天幻想
姫神というソロ名義での初めてのアルバムは、奥州平泉をテーマにしている。全体的にやはり高尚な雰囲気が漂っているのは事実。最後に組曲を配置するあたりもそう。
「平泉−空−」は平泉の地を空から俯瞰するようなサウンド、「白鳥伝説」は平泉の歴史が交錯するような切れ味のいいサウンド。いずれも姫神特有のシンセ笛の醍醐味が楽しめる。
組曲「北天幻想」では、「毛越寺」で僧侶たちの声明、「常夜」で水沢の蘇民祭の声を入れ込むなど、その後の姫神を想像させる展開がある。だが5分を越える長い曲を並べた組曲は、作り手の気持ちの入り方に比して、聴き手としては重過ぎる。
姫神(1987)雪譜
雪だけをテーマにした10曲が集まるアルバム。雪深い東北の風景を音で奏でたという表現がふさわしい曲の数々。
ジャケットも和紙のような感じになり、リトグラフでデザインされている。
「雪光る」は雪晴れの朝を表現したような希望を感じさせる曲。「風花」は次々と勢いよく降り続く雪の光景が目の前に現れるような格好いい曲。素人にとってもサンプリングというのはこういうことなのかということが分かる。ラストの「沫雪」は春が訪れて雪解けが始まり、屋根から落ちる滴が陽に光るといった光景が思い浮かぶ。ハーブの音のようなアルペジオとシンセ笛の透き通ったメロディーが美しい。
だんだんと、ソロになってからの姫神というものが分かり始めたアルバムだった。
姫神(1988)時をみつめて
1987年から1988年への年明けに放映された全民放「第32回ゆく年くる年」の音楽担当は姫神であり、その時のオリジナルサウンドトラックが1988年に発売された。この年は、私は岩手県を離れて社会人になるという節目の年であったが、年末にそんなテレビを見る習慣もないので、姫神の全国区の活躍を知るのは、CDプレイヤーを購入した1990年代に入ってからのことだった。
アルバムの性格上、東北という臭いはしないし、日本という臭いもあまりしない。「カイロ」などという曲も入っているほどだ。残念ながら、私がこのアルバムで最も印象に残るのがこの「カイロ」なのだが。
一応、姫神笛とか、「あー」という女性コーラスにも似た音色とか、姫神を感じさせる部分も入れ込まれたアルバムで、姫神を知らない人の耳に、姫神というものをインプットできたのかもしれないと思うと、ちょっと安心する。
姫神(1989)姫神風土記
星吉昭本人が家族ともども田瀬湖畔に移り住み、生活の中で作り上げたアルバム。この時期の「姫神」の中では最高傑作のアルバムだと思う。
自然の中での実際の音を付属的に据えているのも特徴だが、曲そのもののテーマも東北に帰ってきた。そしてその曲調は今までより洗練されたという感じがする。
「風の旅」はゆったりと風に乗って旅をするような曲。サビの部分の姫神笛のハーモニーが美しい。「翼」は笛をメインにしたメロディを奏でる。「星はめぐり」は個人的にはアルバム中で最も好きな曲。先ほど洗練されたと書いたが、これまでどちらかというと土着に重きを置いていた姫神が、全国区になるにつれ、東北以外の人々に東北をアピールできるような曲を書き始めた・・・という風に感じた。
姫神(1990)イーハトーヴォ日高見
宮沢賢治の童話をテーマにしたアルバムだが、非常に難解。リズムがないし、全くポップ感がない。同じような曲が続くし、1曲の中に2〜3の曲名が入る組曲のようなものもあり、どの名前がどの曲なのか分からなくなる。
ただ、後になってこのアルバムの曲の数々が、実際に宮沢賢治の童話の朗読に合わせて作られたものだと知った。リズムがないのではなく、リズムは朗読の声なのかもしれない。宮沢賢治の童話があって、この音楽が成り立つのかもしれない。
そうすると、それはそれで奥が深いアルバムなのだと思う。しかし、当時の私にとっては、「まほろば」で感じたのと同様に、姫神はどこに向かって行くんだろうという不安だけが残った。
姫神(1992)ZIPANGU姫神
毎年新譜を出してきた姫神だが、ここでは2年空いている。
出してきたアルバムは、これまで日本からの視点で日本を見てきたのに対し、海の向こうの見知らぬ地からやってきて日本を見たという感じ。ライナーノートにもそんな感じの言葉が書いてある。「風、大循環に」という1曲目がそれを表しているのだろう。風は海を渡り、東にある見知らぬ神秘の国ZIPANGUを目指して進んでくる。4曲目の「東方エルドラド」でその見知らぬ日本を目の当たりにし、5曲目「金銀島」でそこに上陸、6曲目から先は姫神の演じる日本というものに深く入り込んでゆく。前半の南方風のメロディから後半の純日本風メロディへの転換は、そういう意味かも知れない。
しかし、アルバム「まほろば」で感じたとっつきにくさをまた感じてしまうのも事実。
姫神(1993)炎
平泉をテーマにしたアルバムで、同じ趣旨のアルバム「北天幻想」に比べると入り込み方が一層激しい。NHKの大河ドラマ「炎立つ」との関係がよく分からない。そういうドラマを見ることのない私はドラマで使われた曲なのだと思っていたが、そうでもないらしい。「炎の柵」あたりはテレビで聴いた記憶もあるのだが。
いずれにせよ平泉をテーマにしてしまうと、全体が重くなる。もっとも、後から考えると、前作「ZIPANGU」で大陸からやってきて日本の平泉に降り立ち、本作「炎」につながり、そして次作「東日流」につながると思えば、よく考えられた構成かも知れない。
最後に流れる「雲はてしなく」でほっとした。ようやく重たい地面から大空に解き放たれた爽快感を感じる。この曲は、「七時雨」「風花」などのように、淡々とした自然のありさまを姫神が音で紡いだ名作のうちの一つだろう。
姫神(1994)東日流(つがる)
青森県の十三湊(とさみなと)に古代津軽の文化があり、大陸からの国際交易港になっていたという史実に基づき、星吉昭の言う「北人霊歌」という青森の人の唸るような音色を引き出したアルバム。この地が平泉文化を支えたという観点からすると、前作「炎」との関連性も深い。
そしてこのアルバムは、姫神の一つの転換点を予感させるアルバムでもある。中国の胡弓(二胡)奏者の許可(シュイクゥ)、モンゴルの歌手オユンナ、ボイスの畠山孝一を迎えた最初の作品となった。まだそれらは控えめで、二胡の演奏が目新しい程度だが、その後に次作品を知ってから聴くと、ここでスタート地点に立ったことを実感する。
そしてもう一つ、1曲目の「十三の春」を息子の星吉紀が作曲している。息子の登場は初めてだが、アルバム1曲目に据えたり、アレンジで許可の二胡の演奏を加えるなど、力の入りようは半端でない。メロディは父親星吉昭が作曲したといっても通るような聞き慣れた姫神節なのだが。
最終曲「幻想・東日流」は組曲になっており、例に漏れず曲の区別が分かりにくい。しかし、最初と最後が三味線の生演奏、6曲目の「風の子守歌」がオユンナのモンゴル語の歌になっており、次作品への架け橋となっている。
姫神(1995)マヨヒガ
横尾忠則による奇怪なジャケットデザインと、ボイスを多用した1曲目の「明けの方から」の強烈な印象から、姫神が新たな一歩を踏み出したと実感せざるを得なかったアルバム。前作から引き続き二胡の許可、民謡歌手の畠山孝一を迎えているが、それらの主張が一層強まった感がある。しかしその一方で、これまで数年間感じられた高尚な部分が姿を消し、ポップで聴きやすかった初期姫神せんせいしょんのテイストも返ってきたように感じる。
2曲目の「琥珀伝説」はシンセと二胡の競演によるメロディアスな1曲。久慈の琥珀をテーマにしたのであれば、確かにその美しさがメロディにあらわれている。
3曲目の「雪」はボイスを多用した賑やかな曲。ちなみにアルバムタイトルの「マヨヒガ」とは、遠野物語に描かれた山奥の謎の屋敷「マヨイガ」のことで、このアルバムは東北に眠る魂をこれまでにないアレンジで描いているのかもしれない。
だから、曲名だけ見るとこれまで東北の自然や伝説を描いてきた姫神の延長にも見えるが、曲の内容は曲名とは素直には合致しない気がする。
姫神(1995)浄土曼陀羅
コンサートの模様を録音したいわゆるライブ盤なので、この流れで取り上げるかどうかは迷うところだが、初録音曲もあるので、順番の途中に入れてみた。
1995年7月に毛越寺庭園で行われた「平泉毛越寺法楽会 浄土庭園コンサート」での演奏曲が10曲入ったアルバム。平泉をテーマにした既存曲とか、至近のアルバムからのオリジナル曲もあるが、読経をメインにした曲(?)が4曲ほどあり、これに合わせた舞などもあった模様で、同時発売のDVDのほうがその場の雰囲気を良く伝えているのかもしれない。
このアルバムが出た当時、車の中でかけていて、友人を乗せたら「お経聴いて楽しいの?」と言われてしまったが、部分的にしか聴かないとそう思われても仕方がない構成になっている。
オリジナル曲での初録音はラストの「浄土曼陀羅」。このコンサートのラストの曲だからこの名前になったのだと思うが、本当ならどこかのアルバムの中で存在感を示してほしい、姫神らしいメロディの名曲。ライブ盤以外の音源はないようなので残念。
姫神(1996)風の縄文
前作「マヨヒガ」に続き、ヴォイスを多用した新境地がぐんぐんと奥深く進んでいくイメージの好アルバム。モンゴルからオルティンドー歌手のオットフォンバイラと馬頭琴のチンゲルトを迎えており、楽器としてのヴォイスの効果がいかんなく発揮されている。
1曲目はオットフォンバイラのヴォイスによる「風の大地」で幕を開ける。3曲目の「草原伝説」はさらに伸びやかなヴォイスが響く。そして4曲目の「風祭り」では得意のシンセ笛のハーモニーでハイテンポな曲を奏でるが、ヴォイスがなくても十分縄文の牧歌的な風景を描き出している。
「祭り神」でのチンゲルトの低音のヴォイスはすごい。そして事実上のラスト曲である「森渡り」では二人のヴォイスと許可の二胡が共演するという大団円を迎える。
こういう流れの中では、2曲目の「見上げれば、花びら」の日本語の歌というのはどうかと思ってしまう。日本語の歌は意味を持ってしまうから、曲ではなく歌詞に引きずられてしまう。意味を持つ声は楽器にはならない。そんな気がしてしまうから、私個人的には好きになれないのだ。
ちなみに余談だが、オットフォンバイラの声は細川たかしに似ている。誰もがこのアルバムを聴いてそう感じるらしい。
姫神(1997)風の縄文Ⅱ 久遠の空
風の縄文のシリーズ第2弾。今回は、女性ボーカルのヤドランカ、中島和子、エミシ・ヴォイスなどが加わり、女性の声を多用した優しげな印象が強くなった。
1曲目の「風の彼方」から日本語の女性ボーカル(中島和子)が入っており、意表を突かれる。後半の「十三の子守唄」「風恋歌」も同様。
楽器としての女性ヴォイスが活きているのは、2曲目の「花の久遠」、4曲目の「この草原の光を」で、シンセの音色との融合が美しく、この時期の姫神の魅力が最も現われている作品だと思う。
このヴォイス時代にも、アルバムの中で1曲はヴォイスなしの名曲を入れてくれるのが姫神だが、このアルバムでは5曲目の「春の風」がそれに当たる。笛の音色を軽やかに風に見立てたのか、軽快なメロディが奏でられる。
そして事実上のラストは、祭囃子のリズムとロックのリズムが融合したような「虹祭り」。これまでにも和太鼓や囃子声などを入れた祭囃子系の曲は数多くあったが、ここまでシンセサイザーの音楽として独立した魅力を持つものはなかった気がする。この曲をバックに男の壮絶な祭りが展開する光景が思い浮かぶ。
姫神(1998)縄文海流 風の縄文Ⅲ
風の縄文のシリーズ第3弾。しかし、このアルバムのテーマは日本というより赤道直下の国らしい。TBSテレビの紀行番組「神々の詩」のテーマ曲及びその番組のために作られた曲を中心としている。ほとんどの曲に歌詞があるが、いずれも縄文語を使うなど、歌の意味を読み取ることはできない。これは、楽器としてのヴォイスを多用してきた姫神の音楽としては正解なのだと思う。
前作からのエミシ・ボイスと中島和子は姫神ヴォイスに統合された模様。そのほかにも、テーマとなる現地の歌などをサンプリングしているらしいが、いずれも女性ボーカル。2〜3作前の男性ヴォイスは影も形もない。
2曲目の「赤道伝説」、8曲目の「南天の海原」で、姫神ヴォイスの美しいコーラスと姫神節の融合が聴ける。
このアルバムの中での完全なインスト曲は「霧」。一言で言うとカッコいい曲。濃く薄く霧のかかる森をゆっくりと俯瞰映像で眺めているような悠然としたリズム。
そして5曲目の「神々の詩」は、姫神の音楽を全国に知らしめた。この曲から姫神を知った人は、姫神にワールドミュージックの印象を持っているかもしれない。
姫神(1999)シード
縄文シリーズの延長線上にあると思われるアルバムで、やはりほとんどが女性ヴォイスや歌。日本語の歌はなく、縄文語なので、何を歌っているのかは分からない。
「草原の舞」では久々に男性ヴォイスのオットフォンバイラの声も聴ける。
これといった曲がないのは残念だが、インスト曲は5曲目の「森の雫」。前作の「霧」と同様にメロディというよりリズムで聴かせるタイプ。
ただ「雲はてしなく」をヴォイスMIXでセルフカバーしてしまったのは残念。もしかして、過去の名曲を次々と姫神ヴォイスが縄文語の歌に変えてしまうのではないかという、根拠のない予感に当時の私は底知れない不安を抱いたものだ。
姫神(2000)千年回廊
やはり姫神ヴォイス全開のアルバム。多分、「神々の詩」あたりから姫神を知った人は、このヴォイスや歌声の人が姫神なんだと思っているかもしれない。
アルバムの幕開けは厳かな感じの「千年の祈り」から始まる。これまでとちょっと違うとしたら、シンセサイザーというよりオーケストラの演奏がメインになっている感じがあるアルバムだ。「帰らぬ日々」では姫神ヴォイスが悲しげな日本語の歌を歌う。
このアルバムの中でのインスト曲は「月あかりの砂のなかに」で、曲名、メロディ共に20年の歴史のある姫神ならではの作りではあるが、主張は弱い。インストがヴォイスに完敗した感じ。
8曲目の「死海」もインスト曲だがピアノとチェロの暗い響きは姫神の音楽とは思えない。男性スキャットが物悲しい「独想」がアルバム後半の暗い雰囲気を更に助長するが、尺八のような響きの「あの空の下で」が希望を抱かせるメロディでアルバムを締めくくる。
姫神(2002)青い花
女性コーラスによる日本民謡のアルバムとしか受け取れない。のっけからタイトル曲の「青い花」は姫神ヴォイスによる日本語の歌。民謡風の節回し。ブックレットには歌詞が書いてあるが、これだけ素晴らしいメロディを作れる人が、詩を書くとこうなのかという落胆を感じてしまう。
そしてこのアルバムは「コキリコ」をはじめとした日本民謡3曲が入っている。
インスト曲は「朽葉の道」1曲のみ。それも存在感が全くない曲。
「あの遠くのはるかな声」「火祭りの夜」「讃歌〜種山が原へ」の優しげなヴォイス+姫神サウンドは心地よいのだが。
21世紀に入り、2年ぶりに出た新譜は、姫神がさらに『歌』の世界へと突き進んでいく感じが見て取れた。
姫神(2004)風の伝説
結果的に星吉昭氏の遺作となったアルバム。主題は前作「青い花」と変わらず、日本語の歌で1曲目が幕を開け、日本民謡「最上川舟唄」のアレンジ曲を含む全8曲が女性コーラス入り。
ただし、今回は姫神ヴォイスだけでなく、フィリップ・クーテフ・ブルガリア国立合唱団を招き、ブルガリアン・ヴォイスを取り入れた曲が3曲ある。有名になった「神々の詩」をこのブルガリアン・ヴォイスでセルフカバーしているが、素人には姫神ヴォイスとの使い分けた理由がよく分からない。
「風に消えた歌」では、姫神ヴォイスの悲しいスキャットが何かを予感させる。星吉昭最後のインスト曲「大地はほの白く」は、静かなサウンドで大地の自然を奏でる真骨頂。このアルバムジャケットのように、空が白んでゆく様をシンセサイザーで紡いでゆく。
基本的に姫神の日本語の歌は好きでない私だが、ラストの「風の人」で歌われる「あなたと出合う為に生れてきた」(原文のまま)と繰り返される歌詞が、星吉昭の遺言のように思えてならない。
姫神(2008)天・日高見乃国
星吉昭氏が亡くなって、姫神は終わるものと思っていた。しかし、4年後、息子の星吉紀氏による「姫神」のアルバムがリリースされた。ブックレットに「北人霊歌」とか「日高見」とか書かれており、父親の魂を引き継ぎ過ぎているようにも見える。曲名も、その演奏もしかりである。
星吉昭がいなくなったのに「姫神」が存在し続けていいものなのか。
だが、世の中には世襲というものがある。歌舞伎も能も落語も、そして住職でも相撲でも、世襲というものがある。特殊技能の世界の中では、親の持っていた技術や才能を、息子が引き継ぐことは少なくない。「姫神」も日本の伝統芸能と同じように、息子が世襲することで、ひとつの伝統を確立したのではなかろうか。
そんなことを考えては見たものの。続くアルバムを聴いてみようという気は残念ながら起きなかった。
3曲目の「深山ノ夕霧」は悪くない出来だが。
せんせいしょん(2008)桃源郷
1984年に「姫神せんせいしょん」を解散する際、星吉昭は「自分は“姫神”をやる、お前は“せんせいしょん”をやれ」と言ったらしい。その星吉昭が亡くなってから、3人が集まって「せんせいしょん」を結成した。
時を同じくして息子が世襲した「姫神」が末期の姫神を引き継いだのなら、「せんせいしょん」は初期の姫神せんせいしょんを甦らせてくれたとも言える。あるときは環境音楽に、あるときはボイスに、あるときは唄に、色々な寄り道をした「姫神」ではなく、「姫神せんせいしょん」の今の姿に見えるのだった。
星吉昭の節回しを連想させる「錦秋」や祭囃子を取り入れたような「郷の踊り子」「夏まつり」もいいが、ドラマティックなサビのメロディの「ウスユキ草」や尺八の音が素敵な「御堂の森」が特にいい。
1980年代のシンセの響きを現在に融合させる新たなサウンドを聴かせてくれることを期待したが、その後の目立った展開は今のところない。
せんせいしょん(2011)紺碧の創造
地域振興のためのコンピレーションCDなのだろうか。岩泉町の龍泉洞が町営になって50周年を迎えたことと、東日本大震災復興支援を兼ねて製作されたらしい。市販されていないので、岩泉町の通信販売で購入した。
佐藤将展の作曲で大久保正人が尺八を吹く「ドラゴンブルー」は珠玉の名曲。龍泉洞の紺碧の地底湖をイメージしたと思われる尺八のメロディに、地下深いところで不意に射した地上の光をイメージさせる女性コーラスが加わるところが絶品。
カップリングは「中野七頭舞」の演奏。そして最後に「リスペクツ」と称してせんせいしょんによる「中野七頭舞」が駄目押しのように繰り返される。
シングル盤的な意味づけだと考えれば、先のアルバム「桃源郷」を「ドラゴンブルー」1曲で上回ってしまったと感じる、名盤だ。