出会いの記憶

石瀧豊美

1998年12月1日

増補版『玄洋社発掘』出版記念会にて

* 『玄洋社発掘―もうひとつの自由民権』増補版の刊行は1997年8月25日のことである。しかし、出版記念会の話は出ないまま年を越え、私は急激にやせ始めた。そして、ついに20キロ以上も体重を減らした(そのことは『部落史は思ったよりおいしい』の「まえがき」に書いた通りだ)。
 9月に手術をして入院中、大谷賢二さんが、私個人による常設講座の計画を進め始めた。スタートを99年1月からとして、大谷さんはその主宰する福岡歴史研究会(講座運営の主体)の発会式とからめて、遅ればせながらの出版記念会を設定したのである。
 私はほおがこけて吹けば飛ぶようにやせていた。その会で出席してくれた方々に宛て、記念の品に添えたのがこの一文だ。
 私は自分自身について語ったことがほとんどなかったので、この機会にと思って、「出会いの記憶」をたどってみた。


    
 わたしはなぜここにいるのか。
 年のせいばかりでもないだろうが、ふとそんなことを考える。
自分で求め、切り開いてきた人生ではない。人との出会いの連続がわたしをここまで連れてきたのだった。
 出版関係の仕事をしたいと飛び込んだ葦書房。たしか赤坂郵便局の近くだった。関西の新聞に載った出版社紹介のささやかな記事を見て訪ねたことを覚えている。最初の一石、これだけはわたしの「清水の舞台を飛び降りるような」思いきりだったにはちがいない。人付き合いが苦手で、どちらかといえば引っ込み思案な、いつものわたしには不似合いなことだった。昭和48年の9月頃だろうか。24歳になったばかりだ。世間知らずでもあった。仕事を求めているというのに、たぶん半袖のカッターシャツといったいつものラフな服装。背広にネクタイでなかったのは確かだ。関西にいた頃、雑誌の編集を手伝ったことがあるという経験だけが頼りだった。
 応対したのが今は石風社を経営している福元さん。人は足りていると断られたのだが、同年輩の福元さんとの出会いが次のステップにわたしを運んでいった。
 自分の一生の仕事を探し求めていたちょうどその時、ある日開いた西日本新聞で花田衛記者の「無冠の群像」に出会った。結果として、それがわたしの進路を決めた。昭和50年9月20日付の西日本新聞が1頁の半分ほどを使って高場乱(たかば・おさむ)を取り上げていたのである。連載の何回目かだった。その頃、もうなぜだか忘れたが、わたしは頭山満の名を知っていた。そして、その記事では、頭山がわたしの身内にあたる高場乱の弟子だと書いてあるではないか。
 幼い頃から母に聞かされていた高場についての記憶。ただ、その記事では高場が馬に乗っていたと書かれていたのではないかと思う。母は、乗っていたのは牛だと言う。たぶん、そうしたわが家の伝承とのささいな違いが、わたしに高場を調べるよう促すことになったのだ。わたしは花田さんに葉書でその旨を指摘したが、返事は来なかったように覚えている。ただ、その記事がきっかけで、近代史に名を残す高場について、まだまだ埋もれた史実がありそうだ、これは調べる価値がある、とわたしには思われたのだった。ヤマ師がたまたま鉱脈を掘り当てたようなもので、最初のテーマがだれも手を付けていないものであったことが、わたしには幸いした。
わたしは憑かれたように高場乱、玄洋社について調べ始めた。仕事を終えた土曜日の午後だけが、自由になる時間だった。バイクを飛ばして須崎公園にあった福岡県立図書館に通い、午後7時「蛍の光」が流れるまで、文献をあさった。告白すると、わたしは自分の不自由から、県立図書館を日曜日も開けて下さいと新聞の投書欄に投稿したことすらある。
 新聞に秋月の乱の慰霊祭についての記事が載り、それを頼りに見ず知らずの庄野寿人さんに手紙を差し上げた。丁寧な返事をいただいたのだが、わたしには、これが地方史を研究している方とのはじめての出会いであった。庄野さんからは、後になって手紙の中で「いまのあなたはもうわたしを超えました」と過分のおほめをいただくのだが、徒手空拳のわたしにとって、そうしたひとことがどんなに励みになったかわからない。
 福岡市長だった進藤一馬さんを通じて、玄洋社の生き字引とも言うべき財部一雄さんを知り、財部さんから教えられて、国際文化福祉協会の看板を掲げた大名の事務所に杉山龍丸さんをたずねた。杉山さんはわざわざ言うまでもなく、祖父が杉山茂丸、父が夢野久作という家系である。その頃はインドの緑化に情熱を燃やしておられた。香椎唐原の杉山さんのお宅を訪問したこともあるが、そこが夢野久作の農園であったことなど、後で知った始末である。財部さん、杉山さんから親身に手ほどきを受けたことが、わたしにどれほどの恩恵をもたらしたことか。玄洋社の機関紙である月刊『玄洋』の存在を教えてくれたのも財部さんである。財部さん、杉山さんからは後の新聞連載の際も、たえず励ましの、時には愛情こもったおしかりの手紙が届くことになる。
 いつか、書きためた原稿は120枚ほどになった。「高場乱小伝―玄洋社を育てた女傑」とタイトルを付け、何とか活字化できないかと、それを持って福元さんを訪ねた。福元さんはそれを同人誌『暗河(くらごう)』に紹介してくれた。わたしは同人ではなく、会費を払っていなかったのだから、福元さんの好意がなければ日の目を見ることはなかったかもしれない。季刊誌だったので、刊行まではじりじりして待っていた記憶がある。掲載されたのは昭和52年の秋・冬合併号と翌年の春号である。原稿を書き上げたのはたぶん前年、51年のことだろう。
 『暗河』は渡辺京二さんや、上村希美雄さん、石牟礼道子さん、他にも名を挙げればきりがないほど多くの才能ある人たちが、注目すべき論考を発表していたが、その頃、そう多くの読者を持っていたわけではないだろう。わたしが知っている反響としては、平岡浩太郎の近親にあたる東大教授平岡昇さんが、親戚の安岡章太郎さんと対談した『ひとなぜ怒りを謳う―ナショナリズム講義』(昭和54年刊)で触れているだけである。平岡さんとはその後、亡くなるまで文通を続けた。
 実は、もうひとり『暗河』に目をとめた人がいた。九大教授西尾陽太郎さんである。わたしに直接感想が聞こえてきたわけではなかったが、開館直後の福岡市民図書館が「博多の女傑」という5回連続の講義を企画したとき、相談を受けた西尾さんが、高場乱ならこの人と、わたしを紹介してくれたのである。筑紫豊さんや、庄野さんに混じって、わたしもはじめて人前で講義することになった。
 話はまだ続く。この会に当時出ていた月刊誌『九州公論』の、いつもサングラスをかけている編集長が来ていて、録音を活字化して収録したいと言う。その時の編集長との話から、わたしが玄洋社の成立年にまつわる新説を書こうということになった。これが、昭和53年9・10月合併号に掲載された「福岡玄洋社の結成―明治十二年の成立・『憲則』第三条をめぐって」である。わたしは恩返しのつもりでそれを西尾さんに送った。
 すると、西尾さんは今度は西日本新聞文化部の森山邦人さんにそれを見せたらしい。森山さんからなんとも読みにくい独特の字で書かれた葉書が届いた。わたしの、玄洋社成立を明治14年とする通説は誤っているという主張は、森山さんがまとめて社会面で報じられた。
 森山さんと親しくなったわたしは、開館直後の玄洋社記念館に案内した。わたしの心づもりでは、森山さんが取材し、館蔵資料の紹介など記事にしてもらえれば、ということだった。帰途、話しながら歩いていた私たちは、雨に降られて傘もなく、やむをえずタクシーをひろった。その車中での会話から、結局、わたしが15回程度の連載をすることになった。その予定で、週1回の連載を始めたのが昭和54年5月11日である。まさに瓢箪から駒であった。雨が降らなかったら、あるいは傘を持っていたら、その後のわたしの人生はいったいどうなっていたのだろう。
 わたしが創作者となる希望をいちばん強く持っていたのは中学3年から高校1年くらいのことで、その頃の自分自身の精神世界を表現した、実存主義的な発想の小説を書こうという意図を持っていた。ところが、1級上にあたる三田誠広の「Mの世界」が『文芸』学生小説コンクールに入選したのを読んで、先を越されたことを知った。これは、現実世界との強い違和感を描いた、ドストエフスキー的な要素を持つ作品だったように思う。芝居じみた結論部分には同意できなかったが、そこに描かれていた出来事は、わたしのモチーフそのものにはちがいなかったのである。それからも10代の内に何か書いておきたいという意欲は持っていたものの、1行も書かないままに終わった。時代がわたしをとらえていたことにもよるが、たぶん、わたしの発想は創作には向いていなかったのだ。
 はじめて挑戦することになった、この新聞連載は結局、15回の予定を超えてまる一年続くことになるが、毎回毎回、そのつど書く内容を決めて、とにかく穴を開けないように走り続けたというのが正直なところ。初めからできあがったストーリー、毎週毎週のできあがったコマ割りがあったわけではない。とにかく、時間の経過を追うことだけを心がけながら、それまで考えていたことが次々に活字として現れた。その意味では、わたしの原稿執筆は今でもそうだが、実感としては内発的な、まさに「表出」としか言い表しようがない。夢の中で原稿を書いたり、自然に文章が頭に浮かんできたり、内部から突き動かすものによって、原稿化を早く早くとせき立てられるというのが、表現するということは誰にとってもそういうことなのかもしれないが、わたしの正直な告白である。
 わたしは内心、玄洋社など今さら取り上げるなという投書が来て、連載は途中で打ち切られるのではないか、結果として新聞社に迷惑をかけるのではないか、ということを恐れていた。それだけに史料の裏付けを求め、どこからの批判にも耐えうること、表現における正確さを期すことを心がけるしかなく、方法論を磨く上でわたしには大いに勉強になったのだった。文化部長は坂井孝之さん(連載の後の方では江頭光さん)、副部長(あるいはデスクというのか)は寺西さんであった。江頭さんからは引き続き書くように勧められたが、60回を区切りに連載を終えた。わたしは新聞連載の経験はもちろんなかったし、まだ29歳で、学歴も実績もなかった。よく連載の機会を与えられたものだと、今でも不思議に思うくらいである。連載の途中で、坂井さんからは劉寒吉さんがほめていたと聞いた。画家の寺田健一郎さんも連載のコラムで好意的に取り上げてくれた。
 単行本化の申し込みはいくつか新聞社に来ていたらしいが、わたしは西日本新聞社から出すことに決めていた。玄洋社という名前で内容を判断されることはわたしの本意ではなかった。まず読んでもらわねばならない。あくまでも形の上での中立・公正を備えること、その観点からである。もちろん、最初の機会を与えていただいたことへの感謝の意味もある。
 「玄洋社発掘」というタイトルだが、これはその前の連載が「河伯洞発掘」という火野葦平の足跡をたどる内容だったのを受け、そこから「発掘」をいただいたのである。
寺西さんは森山さんを新聞社でも有数の名文家だと言っていた。わたしも森山さんの文章は好きだ。その森山さんから、「高場乱小伝」を読んだ、筆力がある、と書かれた葉書をもらった。これはわたしには何よりもうれしいほめ言葉だった。いまもわたしの記憶の中の森山さんはいつも笑みを絶やさない。森山さんはきっと人を快くさせる天分に恵まれていたのだろう。おかげでお調子者のわたしはすっかり乗せられてしまった。
 本の出版を通じて、読者として最初にわたしと接した方々と、その後も多くのお付き合いが始まった。北海道で福本日南の足跡を追っていた木呂子敏彦さん、慶応大学の卒業生の消息を探りに福岡に調査に来た内山秀夫さん……。内山さんは帰りの飛行機でわたしの本を読んだということだった。九州大学の有馬学さんとの出会いも、川添昭二さんから有馬さんが好意的に評していたという話を聞いて研究室をノックしたのが始まりである。これも上げていけばきりがないほど、波紋は次々に広がっていった。
 昭和史に造詣の深いNHKの片島紀男さんとは、一緒にいくつかの番組を作ることになった。片島さんの同僚が新聞を見てわたしの所に電話をかけてきたことから生じたお付き合いである。永六輔さんとの出会いも、突然かかってきた永さんからの一本の電話からだ。永さんは頭山満の子孫にあたる松任谷家の方から、同じ名前の玄洋社社長箱田六輔のことを知り、調査のために福岡を訪れたのである。
 進藤一馬さん、財部一雄さん、杉山龍丸さん、森山邦人さん。最初にお世話になった方々はいずれもいまは鬼籍に入られた。もう、あれから20年を経ている。
 今のところ、共著を除けば、後にも先にも『玄洋社発掘』がわたしにとって唯一の単著である。新聞連載を終え、単行本化された時、進藤一馬さんが主宰してオープンしたばかりの福岡サンパレスで出版記念会が行われた。当時、福岡地方史研究会会長の井上忠さんは学会で他出のため、秀村選三さんからお祝いの言葉をいただいた。「石瀧史学をめざせ」と。その頃のわたしにはその意味はよくわかっていなかった。いかにも大それた言葉でもあったが、それはいつもわたしの心に響いていた。いま、ふりかえってみて、多少はその檄に応えることができたか、と思える。わたしは背中を押されたり、手を伸ばして引き上げてもらったりして、今、この場所にいる。思い出してみると、中学校の頃、わたしは大日本古記録の説明などかなり専門的なことを、百科事典で読みふけっていた。歴史が好きだというだけで、歴史学の「研究」をめざそうというつもりはまったくなかったのだが、ふりかえると、いつのまにか自分の歩んできた道はそれであった。
 これからは意識的に歴史学の研究を進めていくだろう。やり残したことは多い。ライフワークと言えそうなものでもいくつかある。最近、取り組んだ福本日南も以前からライフワークと考えていたテーマである。今こそ、人にまねのできない、自分だからできるという意味での―おおげさに受け取られると困るのだが―「石瀧史学」が、おぼろげだが歩みの先に遠い目標として見えているような気がしている。
 旧著『玄洋社発掘』は幾度か増刷し、品切れになった。わたしは売れ残って西日本新聞社に迷惑をかけていると思っていたので、在庫を問い合わせる勇気はなかった。読者から問い合わせが続くことがきっかけとなって、『増補版 玄洋社発掘』の刊行へと至った。この本が、いまも、生命力を失っていないことは著者としてもとてもうれしい。わたしにとって処女作とも言うべき「高場乱小伝」は、これまで『暗河』の中に眠ったままだった。今回の増補版刊行を機に、全文を収めることができた。増補版刊行に際しても、出版部で編集を担当した大田精一郎さん、装幀をお願いした毛利一枝さんなど、周囲の方の善意に支えられてここまで来ることができたのである。
 わたしがまだ若かったとき、年長の方々との出会いがわたしを作った。それが、五木寛之がそういう言葉を使っていたのを覚えているが、「わたしの大学」だった。そして、いま、年下の友人である大谷賢二さんや、その友人の方々が、わたしを未知の場所へといざなおうとしている。人物史講座はわたしには重い負担となりそうだが、新しい出会いがわたしから何を引き出し、わたしに何を表現させることになるのか、楽しみでもある。
 わたしは今度はどこにいることになるのだろう。

 今日、出版記念会に集っていただいた多くの方々に、ご恩をかみしめながら、深い感謝を捧げます。これからも応援をお願いします。もちろん、わたしも社会への恩返しを忘れないつもりです。



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