難 聴 記


現在の難聴の度合いは左が38dB、右が80dBくらいの軽・中度難聴です。
しかし、左の高音域が2000Hzで60dB、4000Hzになると80dBまで落ちます。
したがって、左にフルデジタルの補聴器が入っていますが、言葉の聞き取りが大変なことには変わりがありません。


いつから
いつから難聴になったんだろう・・。

自分が「難聴」ということを文字的に認識したのは、やっぱりがんの後遺症で、鼓膜に穴が開いて左耳に補聴器を着けるようになってからかな。

でも生まれつき、右耳は聞こえなかった。
けど、こんなもんだろうと左耳で暮らしてきた。たしかに聞き取りにくかったけど、「難聴」という意識はなかったように思う。

ただ聞き取りにくかっただけだ。


母が発見
昭和39年というと「東京オリンピック」の年。我が家にもようやく、テレビがやって来た。学齢期の前年だった。
「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「ひょっこりひょうたん島」もそのころだと記憶している。

さてそんなテレビ時代が到来し、もちろん自分もテレビっ子の仲間入りをした。
そんなある日、小学校に上がってからだと思うが、母が、左耳をテレビに向けて見ている自分をみて、変に思ったらしい。自分には耳が聞こえないことを変だと訴える自我が、そこまではまだ発達していなかったのだろう。


片耳でも大丈夫
母も心配で、町の耳鼻科に連れていってくれた。
が、特に有効な治療方法もなく、そのうち行かなくなった。自分の中では治らないものとあきらめた。

特に右隣の人と話をするのが大変だった。右耳の耳元で言われても、聞き取れないのだ。どうしても聞かなければならない時は首を180度回し、後ろ向きの状態で左耳を相手に向ける。
伝言ゲームもいやだった。けど、いつも何とかなっていた。
とにかく左耳が、良く聞こえたのでやっぱり「難聴」という意識はなかった。


左右違う耳たぶ
左右の耳たぶの大きさも違っていた。
小学校の時、床屋の鏡をみて、自分で発見した時はすごく恥ずかしかった。誰かにばれたらどうしよう・・。

気になってしょうがなく、しばらくしてその床屋に白状した。
床屋いわく「あなたが思ってるほど、人はあなたをそういう風には見ていないので気にすることはない」「戦争で耳たぶをなくした人もいるんだから、
それを思ったらなんでもないことだ」
と励まされ、あまり気にならなくなった。
のちに目の不自由な整体師に、身体をマッサージしてもらったとき、たまたまその話になり、整体師いわく「生まれつきの人は、耳たぶの大きさが違うのだ」と教えてくれた。


鼓膜に穴が
上咽頭がんは、しん出性中耳炎が発症して発見にいたった。
当然この中耳炎は、難聴も伴う。
とにかく耳閉塞感とともに、音が遠くに聞こえる。

入院前は、このストレスで参ってしまった。入院後は、鼓膜に穴を開け管を通して水を抜いた。「スーッと」したことは「病記」に書いた。
その後も中耳炎を繰り返しながらも、なんとか治療を終え、そして仕事にも復帰した。

しかし「後遺症」に記したように
、退院から2年ほど経った平成10年(1998)の年末、今度は決定的だった。
その後の調べで鼓膜に大きな穴が開いていることがわかり、回復は望めないこととなった


補聴器
退院後、若干聴力が落ちたこともあり、何かのためにとポケット型の補聴器を購入した。けど、うるさくてほとんど着けることがなかった。
が2年後、幸か不幸か鼓膜に穴が開いて聞こえが悪くなったとき、これが役にたった。とにかくぼんやりした音が、補聴器によりはっきりした音に変わると、頭もはっきりする。

1999年(退院3年後)6月、聴力の回復が望めないということで、オーダーメイドの耳穴式補聴器を作ることにした。ちょうど国内初のフルデジタルが発売されたときで、携帯電話もOKということで、早速オーダーした。
作り直しや、調整などに手間がかかり、ずっとポケット型をしていたが、半年後くらいには耳穴式を終日装着するようになった。


青難聴
昨年(2001年)秋、ある難聴の方のホームページで、難聴者協会の存在を知る。
青森県にもあって活動しているというお話を聞き、なぜかうれしくなった。
補聴器店で問い合わせたところ、名前が入った封筒と機関紙をくれた。

早速事務局長さんに入会したい旨を伝えると、入会の申込書とこれまでの機関紙「ハーティコミ」が送られてきた。
今年初春、早速入会させてもらった。