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只見線に乗って紅葉を愛でる旅

2013.10.29~31

 新潟県の小出から福島県の会津若松へ。
 深い山あいを縫って走る鉄道がある。只見線です。
 
 いまから50数年前、只見線がまだ全通していない頃(福島県側は会津若松から会津川口まで、新潟側は小出から大白川までが開通していた)のことである。2011年夏の新潟福島豪雨で被災し、現在不通区間のちょうど真ん中当り、ちょうど代行バス路線の中間地点数駅の間は、わたしの大学卒業論文のフィールドであった。大学4年のひと夏ほか数回にわたって滞在したことがある場所であり、そんなわけで只見線はわたしにとっては思い入れのある鉄道路線である。この懐かしい地に只見線に乗車しに行きたい!行きたいと思っているうちに新潟・福島豪雨で、一部区間が不通となってしまった。その復旧を首を長くして待っていたのだが、どうもJRは当分復旧工事をしないつもりらしいことが分る、何時になるか分らない全線開通を待っていたら、こっちの身体がいかれてしまうとの懸念が強くなり、もう待って入られない!と、今回思い切って出かけることにしたわけである。

 只見線はただ今、小出~只見間と会津若松~会津川口間が運行され、只見~会津川口間の6駅約30km区間が不通で代行バスで連絡されている。只見線に乗車するのに、会津若松→小出にするか小出→会津若松(どちらも”下り”と称している)のどちらにするか、2泊の宿をどこにするか・予約、列車運行時刻からの制約、観光タクシー・見学先の休館状況などいろいろと検討し、宿の予約を2回もキャンセルしたり、宿の予約をし直しなどしてあ~だこ~だと迷った末に、結局「小出駅側」から乗車することにした。

小出~只見間乗車
 
 小出発只見行き下り列車は、7時台・13時台、17時台、19時台と一日に5便しか走っていない。東京からだと13:11の列車に乗る選択肢しかないので、いつもと違ってかなり遅い時間(10時半)の自宅出発である。上越新幹線乗車は、2007年5月の法師温泉行きと越後湯沢旅行以来の久方ぶりである。上野発11:18の”とき19号”に乗車、ウイークデーだから空いているから自由席でも大丈夫だろうとたかをくくったのが間違いだった。かなり込んでいて、妻とは離れ離れであるがなんとか席を確保してホッとする。 家を出る時からの雨模様の天気は、上越国境を大清水トンネルで抜けると、青空が目に飛び込んでくる、やったあ~!!
 浦佐駅で上越線に乗り換えて二つ目小出で下車、ここからいよいよ只見線の旅が始まる。

 2両編成のキハ40系列車は、一両に5,6名の客を乗せて出発、のんびりと田園地帯を東へ向かって徐々に高度を上げながら走る。
小出駅から三駅目の”魚沼田中”駅前に”アズマダチ”風の民家が建つ。アズマダチは、富山県西部に多い屋根の形で、切妻の妻面を東に向けた瓦屋根の大屋根形式で、漆塗りの太い束と梁を格子状に組み、ひと升に1~2枚の大貫を入れ、白壁で仕上げてある。ここらあたりにあるのは珍しい。次の駅”越後須原”は、隣家のSさんの実家があるところだ、こんなにゆったりした処で育つとSさんみたいなおおらかかつ人情味のある人間になるんだと納得する。ここで、歩こう会?らしき人たち10数人が乗車してきて、車内はいっぺんに賑やかとなる。
 この辺りは日本有数の豪雪地帯、列車はエンジン音を唸らせて山あいに入っていく。
 列車はガラガラ、貸し切り状態。都会ではあまりお目にかかれない2+1配列(1人掛けと2人掛けの座席が組となっている)のクロスシートや、天井から吊り下げられた扇風機が気にいった。
 魚沼地方では珍しい「アズマダチ」の大きな民家。「魚沼田中」駅停車中の車窓から。

 14時少し前、新潟県側の最後の駅”大白川”を出ると間もなく、六十里越トンネルに入る。トンネル延長6359m、1971年(S46)開通。開通時点では日本の鉄道トンネルでは6番目、在来線では5番目の長さを誇った(2008年時点では42番目、8番目)トンネルで列車は10分足らずで通過し、すこし下ると”田子倉”駅”(2013.03廃止)。往時の田子倉駅は、田子倉湖畔にあり、周囲数kmには商店はおろか、自動販売機すら存在しない。浅草岳や鬼が面山など、奥只見の山々への登山口に当る。駅前を通る国道252号は、積雪のためほぼ半年間は不通となり、春先の4月や晩秋の11月などは当駅周辺へのアクセス手段が只見線の列車のみとなっていて、秋の紅葉シーズンなどは、田子倉湖の紅葉を見ようと、主に新潟方面から多数の観光客が訪ずれたという。

 「六十里越え」の由来:「越後野志」に大白川から田子倉までの峠道を、「人跡絶たる大行路難の地故、一里の工程を十里通過するに比べ、当六里の道を六十里と称す」とあるとのこと。

 ”田子倉”駅跡を通過すると列車はまたなが~い「田子倉トンネル」に入る、右手に田子倉湖を望みながら幾つかの短いトンネルをくぐると列車は、終点「只見」駅に到着。小出から46.8km、1時間17分の乗車であった。
  
   只見駅に到着した小出発の下り列車


 ホームから改札口のある駅舎まで60メートルほど歩かなければならない、豪雪時には通路両側が雪の壁になるという。構内に転車台が残り、昭和40年代後半頃までSL(C11形)が貨物列車を運行していたという。転車台はその名残りである。
       
        「只見」駅舎外観


 駅周辺には広大な平地が広がり、ダム工事専用線であった頃の資材置き場であった記憶が残されている。2008年(平成20)2月の改築工事で、待合所に只見町インフォメーションセンター(只見町観光まちづくり協会)が併設され、観光案内の業務と土産品など物品の販売などが行われているほか、夏期はレンタ・サイクル等も扱う。

 只見駅で下車した乗客は、わたし達を含めて5,6人とツアー客が10人程、合わせて15,6人、ホームから、いつの間にか降り出した雨に濡れながら少し離れた駅舎に飛び込む。駅前には、連絡代行バスが待機していて僅か4分の接続時間で会津川口駅へと出発して行った。

 わたし達は、今夜の宿「深沢温泉 季の郷(ときのさと)湯ら里」の送迎ミニマイクロバスに乗り込む。客は二人だけで貸切りきり状態である。
 車は、尾瀬桧枝岐方面から流れ下り只見川と合流する伊南川に沿った国道289号(沼田街道)を南に走り、20分足らずで宿に到着。途中で「楢戸」という集落を通過する。高校の同級生に楢戸君というのがいて、奥会津へ行ってくるよと言ったら、田子倉ダムの先に、自分の苗字と同じ「楢戸」という地名があるよと言っていた集落である。彼は以前に車で通ってカーナビで発見したらしい。後で聞いたら、彼のご先祖は、茨城県でそこにも楢戸という集落があり、只見の楢戸とは関係ないとのことであった。
 
 さて、今夜の宿「深沢温泉季の郷 湯ら里」は、只見町が、昭和30年代から取り組んできた温泉開発で平成5年湧出に成功した温泉(深さ1500m、湯量毎分170ℓ・源泉温度45℃・ナトリウム・塩化物硫酸泉)で、平成8年に大規模宿泊施設としてオープンさせたものだという。1988年~1989年ごろ竹下登首相の音頭で各自治体に支給された「ふるさと創生事業一億円」が使われたものと推察される。東京方面からの観光客も結構多く、地元の雇用拡大にも役立ちそれなりの成果を上げているようで祝着至極ではある。
 しかしながら、この施設の温泉には問題がある。ひと休みして温泉に浸かろうと風呂場に向かい脱衣場から浴場に足を踏み入れた瞬間、消毒臭が鼻を突く。壁には、温泉成分分析表が掲げられてはあるが、その脇にまた別の説明書が貼られている。それによれば、「加温・加水・ろ過循環・消毒」されているとある。これではもはや”温泉”ではない、詐称とさえ云える、まして入湯税をとるなんてとんでもないと思う!、銭湯の湯となんら変わらない。
一方、宿泊施設から駐車場を横切って200mほど離れたところに。源泉掛け流しを謳う「深沢温泉むら湯」があり、宿泊客も無料で入れるというので、ゲン直しに”ほんとうの温泉”に浸ることにした。こちらは、鉄分を多く含んだ赤褐色のお湯で地元の人たちが次々と入りに来ている正真正銘の温泉である。「湯ら里」の湯は、「鉄分を除脚して透明にしてあります」とフロントの説明であるが、なんでわざわざそんなことをしてしまうのか理解できない。きっと掃除が大変だし、風呂場を綺麗にしておきたいなどが理由なのかもしれないが、これはもうとても温泉とはいえない。壁に成分表を掲げたり、「深沢温泉 湯ら里」などと称するのは詐称と言わざるを得ない。、料金・食事なども含め施設自体はまあまあなのに誠に残念なことである。
田子倉ダムと只見歴史探訪駆け足観光

 二日めは、足の便の無い観光客用に只見町観光協会が運営する周遊タクシープランを使って、田子倉ダムと歴史遺跡見学に出かける。
 周遊タクシープランは幾つかのコースが用意されているが、所要時間を考慮して「田子倉ダム方面コース」(只見駅~ブナと川のミュージアム~でんぱつ只見展示館~只見ダム~田子倉ダム~只見駅 タクシー代・入館料・保険料込み一人1500円)と「只見歴史探訪コース」(只見駅~医王寺~河井継之助記念館~叶津番所跡~只見駅 一人2000円)を通して利用することにした。
 朝9時、タクシーが宿まで迎えに来てくれ、昨日と逆のコースで只見駅方面に向かう。夜来の雨は上がって時折日差しが射すといった天候、まずまずである。
 最初は、「ブナと川のミュージアム」へ。
白神山地を凌ぐ規模と豊かさを持ているといわれる只見のブナの森の巨大なジオラマが迎えてくれる。ブナの森で行われている生命の循環の様子(水のはたらきや四季の移ろいによって落葉が木々の栄養になる過程など)がわかりやすく展示されいる。失礼ながらこんな片田舎にこんなに立派なミュージアムがあるなんて驚きである。只見の森の四季を紹介した映像に見入って時間を喰ってしまったので、展示見学は足早に済ませる。トレッキングができる【恵みの森】【癒しの森】の案内も行っているという、芽吹きのシーズンにゆっくり体験したいものだ。

 国道252号を田子倉ダム方面に向かう。只見ダムを過ぎて左手に「でんぱつ只見記念館」があるが、今日は休館日なので通過、道が急坂に差し掛かったあたりから山の紅葉が目立つようになる、まだ少し真っ盛りではないがそれなりに綺麗だ、車を止めてもらってカメラに収める。15分ほどで田子倉ダム左岸ダムサイトに到着。田子倉湖の周囲に広がる紅葉した山肌をあちこちカメラに収めるが、曇り空であまりGooな写真は望めない。当初予定した、遊覧船乗船は止めて、もっと上流に行くとすこしは綺麗な紅葉が見られる筈だと、タクシー代別料金で六十里越えトンネル近くまで行くことにした。

  田子倉ダムは、電源開発㈱が只見川に建設(着工1953年、完成1959年)した重力式コンクリート発電用ダムで高さ145m、長さ462m、発電出力は38万kwで水力専用の発電所としては奥只見発電所に次ぐ日本第二位の出力を誇る。ダム湖は田子倉湖と名付けられダム湖百選に選定されている。田子倉ダム補償事件として話題になったほど、住民の多大な犠牲によって完成した。完成に到るまでの顛末は格好の小説の題材となり、曽野綾子の『無名碑』城山三郎の『黄金峡』に、補償交渉やダム建設に絡む人間模様が赤裸々に描き出されている。一方、ダム建設は、国道252号や只見線整備が促進されることとなり、冬季の豪雪により身動きできなかった地域の状況打破の突破口となった。
 なお、下流3kmの地点には田子倉ダムの逆調整ダムとして、堤長583mのロックフィルタイプの只見ダム(1989年竣工)があり、付設された発電所のバルブ水車出力65000kwは単機容量としては世界最大である。

 今回は写真撮影が目的ではないものの、もう少し綺麗な紅葉の写真も撮ろうと国道252号を六十里越えトンネルの手前までタクシーを飛ばす。「旧田子倉駅」「あいよし沢橋」などで下車して紅葉写真を撮りながら、「六十里越の開通記念碑」まで進む。ここは標高700mほど、山の高い方ほど紅葉が進んでいるものの、いまいちだ。一週間ほど遅れているとのことだが、紅葉が完全に進む前にもう枯れ出している木々も見られ、今年の天候不順(夏の酷暑やこのところのあたたかさと朝晩の寒さが厳しくないなど)が影響しているようで、天気もあまり芳しくなく紅葉の写真撮影は不発。


田子倉ダムサイト右岸の紅葉
    
     あいよし沢の紅葉

 田子倉ダムから国道252号をおよそ8kmほど上った国道252号脇右手に見える滝
     
    六十里越峠開道記念碑


 トンネルの手前2kmほどの国道脇左手にある。揮毫したのは当時の首相・田中角栄。奥に田子倉湖が見える。国道252号は「六十里越」(峠)と通称され、古くから越後と会津若松市を結ぶ重要な街道であった。六十里越トンネルの整備などにより1973年(昭和48年)に全通し、長岡市・魚沼市・南魚沼市と会津若松市を結ぶ重要路線となっている。しかし晩秋~初春は積雪によって例年通行止めとなる。
 
 山を下って只見町の歴史遺跡である会津藩番所であった「旧長谷部家住宅」国重文「旧五十嵐家住宅」・戊辰戦争で新政府軍との戦闘で名を馳せた長岡藩家老で会津に落ち延びる途中この地で没した河井継之助の偉業を伝える「河井継之助記念館」の見学へ。昼食は、朝いっぱい食べたのでまだ食欲が沸かずパスする。

           叶津番所(旧長谷部家住宅)

 只見駅から国道252号(沼田街道)をおよそ3km下った叶津(八十里越え道の始点でもある)にある。
 叶津番所は、戦国時代会津と越後の国境に設けられた関所で天正16年(1586)に六十里越えの田子倉番所とともに八十里越え(古来より会津と越後を結ぶ交通の要衝で、現在はいわゆる点線国道289号が存在するものの峠部分は、深いブナの原生林の中を登山道が通じている)に対してもうけられたのが始まり。その後会津領主加藤氏の時代(1627~1642)に会津藩の口留番所と称し、会津藩から武士二人が常駐するようになり、叶津村名主長谷部六左衛門も番人の役目を拝している。寛永20年(1643)、幕府の直轄地となり会津藩に預け地となると、ここに上番屋・下番屋を設けたが、宝永元年(1704)傷みがひどくなり長谷部家の居宅に番所を移した。
 主屋桁行24.35メートル、梁間10.15メートル、うまや中門6.70メートル×6.30メートル寄棟造、茅葺。規模の大きい上層家屋で、武家造りの奥座敷・養蚕を行なった屋根裏部屋がある。うまや中門をつけた曲り家。居間境の柱の太さは、33~35cm、居間回りは23cmと一般に太く、居間境、さしかもいの丈51cmとともに雄大なものといえる。住宅の記録は殆どなく、わずかに元禄6年(1693)「奉願上書之事」に焼失後の再建と見える記述があるも現在の住宅のことではなく、土間中二階の存在や中引と桁とを等間隔に通した二重梁構造ほか造作状況を会津民家変遷の歴史に位置つけるとおよそ江戸後期と建物と推定されている。1973年(昭和48)に福島県重要文化財に指定。
          
        国重要文化財「旧五十嵐住宅」

 叶津番所後方にある。築300年程度といわれる、自由に見学ができる。
 江戸中期の享保3年(1718)4月に滝口大作という人が建てたことが移転修理の際の墨書きにより判明している。構造は桁行7間(13.3m)、梁間4間(7.6m)で中央に広い土間を持つ寄せ棟造り茅葺の三間取り直屋形式の本百姓民家。太い木割りを持つ日本海側に多い民家で、見る人に強い印象を与える。その地域性と時代の特性を示す価値が高く評価され1972年(昭和47)国重要文化財に指定、翌年只見町が五十嵐家から譲り受け只見町字上町からここに移転し保存している。



継之助終焉の間(復元)

 館内には、”河井継之助の生涯”、”長岡の戊辰戦争”、”「峠の世界」”、”継之助と周囲の人々”、”只見の戊辰戦争”など興味ある展示がされている。隣に「山塩資料館」があり、塩沢で行われていた製塩(岩塩と思われる?)の様子を解説されている。
             
           
  河井継之助記念館          

 只見川に沿ってさらに2kmほど下った塩沢集落の中程、国道から左手に入った一段高い山裾にある。
 河井継之助は、越後長岡藩に生まれ幼児より聡明にして豪胆、神童と云われた。文武に秀で陽明学を修め、水練、馬術、槍術に長じ特に砲術の研究を深めた。 慶応元年(1865)
39歳の時、郡奉行となりその後、御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し、同四年には家老上席となり政務を担当した。継之助は、この間に藩政を改革し、藩財政を確立するとともに兵制を改革するなど長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎を作り上げ、その非凡な才能は多くの人の注目を集めた。
 <只見町塩沢が終えんの地となる>
 慶応四年
(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戌辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていった。朝敵の汚名を受けた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。継之助は事を平和裡に解決しようと東奔西走し、小千谷・慈眼寺において、西軍の軍監岩村精一郎と談判に至ったが決裂し、長岡藩はついに参戦を決意した。継之助は、長岡藩軍事総督として藩をまとめあげ、奥羽越列藩同盟と共に善戦したが、7月25日の戦いで左膝下を負傷した。継之助が負傷したことにより長岡軍は総崩れとなり、再起を図るため、千数百名とともに国境である八十里峠を越え、会津に向かった。山越えは難渋を極め山中に一泊し、8月5日会津領である只見村に到着。傷の手当てを受けたが、すでに傷口は化膿し、破傷風を患っていた。
 8月12日、会津城下を目指し出立。その途中、容体の悪化により、只見・塩沢村の医師矢沢宗益宅に投宿した。継之助は、すでに死期を覚悟し、従者松蔵に死後の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。慶応四年
(1868年)8月16日であった。
 「河井継之助記念館」は長岡市にもある。

 
             
河井継之助の墓

 「記念館」の300mほど先にある医王寺の奥まった一角にひっそりとたたずむ。
墓所は、荼毘の後で拾い残された細骨を村民が集めて建てたものだという。当時西軍の目が光っていたため、文字は刻まず、形式も祠の様式にして西軍の目をごまかすという細かい配慮がはらわれていた。
 現在の墓は、昭和12年
(1937年)一部補修され、昭和53年(1978年)7月長岡市の篤志家により再補修し整備されたものである。昭和58年4月1日、只見町の史跡に指定されている。 毎年8月16日墓前祭がおこなわれる。

 司馬遼太郎「峠」には、幕末に陽明学を学んで激烈な行動力を身につけ、近代西欧思想にもいち早く通じ、越後長岡藩を近代的中立国家に仕立てようと企図した破天荒な男―。実力故に一介の武士から長岡藩の筆頭家老に抜擢され藩の命運を担って、維新史上最も壮絶な“北越戦争”を展開し、無念の夢を残して散った男―最後の武士河井継之助の生涯が丹念に描かれている。一読したい!!

                   蒲生岳
 
 田子倉ダムから只見川下流方向を眺めた際に、目に付いた火山岩頚を想わせるこんもりした山がこの蒲生岳である。
 標高828m、往復3時間半。田部井淳子さんが”会津のマッターホルン”と呼んだことで一躍その名を知られるようになった、極端に尖った岩山である。麓の集落が登山者に楽しんで欲しいと山頂への道を開いたそうだ。
 蒲生岳は第三紀中新世の湯長谷層群の中に貫入した流紋岩の部分が周囲の第三紀層より硬いので侵食から取り残されて出来たいわゆる残丘と呼ばれる地形。

              叶津川橋梁


 叶津番所前から見た「只見線叶津橋梁」 只見川の支流叶津川を渡る橋梁(1957年完成 全長370m)。2011年7月の豪雨災害時、河川の氾濫はあったようだが損傷は逃れている。しかしよく見ると線路上は草茫々、列車が来なくなってからの二年三ケ月を感じさせる。

代行バスで不通区間”只見駅”~”会津川口駅”を行く

 13時20分、「河井継之助記念館」を出たら、外は本降りの雨になっていた。
このあと、代行バスに乗って只見線不通区間を会津川口へ向かう予定だが、1時間30分もバスを待つのも考えものだと、引き続き観光タクシーで「只見駅」まで引き返すことにする。

 再度の「只見」駅。駅舎内には「只見町インフォメーションセンター」が入り御土産品なども売っている。妻はさっそく「くるみゆべし」を大量に買い込む、「センター」の窓口には、「只見線復旧請願署名簿」が置かれていて是非お願いしますとのこと、否も応もない即座に署名する。 でも、次ぎの章でリンクを貼るJRの「只見線の災害の実態報告」に記されている復旧工事費85億円、工事期間4年、只見駅の一日平均乗客数が20~30人、この後に乗った代行バスの客がわたし達も入れてたったの4人で途中乗車客も一人だけといった現実を踏まえると、全線開通は99%無いものと感じるのは私だけではないだろう。

 そうこうしている内に、前日乗ってきた小出からの列車が定刻の14:28より早く到着、これに連絡している会津川口行き代行バス(14:32発)もすぐに発車する。発車1分前になっても妻はまだ買い物をしている。
 乗客は私たちも入れて4人だけ、ここから会津川口までは30km足らず50分ほどの乗車である。停留所は、主として不通となっている只見線の”駅”(会津蒲生・会津塩沢・会津大塩・会津横田・会津越川・本名)に寄るほか幾つかの集落に寄る。
 会津横田~会津大塩の間は、学生時代に延2ヶ月間位、卒論のフィールドとして野山を歩き回った懐かしい場所である。52年ぶり、どんなに変っているかあるいは変わっていないかそして新潟・福島豪雨での只見線被災状況もバスの車窓からじっくり眺めて行きたいと思う。

 ここで、只見線の歴史を簡単におさらいしておこう。(只見町発行「只見おもしろ学ハンドブック」などより)
1912(大正01) : 柳津~小出間が国の計画線に決定
1926(大正15) : 会津線会津若松ー会津坂下間開業
1928(昭和03) : 会津坂下ー会津柳津間開業
1935(昭和10) : 只見ー小出間・柳津ー川口間が着工
1937(昭和12) : 日中戦争のため工事中止
 再開運動運動の結果、小出ー大白川、柳津ー宮下間の延長が認められ
1941(昭和16) : 会津柳津ー会津宮下間開業
1942(昭和17) : 小出ー大白川間開業
1956(昭和31) : 会津宮下ー会津川口間開業
1957(昭和32) : 川口ー只見間 電源開発専用線として開通
1962(昭和37) : 只見ー大白川間着工線に決定
1963(昭和38) : 電源開発工事終了後川口ー只見間が国鉄に編入され、只見ー若松間営業開始
1971(昭和46) : 全線開通(38駅・135.2km)、小出ー大白川間SL廃止
1974(昭和49) : 福島県側SL廃止
2011(平成23) : 新潟・福島豪雨により会津川口ー大白川間不通
2012(平成24) : 只見ー大白川間開通
2013(平成25)11月現在 : 会津川口ー只見間不通続く

  昭和35-36年代、私が卒論実習で通った金山町横田へは、会津川口まで会津線(全通する1971年までは、福島県側田子倉から東側を会津線、新潟県側大白川から西を只見線と言った。)で会津川口まで行き、そこから会津バスに乗り換えるのだが、会津若松発バスのダイヤは、客を一人でも多く獲得するため会社が意図的にそうしているのかと思うほど列車ダイヤと連絡がかみ合わず2時間も3時間も駅前でバスを待つことが多かった。会津若松から川口まで只見線は、当然ながらSLに牽引された客車であり、トンネルを出たり入ったりする度に窓を上下させるも、乗り終わると来ているシャツが煤だらけになり、只見川の景色を楽しむなどという気持ちなどまったく湧いてはこなかったという今では考えられない想い出でいっぱいの路線であった。

 バスが「会津大塩駅」に近づく、窓外に目を凝らして、只見川の小さな一支流である「滝沢川」を見つけようとするが、記憶にあるのとまったく違った風景が通り過ぎて行く。街道は只見川左岸から右岸へと渡って(この橋もおぼろげな記憶にある橋の形態と違うようだ)横田集落に入り、バスは、当時は存在しなかった「横田駅」に寄り、再び街道に出て集落の中心部を通過して行く。町並みはすっかり変わってしまっていて、当時宿泊した旅館の片鱗さえ見つけることが出来なかった。しかしながら自然は変わらない、只見川の対岸に見覚えのある形をした山を見つける。手に持った2万5千分の一地形図から「高森山」であると確認。52年ぶりの町並みはすっかり変わってしまっていた。
 只見線のこの区間の不通が解消されていれば、この近辺で宿を取りゆっくり散策してみたかったのだが、致し方ない、バスの窓からでも目にすることが出来たことに満足することにしよう。

 JR東日本が「只見線(会津川口~只見間について」というタイトルで不通区間の被害状況の現状を報告している。これを読めば、「不通区間の再開は無いよ!」とJR東日本が言っていることが判明するだろう。

 1時間足らずで「会津川口」駅に到着(15:22)。
雄大な只見川に沿って船着場のように建つ2階建ての駅舎は、1987年(昭和62)JA・郵便局・JRの3社協同で合築した複合公共施設で、「東北の駅100選」に選ばれている。

 お願いしていた旅館の迎え車で、「野尻川」を少しばかり南へ遡った鄙びた八町・玉梨温泉の宿へ。
この地へのアクセスは、川口からの会津バスが日に3本しかなくマイカーかタクシーか、宿に迎えを頼むしかない。昼過ぎから降り出した雨は宿に着くまで止むことはなかった。

 八町・玉梨温泉恵比寿屋は、客室容量30人ほどの夫婦とおばあちゃんの3人で切り盛りしている小さな宿で、今晩の宿泊客は、夫婦5組と一人の6人で、温泉もほぼ貸切状態でのんびりゆっくり過ごすことが出来た。温泉は、ナトリウムー炭酸水素塩泉・塩化物・硫酸塩泉、泉温45.9℃ 動力揚湯 湧出量294リットル/分 無色・晴明(不思議なことに実際は淡茶褐色であった)で、宿の主人が浴槽に掲示した張り紙に寄れば日本でも数少ない炭酸泉の一つだと言う。

  
       共同浴場「かめの湯」
外観
 
 八町・玉梨温泉には野尻川の左岸に玉梨温泉の、右岸に八町温泉の共同浴場がある。ここは八町温泉の共同湯。うしろの建物が玉梨温泉恵比寿屋旅館。
       
        「かめの湯」内部

 清掃がきれいに行き届いている。脱衣場は右左にカーテンで男女に仕切られているが、浴槽はご覧の通り一つだけ、混浴である。秘湯の雰囲気抜群。
 
”会津中川駅”~”会津若松駅”へ

 3日目は、予約しておいたタクシーで、玉梨温泉の宿を10時に出て沼沢湖に向かう。
 
沼沢湖畔の紅葉
 沼沢湖は、以前は「沼沢沼」と呼んでいたが、観光客誘致のためには”沼”では格好悪いのかいつの間にか”湖”に変身していた。
 沼沢湖は、いわゆるカルデラ湖で、奥会津地方唯一のカルデラ火山である沼沢火山が今から約6500万年前に起きた火砕流の流出でカルデラが形成され、これに水が堪ったものである。
 沼沢湖周辺には、公園、キャンプ場、妖精美術館などの施設があり、ブナ、ミズナラの森に囲まれ、ヒメマスが棲む神秘の湖でシーズンには釣り人でも賑わうというが、放射能汚染で釣りも禁止で、今は人っ子一人見えず静かな湖面に紅葉の影を落としていた。

 景色の好いところ2ヶ所ほどで小休止して、只見線「会津中川」駅方向へ下る。
そこに広がるのは美しい里山の風景、金山町中川地区は「にほんの里百選」に選定されているという。11月2日から3日の連休には只見線をSLが走ることになっていて、「このあたりが絶好の撮影ポイントとなりカメラの砲列が並びますよ」と運転手がわざわざ車を止めてくれる。只見川対岸の山並みを指して「今年の紅葉はあまり良くないです、いつもならあの辺りはもっと赤くなるんですが・・・・」と申し訳なさそうに話す。自然のなせる業だから仕方ないね~と応える。
 
 国道252号沿いの中川集落に着いたのが午前11時前、只見線上り列車の「会津中川」駅発時刻は、12:38なのでまだまだ1時間半もの待ち時間がある。駅から徒歩10分足らずの場所にある道の駅「奥会津かねやま」で時間をつぶすことにする。お腹はまだ昼食を望まない、コーヒー一杯で休憩・時間つぶしをしていると12時近くなるとお客が立て込んできたので、コーヒー一杯では心苦しくなり早々と席を譲り駅に向かう。国道を会津若松方向へ3,4分歩くと信号のある交差点に着く、左手奥に金山町福祉センター(内に中川温泉ゆうゆう館 良質の硫酸塩泉・炭酸塩泉で肌がすべすべになる。 入浴料300円12時から20時、年末年始休み)、体育館(工事中)、特養老人ホームがある。右手100mほどで「会津中川」駅に突き当たる。

 「会津中川」駅は、無論無人駅、トイレ無し、待合室はきれいに掃除が行き届いているし、一角に図書コーナーがあり、3,40冊の貸し出し用書籍が並んでいた。地元の人たちがボランティアで駅舎の管理をしているらしい。

 しばし待つうちに始発駅「会津川口」12:33発の列車が、定刻にやってきた。ホームの端からカメラを構える。
この駅からの乗客は、今朝長岡を発って上越線で小出、只見線で会津若松、磐越西線で新津、信越線で長岡に戻る一日割引乗車券で一回りするという3人連れと私たちの合わせて5人。列車に乗りこむも、先客は一両に4,5人のがらがら状態である。

  
        会津中川駅駅舎


 1956年(昭和31)9月20日  開業。
 2011年(平成23)
   ・ 7月30日 新潟福島豪雨により営業停止
   ・ 8月26日 会津宮下ー当駅ー会津大塩間でバス代行開始
   ・ 12月3日 会津宮下ー当駅ー会津川口間運転再開(バス代行終了)
       
     「会津中川」駅に入るキハ40系

 
 
 ここからは、只見線でも只見川の絶景が続く区間、座席を右に左に替えながら車窓の風景を楽しむ。
「会津中川」を出た列車は、間もなく”只見川第4橋梁”を渡って只見川左岸を走り間もなく「会津水沼」駅

 右側の座席に移り、只見川の水面を眺め、5つ6っつの短いトンネルを抜け、線路は国道と並行しながら進み(この辺りで金山町から三島町へ)、左岸から流れ込む支流を渡ると、「早戸」駅。駅から歩いて15分ほどの所に日帰り温泉「つるの湯」(開湯1200年の歴史がある名湯、雄大な只見川を望む露天風呂がある日帰り施設と湯治客用自炊宿)があるという、当初は「沼沢湖」から「早戸」駅に出る途中、「つるの湯」で休憩する心算であったが、タクシーを帰してしまうとここから駅までの徒歩15分がきつい!「会津中川」に変更したのが正解であった。

 「早戸」駅を出てすぐにやや長い”早戸トンネル(L≒950m)”を抜けると、右後方只見川対岸(右岸)に、2002年に廃止された「東北電力沼沢沼発電所跡」が見える筈だと目を凝らすが判然としなかった。

 少しだけ只見川を望んだ後、再び長い”滝原トンネル”(L≒1.1km)を抜けると、”只見川第3橋梁”(全長180.4m)を渡り再び只見川右岸へ。短いトンネルやスノーシェイドを通過すると左手に”宮下ダム”を見て「会津宮下」駅へ。
宮下駅は1956年(昭和36)までは会津線(会津若松ー小出間が全通するまではそう呼ばれていた)の終点駅で、駅長さんもいる只見線主要駅であり、只見線で最後のタブレット交換駅でもあった(2012年9月に自動化)。駅近くに商店街・宮下温泉がある。

 「会津中川」「会津水沼」「早戸」「会津宮下」にかけての区間には冬季間を除いて「只見川山峡下り」遊覧船が運航されるという。更に下流「会津宮下」~「会津桧原」間には、SL写真マニアの間では有名な”只見川第一橋梁」と”只見川第二橋梁”が架かる絶景も控える。今度の連休には大勢のカメラマンが砲列を敷くことだろうと思いながら車窓の景色を堪能する。

 列車は、只見川支流大谷川に架かる”大谷川橋梁”(全長82.14m)と”只見川第二橋梁”(全長190.27m)を渡り再び左岸側へ。すぐに「会津西方」駅(無人駅、トイレ無し)に到着、ここからは只見川は見えない。

 長さ300mほどのトンネルを抜けて、”只見川第一橋梁”(全長174m)を渡り列車は再び只見川右岸へ。短いトンネルを抜けて「会津桧原」駅に到着、田園風景が広がり、檜の木をイメージしたというまあるいメルヘンチックな待合所に目を惹かれる。

 列車は、ここから只見川としばらく遠ざかり山中に入り”原谷トンネル”(延長1087m)を抜け、”滝谷川橋梁”(滝谷川に架かる全長155.33m)を渡って「滝谷(たきや)」駅へ。 滝谷駅の桜は春には大変きれいに咲き誇るそうだ。

  
       只見川第三橋梁

 
 会津宮下駅 - 会津川口駅間の延伸工事に伴って1953年(昭和28年)に完成し、1956年(昭和31年)に供用開始した。
上路式プレートガーダー1連 + 上路式3径間連続ワーレントラス形式
1連目:支間長9.80m
2連目:支間長170.40m(49.70m + 71.00m + 49.70m
       
       「只見川第一橋梁

 只見川に架かる只見線の鉄道橋の中で、唯一のトラス構造アーチ橋であり、三島町特産の桐の花と同じ薄紫色に塗装されている。また、只見川を一跨ぎする本橋梁が水鏡となって川面に写る姿や、水面から川霧が立つ幻想的な景観が素晴らしく鉄道マニアや写真愛好家に知られている。

 SL写真撮影マニア氏のウェブサイト「SL只見線紅葉号」で、11月2日、3日の様子を見ることが出来る。

 「会津桧原」を過ぎると只見線は只見川と離れて「会津柳津」まで下り勾配の山の中を快調に走り抜けて行く。
「柳津」は会津の象徴「赤べこ」の発祥の地でかつ、名刹・福満虚空蔵尊圓蔵寺の寺内町で多くの観光客が訪れるという。時計は13時30分前でまだ陽が高い、ここで途中下車して柳津の町を散策することも考えたが、次の上り列車は、16:17。帰宅が10時近くになってしまいそうで断念する。
「会津柳津」から遠足の帰りと思われる15,6人ほどの幼稚園児が数人の先生に引率されて乗り込んできて、車内はいっぺんに賑やかとなる。
「塔寺」「会津坂下」辺りから左手に会津盆地が拡がり始め、只見線は会津盆地を南方に大きく「会津高田」「会津本郷」を経由して会津鉄道の始点「西若松」駅を過ぎ終着駅「会津若松」に滑り込む(14:27)。

 遅い昼食を駅構内のお蕎麦屋さんで摂る。新蕎麦を食べられると思って入ったのだが、「新蕎麦そば明日11月1日からです」と言われ妻は少々がっかり。でも美味しい蕎麦だった。
 磐越西線に乗り換え郡山から東北新幹線で帰京(上野着17:50)。ちなみにJRの乗車券は、「都区内~大宮(上越新幹線・上越線・只見線・磐西線・東北新幹線経由)」と「大宮~都区内」の2枚の連続乗車券として購入。

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