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南紀かけ足旅行
-2010.3.29~31-

 わたしの古希の祝いを,三重県紀北町にある美味しい肴料理を食べさせてくれる割烹旅館でやってくれると云うので,ついでに紀伊半島をぐるりと回わる旅を計画した。
 朝一番の新幹線で京都へ,特急オーシャンアロー号で和歌山,御坊,田辺と南下し串本で下車。
ここでレンタカーを借りて,那智大滝→湯の峰温泉→尾鷲→紀北町→松阪へ,熊野古道のさわり部分だけの歩きも入れた2泊3日のちょっとばかり忙しい行程である。
 行く先々で満開の桜が歓迎してくれ,上質な温泉と新鮮な海の幸を満喫した思い出に残る楽しくかつ至福な時間を過ごした。

 京都を出た時は,まだまだ空席の目立った特急列車の自由席も新大阪駅,天王寺駅では満席状態となって阪和線ー紀勢本線西回りで南下。
和歌山・海南湯浅辺りまでは仕事で何度も来たことがあるが,田辺から先は私にとっては初めての土地である。妻は若かりし頃(紀勢本線がまだ全通していない時代だと云うから昭和34年7月15日以前の筈だが少しばかり勘定が合わない?既に記憶がおぼろげだと云うことになる!),大阪から名古屋まで一周したことがあると云うが,当時の記憶はほとんど失せてしまっているようでこちらも初めてと同じである。

 和歌山でビジネス客が下車,田辺で熊野古道中辺路方面を歩くと思われるグループが下車,続いて白浜で温泉客が下車し,一時は立ち客も居た混雑が嘘のような,一車両に15,6人程のガラ空き状態となって12:06串本着。

 先ずお寿司屋さんで腹ごしらえしてからレンタカーを借りる。

 串本駅

 明治23年9月16日,トルコの親善使節団を乗せ帰国の途についたトルコ海軍のフリゲート艦エルトゥールル号が串本町大島樫野岬沖で台風に遭遇し座礁沈没,殉職者587名,生存者わずかに69名という大海難事故があった。

 遭難翌年に遭難海域を見下ろす地に「土国軍遭難之碑」が地元有志により建立され,エルトゥールル号の遭難の際の日本の官民挙げての救援活動はトルコ本国にも伝えられトルコ国民の日本に対する親愛と感謝の念を根付かせせるきっかけとなった。以来,串本町はトルコ友好の町として国際交流をしていると言う。
駅前に「トルコ友好の町」の幕が懸かる。

先ずは,本州最南端の潮岬へ
  潮岬灯台

 幕末の慶応2年(1866)5月,アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国と結んだ江戸条約によって建設された8個所の洋式灯台(観音埼,野島埼,樫野埼,神子元島,剱埼,伊王島,佐多岬,潮岬)の一つで,「日本の灯台50選」にも選ばれている歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台である。

 当初の灯台は明治3年(1870))6月10日に完成した八角形の木造で,仮点灯で業務を開始したという。本来は建物の完成と共に本点灯する予定だったが,イギリスから灯台機械を運搬してきていた船が,東シナ海で沈没しその代わりにアメリカから蒸気機関車のヘッドランプを輸入しそれを仮に使ったという。

 本点灯は,仮点灯から3年以上遅れた明治6年(1873))9月15日。
潮岬は,古くから海上交通の要衝となっており,また沖合は流れが速く,風も強く航海の難所としても知られていたため重要な灯台であり,明治11年(1869)4月,現在の石造灯台に改築された。
 明治6年の初点灯以来,140年もの間、海上交通の要所として沖行く船を照らし続けている。
 平成20年度経済産業省 近代化産業遺産に指定されている。

 広大な太平洋,水平線がわずかにたわんで見え,地球が丸いことを実感させてくれる。

 潮岬灯台に設置されているライブカメラは,こちら

 灯台見学料:200円,灯台前駐車場:300円

 那智大滝

 国道42号線を東に向かい,鯨の町「太地」を過ぎ,那智勝浦で左折し「熊野那智大社」へ向かう。
「那智大滝」を見ようと車を駐車場に入れてカメラ片手に降りると,駐車場の番をしているオジサンが「写真をやるんですか? 枝垂れ桜と那智大滝が一緒に見える好い場所があるよ!」と案内してくれたのが元土産品売り場&食堂だったらしい廃屋の屋上。
  那智大滝

 那智原始林から流れ出る大川の流れが断崖に懸かり落下する日本一の名瀑。
 高さ133m,銚子口の幅13m,滝壺の深さ10m,平時の水量1㎥/
秒。

 那智滝は,遠く太平洋からも眺めることが出来るという。「熊野那智大社」の別宮である「飛龍神社」の御神体。
 「日本の滝百選」に選ばれている。
 
 滝を見ただけで,熊野三山の一つ「熊野那智大社」参拝は,時間に余裕がないのでパスして新宮市経由で今夜の宿湯の峰温泉へ向かう。
新宮には熊野三山の二つ目「熊野速玉大社」があるもこれもパスして国道168号(十津川街道)を北上。

 予定時刻のちょうど午後5時,湯の峰温泉着。今夜の宿は古い歴史ある「旅館あずまや」である。

 湯の峰温泉

 湯の峰温泉には,30年ほど前に,「湯の峰トンネル」の工事現場に出張した時に一度泊っている筈なのだが,どこの宿だったか全く覚えていない。記憶が殆んど欠落している。政治家が良く使った「記憶にありません」と云うことは本当にあることなのかもしtれないと妙なところで納得!

 湯の峰温泉の泉質は素晴らしい,こんなに遠くまで来て一日だけで引き揚げるのは本当に惜しい・残念である。

  湯の峰温泉「あずまや」

 「熊野本宮大社」にほど近い山あいにある日本最古の温泉と云われている。落ち着いた木造りの佇まいである。木のぬくもりが漂う槇風呂で悠久の歴史に思いをはせながら源泉100%の湯に浸かる。

 泉質は,重曹硫化水素泉・無色透明・弱硫化水素臭あり・泉温:92.5℃高温の温泉を自然に適温に下げた源泉100%のさまし湯は絶品。もちろん飲用可。

 宿の女将が「遠いところから好くお出で下さいました」と挨拶。
 夕食のメニュー」

 「かぼちゃ・さといも・しいたけ・人参」,「ねぎのぬた和え」,「蕨の胡桃和え・レッドペッパー」,「いか・鯛・まぐろ・みる貝刺身」,「胡麻豆腐」,「わらび・鴨肉・ふきのとう・筍・くらげ・たけのこ酢の物・あまご」,「さんしょ・いたどり」,「美熊野牛(みくまのぎゅう)のしゃぶしゃぶ」,「あまごの焼き魚」。

 翌朝 6時に目を覚ましさっそく温泉に浸る。
9時チェックアウト。小栗判官の伝説が伝わる静かな山あいにちょうど満開となった桜の情景に心洗われる。

 山道を抜けてほど近い「熊野本宮大社」に向かう。

 熊野本宮大社

 20分ほどで「本宮大社」鳥居前に到着。まだ時間が早いのか鳥居前の駐車場はガラ空き状態。
  熊野本宮大社

 熊野信仰の中心地。全国の熊野神社の総本宮。
鬱蒼とした杉木立が神社の周辺を囲み信仰の地にふさわしい厳粛な雰囲気に包まれている。
120段程の石段を登り参拝する。
 
 

 瀞峡(どろきょう)

 国道168号を新宮方面へ15分ほどで,「瀞峡ウォータージェット船」乗り場のある「志古」に着く。ちょうど上手い具合に10:30分発の便がある。熊野川から北山川を遡り瀞八丁を巡る往復およそ2時間ほどのクルージングである。乗船料3340円(インターネットで割引券を入手すると3000円)
  瀞峡

 「志古」乗り場の少し上流で,熊野川は左:十津川,右:北山川に分れる。どちらの上流も水力発電用ダム群(風屋,猿谷,二津野,旭,瀬戸,池原,坂本,七色,小森)が建設されている日本屈指の電源地帯でとなっている。

 船は北山川を遡り,和歌山県から奈良県に入り再び和歌山県の飛び地(新宮市&北山村),奈良県,三重県に跨る瀞八丁に入って行く。瀞峡は,隆起準平原を流れる北山川が滝を形成しながら後退し,滝壺の深みが順次繋がって形成されたという。
「夫婦岩」「亀岩」「屏風岩」「墜落岩」「大黒岩」「獅子岩」「松茸岩」・・・等の奇岩(熱変成岩ホルンフェルス)が続く。

 
 天下の絶景として知られている瀞八丁ではあるが,わたしにはそれほどのことはないなと感じた。
 
 丸山千枚田

  船を降りると既に12時半過ぎ,午後の予定は,今夜の宿三重県北牟婁郡紀北町に向かうだけのおよそ2時間半くらいのドライブのみである。新宮まで戻って紀伊半島の海岸沿いを一周する国道42号を北上するのがメインルートではあるが,交通量の多い道を行くのはあまりも興がない。
 地図を見ていたら北山川を再度「瀞峡」の方に戻って和歌山県側に渡り,山あいの道を走り熊野市で国道42号に合流する国道311号の途中の「板屋」集落から北に入った所に「丸山千枚田」があるのに気が付いた。今の時期,水田にはまだ水を張ってはいないかなあとは思ったが,寄ってみることにした。

 「板屋」から千枚田への入口が分からず,畑で農作業中の方に道を訪ねながら無事到着。

 丸山千枚田

 幾百年もの昔から一鍬づつ大地を起こし石を積み上げ土を宛がいながら営々と造り上げてきた棚田。先人の英知と偉業を偲びしばし佇む。

 やっぱり水田にはまだ水が張られてはいなかったが,あちこちでその準備作業をしている人の姿。ここに住む人たちは,裾野を埋め尽くす雲海に朝の英気を養い,暮れなずむ山々を赤く染める落日に心を癒しながら,休むことなく天水を貯え耕作を続けている姿に感動!

 丸山千枚田は,「日本の棚田百選」に選ばれている。
 かなり御歳を召した農夫が作業を終えて道に上がってきて,いろいろと説明してくれた。頂いた名刺には(初代丸山千枚田保存会会長 棚田の案内人 北 富士夫)と記されていた。

名刺に書かれていた説明をそのまま下記する。

 「今から約600年前の慶長6年の検地で2240枚の棚田があり,広さは7町と記されている。その後も開拓され昭和30年頃は2500枚とも言われ,広さも11町3反になっていたが,平成4年には518枚になり,広さも4町余りに減少していた。平成5年から復田作業を初め5年の年月をかけ,平成9年5月の田植えには1340枚の広さにして7ヘクタールの棚田に水が入る様になり,今は日本一美しい棚田として全国から注目されている。又平成8年からオーナー制を取り入れ。東京,大阪,名古屋方面から百組のオーナーが田植,稲刈りに訪れ農業体験をしている。」
「棚田の夕影」 北富士夫撮影
  
 割烹の宿「美鈴」で豪華な晩餐

  国道311号で熊野市へ出て,国道42号を北上。
途中熊野市街地手前の「獅子岩」のドライブインで休憩。風景が好いかなあと思って海岸沿いの国道311号を行こうと思っていたのだが,分岐点を見落としたのか,いつ間にか山間を抜けて尾鷲市に到る国道42号に進んでしまった。引き返す訳にもいかずそのまま直進,矢の川峠,佐野坂の急坂を越えて尾鷲経由紀北町へ。(後で知ったのだが国道311号線はかなりの難路で一般の車はすべて国道42号を利用するとのこと)
 地図を見ると分かる通り熊野~尾鷲間は,険しい山と入り組んだ海岸線が続き,昔から交通の難所であった所。紀勢本線も昭和34年7月15日,この区間が最後につながって全通したほどの区間である。(昭和初期,矢の川峠はバスでも越えられず,国内初の旅客用ロープウェイで連絡していたという。)

 尾鷲には,社会人になったばかりの年の暮れ,折から工事中の池原ダムに単なる使い走りの出張で来たことがある。片田舎然とした暮れなずむ尾鷲の駅前で帰りの東京行きの寝台急行を待った事をぼんやりと覚えている。半世紀近く前のことである。

 16:30 今回の旅の主目的である旨い肴料理を戴けると言う「割烹の宿 美鈴」着。
この宿の宿泊は限定4組で,地元熊野で獲れた新鮮な海の幸をふんだんに味わわせてくれる。

前菜珍味盛り合わせ(たこ梅煮・蟹佃煮・赤いか・ホラ貝・マンボウ・ガスエビ・ブリ白子) 刺身(ヒラマサ・やどかり・たこ・わらさ・緋おうさ貝) おこぜ椀物 寿司(とこぶし・伊勢エビ・ながれこ・ウニ・)
温野菜(里芋・ブロッコリー・アスパラの蟹あんかけ) ちゃんぽこ(又の名がんがら) プチトマトのジュース, 天婦羅(筍・人参・アオサ・蓬・プルーン・タラの芽・カワハギ)
外に
ナマコ酢の物,焼き物・・・・

 お酒は岐阜養老の「飛水」
しゃぶしゃぶ(ふぐ・たこ・平目・おこぜ・しいたけ・水菜) 自家製カラスミ デザート(伊予柑)

 熊野古道伊勢路 「馬越(まごせ)峠」を歩く

  翌朝はやや曇り空なれど雨の心配はなさそう。
 国道42号を尾鷲方面に20分ほど戻り「紀北町海山(みやま)道の駅」に車を置いて,熊野古道伊勢路の一部分「馬越峠」の石畳み道を歩く。
 09:50 道の駅を出発 国道を400m程歩いて峠道にかかる。峠まで標高差315m(標高325m),更に天狗倉山(標高522m)まで200mを登る結構きつい急坂と石段がある。
 11:30 天狗倉山頂上着

 
馬越峠の石畳み 天狗倉山頂上 馬越峠から尾鷲湾を望む
 
 熊野古道とは,主に以下の6つの道を指す。
    紀伊路(渡辺津-田辺)
    小辺路(高野山-熊野三山,約70km)
    中辺路(田辺-熊野三山)
    大辺路(田辺-串本-熊野三山,約120km)
    伊勢路(伊勢神宮-熊野三山,約160km)
    大峯奥駈道(吉野-前鬼-熊野三山,約140km)

 熊野古道伊勢路に属する紀北町から尾鷲市の境界にある「馬越峠」の北側半分を歩いて見ることにした。
伊勢路の中でも最も美しい石畳み道が尾鷲ヒノキの美林の中に続いている。
「夜泣き地蔵」,「一里塚」などの史跡も残り熊野古道の主ルートではないもののその雰囲気だけは味わうことが出来た。
欲張って峠から更に200m程登り天狗倉山からの展望も楽しんできた。
 
 13:30 同じ道を引き返して「道の駅」に戻り,おむすびで軽い昼食後,伊勢松阪を目指して帰途に就く。
 国道 42号線を北上,”紀勢大内山”から「紀勢 自動車道」~「伊勢自動車道」を飛ばし,予定時刻(15:30)ジャストに松阪駅前でレンタカーを返還。

 「和田金」で松阪牛すき焼きで早い夕飯を摂る。
さすが松阪牛 美味しいには美味しいが,すべての調理はおばさんがテーブルについて一切をやってくれるのでなんか落ちついて食べられないし呑めないしで,あたふたと腹に詰め込んだ感じであった。

 近鉄特急で名古屋へ,東京着21:40

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