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餘部(あまるべ)橋梁  

 日本一のトレッスル式鉄橋

 既にほとんどの橋脚と桁が取り外されてしまっていて,往時の景観を望むべくもないことを覚悟の上,折角近くまで来ているのだからと,「経ケ岬灯台」から車を飛ばして,餘部鉄橋の雄姿の余韻を眺めに行くこととした。
経ケ岬から国道178号を西進,網野→豊岡→香住→余部までおよそ90km,昼食時間を挟んで3時間ほどで到着。

 餘部橋梁は,旧橋梁と新橋梁の二代がある。
お目当ては勿論,旧橋。通称「余部鉄橋」と呼ばれている鋼製トレッスル橋である。
旧橋は,1912年(明治45)3月11日に開通し2010(平成22)7月16日夜に運用を終了し,2007年(平成19)3月からの工事を経て2010年(平成22)8月12日に供用が開始されたエクストラドーズドPC橋の新橋に架け替えられている。
 現在は,餘部駅寄りの西側3脚ほどを残し,すべて解体撤去されている。
残された橋脚・橋桁は保存され,展望台・鉄橋記念施設・道の駅・自由広場・水辺公園・散策路などを整備して余部鉄橋の物語を継承していく予定のようである。
 解体前の餘部鉄橋
 Wikipedia「余部橋りょう」より
         
JR山陰線鎧・余部間 京都起点188k637m77
長さ:310m59  高さ:41m45
橋脚:11基 橋台:2基
橋脚:アメリカン・ブリッジ社ベンコート工場製
鉄桁製作:石川島造船所
施工開始:1909年(明治42)
開通:1912年(明治45)
土木学会選奨近代化土木遺産Aランクに指定

 山陰本線の香住ー浜坂間は,山が海にせまる地形で海岸沿いに線路を通すことが不可能で,現在ルート案(最短だが,海からの潮風で多大な保守作業が必要となる長大橋梁に難点あり)と,内陸迂回ルート案(長大トンネルが必要となる)が検討され,鉄道院上層部の決断で現行ルートとなったという。
 以後,常駐「橋守工」による”繕いケレン”,”さび止め塗装”など絶え間ない保守作業や,1950年代から1970年代にかけて行われた,部材の全交換など3回にわたる大規模修繕工事などでまだまだ30年以上は使用に耐えると判定され現役橋梁として活躍してきた。
 しかし,1961年の列車転落事故後,風速規制が強化された結果,列車の運休や遅延が相次ぐようになり,防風性の向上,老朽化もあって,長期的安全性を確保するため架け替えすることになったという。
 
 説明板に,下記の如き建設時のエピソードが記されていた。
 「橋脚の鋼材は,アメリカのブリッジカンパニーのベンコイド工場から約3ヶ月かけて船で送られ,明治43年8月下旬に余部沖でハシケに移し余部浜から陸揚げされました。
当時の余部集落は,30戸たらずの漁村であり,陸路によるアクセス路はなく,海路が唯一の交通路でした。ここで部材を一つでも誤って海中に沈めると,米国から取り寄せとなり大幅に工期が変更になるため,ハシケによる運搬は特に慎重に行われ,いつもの荒れがちの日本海が幸いにして陸揚げ作業間中ずっと穏やかな「ナギ「であり無事作業を完了しました。
 地上41メートルの工事なので,作業員には,当時としては2万円という高額な保険がかけられた。」

  事実は作業員にではなく工事を指揮した技師と思われる。
       
      新橋と保存される予定の旧橋の一部

  
       
             新橋全景


 5径間連続PC箱桁,清水建設・銭高組JV施工
           聖観世音菩薩像

 列車転落事故犠牲者の慰霊と冥福を祈り,人々の永久平和と総ての交通安全の願いを込めて,鉄橋下の国道脇に立つ。

 昭和61年12月28日の正午過ぎより山陰特有の低気圧により,列車転覆限界風速を超える強風が連続的に吹き荒れ,13時25分頃回送中の下り和風列車「みやび号」が余部鉄橋中央より客車7両の脱線転落で鉄橋下のかに加工工場を直撃し,従業員主婦5名と列車車掌1名の6人もの尊い生命が奪われ,6名が重傷を負うという未曾有の大惨事が発生した。

 地元のおばあさんの「ここは皆,年寄りばかりだよ,新しい橋が出来て良かったのは,列車の通る時の音が小さくなったことだけよ!」という声を聞ききながら現地に別れを告げた。 
「余部橋梁さらなる100年へ」に,旧橋の歴史と新橋工事の様子が詳しく収められている(上映時間およそ20分)
「神戸観光壁紙写真集 余部鉄橋」に,往時の写真が沢山掲載されている。